第2話 第一章 サバ缶と不思議な出会い
ひまわり製菓の社内メールに、ある日、総務からの通達が流れた。
――大手システム会社・クロスリンクより、販売システム刷新プロジェクトの一環として、担当社員が長期出向する。
その名前を見た瞬間、野上和音の心臓は、一拍遅れて跳ねた。
池上智春。
たった二度しか会っていない。けれど、あの街角で差し伸べられた手の感触と、低く通る声は、ずっと胸の奥に残っていた。
しかも出向――つまり、会議のたびにしか顔を合わせられない関係ではなく、同じ会社で働くことになるということだ。
「……また、会える」
和音はデスクのパソコン画面に表示されたメールを見つめ、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
耳まで熱くなっていくのを感じた。
もっとも、配属は別部署。智春はシステム部直轄のプロジェクト室、和音は営業企画課。日常的に同じ仕事をするわけではない。
けれど、プロジェクトに絡む資料作成や試作販売データの確認など、接点は確実に増えるはずだ。
出向初日。
朝の出勤時、総務前のロビーで、智春は淡いグレーのスーツに身を包み、落ち着いた表情で立っていた。
先日の会議室で見たときと同じ、背筋の伸びた姿。だが、今は来客ではなく「同じ社の人間」という空気をまとっている。
総務担当が社員証を渡し、簡単な館内案内をしている横顔を、和音は少し離れた場所から見つめた。
挨拶に行こうか迷ったが、朝礼の時間が迫っていたため、結局そのまま自席へ向かう。
だが、その日の午後。
和音は営業企画課の会議室で、販売データ抽出について説明する役を任されていた。そこに、システム部の担当として入ってきたのが――智春だった。
「野上さん、この前の会議以来ですね」
穏やかな声。
和音は反射的に立ち上がり、会釈を返す。
「はい……その、ひまわり製菓へようこそ、です」
智春は小さく笑った。「ありがとう」
会議は淡々と進んだ。
和音は資料を説明しながらも、ふとした瞬間に智春の視線を感じ、言葉がほんの少しだけぎこちなくなる。
彼は相変わらず、必要以上に感情を表に出さない。それでも、こちらが話すときはしっかり目を合わせてくれる――その視線が、なぜか胸をくすぐった。
日を追うごとに、智春は社内での存在感を増していった。
冷静で的確な提案、余計な言葉を挟まないプレゼン。大手から来たという肩書きだけでなく、その仕事ぶりが周囲の信頼を得ていく。
一方で、和音は自分の中に芽生えている感情を、どう扱えばいいかわからなかった。
部署が違うから、会うときは決まって仕事の場。だが、資料を渡すときに指がかすかに触れたり、廊下ですれ違うときに軽く会釈を交わしたり――そんな小さな出来事が、一日を明るくしてしまう。
ある日の夕方、営業企画課で作った販売データの集計表を、システム部に持っていくことになった。
資料を抱えてプロジェクト室のドアを開けると、智春がパソコン画面から顔を上げた。
「あ、野上さん。これ、今日の分?」
「はい。チェックをお願いします」
彼に手渡すとき、また指先が触れた。
その一瞬、時間が止まったように感じるのは、きっと自分だけだろう。
「助かります。これで明日の打ち合わせもスムーズにいきそうだ」
短く礼を言い、再び画面に視線を戻す智春。
その横顔を見つめながら、和音は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
夜、自宅のワンルーム。
和音はソファに座り、冷えた麦茶を口にしながら、今日の出来事を思い返していた。
まだ、恋だなんて言える段階じゃない。ただ、会えると嬉しいし、話すと心が落ち着く。
そして、ふと思う。
――あのとき、街角で助けてもらわなかったら、今こうして同じ会社で働くこともなかったかもしれない。
そんな偶然の連なりが、少しだけ自分の世界を変えてくれた。
翌日も、智春はプロジェクト室で淡々と業務をこなしていた。
和音は、別の会議の資料を届けに行く途中、ドアの前で足を止める。
中から聞こえる彼の声に、胸が高鳴る。
ほんの数分のやり取りでも、また新しい一日が始まる気がした。
接点は、あくまで「仕事」という大義名分のもとにあった。
けれど、和音の心はそれだけでは割り切れない。
廊下ですれ違うとき、エレベーターで二人きりになったとき、ふと視線が交わると、呼吸が浅くなる。
そして、心のどこかで期待してしまう。
――もしかして、向こうも少しは自分を意識してくれているのではないか、と。
確証も、根拠もない。
それでも、智春と同じ空間にいるだけで、世界が少しだけ色づいて見えるのだった。




