第13話 第一章 サバ缶と不思議な出会い
週が明けて、社内の空気はいつも通りだった。
だが、私の心はいつもと違う。
昨日の午後、智春さんと二人きりで資料整理をしたこと。
それが、頭の中で何度も再生される。
――仕事中なのに、顔が熱い。
朝、デスクに座ると、同期の香織が小声で囁いてきた。
「野上さん、昨日、池上さんと一緒に会議室にいたでしょ? ちょっと噂になってるよ」
「えっ……な、何の噂ですか?」
「『あの二人、距離近すぎる』って……」
耳まで真っ赤になった。
まさか、社内で勝手に「接近しすぎ」認定されているなんて。
でも、よく考えれば、確かに机の距離は近かった。手が触れそうになる瞬間もあった。
そんな時、向かいの部屋の窓から智春さんが顔を出す。
「おはよう」
「おはようございます……!」
思わず小声で返す。
周囲に同僚がいる中での挨拶は、やけにドキドキする。
でも、この距離感もまた、心地よい。
社内で距離を保たねばと思う反面、向かいの部屋ならちょっとしたハプニングも許される――そんな甘い妄想が膨らむ。
昼休み。
社内カフェでランチを買いに行くと、偶然智春さんと鉢合わせになる。
「お、野上さん。今日もここか」
「はい……」
カートを押す手が少し震える。
昨日までのデート気分の名残が、まだ胸の中でくすぶっているからだ。
智春さんは、平然とコーヒーとサンドイッチを選ぶ。
その天然ぶりに、私の心臓はますます混乱する。
午後、再び会議室での作業。
同僚は別の業務でいないため、また二人きりになる。
資料の整理をしながら、私は心の中で小さくつぶやく。
――もう、どうしてこんなにドキドキするんだろう。
彼は相変わらず鈍感で、時折私の視線に気づかずに書類をめくる。
その無自覚さが、もどかしくておかしい。
作業中、ふと外から声が聞こえた。
「野上さん、智春さんと仲良いね~」
誰だ……?
カーテン越しに外を見ると、同期の女子たちがコソコソ笑っている。
社内で噂になっていることを、どうやら窓越しに察知されたらしい。
――や、やめてよ……!
思わず顔を手で覆う。
でも、智春さんは何も気にせず、相変わらず無表情で書類を整理している。
その鈍感さに、さらに胸がキュンとする。
作業がひと段落して、彼が資料をまとめ始める。
「じゃ、今日はここまでかな」
「はい……お疲れさまでした」
言葉は普通でも、心臓の音はいつもより速い。
ふと視線が合い、彼の目が少し笑っているのを見つけた瞬間、頬が熱くなる。
帰り際、向かいの部屋のドアの前で立ち止まる。
彼は小さく振り返って、手を振る。
「じゃ、また明日」
「……はい」
ドアが閉まる瞬間、心の中でため息が漏れる。
――ああ、もっと近づきたい。でも、社内では難しい。
向かいの部屋なら、もう少しだけ自由なのに。
夜、ベランダに出る。
向かいの部屋のカーテンが揺れる。
夕暮れの光の中で、彼のシルエットが見える。
私は思わず胸が高鳴る。
――今日も彼と同じ時間を過ごしているんだ。
それだけで、心が満たされる。
翌朝、会社でまた偶然会う。
噂は少し広まっているらしく、同僚の視線を感じる。
でも、智春さんは全く動じない。
その鈍感さに、私はまた笑ってしまう。
午後、再び資料整理のために二人きりになる。
私は小さなメモ帳を取り出し、心の中で計画を立てる。
――今日もハプニングを起こそうか。
少しだけ近くに座ろうか。
彼の注意を引くチャンスは、今しかない。
作業中、ふと彼が「これ、ちょっと手伝ってくれ」と近づく。
距離が近い。
肩が触れそうで、息が止まりそうになる。
手を差し出された瞬間、私は思わず心の中で叫ぶ。
――智春さん、なんでそんなに無防備なの!
彼は何も気づかず、淡々と資料を整理する。
その無自覚さに、笑いをこらえるのが精一杯だ。
午後五時。
作業が終わり、帰宅の時間。
向かいの部屋での小さなハプニングは、今日も私の心を刺激してくれた。
社内での噂はあるけれど、私にとっては些細なこと。
それよりも、智春さんと過ごす時間が、何よりも大切だ。
ベランダに戻ると、向かいの部屋のカーテンがまた揺れる。
夕暮れの光に包まれて、彼のシルエットが映る。
私は心の中でそっと呟く。
――明日も、また会えますように。
向かいの部屋での、ささやかな幸せが続きますように。
こうして、社内での噂と向かいの部屋の小さな日常が、私の心を忙しく揺さぶる。
恋心はまだ言葉にできないけれど、確かに育っている。
智春さんとの距離が縮まるたび、胸が高鳴る。
向かいの部屋と会社の二重生活――そのどちらも、私にとっては宝物だ。




