無遅刻無欠席より人生にはもっと大事なものがある。
――遠くでかすかにサイレンの音が鳴っている。
何の音だろう? 次第に大きくなるな。きっと救急車だ。僕を迎えにくるのか。身体を動かそうとするが手足の自由が利かない。ごくりと生唾を飲み込み乾ききった口の中を湿らせる。幼い子供が初めてしゃべるように舌先がゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ああ、僕は現実に戻ってこれたのか」
背中に固い感触を覚えた。すいぶん到着が早いな。もう救急車の中に乗せられベッドで寝かされているか。
それにしてもベッドのマットレスが固すぎじゃないか。これじゃあ余計に具合が悪くなっちまうよ。
……おかしいぞ。救急車なのにサイレンの音が段々と遠ざかるのはなぜだ!? まるで鉛をつめられたように重い頭を何とか持ち上げようと首を動かす。
「ううっ、痛てっ……!!」
「天音ちゃんのお兄さん、まだ無理をしないでください。ベンチに横になっていたほうがいいです」
この声は!? 未亜ちゃんだ。ぼやけた視界が次第に鮮明になっていく。辺りを見回すと視線の先に君更津の駅名表示の白い看板が飛び込んできた。
救急車ではなく駅のホームにあるベンチに寝かされていたんだ。額には濡れたタオルが載せられている。彼女が介抱してくれたのか?
「……み、未亜ちゃん、僕はどうしてこの場所で寝ているんだ」
「まだしゃべらなくてもいいですから。お兄さんは満員電車の中で私を守るため必死に努力してくれたんです。無理しすぎて気分が悪くなったんですよね」
状況がつかめてきたぞ。きっかけは未亜ちゃんの制服のスカートから露出した白い下着。背負ったリュックのいたずらで巻き込み事故が起きてしまったんだ。彼女が恥ずかしい思いをしないよう僕は後を走って追いかけた。
自分の持つ能力を過去のトラウマから封印していた僕がいちばん避けるべき混雑した電車に成り行きで乗り込んでしまい、目的駅に到着する間際にトンネル内での緊急停止で能力の発動条件である抱擁をしてしまったんだ……。
「僕は気を失っていたんだな。そうだ、このベンチまで君が運んでくれたの?」
子猫のようにしなやかな外見で、とても小柄にみえる彼女が大の男を駅のホームにあるベンチまで抱えて運べるのだろうか?
「こうみえても結構力持ちなんですよ。何せ部活で鍛え上げてますから!! それにお兄さんは痩せ気味だから以外と平気でした」
そうだったのか、彼女は妹の天音と同じ部活動の先輩と後輩の関係だったな。
……なにか僕は大事なことを忘れている気がするな。それも複数の事柄についてだ。
「ああっ未亜ちゃん!? そういえば学校!! 遅刻しちゃうんじゃなかったのか……」
「それは大丈夫ですよ。学校には少し遅れるって連絡済みですから。それに私、かなり楽しい気分なんです」
「楽しい気分って?」
「はい、無遅刻無欠席にばかりこだわっていた自分がいかにつまらない人間かって分かったんです」
「ご、ごめん、遅刻は僕のせいだ。余計なことをしたばかりに」
「あっ、お兄さん、変な勘違いしないでくださいね。私がつまらない人間っていったのは、無遅刻無欠席より人生にはもっと大事なものがあるって気がついたからなんです」
「人生でもっと大事なものって?」
「今朝、お兄さんが私にしてくれた親切みたいなものです。自分よりも困っている他人を優先する気持ち。そんな人に私もなってみたい!! 心の底からそう思えたんです」
「……未亜ちゃん、君はそんなふうに思ってくれたのか」
「うふふっ、お兄さん。深刻な顔をしないでください。それとまだ休んでいてくださいね。どうせ慌てても仕方のない時刻ですから」
そういって未亜ちゃんは右手首にまかれた腕時計の文字盤ををこちらに見せてくれた。可愛らしい赤い縁取りのある金属製のベゼルに黒い革のバンドがキュートな彼女によく似合っていた。
腕時計の文字盤はすでに通常の登校時間帯を過ぎている。その事実よりも興味を強く引きつけたのは彼女のはめた時計そのものについてだった。
……鋭い偏頭痛とともに電車内で気絶した際に視た強烈な体験の記憶が脳裏にフラッシュバックしてくる。
あの暗くて深い底なし沼に身体が沈み込んでいくような感覚。その先の暗闇で視た光景。細部が次第に鮮明になって蘇ってくる。
暗闇の中、かすかに差し込んできた光に誘われて僕は必死でもがき続けた。子供の頃に親父と出かけた海釣りで誤って船から落ちた恐怖がまざまざと思い出される。身体が海中の泡に包まれてまわりの視界が完全に遮られる。上下の感覚が一瞬にして失われ、パニック状態に陥ってしまったんだ……。
僕が海に落下した異変にすぐに気がついた親父や船の船頭たちに救助されて九死に一生を得た。たしかあの事故は僕が幼稚園に入園する前の出来事だったな。
あの日、海に落ちた経験は不思議と僕の中でトラウマにならなかった。それどころか泳ぎが得意になるくらいに海が大好きになった。
海水が身体をつつむ暖かな感触は亡き母の腕に抱かれているような気分になったからかもしれない……。
暗闇の先にある光にむかって僕は無我夢中で手を伸ばした。指先が目に見えない空気の壁のようなものを突き抜ける不思議な感触。次の瞬間、自分がどこにいるのか理解した。
ここは未亜ちゃんのもっとも悲しい記憶だ。僕はその追体験の球体の中に身体ごと入り込んだに違いない。
そこには彼女の持つ特徴的な腕時計とまったく同じモノを身につけている女性の姿があった。だけど女性は未亜ちゃん本人じゃない。もっと年上にみえる。そして何かを訴えかけるような瞳が脳裏に焼き付いた。そこで追体験の映像はぷつりと途絶える。
それ以上はまったく思い出せない……。
「お兄さん? まだどこか痛むんですか。やっぱり病院に行きましょう」
「いや、大丈夫だよ。考え事をしていただけさ。ほらもうこんなに元気だから!!」
心配そうにこちらの顔をのぞき込む彼女を慌てて制する。病院という単語を聞いたらなおさらだ。もしも身体のあちこちや頭を調べられて、例の能力について発覚したら大変だ。医者である親父の病院ですら寄りつかないのに。
先ほど視た光景について知りたいところだが、いまはやめておこう。未亜ちゃんの記憶というのは間違いないが、これまで自分が視てきた記憶の追体験としては見え方があまりにも異質すぎる。
だけど今回は収穫もある。中学に進学してからこれまで能力をフルに使うことは皆無だった。意識的に封印していたこともあるが、懸念していたのは成長した僕の中から能力は完全に消失しているんじゃないか。そんな希望的願望も持っていたのは事実だったから。だけど僕は逃げることは今日でやめた。
これまで自分の持つ能力について深堀するのを意識的に避けてきた。だけどオリザと出会ってから自分の中でなにかが変化した。
初めて能力を使えなかった相手に出会ったんだ。いったい彼女の中にどんな悲しい記憶が閉じこめられているのか?
どうしても僕はその秘密を知りたいんだ……。