ヒルデアーネ様がまた婚約破棄されておるぞ!
ここは王都に住まう貴族の子息子女が通う学園。
下級貴族向けの第三テラスでは、昼休みになると集まった様々なグループから遠慮のない噂話が聞こえてくる――
「おい、聞いたか」
「なになに」
「ヒルデアーネ様がまた婚約破棄されたってよ」
この日、テラスを独占していたのは、伯爵家令嬢ヒルデアーネの失恋話。
ヒルデアーネは最上級生で最も優秀な成績を収めている女生徒である。それに加えて、すれ違う誰もが振り返り息を飲むような美貌、太陽を浴びて黒曜石のように輝く漆黒の髪……まだ十代の学生にして麗人と呼ばれるに相応しい女性だった。
「あんな美人で優秀でスタイルも良くて悪いとこなんて一つも見当たらないのに、なんですぐ破局しちゃうんだろ」
「この間のパーティーじゃ、二人ともめちゃくちゃ幸せそうだったのにな」
「それな」
伯爵家のご令嬢とは目を合わせて挨拶をすることすら許されない下級貴族の次男三男坊たちは首を捻った。
ヒルデアーネが婚約を破棄されたのは、今回で四回目となる。
恋多き魅惑の美女――なんて憧れる生徒もいるものの、生まれてこの方、だれともお付き合いをしたことのない男たちから見ると不思議でならない。
「ところで今回の婚約者って誰よ。頻繁に変わるから名前すら知らんのだけど」
「宰相の息子って聞いたような……あれ、財務卿の息子だったかも……」
「つーか婚約って家同士の契約だろ。こんなホイホイ破棄できるもんなの?」
「そんなことよりヒルデアーネ様を振るってのが理解できん。あの方と結婚できるなら悪魔にお前たちの魂を捧げてもいい」
「お前、ヒルデアーネ様の大ファンだもんな。……って俺らのかよ」
「だってそうだろ。頭イカレてんのか婚約破棄した連中、マジで何様だっつうの」
「何様って王子様だろ」
「はい、不敬罪で死刑」
男子生徒の一人が平然と過去の婚約者たちをバカにした発言をする。
これまでにヒルデアーネと婚約していた者は、第二王子を筆頭に、公爵家の嫡男、隣国の大貴族と名を出すことも憚られるような尊き身分の男性が並ぶ。
しかし、男子生徒の発言を本気で咎める者はいない。
それどころか笑い声が広がる。
国王の顔に泥を塗った王子は廃嫡され、公爵家は非合法な奴隷売買が明るみになり御家取り壊し、隣国の大貴族は帰国の道中で事故に遭い命を落としているからだ。
「そういやヒルデアーネ様と別れた人って、全員不幸のどん底に落ちてるんだな」
「え、なにそれ、伯爵家に伝わる呪術的な何か? あの方は誰かを不幸にしなきゃ恋愛できないの? 怖すぎるんですけど」
「さすがヒルデアーネ様、まさに傾国の美女」
「いや、傾国の美女っていうより……ぷっ」
「なに笑ってんだよ、傾国の美女じゃなくて傾国の魔女とか言ったら決闘申し込むぞ」
何を思い出したのか、一人の男子生徒が笑いを堪えていると、ヒルデアーネのファンが懐から白い手袋を抜いた。
「待て待て。魔女ってより最近聞いたあの話と似てるなって思っただけ」
「あの話?」
「隣のクラスに東の島国から留学してきたやついるじゃん。そいつの国には家を繁栄させてくれる守り神がいるんだってよ。ヒルデアーネ様がそれに似てるなって」
男子生徒は、留学生が見せてくれた東国の本を思い出しながら、手帳に女性の絵を描いていく。赤い着物を着た黒髪の女性。ただし、顔とスタイルはヒルデアーネに似せている。
「お前、絵めっちゃ上手いな」
「魔法騎士団に入れなかったら、在学中にパトロン見つけて画家にでもなろうかと考えてる」
「まあ冒険者は危ないし安定性がなぁ……ところで顔と体そのままで裸にできる?」
「依頼料は金貨10枚になります」
「ぼったくりかよ、そこは友達料金でお願いします」
「そんでどの辺がヒルデアーネ様と似てるんだ。髪型と色が同じなだけじゃねえか」
「ん? ああ、この守り神、座敷童子って言うんだけどさ……」
東国に伝わる守り神こと座敷童子。
その神は憑りついた家に富と繁栄をもたらす。
しかし、ひとたび座敷童子が去るとその家は必ず没落する。
富を失い、権力を失い、家人は病に倒れ、最後には草一本残らない。
座敷童子は幸福をもたらした分、最後には必ず不幸を置いていく。
それは誰であっても逃れられない運命なのだ。
「ほら、ヒルデアーネ様と付き合ってる時は、この世の春が来たー!ってくらい幸せオーラ全開なのに、別れた途端みんな人生破滅させてるし」
「そんな性悪守り神と一緒にすんなボケ! ヒルデアーネ様は悪くないだろ!」
「座敷童子だって悪気があるかないかはわからないわけじゃん? どっちも生まれつきそういう存在なんだよ」
「邪神かよ!? 余計タチ悪いわ!」
揉めている二人の間で、もう一人もうんうんと頷く。
「でも貴族の女って少なからずみんなそういうとこあるよ。ざまぁしないと気が済まないっていうか別れた男の不幸を喜ぶ的な……プライドが許さないんだろうな」
「彼女いない歴=年齢の童貞が女語ってんじゃねえよアホ」
「アア!? 先に俺と決闘するかこの野郎!」
「まあ性別関係なく婚約破棄されてキレない人間とかいませんけどね。俺が女にされたら直接刺しに行くもん」
「怖っ! 憲兵さんが調査に来たら「あいつはいつかやると思ってました」って言っとくわ」
「大丈夫だろ。こいつに彼女できることなんてないし……おい、手袋投げんのやめろ」
とそこに噂の留学生が通りかかった。
「ん~? この座敷童子はちょっと美人すぎでござるよ」
「あっチョンマゲ君じゃーん、ちーっす」
「うむ、ちすでござる」
チョンマゲと呼ばれた男子が苦笑いを浮かべながら挨拶を返す。
彼の国では一般的な髪型らしいが、和装から学園指定のブレザー姿に変えても髪型だけがそのままとなり、頭部の存在感だけがかなり浮いていた。
「ねえねえ、本物の座敷童子ってどんなんなん? やっぱり美人の女神様なん?」
「御守りとして人形なら持ち歩いているぞ」
留学生は「これが当家の守護神様でござる!」と人形をテーブルに置いた。
どう見ても美の化身と言われるヒルデアーネとは似ても似つかない神像を前にして、三人は何とも言えない顔になる。
童女を思わせる低い頭身に、飾り気のない黒髪おかっぱ、唇の真ん中にだけ朱を入れた独特な化粧をした簡素な木彫り人形……通称、こけし。
何を思ったのか一人の男子生徒がこけし人形を手に取って咳払いをした。
こけしを顔の前へ持ち上げ、人形遊びをするように裏声で――
「ワタシ、座敷童子令嬢のヒルデアーネ。ワタシを捨てると不幸になるわよ、ウフフン」
「ブフォッ」
「げっほげほっ! おまっ、やめろバカ、気管入ったじゃねえか!」
周囲のテーブルにいた生徒までもが鼻から紅茶を噴き出した。
御家の守り神をネタに使われた留学生も思わず笑ってしまう。
「あら、ずいぶん楽しそうね。わたくしの名前が聞こえたけど何の話かしら」
しかし、凛とした声が響くと波が引くように笑い声が消えた。
ついでに血の気も引いた。
爆笑していた三人とも一瞬で顔面蒼白となり、唇まで紫色になる。
「ヒ、ヒルデアーネ様……どうしてこちらのテラスに……」
「貴方にわたくしの予定を教える必要があるのかしら」
「ございませんごめんなさいどうか命だけはお助けくださいッ」
男子生徒は留学生から教わった『DOGEZA』スタイルで謝罪と命乞いをしながら、こっそりとこけし人形を胸ポケットにしまおうとする。
「ヒルデアーネ様、この男、何か隠そうとしてましたよ!」
「ああん」
だが、取り巻きの令嬢たちによってこけしは取り上げられてしまった。
手渡された人形を怪訝そうな目で見るヒルデアーネに、どうにか上手い言い訳をしなければと男子生徒たちが慌て出す。
「………………これは?」
「そ、それっ、実は東国の神様なんです」
「マジ尊いんすよ、俺らもリスペクトしてるから御神体を持ち歩いてるくらいで」
「ご利益とかマジすごくて、延命長寿に家庭円満、家門繁栄から安産祈願までなんでもござれのスーパー女神様なんですよ、だよなチョンマゲ君、っていねぇ!? あいつどこ行った!?」
留学生は危険を察知していち早く現場から離脱していた。
周りのテーブルもいつの間にか三人組から3mほど距離を取っている。
「そ、それでですね、我が学園の女神と言えば誰かという話になりましてですね」
「そんな人間はヒルデアーネ様しかいないと」
「もちろん、ヒルデアーネ様はそこのブサカワ人形と違って美の女神であるわけですが、なーんて……」
初夏前の冷たい風と共に、令嬢たちの冷たい視線が三人に降り注ぐ。
ヒルデアーネの手に握られたこけしからミシミシと不吉な音が聞こえてくる。
「ヒルデアーネ様、こんな平民と変わらないような連中、関わるだけ時間のムダですわ」
「この後の約束もございますし、はやく参りましょう」
「……それもそうね」
このままだと怒りのあまりヒルデアーネが醜態をさらすと思ったのか、取り巻きの令嬢たちが三人組との間に入った。
嵐のような大名行列がテラスから去り、元の吞気な空気に戻る。
「ふう、木っ端貴族のせがれで助かったぜ」
「息子にそんな言われ方したら親父さん泣くぞ」
「名前も知らない小物だから見逃されたのは事実ですし」
「でも……ほんとに助かったのか。俺たちも破滅するんじゃ……」
「婚約破棄したわけじゃないから大丈夫だろ」
「まー王子様や上級貴族の御子息と違って、我々が破滅したところで何か変わるほど人生順風満帆じゃないんですけどね」
「だっはっはっは、確かに」
三人の笑い声が響く。
しかし、それはすぐ溜め息に変わった。
人生順風満帆じゃない、そう自虐したくもなるだろう。
彼らは下級貴族の次男三男だ。
家を継ぐこともなければ、家が結婚相手を見つけてくれることもない。
どうにか学園には入れてもらえたが、その後は一切の援助もなく、将来の仕事も婚約者も自力でどうにかしなければいけないのに、まだ何ひとつとして持っていない。
未来の予定は全て未定なのだから。
「はぁ……近くで見るとやっぱり美人だったな。むしろ神々しいまである」
「振る側なら分かるけど、あの美しさでなんで男の方から振られるんだろ?」
「さあ?」
彼らは所詮モブなので、噂話の深い所まで知るすべはない。
故に、謎は謎のままだ。
いつもの様に、話にオチもつかないまま、また別のどうでもいい噂へ話が移る。
「おい! 中庭で決闘だってよ!!」
一人の生徒が飛び込んできた、と同時に叫び声が喧騒を遮った。
テラスが静まり返り、飛び込んできた生徒に注目が集まる。
「誰と誰がやるって?」
「ヒルデアーネ様の元カレと今カレだ」
「うひょー、プラチナチケットきたー!」
「どっちが申し込んだんだよ」
「元カレだって」
「今度は婚約破棄じゃなくて復縁希望!? 新パターンなんですけど、どうなんのコレ!?」
「こいつは見逃せねぇ! 早く行かないと良い場所なくなっちまうぜ!」
貧乏性らしくカップに残っていた紅茶を一息に呷ってから、テラスにいた生徒たちは中庭へ向けて一斉に駆けだした――
彼ら自身の人生は、世界を救う英雄譚や国を騒がす大恋愛とは無縁のものだ。これといって大きな山も谷もない。しかし、今日も今日とて皆、楽しげである。
タイトルへ続く。