第7話:放浪の商人 2
ペットや魔獣を進化させ、より強くすることは、「テイマー」または召喚士と呼ばれる職業にのみ許された特殊な技術である。
テイマーはエルランガルの世界における職業の一つであり、召喚・制御・強化といった魔法を操り、スライムのような低級モンスターから高位の魔獣に至るまで、さまざまな生物を扱うことができる。さらに、彼らはペットを進化させ、より強力な存在へと導く特別な才能を持っている。
かつてネロは、幾人ものテイマーと出会ったことがある。 彼らの多くは異世界からの来訪者であり、その半数以上が彼に敵対する道を選んだ……当然ながら、彼らの末路は決して明るいものではなかった。本来ならもっと成長できたはずなのに、もったいない話ではある。
通常、テイマーのペットは訓練や戦闘を重ね、経験を積むことで進化の条件を満たしていく。
しかし——
ネロは魔王だ。そんな面倒な時間をかける必要がどこにある?
彼はもっと簡単な方法を選んだ。すなわち、進化を加速させる魔法を用いて、カミエルをただの精霊から一瞬で妖精へと変化させたのだ。修行など一切必要ない。
この魔法は、彼が数時間前に考案したばかりの高等魔法である。古代ルーンの新たな文字を呪文に追加し、わずかに調整を加えただけで、新たな魔法を創造することができた——それほどまでに、彼にとって魔法の開発は日常的な行為に過ぎなかった。
一般的に、人間が扱うルーン文字は24種類。エルフの場合、やや多い36種類。しかし、ネロが独自に発展させた古代ルーンは、実に248種類にも及ぶ。そのため、彼の魔法は通常の規格をはるかに超え、現代の魔法すら霞んで見えるほどの多様性と強大な力を秘めていた。
では、なぜカミエルは「焔の妖精」へと進化したのか?
それは、「魂の属性」と呼ばれるものが火属性だったからだ。
エルランガルの世界では、人間を含むあらゆる生命が、生まれながらにして「魂の属性」を持っている。それは、以下の8種類に分類される。
地、水、風、火、氷、雷、植物、光、そして闇——
通常、この魂の属性は血統によって受け継がれるため、一族ごとに特定の属性が存在するのが一般的である。生まれつき複数の属性を持つ者は極めて稀であり、また、たとえ属性を持っていたとしても、マナがなければそれを活用することはできない。つまり、魔法が使えない者にとって、魂の属性は何の意味も持たないのだ。
たとえ肉体が滅び、魂だけの存在になったとしても、「心」が残っている限り、その属性は失われることはない。カミエルの場合も同様だった。
——だが、ネロにとってそんなことはどうでもよかった。
彼は、生まれながらにして「無属性」だった。
つまり、あらゆる属性の魔法を、制限なく操ることができる存在なのだ——!
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突然の進化に戸惑うカミエルに、ネロは丁寧に説明をした。
要するに、「炎の精霊」とは、普通の霊魂が進化した聖なる存在であり、莫大な魔力を持つ。高位魔法使いに匹敵するほどの魔力量を誇り、さらに火属性の魔法を自在に操ることができるのだ。
「僕、そんなすごい存在になったんですか!? ネロ様!」
「信じられない!」
新しく生えた小さな腕を大きく上げ、カミエルは興奮した様子で拳を握りしめた。
だが、ネロは首を横に振り、冷静な声で釘を刺した。
「喜ぶのはまだ早いぞ。確かにお前は精霊になったが、それが強さを意味するわけではない」
「魔法を使えなければ、どれほど魔力を持っていようが無意味だ」
「えっ? それってどういうことですか?」カミエルはピタリと動きを止めた。
「基礎的な火属性魔法を教えてやる」ネロは言った。「まずは簡単な攻撃魔法、《ファイアボール》からだ」
ネロは魔法の基本的な詠唱方法を説明し、まずは目標を定めるよう指示した。標的として選ばれたのは、近くに生えていた一本の木。そして、カミエルに腕を前に伸ばさせ、精神を集中させるよう促した。
カミエルは目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。自身の透き通った青い身体を巡る魔力の流れを感じ取る。そして、頭の中にいくつかのルーン文字が浮かび上がり、それが自然と詠唱文へと組み上がっていく。
「ファイアボール!」
彼が叫ぶと同時に、両手の間に赤い魔法陣が浮かび上がる。
「今だ——放て!」ネロが命じる。
カミエルは生まれて初めての魔法を解き放った。これほどの魔力を持つ自分の初めての火魔法なら、さぞ強力なものになるだろう——
プスッ……
……
微かな破裂音が響いた。
小さな火の玉が、まるで塵のようにゆっくりと漂い、数秒後にはそよ風にさらわれて消えてしまった。
「…………」
「…………」
静寂が訪れた。
主従は互いに言葉を失い、沈黙したまま固まっていた。
ネロに至っては、思わず片眉がピクリと動いた。完全に期待しすぎていたのだ。
「……お前、何をやっているんだ?」
ネロの低く響く声に、カミエルはびくっと肩を跳ね上げ、自分の頭をこすりながら言い訳を始めた。
「え、えっと……ネロ様……じ、実は……」
「僕、ルーン文字が読めないんです……ごめんなさい!」
バチンッ!
「なぜ最初に言わなかった!!?」
ネロは即座にカミエルの頭を叩き、苛立ち混じりに声を荒げた。
精霊なのに魔法が使えない——それだけでも厄介だというのに、まさかルーン文字すら読めないとは! せっかく人間でも扱えるよう調整した詠唱だったというのに、まるで意味がなかったようだ。
「……本当に、こいつを選んで正解だったのか?」
ネロは深いため息をつきながらぼやいた。
さらに問題なのは、今のネロには新たな魂を進化させる魔法を使う余力がないということだ。この魔法は膨大なエネルギーを消費するため、一日に一度しか使用できない。魔力を回復する手段を見つけなければ、世界征服の計画が大幅に遅れてしまうだろう。
とはいえ、魔王の城に戻るまで、この精霊を無駄にはできない。少なくとも、基本的な魔法くらいは使えるようにしておかねば——
しかし、カミエルの様子を見る限り、あまり期待はできそうにない。
……それとも、本当に精霊はマナの量だけが取り柄というわけではないのか?
ネロは考え込んだ。過去の知識によれば、精霊は魔法の才能だけでなく、一般的な魂よりも優れた身体能力と俊敏さを持っているらしい。
ならば、こいつ自身の肉体能力を試してみるのが先か……
そう結論づけたネロは、再び訓練を開始することにした。目標は先ほどと同じ一本の木。
カミエルは幹の前に浮かび、拳を握りしめながらネロの指示を待つ。
精霊の力を引き出す方法は、魔法の発動と似ている。だが、マナを魔法として放出するのではなく、体内に巡らせて筋力へと変換するのが特徴だ。
魔法を使えない者にとって、この方法は最良の選択肢となる。ただし、マナとエネルギーの消費が激しいのが難点だった。
カミエルは集中し、じっと目を閉じる。その身体がわずかに震え始め、やがて赤橙色の光が眩しく輝いた。精霊の身体から放たれる熱が、これまでとは比べものにならないほど上昇していく。
ネロは満足げにその様子を見つめながら言った。
「よくやった。じゃあ、今度は温度を下げてみろ」
だが、その指示を受けたカミエルの顔が一瞬にして青ざめる。
「む……無理です、ネロ様!止められません——」
「うわああああああああああ!!!」
次の瞬間、カミエルの身体が制御不能のまま前方へと猛スピードで突っ込んでいった。まるで光の矢のように一直線に飛び、行く手にある木々を次々となぎ倒し、燃え上がらせながら消えていく。
その軌跡は、地平線まで続く一直線の焼け跡となった。
ネロはその惨状を眺めながら、顎に手を当てて考え込む。
「……これが、精霊の力か?」
「なかなか使えそうじゃないか」
彼はそう呟くと、炎の道筋を辿りながら歩き出した。その道すがら、氷魔法を唱えて燃え広がる炎を鎮めていくのだった。
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現在の出来事
「聞きたいのはこっちの方だ。お前は一体誰なんだ? まあ、その服装からすると、大都市の貴族っぽいけどな」
緑色の肌をした男は、少年にもう一度問いかけた。しかし、ネロは答える代わりに、相手の全身をじっくりと観察した。
緑色の肌… 高い鼻… 尖った耳… 濃い緑の髪…
体格や仕草、反応を見ても、恐怖を感じている様子はまるでない。
「ゴブリン…か?」
この種族は、かつてはただの下等生物だった。愚かで、知恵がなく、醜悪で、どう見ても生き延びられるとは思えない存在。だが、千年以上の時を経て、今や人間に近い文明を持つ種族へと進化していた。
…信じがたいことだが、それが現実となっている。
しかも、一人称が「俺」、二人称が「お前」だと? この話し方が現代では一般的らしいな。記録にあった通りだ。
となると、俺もこの時代の言葉遣いに順応する必要がありそうだな…。
だが、それは決して、このゴブリンごときにバカにされたくないからという理由ではないぞ!
「コホン! 人に名を尋ねる前に、まずは自分から名乗るのが礼儀だろう?」
ネロがわざと尊大な口調で言うと、ゴブリンの男は仕方なさそうに答えた。
「俺はメム。流れの商人さ。あちこちを旅してるんだ。…で、お前は?」
「…フッ!」
少年は自信に満ちた笑みを浮かべると、堂々と顔を上げ、誇り高き名を高らかに宣言した。
「聞いたら驚くぞ! 俺こそが、この世界の頂点に立ち、すべてを支配し、変革をもたらす者——名をネロ・クラウド・ルシファール! そう、この俺こそが原初の魔族だ!!」
「……」
「………」
沈黙。
さっきより、さらに静かだ。
「…あぁ、魔族ね? うんうん、わかったよ」
メムは一瞬固まった後、「納得した」風な態度を取りながら、わざとらしく頷いた。その声も、どう聞いても嘘くさい。
しかし、ネロの目に映ったのは、ただただ頭を抱えたくなるような絶望感だった。
…この時代、本当に誰も俺のことを知らないのか?
そんな会話が続く中、カミエルの体は徐々に元の状態へと戻っていった。彼はふらふらとネロの背後に浮かび上がり、まだ目が回っているのか、どこかぼんやりとした表情を浮かべていた。
「ご、ご主人様…」
「ひっ…!? ゆ、幽霊ぃぃぃぃっ!!?」
「しかも真っ昼間にっっ!!!」
カミエルの青く透き通った姿を目にした途端、メムは驚愕のあまり目を見開き、ガタガタと震えながら両手で顔を覆った。
「…お前、何やってんだ?」
ネロは怪訝そうに眉をひそめながら尋ねた。
「だ、だって…! 子供の頃に聞いたことがあるんだ! 目を閉じて見えないふりをすれば、幽霊は襲ってこないって…!!」
「……どこでそんなトンデモ迷信を仕入れてきたんだ?」
ネロは大きくため息をつくと、冷静な口調で言い放った。
「目を開けていようが閉じていようが、幽霊が出るときは出るもんだろ」
「それに… こいつはお前が思ってるような幽霊じゃない。俺の使い魔の精霊だ。さあ、もう目を開けろ。さっきお前を助けてくれたんだから、ちゃんと礼くらい言っとけよ」
「……え?」
メムはしばらくの間、恐る恐る目を開けた。そして何度も瞬きを繰り返しながら、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。
そうして、彼らは改めて腰を据え、真剣に話をすることとなった。
メムの話によれば、彼は身長90センチほどの小柄なゴブリンで、各地を旅して商売をする流浪の商人なのだという。
現在のエルランガル大陸は、七つの大陸に分かれており、それぞれ異なる種族が支配している。
人間 → 三つの大陸を支配
エルフ → 一つの大陸を支配
オーク → 二つの大陸を支配
「暗黒世界」 → 最後の一つ。この地は極めて危険で、誰一人として帰還した者はいない。
メムはこれまでに人間が支配する二つの大陸を旅してきたことがあり、現在彼らがいるのは**三つ目の大陸、「ゴルラン」**だという。
「これが、君たちが見たがっていたゴルランの地図さ」
メムは懐から地図を取り出し、ネロとカミエルの前に広げた。
ゴルラン大陸は、オークの領土と隣接する位置にあり、大陸内には三つの大国が存在している。
1. ノア
2. カザス
3. リベア
そして、彼らが今いるのは— リベア王国の南部だった。
しかし、ネロの目を最も引いたのは、それらの王国が記された地図ではなかった。
「……」
少年の視線は、地図上のある一点に釘付けになった。そして、次第にその瞳が輝きを増していく。
「……」
今いる場所からわずか3〜5キロ先。そこには、まさしく彼が求めていた場所があった。
「グランドダンジョン」
もし記録にある情報が正しければ——彼のかつての魔王国は、このグランドダンジョンの地下深くに埋もれているはず。
まさか… こんなにも近くにあったとはな。
これなら、無駄に時間を潰す必要はない。すぐにでも向かおう。
「なあメム、俺たちはさっき、あのイノシシからお前を助けてやったよな? そのお礼として、地図とコンパスを譲ってくれないか?」
ネロは「恩」をダシにして、巧みにメムを丸め込もうとした。
だが——
「お断りだ!」
メムの返事は驚くほど即答だった。ネロは思わず眉をひそめる。
「……どういう意味だ?」
「実はな、今の俺は金欠なんだ。物もほとんど売れなくてな…。それに、地図もコンパスも一つずつしか持ってないんだよ!」
メムは苦々しい表情を浮かべながら、背負っていたカバンをぎゅっと抱きしめた。
「でも! もし買ってくれるなら話は別さ! それに… 命を助けてもらったお礼に、特別に割引してやるよ! 本来なら5,000セリンのところを、なんと2,500セリンでいい!」
——ついに押し売りが始まった。
ネロはなんとも言えない気分になった。正直、目の前のゴブリンを殺して奪い取るのは簡単だった。だが、彼は無秩序に殺戮を繰り返すような野蛮な魔族ではない。
無駄な殺しなんて、俺の流儀じゃない。
それよりも、もっと気になったのは——
「セリン」 というのが、この時代の通貨単位らしいということだ。
さらに詳しく聞いてみると、現在のエルランガルの貨幣制度は、以下の4種類に分かれていた。
1小石銭 = 1セリン
1銅貨 = 10セリン
1銀貨 = 100セリン
1金貨 = 1,000セリン
これらの硬貨は全大陸で共通して使われており、さらに価値の高い宝石類は、それらの硬貨よりも格上の通貨として扱われているという。
——とはいえ、ネロにとって最も重要な問題は、今の彼が一セリンも持っていないということだった。
ちらりと隣にいるカミエルに目をやると、彼はそっぽを向いてしまった。まるで、こう言いたげに——
「精霊なんだから、お金なんて持ってるわけないでしょ?」
「…試しに、貨幣を見せてもらうことはできるか?」
ネロが尋ねると、メムは一瞬警戒したような表情を見せたが、やがて観念したようにため息をつき、カバンの中から1枚の銅貨を取り出して見せた。
少年は銅貨を手に取り、じっくりと観察した。
それは直径26ミリ、厚さ2ミリの銅製の硬貨だった。表と裏にはそれぞれ異なる紋様が刻まれており、表面には盾、裏面には剣が描かれている。どうやら、盾のある面が表、剣のある面が裏という扱いらしい。
メムの説明によると、「小石銭」から「金貨」に至るまで、全ての硬貨は同じデザインが採用されており、違いは素材だけだという。
「……なるほどな」
ネロは、何かを計算するように目を細めた。
「適切な材料さえあれば、俺の『創造魔法』でこの硬貨を作り出せるんじゃないか?」
問題は、その材料をどこで手に入れるか——
「……身近にある金の素材、か」
彼は呟く。そして、まるで運命が導いたかのように、答えが脳裏をよぎった。
《黄金の牙》
——あの猪の。
「……」
その時、微かな物音が耳に届いた。
倒れていたはずの巨大な猪が、密かに目を覚ましていたのだ。
しかし、それはもはやさっきの猛々しい獣ではなかった。
先ほどのカミエルの一撃によって、猪は完全に戦意を喪失していた。今のネロの背中を見るだけで、体の芯から冷えるような恐怖が込み上げ、背中には冷たい汗が滲んでいく。
「……逃げなきゃ」
猪は本能的にそう感じた。音を立てないように、静かに、静かに——
コソコソ……
だが、その時。
太陽の光が、一筋の黄金を照らした。
「!!」
ネロの視界に、煌めく二本の黄金の牙が映る。
そして——
彼は静かに口元を歪ませた。
「……」
その笑みを見た瞬間、猪の背筋にゾッとする悪寒が走る。
——本能が告げていた。
「ヤバイ、アイツは……!!」
「どこへ行くつもりだよ、このブタ野郎?」
冷たい声が響いた次の瞬間——
ガシッ!!!
ネロの手が、黒い尻尾をがっちりと掴んでいた。
「!!??」
猪の瞳が見開かれる。恐怖に震えながら、ゆっくりと振り返ると——
そこには。
悪魔の微笑みがあった。
「そういえばさ……」
ネロは首を傾げ、指先でそっと猪の黄金の牙を撫でる。
「お前の牙……綺麗だな?」
——「もらうぜ?」
「フフフ……ッ!!」
低く響く笑い声とともに——
猪の意識は、完全な闇へと呑み込まれた。