第6話:放浪の商人 1
「道に迷ったな……」
ネロは小さくため息をつきながら呟いた。自分がここまで間抜けだとは思わなかったが、魔力がほとんど尽きかけているせいで、身体の動きが極端に鈍くなっていた。時にはほとんど動けないことさえある。
彼が横になり、魔力の回復を待つ間、カミエルが使い魔たちを指揮して周囲の警戒を続けていた。もっとも、これらの使い魔はもともと屋敷の召使いであり、掃除や家事をこなすのが主な役割で、精霊のように戦闘能力があるわけではない。それでも、何の防御もないよりははるかにマシだった。
とはいえ、ネロ自身は何もできなかった。魔力の十一分の十を失い、最悪なことに――どうすればそれを取り戻せるのか、皆目見当がつかない。
唯一の手がかりは、魔族の王国に行けば何か分かるかもしれない という可能性だけだった。
しかし、あの場所がどんな状態で残っているのか、それは誰にも分からない。
歴史書 『ベニク・ウィンツの記録』 によれば、魔族の滅亡後、王国は「大迷宮」の地中百層以上に沈んだという。完全に消滅したわけではないが、今や魔物たちの巣窟と化しているらしい。
まずは、そこにたどり着く方法を見つけなければ――。
もし、記録の中に現代のエルランガルの地図や情報が載っていたなら、こんなふうに道に迷うこともなかっただろうに。
ネロはしばらく魔力の回復に専念した。そして数分後、ついに魔力が満ちるのを感じると、静かに目を開け、ゆっくりと草の上から身を起こした。
「ご主人様が目を覚まされました!」
ノヴァの声が響くと同時に、周囲の使い魔たちが一斉に歓声を上げた。
「ネロ様、お体の具合はどうですか?」
「どこかお怪我はありませんか?」
「お水をお持ちしましょうか?」
青白い光の揺らめく声が次々に飛び交い、あまりの騒がしさにネロは思わず耳を塞ぐと、「黙れ!」 と一喝した。
……まったく、正気を取り戻したかと思えば、こんなに騒がしいとは。
最初に出会ったとき、彼らは感情のない奴隷のようだった。指示された仕事を黙々とこなし、休むこともなく働き続ける。ただの一般市民であった者もいれば、ジェスタのように生贄として魂を捧げ、彷徨う亡霊になった者もいる。そして、ノヴァのように、実の親に売られた子供までいた。
――人間というのは、つくづく恥知らずな生き物だ。
だが、いずれにせよ、魔族の王国を見つけさえすれば、これらの使い魔はもう必要なくなる。
あと八時間ほどで日が沈む。今のうちに宿を確保しなければならない。
せめて、どこか村のひとつでも見つけられればいいのだが。
もし運が良ければ、旅の情報や地図を手に入れることもできるかもしれない。
そう考えた少年は、地面から勢いよく跳ね起きた。
どうやら体力は完全に回復したようだ。もう休んでいる理由はない。
しかし、出発する前にネロは従者の霊たちの安全を気にかけずにはいられなかった。
彼らには自己防衛の力がまったくない。それならば、せめて守る手段を講じるべきだろう。
そう思い、彼は再び霊魂収容の壺を取り出した。
「中に戻れ」
少年の命令は絶対だった。
霊たちは素直に壺の中へと吸い込まれていった。ただ一人、カミエルを除いては――
とはいえ、今回カミエルは何も言わなかった。もう異論を挟むこともないようだ。
どうやら少しは慣れてきたらしい。
ネロがカミエルだけを残したのは、彼が霊たちのリーダーだからだ。
もっとも、ネロから見れば、カミエルは臆病で頼りなく、とても指導者にふさわしいとは思えなかったが。
外見だけで言うなら、エミレストやジェスタのほうが、よほど指導者らしい威厳を持っている。
それでも――
霊たちの元の主人が彼をリーダーに選んだのには、何か理由があるのだろう。
ネロには見えていない、彼なりの強みがあるのかもしれない。
ネロは森の中を進んでいった。
後ろにはカミエルが、少し距離を取ってついてくる。
しばらくして、ネロは一本の大木の前で足を止めた。
カミエルは不思議そうに尋ねる。
「ネロ様、どうして止まるんですか? まだ進まないんですか?」
「試したいことがある」
「試す……?」
ネロの言葉に、カミエルの疑問は深まるばかりだった。
だが、少年はそれ以上の説明をすることなく、左手を持ち上げ、カミエルに向けて指をさした。
その瞬間――
魔法の詠唱が始まる。
古代のルーン文字が、カミエルの身体に浮かび上がった。
すると、青白く揺らめく霊体が震え始め、何かが変化しようとしているのが感じられた。
空中に漂っていた青い炎が、少しずつ膨らんでいく――
そして次の瞬間。
両腕が生えた。
彼の身体から。
魔法の赤い輝きが徐々に消えていく。
残されたのは、呆然と立ち尽くすカミエルだった。
彼はゆっくりと自分の身体を見下ろし、新しく生えた腕をまじまじと見つめる。
これは……本物の腕だ……
彼の姿は変わった。
それだけではない。
まるで身体の奥から、新たな力が湧き出してくるような感覚があった。
「な、なんだこれは……! ネロ様、これは一体!?」
カミエルの声は、驚きに震えていた。
ネロはわずかに微笑みながら、淡々とした口調で答えた。
「お前を進化させる魔法をかけたのさ」
「進化…の魔法?」
「これからは、お前はただの召使いの霊ではない」
「お前は——炎の精霊へと進化したのだ」
「えぇっ!?」
主の説明を聞き終えるや否や、カミエルは驚愕の声を森中に響かせた。
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「ぎゃあああああああああ!!!」
「誰か助けてくれーーー!!!」
南の森に、切羽詰まった叫び声が響き渡る。
小柄な痩せた体、緑色の肌、くすんだ古びた服に大きな帽子。その小さな影は、背中に自分の体の二倍近い大きさの旅行カバンを背負ったまま、必死に走っていた。
目をぎゅっと閉じ、短い足を全力で動かしながら、命がけで前へと突き進む。
普通なら、こんな光景はめったに見られない。だが、さらに異様なのは——その後ろから追いかけてくる"何か"の存在だった。
いくら速く走ろうとしたところで、不運にも—— 木の根に足を取られてしまった。
ドサッ!!
その身体は地面を転がり、背負っていたカバンから持ち物が四方八方に散らばる。
「しまった!」
慌てて体を起こし、荷物をかき集め始めるが——
「やばい!来たぞ!!」
背後から迫るのは、 体高3メートルを超える巨大イノシシ!
黒く荒々しい体毛が背中から頭にかけて茶褐色に伸び、血のように赤い目が怒りをたぎらせている。黄金色の巨大な牙には唾液が滴り、まるで発狂したように暴れ回っていた。
何をどうやったら、こんなにも激怒させることができるのか!?
「来るな!俺はまだ死にたくないんだーーー!!!」
必死の叫びを上げるも、巨大な影は目の前まで迫ってくる。
しかし、その絶望の一瞬——
ボウウウウウウウッ!!
突如、 青い炎に包まれた影 が天から降り注ぎ、小さな影の頭上を飛び越えて…
ドゴォォォォン!!
巨大イノシシの頭部に、勢いよく直撃した!!
「グギャッ!!!」
激しい衝撃音とともに、落ち葉や荷物が吹き飛ばされる。
強風が収まると、緑色の小さな影はそっと腕を下ろし、目の前の光景を見つめた。
…イノシシは、微動だにしない。
えっ…?さっきの一撃、全然効いてないのか!?
「うっ…」
すると、真紅の目がぐるりと裏返り——
ドサァァァンッ!!!
巨大な体が、まるで山が崩れ落ちるかのように、地面へと沈んだ。
…そう、イノシシは 気絶 していたのだ。
「おいおい!カミエル!もっと手加減しろって言っただろ!まったく!」
背後から聞こえてきた足音に振り返ると、黒髪の少年が少し呆れたように立っていた。
「見ろよ、こんなに遠くまで吹っ飛ばして…!」
そうぼやきながら、頭を掻く少年。
その時——
「え…ええっと、あの…?」
傍らから聞こえた声に、少年はそちらへと顔を向けた。
傷だらけの緑の顔が、困惑の表情を浮かべたまま、こちらを見上げている。
少年はただ眉をひそめ、淡々と問いかけた。
「それで…お前は誰なんだ?」
小さな影は瞬きを数回した後、思わず大声で言い返した。
「聞くのはこっちのセリフだろうがーーー!!」