第3話:呪われた森
小さな足が乾ききった地面を踏みしめ、一歩ずつ深い霧に包まれた道を進んでいく。森の奥は不気味なほど静まり返り、まるで空気そのものが重く圧し掛かるようだった。死の気配が辺りに漂い、闇の中には何かが潜んでいる。
「ネロ様……なんだか、嫌な感じがします。ここ……怖いです……」
カミエルは不安げに呟きながら、青白い光を放つ瞳であたりを見回した。一歩一歩慎重に足を進める彼とは対照的に、主である少年はのんびりと歩いている。まるで恐れるものなど何もないかのように。
—— そして、突如ネロが足を止めた。
彼の目の前には、大地を引き裂くように広がる巨大な裂け目があった。底知れぬ闇が広がり、その深さは計り知れない。
ネロはしばらく裂け目を見つめていたが、やがてカミエルの方へ視線を移し……
何の前触れもなく、彼を足で蹴り落とした。
「ぎゃああああああ!!!」
小さな魂の悲鳴が森に響き渡る。それはまるで破滅の歌のように。そして、青白い光の球は一瞬のうちに深淵へと落ちていった。残されたのは、静寂だけ。
ネロは崖の縁に立ったまま、その様子を見届けると、満足そうに小さく頷いた。
「ふーん……結構深いな。」
クスリと笑みを浮かべ、まるで悪びれる様子もない。
そして、崖の下へ向かって呼びかけた。
「なぁ、カミエル? お前、飛べるの忘れてないか?」
—— それから数秒後
青白い光の球が凄まじい勢いで舞い上がり、ネロの元へと戻ってきた。小さな体は震え、怯えた様子を隠せない。
「危うくもう一度死ぬところだったんですよ!? わかってますか!?」
ネロはそんな彼を見つめながら、微かに微笑んだ。
—— しかし、次の瞬間
カミエルはハッとしたように動きを止め、眉をひそめた。
「……っていうか、私は実体がないのに……どうしてあなたは私を蹴ることができたんですか?」
ネロは軽く笑いながら、気楽な口調で説明した。
「なぜなら、俺のような原初の魔族には、『魂の接触』というスキルがあるからさ」
彼は手を上げ、指を空中でひらひらと動かしながら、まるで何かをからかうような仕草を見せる。
「それを使えば、幽霊や精霊、その他の実体を持たない存在にも触れられるんだよ」
一瞬間を置いて、ネロは肩をすくめた。
「それと…谷底に蹴り落とすこともできるってわけだ」
短くも簡潔、そしてユーモアのある説明。しかし、カミエルの空っぽな頭では、まだ完全に理解しきれていないようだった。とはいえ、ネロはこれ以上詳しく教えるつもりはなかった。
彼は軽々と跳躍し、裂け目を飛び越えて向こう岸へ着地する。小さな魂の炎は、慌ててその後を追いかけた。
彼らは再び歩き出した。暗闇に包まれ、死の気配が漂う深い森の中を進んでいく。
そしてついに——
目の前に、朽ち果てた墓地が現れた。数えきれないほどの墓標が並ぶこの場所は、かつての戦争で命を落とした戦士たちの終の住処なのだろう。
どれほどの時が経とうとも、この地には未だ悲しみの気配が色濃く残っていた。
カミエルはゆらゆらと漂いながら墓標の間を飛び回り、青い灯火がわずかに輝く。
彼は、墓石に刻まれた名をじっと見つめていた。
まるで——
誰かを探しているかのように。
もしかすると、それは彼のかつての主なのかもしれない…。
「はぁ……お前の元の主なんて、とっくに生まれ変わってるだろうさ。さっさと来いよ。でないと、ここに置き去りにするぞ」
ネロは淡々と言い放ち、カミエルを振り返ることなく歩き出した。
カミエルは一瞬ためらったが、結局小さくため息をつくと、彼の後を追うことにした。
しかし——
パキッ!
乾いた枝を踏み砕く音が、静寂を破った。
たったそれだけの音が、何かを呼び起こす合図となったかのように——
突然、辺りに死の気配が満ち始める。
静まり返っていた大地が揺らぎ、薄暗い緑色の炎がゆらめきながら立ち上る。
そして、無数の腐敗した死体が地中から這い出してきた。
肉が剥がれ落ち、黒ずんだ骨が露出している者——
身体を無数の虫に喰われ、今まさに崩れ落ちそうな者——
アンデッド……スケルトン……
この廃れた墓地から、まるで侵入者を迎え討つかのように、亡者の軍勢が蘇る。
カミエルの目が大きく見開かれた。
「ば、馬鹿な!? 多すぎるだろ!!」
「……フッ」
ネロは周囲を見回しながら、薄く笑みを浮かべる。
これだけの数が一斉に現れるとは……やはり、あのネクロマンサーの仕業か。
まさか侵入者を防ぐために、ここまで大掛かりな罠を仕掛けているとはな……。
なかなか良い手を打ったものだ。
だが——
所詮は死人の軍勢。
この俺にとっては、何の問題にもならない。
無数の紫色の瞳が、まるで呪縛にかかったかのように少年を見つめていた。
カミエルは恐怖に駆られ、思わず主の側へと身を寄せる。
しかし、ネロは微動だにせず、ただじっと奴らが近づくのを待っていた。
「まったく…邪魔な連中だな」
少年は淡々と呟く。
しかし、その声には明らかな苛立ちが滲んでいた。
右腕がゆっくりと掲げられると、掌の中心に橙色の魔法陣が輝き始める。
幾重にも重なった魔法陣が高速で反時計回りに回転し、
やがて巨大な炎が空中に渦巻く。
その圧倒的な輝きが、闇を吹き飛ばすように辺りを照らし出した。
カミエルは息を呑み、アンデッドたちもまた恐怖に凍りつく。
ーーたとえ既に死んで、意識も感情も朽ち果てた骸であろうと、
恐怖というものは決して消え去ることはない。
それは魂の奥深くにこびりついた本能の名残。
そして今、ネロはそれを再び呼び覚まそうとしていた。
炎はますます膨れ上がり、
燃え盛る熱がアンデッドたちを容赦なく威圧する。
奴らは本能的に後退し始めた。
その様子を見て、悪魔の少年はニヤリと口角を上げる。
「…この森も、もう死んだも同然だ」
彼は独り言のように呟き、くつくつと笑った。
「だったら、燃やしてしまっても構わないよな?」
燃え盛る炎を映し出す、真紅の瞳。
「さあ!食らえ、この惨めな残骸ども!」
鋭い叫び声と共に、炎の塊が地面に叩きつけられた。
ドォォォォォォォォォォォォン!!!!
轟音と共に爆炎が炸裂する。
炎の津波が全てを焼き尽くし、
アンデッドの軍勢は一瞬で塵すら残さず消え去った。
周囲数キロにわたる大地が壊滅し、
世界がそのまま火の海へと変わっていったーー。
漆黒の森は、一瞬にして真紅の地獄へと変貌した。
燃え盛る炎の中、一つの影と一つの魂が悠々と歩み出る。
二人とも、かすり傷一つ負っていなかった。
少年の口元には、依然として笑みが浮かんでいる。
「こんな気分、久しぶりだな……はははは!」
ネロは愉快そうに高笑いした。
一方のカミエルは、先ほどの一撃に圧倒され、言葉を失っていた。
自分の主人が張ってくれた結界がなければ、
今頃はあのアンデッドたちと一緒に灰になっていただろう……
---
墓場が燃え尽きるのを後にし、
彼らは新たな森の領域へと足を踏み入れた。
とはいえ、先ほどまでいた場所と大した違いはない。
しかし、進めば進むほど「魂喰らい」の瘴気が
濃くなっていくのを感じずにはいられなかった。
まるでこの森全体が、やつらの巣であるかのように。
「カミエル。俺から目を離すなよ」
主の静かだが重みのある声が響く。
魂喰らいは、さっきのアンデッドとはまるで別物だった。
炎を恐れることもなく、その上、はるかに危険な存在。
さらに、先ほどの炎魔法で魔力をかなり消費してしまった今、
そう簡単には連発できない……。
しかし、あいつらの狙いは俺じゃない——
本当に警戒すべきなのは、カミエルのほうだった。
人間の魂である彼は、魂喰らいにとって最高のご馳走。
見つかれば、我先にと群がって食い尽くされることだろう。
もし一斉に襲いかかられたら……まず逃れる術はない。
だが、それこそがネロの望みだった。
奴らが集まれば集まるほど、一掃するのが楽になるのだから。
その瞬間——
影が一閃、猛スピードで飛びかかってきた!
銀色の牙がカミエルに向かって一直線に襲いかかる。しかし、届く寸前、少年が素早く踏み込んでその進路を塞いだ。
ぎゅっ——と拳を握りしめると、そのまま怪物の鋭い顎へと渾身のアッパーカットを叩き込む!
バキッ!!
灰色の翼を持つその影は吹き飛び、宙を舞ったかと思うと、勢いよく地面へと落下していった。
スッ!
再び虚空に黒い亀裂が生じる。
ネロは右手を差し込み、ある武器を引き抜いた。それは、黒く湾曲した短剣。刃先には血のような紅が染みつき、周囲には常に黒き瘴気が渦巻いている。
それがただの武器ではないことは、誰の目にも明らかだった。
ネロは刃を背後へと構え、落下する獲物を冷静に見据える。
紅い瞳が鋭く光ると同時に——刃が閃いた!
ズバッ!!
鋭い一閃が怪物の胴を真っ二つに切り裂く。
暗黒の血が四方へと飛び散り、無惨に分断された肉塊が地面へと転がる。死骸となったそれを、無数の虫が貪り始めた。
ネロは短剣を軽く振り、付着した血を振り払うと、さも些細なことのようにため息をついた。
一方、カミエルは恐る恐る近寄り、その死骸をまじまじと見つめた。
「これは……ガーゴイルか……!」
それは、まるで人の形をした怪物だった。
ざらついた灰色の肌、痩せ細った体、尖った顎と醜悪な顔つき——
大きな四本の牙と鋭い爪は、一瞬で獲物の肉を切り裂くだろう。
深紅の眼は霊魂を見通す力を持ち、巨大な蝙蝠の翼はその魂を狩るためのもの。
そして、当然ながら……彼らは一匹だけではない。
ガーゴイルが一体倒された瞬間、それはまるで狼煙のように群れを目覚めさせる。
その直後——
無数の黒い影が空に現れた。
赤く光る無数の瞳が闇夜に浮かび、大きな翼が轟音とともに羽ばたく。
まるで悪夢が具現化したかのように、巨大な群れが一斉に襲いかかってくる——!
「ね、ネロ様……! こんなにたくさん……!? ぼ、僕、怖いよぉぉぉ!!」
カミエルは震える声で叫び、慌てて主の背後へと逃げ込んだ。
だが、ネロは微動だにしない。
カミエルには、押し寄せる群れが地獄のように見えた。
しかし、ネロには、それが “楽しい狩り” にしか思えなかった。
少年はゆっくりと口角を上げ、不敵に笑う。
「いいぜ……まとめて来いよ、醜い化け物ども。 一匹残らず、消し炭にしてやる!」
スッ……!
彼は再び、空間に手を伸ばし、もう一本の短剣を取り出した。
今度の刃は——漆黒とは対照的な、純白の輝きを放つ短剣。
まるで聖なる光を宿したかのように、静かに、しかし力強く煌めいていた。
その柄には特殊な機構が施され、どうやら別の武器と連結できるようだった——。
ネロは両手に短剣を握った。一方は深い闇を宿す漆黒の刃、すべてを呑み込むかのように禍々しいオーラを纏っている。もう一方は神聖な光を放つ純白の刃、まるで天の輝きそのものだった。
少年はゆっくりとそれらを持ち上げ、柄と柄を合わせるように動かした。
スッ…カチリッ!
瞬く間に、二本の短剣が一つとなり――完全なる陰陽の輪へと姿を変えた!
ヒュオオオオオオ――ッ!!!
ネロは魔力を込め、回転する輪を宙に浮かせると、一気に前方へと投げ放った。
それは猛スピードで飛翔し、ガーゴイルの群れの中心へ突き進んでいく。
空気を切り裂く鋭い音が轟き、次の瞬間――
シュバッ!シュバッ!シュバッ!
鋭い刃が次々と魔物の体を切り裂く。
黒い血が飛び散り、肉片と翼の破片が宙に舞った。破壊の輪は止まることなく回転し、進む先のすべてを斬り裂いた。逃げようとする者も、突進してくる者も――その刃から逃れることはできない。
ガーゴイルたちの断末魔の叫びが森に響き渡る。
だが、それも長くは続かなかった。
群れは次々と粉砕され、ついには骨すらも残らず全滅した。
……半刻(約30分)
その間、輪は休むことなく回り続け、無慈悲にすべてを切り裂いた。
そして、すべてが終わった時――
破滅の武器は徐々に回転を緩め、やがて元の短剣二本へと戻った。
ネロはそれらを拾い上げると、何事もなかったかのように次元袋へと仕舞い込む。
カミエルはおそるおそる周囲を見回した。
さっきまで鬱蒼とした暗い森が広がっていたはずなのに――
今、目の前にあるのは、広々とした更地だった。
魂喰らいの魔物たちの姿はどこにもない。
残されたのは、辺りに散らばる血の痕と、砕け散った肉片のみ。
疑う余地はない――
やつらは、完全に「掃討」されたのだ。