第36話:死よりの予言
「ちょっと着替えてくる。それと、見張りの霊たちに伝えておいてくれ。向かいの家をしっかり監視するようにな」
「え? なぜですか?」
カミエルが首を傾げる。
「だってあの家には……俺を噛みつこうとしてる犬が住んでるからな」
「……は、はあ?」
ますます理解できない様子で返すカミエル。
ネロはそれ以上何も言わず、軽やかに階段を上がっていった。カミエルはぽかんと宙に浮いたまま、ただ「とにかく向かいの家には誰も近づけるな」と心に刻むしかなかった。
ネロは白いシャツと黒のスラックスに着替えると、肩を回して軽く体を伸ばした。
幸い、彼のクローゼットにはまだ予備の服が多く残っており、少し大きめではあったが問題ない。彼は魔法《創成》を使い、布地のサイズを自分に合わせて整える。
先ほどの戦闘でボロボロになった服は「ジェスタ」に修繕を任せてある。
「まったく……あいつ、裁縫の方が魔法より上手いんじゃないか?」
ネロはぼやきながら歩く。
物体修復の魔法も使えたが、今日はさすがにマナを使う気力がなかった。
廊下を歩いていると、ちょうどエミレストとすれ違った。
彼女はタオルを手に持ったまま、ネロの姿を見つけると、慌てて姿勢を正し声を上げた。
「ネ、ネロ様! お帰りなさいませ!」
頬を朱に染め、どこか落ち着かない様子だ。
「おい……大丈夫か?」
ネロが首をかしげる。
「昼頃からずっと様子が変だぞ」
「な、なんでもありません!」
エミレストは慌てて否定する。
「ただ、この新しい身体にまだ慣れていなくて……。霊体でいた時間の方が長かったものですから」
「そういうことか」
ネロは小さく笑う。
「最初のうちは仕方ないさ。すぐに慣れる。いずれ家事も完璧にこなせるようになるだろう」
「はい……」
彼女は胸の前で両手を組み、控えめに頷く。
「そういえば、あのエルフの少女はどうしてる?」
「……話しかけてみたのですが、同じエルフでも全く口を利いてくれなくて」
「随分と頑固なやつだな」
ネロは口元を緩めた。
「じゃあ明日、俺が直接話してみるか。ふぁぁ……」
大きな欠伸が漏れる。
「ネロ様、お疲れでは?」
エミレストが心配そうに近づくが、彼は片手を上げて制した。
「心配いらない。ただ少しマナを使い過ぎただけだ。俺はもう寝る。お前たちも早く休め」
「はい……」
彼の背中を見送りながら、エミレストはそっと微笑んだ。
その優しい言葉が、自分が彼の“従者”であることに、ほんの少し誇りを感じさせていた。
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夜。
静寂が館を包む。
ネロの寝室は落ち着いた雰囲気で整えられていた。濃紺のカーテンが風に揺れ、彼は机の前に立ち、袋から黒い竜の鱗を取り出す。
ひんやりと冷たいそれは、不思議なほどマナの気配を放っていなかった。
「妙だな……」
彼は小さくつぶやく。
通常、竜の鱗は本体から離れても微弱なマナを放つ。だがこの都市では反応がない。
つまり――その竜はこの街に近づく気がない、もしくは動けないのだ。
「何か理由があるのか……」
彼は眉をひそめた。
いずれ現れたとき、ためらうことなく倒すつもりだった。
竜の素材は高価だ。
SS級クエストを達成できれば、一気にランクを上げることができる。
今の彼にとって、時間は何よりも貴重だった。
ネロは鱗を瓶にしまい、栓をして机に置くと、窓の外に目をやる。
向かいの家――レインの屋敷――にはまだ灯りがついていた。人影がちらりと動くのが見える。
「……まだ起きてやがるのか」
彼は小さくため息をつき、カーテンを閉めてベッドに倒れ込んだ。
部屋の中には、ゆらゆらと揺れる灯火だけが残る。
ゆっくりと瞼を閉じた、そのとき――
――ふっと、光が消えた。
冷気が部屋を満たす。
息が白くなり、壁や家具に薄氷が張り始める。
ネロは眉を寄せ、目を開けた。
そこには――真紅の瞳と漆黒の髪を持つ女が、至近距離で彼を見下ろしていた。
「デス! またお前か!!」
彼は反射的に身を起こし、彼女を押し退ける。
だが鼻先が触れそうなほどの距離だった。
「まあ、そんなに嫌そうな顔しなくてもいいじゃない」
彼女はくすりと笑い、ネロの胸に手を当てて押さえつけた。
「じっとしてなさい、別に害はないわ。ただ――」
冷たい声が耳元で囁かれる。
まるで墓場の風のように。
「今度は何の用だ、デス」
ネロは冷静を装って言う。
「ちょっと挨拶に来ただけ。最近いろいろあったみたいだから、様子を見にね」
「余計なお世話だ。外なる神ともあろう存在が、暇人だな」
「だって、見てると面白いんだもの」
デスは妖しく笑う。
「私はね、何千もの時代、何百もの世界でお前を見てきた。お前は……最高の娯楽よ」
「じゃあ、“時”と“命”もそう思ってるのか?」
「ふふ、あの二人は興味ないわ。お前を見ているのは私だけ」
「見てるだけなら勝手にしろ。だが、わざわざ姿を現すな。何が目的だ?」
「目的……?」
デスはくすりと笑った。
「お前に“目的を果たさせる”こと。それだけよ」
「俺に死神の助けなんかいらない」
「でも今のままじゃ弱すぎる」
血のような瞳が光る。
「これから言う“予言”――信じるかどうかはお前次第」
ネロは無言で頷く。
「今度は何を予言する?」
「お前が目指している“大神迷宮”には――お前が求めているもの以上のものが眠っている」
「……俺が求めているもの以上?」
「そう。失われた王国の他に、“お前のもう一つの力”もそこにある」
「俺の……もう一つの力?」
「いずれ分かるわ。私は導くだけ」
「じゃあもう一つ聞く。レイン・ベルモンド――あいつが言ってた“勇者”なのか?」
「さあ、どうかしらね〜? チクタク、チクタク〜♪」
からかうように笑うデス。だがネロは表情を変えない。
「答えろ、デス」
「そんな怖い顔しないで。教えられないのよ」
彼女は肩をすくめる。
「それに、勇者だけが脅威じゃないわ」
「どういう意味だ?」
「気づいていないみたいね。じゃあ少しだけヒントをあげる。次に会うのは、しばらく先になるから」
「それは助かるな」
「ふふ、少しくらい心配してくれてもいいのに」
「“死”を心配しろってのか?」
デスは一瞬黙り込み、頬をふくらませて拗ねたように言う。
「ほんと、可愛げがないんだから……」
そして、静かに告げた。
「最後の予言よ――この王国には、“何かがおかしい”」
「何かがおかしい……?」
「いずれ分かるわ」
デスは首を傾げて微笑む。
「惜しいわね、今のお前が子供の姿じゃなければ……もっと“楽しいこと”ができたのに。隣にいる女たちが羨ましいわ――」
彼女は妖しく微笑むと、そっと囁いた。
「また会いましょう、ネロ」
次の瞬間、デスの姿は掻き消え、灯火が再び灯る。
まるで何もなかったかのように。
ネロは大きく息を吐き、枕に頭を沈めた。
「やっと……やっと寝られる……」
――その直後。
「ネロ様ぁぁぁぁ!!」
突然の声に飛び起きる。
ドアが勢いよく開き、霊体のアラネアが飛び込んできた。
「前にも言ったよな、入る前にノックしろって……」
彼は疲れた声で呟く。
「申し訳ありません! でも緊急事態なんです!」
「今度は何だ……?」
「エルフの少女が……逃げました!!」
「なっ――なにぃ!!?」
わずかに眠りかけていたネロは、ベッドの上で硬直したまま、絶句した。




