第34話:隣人
最初の取り決めは――
街で引き起こした騒動の「損害賠償」だった。
レインとの戦いで破壊された建物の修復費を支払うという内容だ。
支払い額は全体の二〇パーセントだけとはいえ、その金額を見た瞬間、ネロは思わず目を疑った。
請求書に記された数字を見たとたん、心臓が足元まで落ちた気がした。
――二千百七十万セリン。
「は、ははは……」
乾いた笑いが漏れる。脳がまだ現実を受け入れきれない。
今の手持ちはその一割にも満たない。いや、正確に言えば――「無一文」だ。
「ランクCに昇格したら、報酬のいい依頼でもあればいいんだが……」
空を仰ぎながら、ネロは深く息を吐いた。
「このままじゃ、“裕福な貴族”の仮面もすぐ剥がれ落ちそうだな……」
二つ目の取り決めは――
先の戦いの相手である青年、レイン・ベルモンドと「友好関係を結ぶこと」。
「友好関係、だと……? それ、処刑命令の間違いじゃないのか?」
ネロは苛立ちを隠さずにぼやく。
相手の強さは認めざるを得なかった。戦闘技術、速度、魔力の制御――どれも人間の域を超えている。
だが、それでも理解できなかった。あの“ただの人間”が一体何者なのかを。
現代のエルランガルに来て以来、彼の見知る世界は大きく変わっていた。
知性を得たゴブリン、人間とオークの長き戦争、かつて見たこともない新しい魔術理論。
最初は「退化した時代だ」と鼻で笑っていたが――レインとの戦いのあと、その考えは揺らいだ。
“この時代の人間は、もはや昔の人間ではないのかもしれない。”
特にランクSの冒険者たち。捕らえられた時に見た彼らの気配は、まさに「真の戦士」。
全身鎧の男などは、ただの気配だけで容易に侮れぬと悟れるほどだった。
「……あの男の力は、今の俺と互角かもしれないな」
だが最も気になるのは、レインの口にした一言。
『本気の一二パーセントしか出していない』
虚勢でないなら――全力の彼は、かつての自分の二分の一ほどの力を持っていることになる。
そして頭の奥に、デスの言葉が蘇る。
『勇者が、お前を追っている』
勇者……か。
もしレインがその一人なら、この力も納得がいく。
だが記憶の中の“勇者”たちは、神にも魔にも遠く及ばぬ存在だった。
虫のように死んでいった、哀れな者たち。
だが――時代は変わった。
彼が封印されてから、すでに二千五百年。
五百年前には「栄光の勇者団」と呼ばれる者たちが現れ、魔族を滅ぼしたという。
「人間……そこまで強くなったのか?」
ネロは低く笑い、遠くを見つめた。
最後の取り決めは――
ベレフ冒険者ギルドの規則に従うこと。
正直に言えば、これは大したことではない。
どの冒険者も守らねばならぬ基本的な規則ばかりだ。
「ギルド内での喧嘩禁止」「依頼の不正禁止」「賭博や迷惑行為の禁止」――といった具合に。
しかし、実際に加入してみると噂とは違って、驚くほど“緩い”組織だった。
大手ギルドで名声も莫大な利益もあるのに、中は混沌そのもの。
治安は緩く、会員審査も甘い。
実力や身分に関係なく、入会金さえ払えば誰でも受け入れる。
毎年千五百人以上が登録し、そのうち百人以上が死亡または行方不明になるという。
モンスターに食われ、骨さえ残らない者も多い。
残るのは――ギルドカードだけ。
それでも人が集まるのは、収入が破格だからだ。
ランクCでも年間五十万セリンを稼げる。
さらにギルドは銀行、素材取引所、ダンジョン鉱石や魔物素材の流通まで手掛けている。
一つひとつが莫大な利益を生む。
ネロがガーゴイルの皮を売ったときも、思わぬ高値がついた。
一度の取引で、一夜にして大富豪になれそうなほどに。
本来の目的は「大迷宮への侵入」と「魔族王国の再興」だったが、
この時代では資金と経済こそが力。まずは地盤を築かねばならない。
「……今の時代、力でも魔法でもなく、金がすべてを動かすのか」
そう思いながら、深くため息をつく。
「順応できなきゃ、滅びた魔族と同じ運命か……」
夕暮れの街を歩く。
オレンジ色の陽が石畳を照らし、建物の影が長く伸びる。
ギルドマスターから“頭の痛くなる契約書”を受け取ったネロは、力なく歩き続けていた。
人々の視線が集まる。囁き声、怯えた目。
「はあ……有名人ってのは楽じゃないな」
顔を手で覆いながらぼやく。
「それにしても――」
眉をひそめる。
「なんであいつ、まだ後ろをついてきてるんだ?」
振り返ると、レイン・ベルモンドがパンをかじりながら、のんびり歩いていた。
「おい、しらばっくれるな!」
ネロが指を突きつける。
「ストーカーか!? 尾けてるだろ!」
「違うよ。私は家に帰る途中なんだ。偶然、同じ道なだけさ」
「嘘つけ! どうせ私を殺すタイミングを狙ってるんだろう!」
レインはため息をつく。
「正直、殺したいのは本当だよ。
でもギルドマスターが『契約の刻印』を俺たちの首筋に刻んだだろ? あれのせいで手を出せないんだ」
「……安心感ゼロだな、それ」
ネロが肩をすくめる。
「つまり、頭の中ではまだ私を殺す算段を立ててるわけか?」
「当然だ。お前は俺の“第一容疑者”だからな」
「容疑者? 何を探ってる?」
「お前には関係ない。ただ、大人しくしてりゃ命までは取らない」
「ふうん、随分と優しいことで」
「実際、九割方確信してる。お前が“あの魔族”だってな」
「……心が軽くなったよ」
ネロは乾いた笑みを浮かべた。
やがて二人は街の分かれ道に辿り着く。
レインが足を止めたのは、木と石で造られた二階建ての家の前。
およそ百二十平方メートル――上流寄りの中流階級にふさわしい家だ。
ネロは周囲を見渡し、ぼそりと呟く。
「ん? なんか見覚えあるな……」
そして通りの向こうを見た瞬間、目を見開いた。
そこには、黒い鉄柵に囲まれた白亜の大邸宅。
敷地面積は軽く一千平方メートルを超える。
「……なるほどな」
そう、そこが“自分の家”だった。




