第27話:追われる少女 3
かつて緑豊かな絨毯のようだった北の深い森は、今や死の領域と化していた。鮮やかな緑は濃紅に染まり、血が冷たい大地にしみ込んでいた。目の前に広がるのは、カザス王国軍の兵士十数名の無残な遺体。魂を失った彼らの体は、まるで無意味に投げ捨てられた人形のように、凍てつくように横たわっていた。
しかし、その時―― 足音を響かせる馬の蹄の音が遠くから近づいてきて、騎兵の部隊が森を突き抜けて現れた。やがて目に見えたのは、漆黒の鎧で覆われた高身長の将。鉄壁のように威圧感を放つその男は、顔を隠す仮面の下に表情を映さない。だが、胸に刻まれた五芒星の紋章は、カザス第一騎兵隊の最高司令官「ワーダー」であることを印象づけていた。
馬の荒い鼻息が静まり、ワーダーは左手を高く掲げ、部隊に停止を命じた。兵たちは声もなく停止し、視線は森に散乱する死体へと集中した。
「展開せよ。森の外縁部も含め、全区域を徹底的に調査するのだ」
ワーダーの低く力ある声が響く。叫ぶ必要もなく、その指示だけで部隊に恐ろしい重圧が走った。
一瞬で状況を呑み込んだワーダーは、これは逃走したエルフの少女を追って送った兵士たちであると察した。しかし、彼らが直面したのは「無害な目標」ではなかった――。
肉片のように散乱した遺体、鋭利な刃物で引き裂かれたような無数の欠片。ある者は骨が折れグチャリと捻じ曲げられ、まるで虐殺的な力により一つひとつ破壊されたかのようだった。優れた金属でできた鎧すら、まるで紙のように踏み潰されていた。
さらに恐ろしいのは、いくつかの遺体は完全に痕跡すら残っていないことだった。
ワーダーは仮面の下で深く眉をひそめた。戦場を数えきれず踏破してきた彼にとっても、このような光景は生理的な嫌悪を誘うに十分だった。それは人の業ではない。
しかし、その絶望の中にも一柱の遺体は比較的「まとまりのある状態」で残っていた。女性兵士と思われるその死体は、首に明瞭な人差し指ほどの形を残すアザがあり、明らかに締め付けられた痕だった。他のように引き裂かれた傷はなく、静かな屍であった。
「人の手による……あるいはエルフの所業か」
ワーダーは静かにつぶやいた。
その時、後方から駆け足の音が寄せてきて、一人の兵士が慌てて報告にやってきた。
「ワーダー様! 生存者を一名発見しました!」
その報告に、ワーダーはすぐさま顔を上げ、捜索を停止させた。
「連れてこい」
兵士二名が、生き残っている一人の兵士を引きずるようにして連れてきた。彼もまたカザスの鎧を纏っているが、体は震え顔は青ざめ目は虚ろだ。
その声を待つ間もなく、生存者の兵士は叫んだ。
「悪魔だ!! 悪魔が…私たちを殺しに来たんだ!!」
耳をつんざく叫びに兵たちは一斉に振り向いた。彼は歯を食いしばり頭を抱え、目は何かを見たまま救われぬ幻覚に囚われているかのごとき表情だった。
「悪魔だ!! 俺たちを全員…殺しに来たんだ!!」
その反復は、兵たちの士気を深く刺し貫いた。厳しい顔つきをしていた兵たちの表情も徐々に動揺の色が浮かぶ。血と死臭に包まれた森の奥には、いつしか恐怖が静かに浸透していた。
ワーダーは生存者を見つめ、覚悟を決めるかのように口を開いた。
「完全に正気を失っている」
低く冷たいが、哀しみを含んだ声だった。
「このまま放置すれば、彼は永遠に苦しむ。――殺せ」
その言葉は一部の兵士を凍りつかせた。
「しかし、陛下…まだ救えるかもしれません――」
「俺の命令は絶対だ」
ワーダーは遮った。
「彼はもはやカザスの兵士ではない。ただ息をしている『死骸』だ。苦痛のない最期を与えるのも慈悲と言うなら、その役目を与えよう」
「は、はい…かしこまりました…」
若い兵士はためらいながらも答えた。だが誰一人として命令に抗う者はいなかった。
彼はゆっくりと前へ進んだ。腰の剣を抜く音が、乾いた音として響く。
生存者の背後に立ち、絶望に沈むその瞳を見てから、剣を高く掲げた。
一息――二息――
――それは空を裂くように振り下ろされた。一閃の刃が後頭部を正確に貫き、声一本さえ漏れぬまま、男の首は胴体から離れた。その目は恐怖と共に尚も開かれ、まるで抜け出せない夜の悪夢の中にいたかのようだった…
その後、誰も何も言わなかった。森に鳴るのは、ただ静寂だけだった。
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大邸宅の応接室では、色ガラスの窓から差し込む柔らかな陽光が薄いカーテンを通り、磨かれた木の床に静かに降り注いでいた。空間にはまだ紅茶のほのかな香りが漂っていたが、その穏やかな静寂は一瞬にして打ち破られた。
「パァンッ!!」
鋭い平手打ちの音が部屋中に響き渡り、廊下を漂っていた二体の霊的な召使いの魂までもが驚いて飛び跳ね、壁をすり抜けて中の様子を見に来た。
彼らの目に映ったのは、真っ白な長い髪を持つエルフの少女。険しい表情と怒りの光を宿す瞳を向けながら、ネロの前に立っていた。
一見すると、彼女は躊躇なく彼に平手打ちを食らわせたかのようだった。だが、よく目を凝らして見ると、彼女の手は彼の顔に届く寸前でピタリと止まっていた。ためらいからではなく、何かがそれを遮っていたのだ。
それは、肉眼ではほとんど見えない、透明な魔法のバリア。彼女の手がそれに触れた瞬間、パチンと音を立てて現れた。その「パァンッ」という音は、ネロの顔ではなく、その防護魔法に彼女の手が叩きつけられた音だった。
「……魔法の防御?」
目を見開き、少女は驚きに唇を震わせながらつぶやいた。そして、まるで禁忌に触れてしまったかのように慌てて手を引いた。
「あなた、本当に……魔法が使えるの?」
半信半疑の声でそう問いかける彼女に、ネロは小さくため息をつき、少し疲れたような口調で応えた。
「だから言っただろ。僕は魔導師だって。もう少し落ち着いて、最初からちゃんと話を聞いてくれてたら……こんな面倒なことにはならなかったのに。それに、君に嘘をつく理由なんて、僕にはないよ」
その言葉は、冷水を浴びせかけられたかのように少女の感情を静めた。彼女は少し戸惑いながらも手を下ろし、静かに対面の椅子へと腰を下ろした。口を開かずとも、先ほどまでの敵意はすでに消えかかっていた。
そして数秒の沈黙の後、彼女は不機嫌そうな声で言った。
「……それでも、あなたを信用したわけじゃないから」
その返答にネロは眉をわずかに上げ、肩をすくめながら苦笑した。
「随分と頑固な子だな。命を助けてやったばかりってのに、感謝の言葉すらないなんてさ……正直、ちょっとムカつくね」
そう言いながら肘をついて彼女を見つめるネロ。少女は腕を組み、そっぽを向いたままだったが、目線はわずかに下がり、どこか後ろめたさを感じているようにも見えた。ただ、唇はしっかりと結ばれたままだ。
「だって、あなたが何者かもわからないし……信用できるかどうかもわからない。どう接していいのかも……正直、わからないのよ。……そう理解してくれるなら、それでいい」
最後の言葉は、か細くなっていた。
ネロはその様子にうなずいた。
「わかった。君がまだ話したくないのなら、それでいいよ。ここには自由にいていい。……自分の進む道を決めるまで、好きにすればいい」
少女はすぐに顔を上げ、ネロの目をまっすぐに見た。
「逃げるかもしれないって思わないの?」
ネロは少し笑みを浮かべ、答えた。
「それは君次第だ。僕に強制する権利なんてない。ただ、選択肢を示しただけさ」
会話はそこで終わり、部屋には再び静寂が戻った。
少女はその場に座ったまま、思索に沈んだ様子で手を膝に重ね、視線を落とした。まるで何かから目を背けているかのように――
部屋の中は次第に静寂に包まれ、まるでためらいの時間の中で全てが止まってしまったかのようだった――。
「そ、そう、あの……ご、ごめんなさい――」
少女の声は震え、心に押し込めた何かを必死に抑えているようだった。少し光を帯びた赤い瞳は伏せられ、視線を逸らす。しかしその時――。
ゴーン――ゴーン――ゴーン――
応接室の片隅の壁に掛けられた大きな時計の鐘の音が響き渡り、その空気を完全に遮断した。時計の針は12時ちょうどを指していた。
ネロは顔を上げ時計を見つめ、軽く頷いた。まるで何かを思い出したように。
「ちょうどいいな」
彼は気楽な口調でそう言った。
「ちょっと外に用事を済ませに行かないと」
そして部屋の隅に目をやり、盗み聞きをしていた青い魂の灯火ふたつをじっと見つめた。
「ミューラ、ローゼ……お客様のために昼食の準備を頼む」
「かしこまりました!」
二人の霊の少女は声を合わせて返事をし、軽く一礼すると、何も言わずに壁をすり抜けてすばやく部屋を出ていった。
「君は……」
ネロは再び白銀のエルフ少女に向き直り、
「僕がいない間は、屋敷の中を自由に見て回っていい。何か疑問があったら、召使いたちに聞いてみるといいよ。みんな優しいから」
そう告げてから、彼は元の椅子から立ち上がり、ドアノブを回してゆっくりとドアを開けた。扉の隙間から廊下の光が差し込む。
「急に出てしまって悪いけど、帰ったらまた話そう」
少女はわずかに目を見開き、呼び止めようと手を伸ばしたが――。
「ちょっと待って! まだ君の名前聞いてないよ!」
焦った声でそう叫んだが、彼から返ってきたのは淡い微笑みと、廊下の方へとゆっくり遠ざかる足音だけだった。まるで質問を謎のまま置き去りにするつもりかのように。
扉は静かに閉まり、軋みの音を響かせて少女を一人残した。
しばらく立ち尽くした後、少女は扉の前に歩み寄り、揺れる瞳でじっと見つめた。心臓は先ほどの出来事に怯えるように激しく打っていた。左手をそっと胸にあて、閉ざされた扉を見つめ続ける。
「私……きっと、悪いことをしてしまったんだ……」
彼女は小さな声で呟き、まるで自分自身に罪を告白するかのようだった。混乱した心の中に罪悪感が静かに芽生えた。どれだけ彼を信じていいのかわからない――だが、ひとつだけ確かなのは……彼は悪い人ではない、ということだった。
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「はあ……何も得られなかったな」
ネロは応接室を出るとすぐに、深いため息をついた。彼の瞳は元の無感情な色に戻り、さっきまでの親しげな笑顔は消え、冷たく無表情な顔つきに変わっていた。まるでさっきの“優しい少年”の役は一幕の演技に過ぎなかったかのように。
その冷静な態度の裏では、ネロの心は乱れていた。白銀の少女が彼の頬を強く打った瞬間のことを思い返す。彼女の手が自分の顔に迫った一瞬、脳裏をかすめたのは――殺意だった。
以前なら――この世界から人間の“感情”を得る前なら――迷わず魔法を放ち、瞬く間に彼女を灰燼に帰していただろう。だが今回は、自分を抑えることができたのだ。
「危なかった……」
そう小さく呟いた。
ためらい、苛立ち、そして……恥ずかしさ?
今までの自分にはなかった不思議な感情が、はっきりと芽生え始めていた。特に、彼女の体格について不用意に口にしてしまったときのことは、余計にそう感じた。
「俺は本当に、人間の感情に飲み込まれているのか……?」
軽く首を振りながら、ネロは思った。これまではこれらの感情を大きな問題だとは考えておらず、むしろ人混みに馴染むための助けになると思っていた。しかし、それが明らかに自分の判断に影響を及ぼすようになると、それは“やりすぎ”かもしれない。
では、あの少女とこれからどう向き合えばいいのだろうか?
彼女はホワイトエルフ――正式には“ハイエルフ”と呼ばれ、エルフの中でも最強と言われる希少種だ。雪のように白い髪と、威厳ある高い魔力を持ち、現代ではほとんど見かけることのない“宝”のような存在だ。
もし奴隷市場に連れていけば、その価値は想像を超えるものになるだろう。市場は間違いなく騒然となる……だが――
「……それって俺が、嫌悪していた金に目がくらんだ人間みたいになるってことか」
呟くように言って、すぐにそんな考えを振り払うように首を振った。
「だめだ、そんなのは俺らしくない」
彼は決心した。彼女のことを、もっと詳しく知るまでは何もしないと。少なくとも、彼女自身の言葉を聞いてからだ。もし本当に利用できる力があるなら、それは彼の目的を早く達成するための鍵になるかもしれない。
その間に……まずは信頼関係を築かなければな。とりあえず“優しい主人公”の役を演じておくか。
「アラニア!」
何かを思い出し、ネロは足を止めて声に出した。廊下は静まり返り、足音が響いているだけだったが、数秒後に冷たく無感情な声が背後から返ってきた。
「何かご用でしょうか、ネロ様?」
無音のまま現れた青白い霊の姿。彼女は静かに後ろに浮かび、光る目で無表情にこちらを見つめていた。
「三人を呼んで、中央のホールに来るよう伝えてくれ。重要な話があると」
「かしこまりました」
迷いも抗議もない返事を受けて、アラニアの霊体は風のように消えた。微かな揺れも音も残さず。
彼はその去っていく姿をわずかな狡猾さを帯びた目で見送り、満足げに口元をあげた。
ネロが大邸宅の中央ホールに足を踏み入れてからあまり時間が経たないうちに、高い天井に響く彼の足音が反響した。その視線の先には、きちんと列を成して立つ三つの姿があった。エミレスト、ジェスタ、そしてノヴァ。三人は、ネロが先ほど着替えさせたばかりの新しい衣装を身にまとっていた。その服には、シンプルさの中にどこか儀式めいた雰囲気が混じっていた。
女性陣のメイド服は、真っ黒なドレスの上に清潔感のある白いエプロンを重ねたものだった。男性陣は黒いタイトなコートを白いシャツと長ズボンの上に着て、きちんとネクタイを締めている。どこから見ても、かつて自分の別世界で見たマフィアの制服に似ていると言わざるを得ない。意図したわけではないが、この三人のイメージには妙に合っているのだった。
これらの衣装は、建物の奥に隠された倉庫から選び出したものだった。そこには、かつての使用人たちのための大きなクローゼットがあり、子ども用から大人用まで様々な服が揃っていた。ジェスタとノヴァにはサイズがぴったりで問題はなかったが、エミレストだけは……
「……ちょっときついわね」
初めて試着した際、彼女はそう呟いた。普段冷静な顔を崩さない彼女の頬が、胸元を大きく開けて仕立てられたメイド服の中でほんのり赤く染まっていた。胸が標準サイズよりも豊かすぎたため、ジェスタに型を直してもらったのだ。さらに、彼女は腕で胸の下を必死に隠そうとしていたが、ほとんど隠せていなかった。
にもかかわらず、彼女の恥ずかしそうな様子は、知らず知らずのうちにネロの目には可愛らしく映った。彼女が視線を逸らしていても。
「ネロ様……私、どう見えますか?」
エミレストは囁くようなか細い声で尋ねた。声は少し震えていたが、目には期待が隠されていなかった。
ネロが答えようとしたそのとき、ふいに透明感のある声が割り込んだ。
「私も見てよ~!」
ノヴァは明るい声で言い、小さく回転してスカートの裾を風になびかせた。薄い青い髪が動きに合わせて揺れ、同じ色の瞳がキラキラと輝いて見つめ返してきた。
「うん……」
ネロはゆっくりとうなずきながら、三人を審査するように、そして満足そうに見つめた。
「すごく似合ってるよ。三人とも……私が作った新しい体にすっかり馴染んでいるみたいだね」
「はい」
ジェスタは答えながら手を上げ、関節や指の動きを示した。
「まだ生前の完璧さには及びませんが、日常生活を送るには全く問題ありません。ネロ様には本当に感謝しています。まるで二度目の命を得たようなものです」
ネロは満足げにうなずき、落ち着いた声で誇りをにじませながら言った。
「理論上……今の彼女たちは、人間と同じ構造を持つ新しい生命体だ。たとえ従来の意味での‘生命’とは異なっても、睡眠をとり、夢を見て、味を感じ、排泄をし……妊娠して子を産むことすら可能だ」
その言葉に、エミレストはさらに頬を赤らめた。今度は単なる照れを超えているようだった。
「それよりも重要なのは、彼女たちは病気にかかり、老い、そして死ぬこともある」
「魔法でそこまでできるんですね……本当に驚きです」
ジェスタは感嘆混じりに小声でつぶやいた。
「古代魔法を侮るなよ」
ネロは淡い笑みを浮かべながら答えた。
「もし私があと十一の力を取り戻せれば……無から人間の体を創造するのは、ただの小事に過ぎなくなるだろう」
その口調は自慢ではなく、不思議なほど確信に満ちていた。目の前の三人もその真実を感じ取り、誰も口を挟まなかった。
ネロはしばらく沈黙した後、再び彼らを見渡した。
「ところで……その話は後回しにしよう。今はもっと重要な話をしよう。」
そう言うと、彼は軽く手を挙げる合図をした。三人はまるでこの儀式に慣れているかのように、すぐにそれぞれの位置に戻った。ネロは真剣な表情で、自分の考えを説明し始めた。
「知っての通り、俺がこの街に来たのは遊びや休暇のためじゃない。目的は大迷宮への道を見つけることだ。」
彼の声は淡々としているが、どこか力強さを帯びており、三人は静かに耳を傾けた。
「それを成し遂げるため、俺は貴族を装っている。身分も名誉も持ち、もちろん使用人も揃えてだ。そしてお前たちを人間に戻した理由は、この芝居をよりリアルにするためだ。」
ネロの視線が三人を順に追う。まるで初演前の最後のチェックをする役者のようだった。
「だから、貴族の使用人らしく振る舞え。屋敷でボーッと座ったり寝たりするだけじゃダメだ。家事や庭仕事、街での買い物、人との交流、村人たちへの挨拶……人間なら当然やることは全部やれ、わかったか?」
一瞬の静寂の後、ジェスタがためらいがちに口を開く。
「えっと……ネロ様、屋敷の管理はなんとかできそうです。前の主人の時と似てますから。ただ、人と会うのは……正直、あまり自信がなくて。」
ネロは目を細めて彼を見つめた。
「どうしてだ、ジェスタ?」
「なんというか……俺たちは霊になって100年以上経ってます。人間扱いされず、怖れられ、嫌悪されてきました。もう一度人間として暮らせと言われても、正直怖くて……。」
彼は俯き、まるで悪いことを告白する生徒のような仕草をした。
ネロは喉の奥で軽く笑った。
「そんなことか。気にすんなよ。街の人に貴族の使用人だと知らしめればいいだけで、全員と親友になる必要はない。」
「そうですか……」
ジェスタは小さく頷き、不安そうながら少し安心した表情を見せた。
「よし、そんなところだ。俺は用事があるから行く。ここは任せる。俺が許可するまでは、関係のない奴を入れるな。」
そう言い残し、ネロは三人の間を通り抜けて屋敷の出口へ向かった。彼の足音は静かだが力強く、嵐の前の太鼓のように響いた。
しかし、ドアノブに手をかけたその瞬間、彼は立ち止まり、ゆっくり振り返った。窓から差し込む柔らかな日差しに赤い瞳が光る。
「エミレスト!」
短く名を呼ぶ声は、はっきりとしていた。
「は、はいっ!」
エミレストは驚いて身を震わせ、慌てて高めの声で返事をした。
ネロは彼女を冷静に見つめ、しかし真剣な口調で話し始めた。
「忘れてたが、最近助けたホワイトエルフの少女がいる。彼女は常に周囲を警戒し、あまり人を信用しない。同じエルフの血を引く者として、彼女に話しかけてみてほしい。もしかしたら、心を開く手助けになるかもしれない。」
エミレストは一瞬躊躇したが、強く頷いた。緊張しつつも、自分の命を与えてくれた者の願いを拒めなかった。
「ご命令なら、拒めません。できる限り彼女を説得してみます。」
「ありがとう。」
ネロの最後の言葉には、ほんの少し温かさが含まれていて、エミレストの胸は知らず知らず高鳴った。
その後、彼は静かにドアを開け、柔らかな風が屋敷のホールに流れ込んだ。
ノヴァとジェスタは揃って頭を下げ、声を合わせた。
「どうかお気をつけてお出かけくださいませ。」
彼らはこの言葉が必要ないと知りつつも、二度目の人生を授かった者として、命を与えてくれた者への敬意を示したかったのだ。
一方、エミレストはゆっくりとネロの背中を見つめた。彼が扉の向こうに消えていくのを見送りながら、胸に見慣れない感情が芽生え始めていた。
それは、百年ぶりに人間の目で彼を見る瞬間だった。
そして初めて、理由もなく心臓が激しく鼓動した瞬間でもあった。




