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第26話:追われる少女 2


小さな足がゆっくりとベッドから降りる。すべての動作が慎重で、少女の細い体は静かに伸び上がった。彼女の目は慣れない部屋の中を注意深く見回していた。整然と整えられているようで、どこか不気味な雰囲気が漂う空間。そこは、彼女にとってまったく見覚えのない場所だった。


静まり返った部屋で目を覚ましたことが、少女の心に不安をもたらしていた。


彼女は身を乗り出して窓の外を覗いた。視線の先に広がるのは、広々とした芝生。見張りの兵士も、ここがどこかを示すものも一切なかった。その冷たく人気のない雰囲気に、彼女はこの場所が思ったほど安全ではないのかもしれないと感じ始めた。


しばらく立ち尽くした後、少女は自分の着ている服に目を向けた。それは膝まで届く、薄手の白いドレス。しかし、かつて身につけていた服のように完全なものではなく、下着もショーツもなかった。少女の目は右脚の傷跡、そしてかつて傷があった他の部分に向けられたが、それらはすべて跡形もなく消えていた。そのことが、あの人たちが自分に何をしようとしているのかという疑念を呼び起こした。


彼女は状況を整理しようと考えながら、部屋の前にある茶色の扉へと足を運ぶ。両手でドアノブを慎重に回し、ゆっくりと扉を開けると、目の前には長い廊下が続いていた。周囲の静けさは不気味なほどで、まったく落ち着かない。昼間であるにもかかわらず、その場所は不自然なまでに静まり返っていた。


少女は廊下を一歩一歩進みながら、各部屋の扉を開けて中を確かめていった。しかし、どこにも人の気配はなく、生活の痕跡も見当たらない。ただ整然とした静寂が広がっており、まるで彼女に「何も異常はない」と思わせるために、意図的に整えられているかのようだった。


やがて、彼女は大広間へと続く分かれ道にたどり着いた。


そこには、鉄製の騎士の鎧が一体、展示されていた。窓からの光がその豪華な鎧を照らしていたが、少女はなぜか妙な違和感を覚えた。誰かに見られているような感覚が背筋を這い、思わず足を止めて鎧に目を向けた。


すると突然、その鎧から不気味な音が聞こえてきた。少女はぴたりと歩みを止め、疑いの眼差しでその鎧を見つめた。しかし、いくら注意深く観察しても、特に異常な点は見つからなかった。何かが動いたような気がしたが、それも彼女の思い違いか幻聴なのかもしれない、と自分に言い聞かせた。


「……気のせい、かな……」


少女は小さくつぶやいた。再び歩き出そうとしたその瞬間――


さっきよりもはっきりと、そして大きな異音が鳴り響いた。


カタ…カタ…カタ…


少女の心臓はどんどん高鳴っていく。静まり返った大広間では、自分の呼吸音さえも聞こえてくるほどだった。そんな中、彼女の視線は再び鎧へと向かう。胸の奥には恐怖がじわじわと広がっていた。


その瞬間、鎧の身体が動き出した! 兜の部分がゆっくりと彼女の方に向けて回転していくのを見て、少女は息を呑んだ。恐怖に支配され、身体はその場に凍りついたように動けなくなってしまった。


「きゃああああああああああ!!」


少女は悲鳴を上げ、反射的に背を向けて全力で走り出す。その叫び声は廊下中に響き渡った。鉄の鎧も、ただの装飾ではなかった。異常な速さで彼女の後を追いかけてくる。それはまさに「追われている」としか言いようのない状況だった。


未知の場所、見知らぬ構造の建物。少女は方向も分からず、無我夢中で走り続け、ついには行き止まりにぶつかってしまう。隠れる場所もない。ついに、彼女は追いついてきた鎧と対峙することになる。


「こ…来ないで、やめてぇ!」


「誰かっ! 誰か助けてっ!」


「いやあああああああっ!!」


叫び声は、まるで心の底から絞り出されたように、恐怖に満ちていた。


その時だった。鎧の背後から、少年の低い声が響いた。


「おい、カミエル。何やってんだよ。」


「へっ…へへっ! ネロ様!!」


カミエルの慌てた声が続き、次の瞬間、鎧が転倒してバラバラに崩れ落ちる。そこから現れたのは、燃える炎のような姿をした精霊の姿だった。それを目にした少女は、驚きと混乱で動きを止めた。


「えっ?」


恐怖で叫んでいた彼女の声はぴたりと止まり、目を見開く。そこにあったのは、怪物でも幽霊でもなかった。鎧の中にいたのは、腕だけが浮かぶ炎のような姿の精霊だったのだ。


「この子は俺の客だ。もし何かあったら、絶対に許さねぇぞ。分かってんだろうな?」


ネロは冷たい声で言い放ち、目の前の炎の精霊を睨みつける。


カミエルは肩をすくめ、いたずらっぽい声で返した。


「だってぇ~、見張りなんて退屈じゃないですか。ちょっとした暇つぶしですよ~」


「ほう、暇つぶし…か?」


ネロは静かに、しかし鋭く言い返し、眉をひそめる。


「だったら魂封印の壺の中で、たっぷり暇つぶししてみるか? ん?」


その言葉を聞いたカミエルはビクッと肩を震わせた。


「い…いやいや! もうやりません! 約束しますってば!」


ネロは霊魂封じの壺を次元ポケットから取り出そうとするような仕草を見せたが、カミエルの様子を見て手を止めた。そして少しからかうような口調で言った。


「はぁ……。見張りが嫌なら、なんでお前の進化を急がせる魔法を使ったんだか。魔法の練習を早く進めたいなら、図書室に置いてある魔法の学習とルーン文字の読み方に関する本をちゃんと読めよ。」


カミエルは大きくうなずいた。


「了解ですっ!」


その返事を聞いて、ネロはため息をつき、傍に立っている少女の方へ目を向けた。


「この屋敷の中で、俺とこの子を除けば、お前が一番マナの多い使用人なんだ。だったらもう少し役に立てるようになれよ。」


少女は慌てて飛び去っていく炎の精霊を見つめ、その場に残された静寂の中でネロに問いかけた。疑念に満ちた声で。


「い、今のは……何? 幽霊? 幽霊なの?」


「んー……あれは“炎の精霊”ってやつで、名前はカミエル。俺の使い魔だよ。」


ネロは淡々と答えた。その口調は少女に少しだけ安心感を与えた――ほんの少しだけ。


少女はまだ心に引っかかるものがあった。


「そういえば……あなたって、あのときの森にいた子供……。あなた、カザス王国の人なの? 私に何をするつもりなの?」


少女の言葉にはまだ警戒心が残っており、ネロは彼女の目を真剣に見つめ返す。


「落ち着けって。まず第一に、俺はカザス王国の人間じゃない。そして第二に、さっき俺は君の命を救ったばかりだ。」


「……あなたを信じていいの?」


少女は不安げに問いかけた。


「それについては、応接間でゆっくり話そう。ついてきて。」


そう言ってネロは屋敷の奥へと歩き出した。


会話は一瞬静まり返った。ネロは少女を連れて、ゆっくりと屋敷の中を案内していた。どの部屋も豪華さに満ちており、寝室、浴室、台所、さらには物置部屋に至るまで、どこも手入れが行き届いていた。部屋のあちこちで、アルベルトやクリスといった名前の霊たちが、せっせと掃除をしている。彼らはネロと少女に気づくと、少し不思議そうに視線を向けたが、敵意がないと分かると、それ以上は何もしてこなかった。ただ、静かに見守るだけだった。


幽霊や精霊といった存在が元々苦手な少女は、彼らと目を合わせないようにと努め、足音をできるだけ立てずに静かに歩こうとしていた。自分の感情が表に出ないよう、必死に気を張っていた。


しかし、歩を進めるごとに、彼女は次第に空気の異変に気づいていく。まるで、一度足を踏み入れたら二度と戻れない世界に来てしまったかのような感覚だった。ネロの落ち着いた口調や確信に満ちた言葉があったにもかかわらず、彼女の中に積もり積もった恐怖は、簡単には消えてくれなかった。


「まさか、幽霊を見るのが初めてってわけじゃないよな? そんなに怖がらなくてもいいのに」


「ご、ごめんね……。あんまり慣れてなくて……」少女はおずおずと答え、どこか怯えたような声だった。


「気にするなよ。あいつらは悪い霊なんかじゃない。――まあ、カミエルだけはちょっと別だがな」


「う、うん……」


少女は小さくうなずき、ネロの後を必死に追って歩いた。目の前の少年は、見た目からしてもせいぜい十四歳くらいで、自分より少し年下か同じくらいだろうと感じた。けれど、どこか年齢を超えた落ち着きがあり、不思議と大人びて見えた。


二人はやがて、玄関近くの応接室に辿り着いた。ネロは少女を部屋の中央にある円卓へ案内した。頑丈な木で作られたそのテーブルは、落ち着いた色の絨毯の上に置かれていた。二人が向かい合って座ると、ネロは手を一度だけ打ち鳴らした。その合図に応じて、台所と繋がった扉が開き、霊が二人、交互に飲み物の乗ったトレイとワゴンを押して現れた。彼らは静かに、慎重に、ティーカップと砂糖壺をテーブルに並べていく。


「こいつらは、生きていたころにメイドや執事をしてた連中だ。その経験が、死んでもしっかり残ってるんだよ」


ネロはそう言って、作業をしている霊たちを顎で示した。


「ま、カミエルは除くけどな」


霊たちが任務を終えて部屋を出ると、ネロは少女の方を向いて口を開いた。


「さて、本題に入ろうか。何か聞きたいことがあるんだろ?」


扉が「バタン」と音を立てて閉まるのと同時に、ネロはすぐに切り出した。


「――ここはどこ?」


「もっと基本的なことから聞いてくれよ。外の景色を少しは見たろ?」


ネロは薄く笑い、続けた。


「ここはリビア王国の首都だ。そして、今君が座っている場所は、俺の屋敷さ」


「リビア王国……そんな遠くまで来たってことなの……?」


少女は小さくつぶやき、今の状況を理解しようと努めていた。


「それで……どうしてエルフのお前が追われてるんだ?」ネロが尋ねた。


少女は少し俯き、答えを選んでいるようだった。そして、どこか困惑したような声で言葉を発した――。


「その……ちょっと複雑で……どう説明すればいいのか分からなくて……」


彼女はか細い声でそう言いながら、不安げに手をもぞもぞと動かした。


ネロは心配そうに彼女を見つめ、そっと手を差し出して慰めるような仕草をした。


「焦らなくていいよ……無理に答えなくても大丈夫。話す準備ができた時に教えてくれればいいから」


「ま、待って……君が私を助けたって言ってたけど、あの兵士たちはどうなったの? 君に会った時、すぐ後ろにまで追いついてたはずなのに……どうやって逃げ切ったの?」


彼女の問いかけにネロは少し黙り込んだ。しばらく考え込んだあと、彼は薄く微笑んだ。


「心配しなくていいよ。奴らには手を打っておいた。もう君を追ってくることはない」


「君みたいな子どもが、何十人もいた兵士を一人で倒したっていうの?」


「自慢みたいに聞こえるかもしれないけど……僕はただの子どもじゃないんだ。僕は魔術師だから」


「魔術師……って、魔法が使えるの?」


「君の傷、もう治ってるだろ? それが僕の魔法だよ」


ネロはそう言いながら、手元のティーカップを持ち上げ、そっと香りを嗅いでから静かに一口すすった。その視線は向かいに座る彼女へと向けられていた。


だが、彼女は自分の前に置かれたカップには一切手をつけていなかった。


「そのまま冷めちゃうと、もったいないよ」


「私はまだ君のことを信用してない。もしかしたら毒でも入れてるかもしれないし」


彼女はぴしゃりと言い放ち、視線を彼から逸らすことなく鋭く見つめ続けた。


「ははっ……思ったよりも警戒心が強いんだな。もし毒を盛るつもりだったら、君がまだベッドで眠ってる時にやってたさ……」


ネロがそう言って再びティーカップに視線を戻そうとした、その時だった。


彼女は突然テーブルを叩き、大きな音を立てて立ち上がった。そして腕を組みながら、怒りをあらわにした様子でネロを見下ろした。


ネロは顔を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。その目には明らかな不信と緊張が宿っており、彼もまたその空気の変化を感じ取った。


「……何だよ?」


ネロは眉をひそめ、彼女の様子からただならぬものを感じながら尋ねた。


「どうしてそんなこと言うのよ!」


彼女は強い口調で言い放ち、その場に立ち尽くしたままネロを鋭く睨みつけた。


「まさか… 私が気を失ってる間に、何か変なことしてないでしょうね?」


少女のその一言に、ネロはピタリと動きを止めた。彼の顔には一瞬、不安げな表情が浮かび、喉を鳴らして唾を飲み込む音が聞こえた。そして、困惑した様子で答えた。


「は? なんでそう思うんだ?」


その返事に、少女の視線はさらに鋭くなり、不信感を隠そうともしなかった。彼女の表情と態度は明らかに不満そのもので、部屋の空気が一気に重くなるのをネロも感じ取った。


「まず、何もしなかったってはっきり答えなさい!それから、私の服はどこにいったの?」


彼女の声が一段と鋭くなる。ネロは慌てて思考を巡らせ、なんとか納得のいく説明をしようと必死だった。彼女の怒りと疑念は明白で、そのプレッシャーに彼の額にはうっすらと汗が浮かぶ。


「あ、あー……その、君の服が泥だらけになってたからさ。だから、他の連中に新しい服を探させて、代わりに着せただけだよ」


ネロの説明はどこかぎこちなく、言葉に詰まりながらもなんとか冷静さを保とうとしていた。


「それで、その後は?」


「そ、その後は……君を部屋に運んで、魔法で怪我を治したんだ」


ネロの声は少し小さくなりながらも、彼の視線は少女をしっかりと捉えていた。彼女はまだ信じきれずにネロを凝視し、疑いの色を隠すことなく睨みつける。


「……本当にそれだけ?」


彼女の声はさらに緊張を帯び、顔をネロに近づけた。彼女の吐息が頬にかかるほどの距離。その仕草一つ一つが、まるで正解を強要するかのようだった。


「ま、まあ落ち着いてよ。もし俺が本気で何かしようと思ってたら、もうとっくにやってるさ。っていうか、こんな小学生みたいな体に欲情するわけないでしょ? ちっちゃいし、細いし……せめてエミレストみたいな体ならまだしも……」


ネロの不用意な発言が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。少女は何も言わずに沈黙し、その静寂がネロを不安にさせる。彼は言い過ぎたことに気づき、慌てて弁解を続けようとする。


「ほら、話を戻そう――」


だが、その言葉を言い終わる前に、少女の雰囲気が一変した。彼女は静かに立ち止まり、冷たい声で言った。


「……今、なんて言った?」


その言葉を聞いた瞬間、ネロは異様な気配を感じ取った。どこかで感じたことのある、しかし理解できない力が、彼女の身体からあふれ出していた。彼女は目を細め、左手を高く掲げる。その仕草は明らかに威圧的だった。


「い、いや、さっきのは冗談だってば……!」


「変態!!」


少女の叫びは雷鳴のようにネロの心を直撃し、そして振り上げられた左手が、彼の右頬に向かって勢いよく振り下ろされた。ネロの目が見開かれる。何も起きないと思っていた彼の予想を裏切り、平手打ちの衝撃音が部屋中に鳴り響いた――


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