第25話:追われる少女 1
ネロはトロルの耳が詰まった布袋を手に、洞窟から静かに姿を現した。それはギルドへ任務達成の証として提出するためのものであった。自ら手を下したわけではなかったが、それでも時間を大きく節約できたのは確かだった。
彼は魔眼を使い、周囲の魔力の痕跡を探し始めた。もしあのドラゴンが実在するのなら、何かしらの痕跡が残っているはずだった。しかし、足跡はおろか、動いた形跡すら一切なかった。
トロルたちの死体はついさっき殺されたばかりで、血の匂いもまだ生々しかった。洞窟内に隠し扉や別の脱出口は存在せず、唯一の出入口はこの正面の入り口だけだった。
もし本当にあれが〈黒のドラゴン〉の仕業だったとしたら――その身体はどれほど小さくなければならないのか? トロルの洞窟に入るには、少なくとも高さ4〜6メートルの空間をくぐり抜けなければならないのだ。
いくつもの考えが彼の頭をよぎった。ひとつは、そのドラゴンがまだ成体ではない可能性。そしてもう一つは――すべてが偽装であり、〈黒のドラゴン〉の仕業に見せかけているのではないかということ。
だが、もしそれが偽装だとするなら、あの洞窟の中で見つけたドラゴンの鱗は一体何なのだ? どう説明すればよい?
彼はその鱗が本物であると確信していた。そこから感じ取れる濃密な闇の魔力は、偽物には出せないものだった。まるで、それを残した者が「これは黒のドラゴンの仕業だ」と信じ込ませようとしているかのように――。
だとすれば、次に浮かぶ疑問は「なぜそんなことをするのか?」だ。誰が、どんな意図でこんな計画を仕組んだのか?
そして何より、本物の〈黒のドラゴン〉であるならば、トロルだけで済むはずがない。首都を襲うような、大規模な災厄となるべき存在なのだ。もしかすると、彼はまだ何かを見落としているのかもしれない――魔眼を用いたにも関わらず。
ネロはしばらくその場に佇み、考えを巡らせ続けた。しかし、いくら考えても明確な結論には至らなかった。トロルたちの死の真相がどうであれ、今はそれよりも優先すべきことがある。彼の本来の目的は、冒険者としてのランクを上げることだった。
すべてを整理し終えると、ネロはその場を離れ、ギルドへの帰還を決意した。
彼が今いる北方の森は、豊かな自然に恵まれ、多くの動植物が生息している。そして普段は、トロルの存在を恐れ、他のモンスターたちはこの地に近づこうとしなかった。
だが――トロルたちが皆殺しにされた今、この地の状況は大きく変わるかもしれない。彼にも、それがどう変化していくのかは、まだわからなかった。
帰り道の途中、ネロは果実や野菜、薬草などを手に取りながら歩いていた。これらは料理や薬の材料として使う予定のものであり、すべては彼の〈空間袋〉に放り込まれていく。それは、時間の流れが一切影響しない特別な空間だ。
つまり、そこに何を入れようとも、袋の中では時間が完全に停止しており、前にも後にも進まない。例外は、内部に独自の時空を持つ特別な物品――例えば〈魂封じの鍋〉のようなものだけだった。
少し時間に余裕があり、退屈さを感じたネロは、途中にあった開けた場所でひと休みすることにした。そこは比較的広く、周囲を木々や草むらに囲まれた静かな場所だった。高い山から吹きおろす風が、一定のリズムで通り抜けていく。記憶が確かなら、その山道はカサス王国へと続いているはずだ。
このような静かで心地よい雰囲気の中にいると、ネロは不思議と心が満たされるような気分になった。彼は〈空間袋〉からバイオリンを取り出し、手に取った。
このバイオリンは、魔法によって修復されたもので、使用可能な状態にまで回復していた。そのうえで、元の外観は完璧に保たれている。ネロはこのデザインが気に入っていたため、見た目を変えずに修復するよう細心の注意を払っていたのだ。
バイオリンの状態を確認した後、彼は静かにチューニングを始めた。まずは最も低い音を出すG線から、次にD線、続いてA線、そして最後に最高音のE線。糸巻きを回すたびに、小さなクリック音が聞こえる。ネロの動きは真剣そのもので、集中力に満ちた姿は、まるで大舞台に立つ前のプロの演奏家のようだった。
すべての準備が整った時、少年は背筋を伸ばして立ち上がった。瞳には確かな自信が宿り、姿勢には気品が漂う。左手でバイオリンのネックを正確に握り、楽器の底を鎖骨にぴたりと当て、顎でしっかりと固定する。その所作は完璧で、幾度となく練習を積んだ者だけが持つ動きだった。
ネロの左手の指が、ゆっくりとフィンガーボードに添えられていく。四本の指はバイオリンのネックに自然なカーブを描き、親指は横にそっと添えて安定性を保っていた。一方、右手は弓を優しく持ち、指先は柄を軽く押さえ、いつでも旋律を紡ぎ出せるように構えていた。
彼はゆっくりと目を閉じ、周囲の空気を感じ取るように深く呼吸を吐き出した……
その瞬間、弓が弦を擦る音が静かに響き始める。
最初に鳴り響いたのは、E線の高音——まるで山中に響く澄んだ鐘の音のようだった。
やがて音色は自然と彼の愛奏曲の一つ、「キャロルの鐘」へと流れ込んでいった。
それは、孤独を感じた時に彼がよく奏でるお気に入りの曲だった。
音楽は広い草原を包み込み、吹き抜ける風と共に遠くへと舞い上がっていく。
その旋律は多彩な感情を織り交ぜながら聴く者の心を揺さぶった。
音の高低は巧みに操られ、ある部分は優しく慰めるようで、
またある部分では運命に問いかけるような力強さを持っていた。
それは、喪失と裏切り、破滅の後に立ち上がる意志、
過去から現在への移ろい、そして結末の見えない未来への歩みを語る音楽だった。
バイオリンの音が続く中、ネロは旋律に合わせてゆっくりと体を動かし始める。
緑に包まれた草原の上を軽やかにステップを踏み、
長年訓練を重ねたバレエダンサーのように、優雅に舞う。
服が風にたなびき、木漏れ日がその姿を照らしていた。
やがて、森の動物たちが一匹また一匹と静かに姿を現した。
ウサギ、野鳥、シカ、そして小さなキツネまでもが音に誘われるように集まってきた。
彼らは演奏に魅了された観客のように、ネロを取り囲む形で立ち止まっていた。
……そして、曲が終わったとき、辺りは再び静寂に包まれる。
動物たちは満ち足りたように、それぞれの住処へと静かに帰っていった。
その光景には、どこか温かさと静けさが漂っていた。
だが、ネロが踵を返そうとしたそのときだった。
耳に微かに届いたのは——
弱々しい足音だった。
彼が目を開けると、そこには一人の少女が立っていた。
彼女は今にも倒れそうなほど衰弱し、体中に傷と擦り傷があった。
服はボロボロで、顔色は死人のように蒼白だった。
二人が目を合わせたその瞬間——
彼女はその場に崩れ落ちた!
傷の痛みに耐えきれなかったのだ。
驚きと戸惑いの入り混じる中、ネロは慎重に少女に近づいた。
そして膝をつき、血と泥で汚れたその顔をじっと見つめた。
そのとき、彼の目に飛び込んできたのは——
普通の人間よりも長く、尖った耳だった。
「エルフ……か?」
彼は小さく呟いた。
「しかも白髪……普通のエルフじゃなさそうだな。」
ネロはそっと彼女の純白の髪に手を伸ばし、優しく触れた。
しかし、詳しく容態を確認する前に——
後方から、重い足音が鳴り響いた。
ドン……ドン……ドン……!
多数の足音が近づいてくる。
地面がわずかに揺れ、ネロは反射的に顔を上げ、音のする方へと視線を向けた。
黒ずくめの鎧をまとった屈強な男たちが、背後の森から姿を現した。まるで闇の軍勢の兵士たちのように、それぞれが剣や槍、弓といった武器を手にし、今まさに標的を狙いすましているところだった。
「その子に触れるな。痛い目を見たくなければな」
その中の一人、どうやら隊長格らしき男が尊大な声で叫び、黒い鞘から剣を抜いた。それは刃に何らかの魔法が施されたような、妖しく光る長剣だった。
「貴様と話すことなどない。消えろ……手遅れになる前にな」
氷のように冷たく、心のこもっていない声だった。
だが、ネロは怯むこともなく、むしろうんざりしたように深く溜め息をついた。
「はあ……毎日毎日、厄介ごとばっかりだな……」
そう呟きながら、彼は立ち上がり、バイオリンを次元の鞄へと丁寧に仕舞った。
「……まあ、ちょうど退屈してたところだしな」
兵士たちの方へ向き直り、肩を軽く回してから、挑発するように手招きする。
「その女の子、よっぽど大事なんだな。たった一人のために、これだけの人数で押しかけてくるとは」
「小僧が……!」
先ほどの隊長が怒鳴り返した。目には怒気が宿っていた。
「命だけは助けてやろうと思ったが……口を閉じてもらうしかなさそうだな!」
だが、ネロは微動だにしなかった。静かな口調で、薄く笑いながら言った。
「力ずくで来るってんなら……試してみればいいさ」
そして、少し間を置いてから、今度は静かながらも力強い声で言い放った。
「男だろうと女だろうと、騎士だろうとアスラだろうと……俺に刃を向けるなら、その瞬間、もう死の世界に一歩足を踏み入れたってことになるんだぜ」
その最後の言葉が口からこぼれた瞬間、ネロの両目が赤く輝いた。魔眼――“魔の瞳”が再び発動され、周囲の風が一気に吹き荒れた。まるでその膨大な力に自然が反応しているかのようだった。
「黙れと言ってるだろうが!」
怒りの頂点に達した隊長が、全力で突進してくる。剣を頭上高く掲げ、ネロの身体を真っ二つにしようと振り下ろそうとする、その瞬間――
「忠告はしたからな……」
ネロは首を少し傾け、口元にわずかな笑みを浮かべた。
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燃え盛る業火と、生きながらにして焼かれていく人々の悲鳴——
その光景は今もなお、彼女の心に深く刻み込まれている。
血と灰が混じり合った焦げ臭い匂いが鼻腔に染みつき、
まるで一生消えることのない呪いのように、
忌まわしい記憶を決して手放してはくれなかった。
目の前には、炎に包まれて真紅に染まった馬車と、
彼女がよく知る近衛兵たちの無惨な遺体。
誰もが、最期の瞬間にその顔を苦悶と驚愕に歪めたまま、
永遠に時を止められていた。
だが——
彼女の心を完全に打ち砕いたのは、
その先に横たわる、たったひとつの姿だった。
母親の身体が血に染まった地面の上に崩れ落ちている。
その胸元は何度も何度も刺され、元の衣服すら判別できない。
呼吸はかすかで、唇は青白く、目の輝きもゆっくりと消えていく。
少女はその傍らに膝をつき、
母の手をぎゅっと握りしめた。
その指先の冷たさが、容赦なく彼女の肌へと染み込んでいく。
「…フ、フレイ…」
母の唇から、か細い声が漏れた。
「おまえを…愛してる… でも、自分の…意志を…見失っては…だめ…
あいつらに…望むものを…渡しては…いけない…
おまえは…魔王を…見つけなさい——」
!!
その言葉は、突然の激しい吐血によって中断された。
鮮血が母の口元から飛び散り、
未完の言葉が空へと消える。
「お母さん! お願い… しゃべらないで… 置いていかないで!」
少女は母の手を強く握り、そっと頬に当てた。
涙が土と煤に汚れた顔を伝い、静かに流れる。
彼女は目を閉じ、最後のぬくもりを記憶に刻み込もうとした。
何を失ってでも——
だがその悲しみの最中、
背後から重々しい足音が近づいてきた。
まるで鉄の鎧をまとった悪魔が、獲物を見つけたかのように。
「目標を確認した」
低くくぐもった声が、鉄仮面の奥から響いた。
漆黒の鎧に包まれた騎士が、フレイの前に立ちはだかる。
「…母親は瀕死だが、娘はまだ生きている。処置はどうする?」
彼は手袋の中に隠された魔法の通信リングを通じて、
誰かと話していた。
数秒の沈黙の後、彼は軽くうなずいた。
「了解した」
その瞬間、大きな手が彼女の腕をつかみ、
力強く母のもとから引き離した。
「いやああっ! 放して! 私、お母さんのそばにいるの!
お母さんっ! お願い… お母さんーーーっ!!」
彼女の悲痛な叫び声が、燃えゆく木々の爆ぜる音と混じり合う。
世界はゆっくりと静寂に沈み、
残るのは胸の鼓動の音だけだった。
小さな手が、母の姿を求めて宙をさまよう。
だが指先に触れるのは、ただ虚無だけ——
フレイの目が大きく見開かれ、涙が止めどなく流れる。
炎の光がすべてを飲み込んでいく中、
彼女の世界の、最後の希望までもが…焼き尽くされていった。
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「お母様っ!!」
闇の中に少女の叫び声が響き渡った。彼女は悪夢から激しく飛び起き、大きな淡紅色の瞳を見開いた。息を荒くし、まるで何かから逃げてきた直後のように胸を上下させる。
周囲を見渡すその目は怯えと警戒心に満ち、極限の緊張状態にあるのがわかる。身体はまだ、現実と見分けがつかないほどリアルだった夢の残響から抜け出せずにいた。
そしてようやく、彼女は気づいた。今、自分がいる場所――それは、豪奢な寝室の中だった。