第23話:再び生きる
やわらかな夜明けの光が、ガラス窓を通して差し込み、一人の若い女性の頬をやさしく照らしていた。
青い瞳がゆっくりと開かれる。まぶたがわずかに動き、やがて大きく見開かれた。光が虹彩に触れたその瞬間——死んだはずの命が、再び動き出した。
かすかに唇が動き、やがて大きく開かれる。長らく止まっていた呼吸が、再び音を立てて戻ってきた。彼女の腹部が呼吸に合わせて膨らみ、そしてまたしぼんでいく。
――呼吸している。
そうだ、彼女は今、確かに「生きている」のだ!
「これ……何……?」
まだ脳はぼんやりとしていて、思考がうまくまとまらない。けれど、体の隅々に駆け巡る感覚は、あまりにもはっきりとしていた。それは「生」の実感だった。
次第に目が光に慣れてくると、視界が少しずつ明瞭になっていった。目の前には、精巧な装飾が施された白い天井。黄金の模様が部屋の隅々を飾り、まるで王宮か由緒ある貴族の邸宅のようだった。いや、それ以上に豪奢で、彼女にはまるで縁のない世界だった。
彼女はそっと右手を持ち上げ、唇に触れた。
「え……? 私、どうして――」
それは、彼女自身の声。混乱と驚きに満ちた声。深く、そしてかつてないほど生気にあふれていた。
彼女は慌てて体を起こし、背を柔らかなベッドのヘッドボードにもたれかけた。両手は小さく震えながら、自分の体を確かめていく。肩、腕、胸、胴体、脚……すべてが、ある。何一つ欠けていなかった。
彼女は片手を持ち上げ、もう片方の手で親指に触れてみた。
……はっきりとした感触。肌のぬくもり。すべてが現実的で、信じがたいほどだった。
「ドクン……ドクン……ドクン……」
胸の奥で心臓が規則正しく鼓動を刻んでいる。まるで、一度も止まっていなかったかのように。
「……一体、何が起きているの?」
彼女はうろたえながらつぶやき、目を見開いて自分の体をあちこち確認しはじめた。触れたり、押さえたり――混乱と不安が入り混じった動作だった。
だが、その混乱が頂点に達しかけた瞬間、ベッドの足元から誰かの声が響いた。
「どうやら、君が最後に目覚めたようだね」
その声は若々しくも落ち着いていて、自信に満ちていた。彼女はその声の主に驚き、思わず顔を向ける。
そこにいたのは、一人の少年だった。木製の椅子に腰掛け、足を組み、本を片手に開いたままの状態で持っていた。彼は章の途中まで読んでいたかのようだった。彼女に向けられた微笑みは穏やかで、視線はまっすぐ彼女を捉えていた。その瞳には、不思議な懐かしさがあった。
「ネ……ネロ様……?」
彼女は戸惑いながら、思わず彼の名を口にしていた。
「一体何が起きたの……?どうして私が……生き返るなんてことが……」
彼女の声は震えていた。胸の奥には言葉にならないほどの疑問が渦巻き、今にも溢れ出しそうだった。
彼女が答えを求めていたのは――ただ、彼だけだった。
「“生き返った”って表現は、ちょっと違うかもしれないな」
ネロの低い声が淡々と響く。彼の視線はまだ手元の本に向けられたままで、混乱の渦中にいる彼女の目を見ようとはしなかった。
「正確に言うなら――“模造された肉体”とでも言うべきだろう」
「模造……された肉体?」
エミレストは彼の言葉を不安げに繰り返した。細い目が少し細められ、頭の中で意味を組み立てようと懸命にしているのが分かった。
「ごめんなさい……あまり理解できていないみたいで」
小さな声だったが、彼女の言葉には真剣な気持ちがこもっていた。
「昨夜、何が起きたのか……もう少し詳しく説明してもらえませんか?」
今回は、ネロが古びた紙のページから目を離し、静かに本を閉じて膝の上に置いた。そして、彼女の方をまっすぐ見つめる。
「……いいだろう」
彼は手を膝の上で組み、穏やかながらもどこか圧を感じさせる口調で語り始めた。
「昨夜、俺は新しい魔法の実験をした」
「それは、二つの呪文を同時に使うというものだ。ただ連続して唱えるのではなく、“融合”させて、まったく新しい魔術に作り変えるという発想だ」
ネロは少し間を置いた。エミレストは言葉一つ漏らさぬよう、真剣な眼差しで彼の話を聞き続けていた。
「普通、人間は二つの魔法を同時に扱うことはできない。魔法陣同士が干渉し合い、失敗に終わる。最悪の場合、逆反応を起こして命を落とすことさえある」
「でも、ある本からヒントを得たんだ」
彼はわずかに身を乗り出して、厚い表紙の本を取り上げ、彼女に一瞬だけ見せた。表紙には金のインクで『融合魔術学』と刻まれていた。
「著者は……またしてもベニク・ヴィンツってやつだった」
ネロは眉をひそめた。その名を口にしただけで不快になるようだった。
「正直に言えば、あいつの書いた歴史を捻じ曲げた記録を読んでからというもの、信用はしていなかった」
「でもこの本だけは違った。実験の記録もある、証拠もある、結果の分析もある……そして何より――成功したんだ」
ネロは一度息を整えてから、さらに深く語りはじめた。
「ベニクの理論によれば、“融合魔法”とは単に魔法の効力を高めるためのものではなく、二つの魔法を組み合わせて“全く新しい魔法”を生み出す技術だそうだ。たとえば、ファイアボールのような火属性魔法に風の魔法を融合させれば、爆発力が倍増し、広範囲にダメージを与える火炎爆発となる」
「それで私は、自分の得意とする魔法にこの理論を応用してみた。創造の魔法と、時間の魔法を融合させたんだ」
「創造の魔法…?」
エミレストが瞬きをしながら問い返した。
「魔力から新しいものを作り出す魔法、ってことですか?」
「そうだ。そして、それに時間の魔法を組み合わせると…ただ新しいものを創るだけでなく、“かつて存在したもの”すら創り出すことができるようになる」
「昨夜、私はその魔法を使って、ノヴァ、ジェスタ、そして君…エミレストに施した。君たちが死ぬ直前の肉体的、精神的な情報を時間魔法で逆再生し、それを創造魔法で“再現”したんだ。魂がそのまま宿るほど、完璧な“模造体”をね」
エミレストの目が大きく見開かれ、身の毛がよだつような感覚が背筋を駆け上がった。
「ということは…私たちの記憶も見たってことですか…?」
彼女はかすれた声でそう尋ね、喉をごくりと鳴らした。
「そうだ」ネロは短く答えた。
「肉体と精神、両方の情報が必要だったからね。だから…君たちが隠していた秘密も、すべて見たよ」
その言葉に、エミレストは一瞬で動きを止めた。頬がほんのり赤く染まり、恥ずかしさと驚きが入り混じった表情を浮かべる。
ネロの複雑な説明をしばらく聞いたあと、エミレストはゆっくりと頷いた。すべてを理解したわけではなかったが、少なくとも彼が嘘をついていないことは感じ取れた。そして、ためらいながらも、静かに口を開いた。
「じゃあ…全部、見たんですね……」
ネロは小さく頷き、淡々と、しかし重みのある声で続けた。
「そうだ。君の過去も、君の本当の姿も…すべて見た。――君は、ハーフエルフなんだろ?」
その瞬間、エミレストの細い身体がビクッと震えた。髪の隙間から見える表情はわずかに震え、目は驚きと怯えに大きく見開かれていた。長年隠してきた秘密が、ネロの新たな魔法によってあっさりと暴かれてしまったのだ。
恐怖がじわじわと彼女を侵食していく。心臓が激しく脈打ち、青ざめた唇がわずかに震えながら、不安げに声を絞り出す。
「……私のこと、嫌いになったりしてませんか……? あんな姿を見てしまった後で……」
彼女の声は壊れそうなほどか細く、胸の奥底から滲み出る痛みに逆らえず、ほとんど囁きのようだった。
ネロはしばらく沈黙した。すぐには答えず、その場に静けさが満ちていく。
ふと、記憶の中の情景が脳裏をよぎった。錆びついた鎖に繋がれた過去のエミレスト――鞭打たれた跡や火傷で傷だらけの身体。命乞いの悲鳴が、まるで永遠に消えない残響のように頭の中で響いていた。
――生まれながらにして選ぶことを許されなかった少女。
血筋というだけで、裁かれてきた存在。
しかし今、ネロの視線は目の前の女性へと戻る。どんなに傷ついても、こうして立っている彼女へと。
「率直に言おうか……」
ようやくネロの声が響いた。
「君の過去がどうだったか――傷つけられ、苦しめられ、呪われていたとしても……そんなことはどうでもいい」
「俺にとって過去は過去だ。そして、今の君は――俺が新たに創り上げた存在だ。その身体にはもう傷はない。あの悪夢を思い出させる痕跡も、何ひとつ残っていない」
彼は一拍置いて、微笑んだ。
「だから、あまり気にするな。これからは、自分の望むように生きればいい」
飾り気のないその言葉には、バラの花びらも甘い囁きもなかった。だが、真っ直ぐで揺るがぬ温もりがあった。
エミレストはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、ネロの瞳を見つめた。
かつて陰りを宿していたその青い瞳が、今は微かに輝きを帯びている。
まるで雲間から差し込む月の光のように。
「……そうですか。もう思い出さないように、頑張ってみます」
震える声の奥には、少しずつ戻り始めた勇気が宿っていた。
それはもはや、かつて虐げられた少女の瞳ではなく――自分と未来を信じようとする、一人の女性の眼差しだった。
「それにしても……どうしてこんな体を創れるんですか?」
そう尋ねるエミレストの声は静かだったが、どこか不思議な色を含んでいた。
自分の腕をそっと撫でながら、まるで今この瞬間の現実をまだ信じきれないかのように――。
ネロは木製の椅子に足を組んで座ったまま、厚い本のページを一枚めくりながら、ゆっくりとした口調で答えた。
「君たちの元の顔や姿を、記憶の断片から垣間見たとき…私は決めたんだ。二つの魔法――創造の魔法と時間の魔法を融合させることをね」
彼は本をゆっくり閉じ、窓辺から差し込む柔らかな陽光越しに、彼女の目を真っ直ぐ見つめた。
「この魔法は、私が自分で考案した特別な魔法でね、名を『原初への還元』と呼んでいる。私の魔力の一部と、君たちそれぞれの魔力を半分ずつ用い、それを魂に融合させて、可能な限り元の姿を引き出すんだ」
「でも、ただ外見を戻したわけじゃない。私は肉体そのものを一から再構築したんだ。外部の器官から内部の臓器、血液の循環、筋肉、神経構造に至るまで、すべてをね」
エミレストは目を見開いて驚愕し、胸元に手を当てた。
「道理で……体が本物の人間のように温かいと感じたわけです。五感もすべて戻っていて……匂いも、音も、味も……こんなの、信じられないくらいです」
ネロは肩を軽くすくめた。
「何かを作るとなれば、完璧を目指さないと気が済まない性質でね」
だが、彼の声色が少し変わり、どこか真剣味を帯び始めた。
「……だが、良いことばかりじゃない。この肉体を維持するには、常に魔力を消費し続ける必要がある。つまり君も……ノヴァやジェスタも、魔法の使い方には注意しないといけない」
「たとえ君がハーフエルフで、普通の人間より魔力が高かったとしても、だ」
エミレストは静かに黙り込み、やがてか細い声で問いかけた。
「つまり……もし私が無理に魔法を使いすぎたら……?」
「肉体は崩壊し、再び魂の断片に戻ることになるだろう」
ネロは静かな声で言い切った。
すべてを説明し終えると、ネロは立ち上がり、本を「パタン」と音を立てて閉じた。そして部屋を出ようと背を向けたところで、エミレストの声が彼を引き止めた。
「それで……これから、ネロ様はどうなさるおつもりですか?」
ネロは一瞬立ち止まり、彼女を振り返って目を合わせた。その視線には揺るぎない決意が宿っていた。
「そのことなら、他の魂たちにもすでに話してある。ノヴァやジェスタも事情を知ってる。気になるなら、彼女たちに聞いてみるといい」
「ちょうど最近、冒険者として登録したばかりなんだ」
彼は淡々とそう答え、ドアの方へ歩いていった。
「ある目的を達成するために、私はできるだけ早くランクを上げなきゃならない。詳しいことは、また後で話すよ。今はゆっくり休むといい。何か食べたいなら、好きにすればいい」
ドアが静かに開き、足音が徐々に遠ざかっていった。
部屋にはエミレストだけが取り残され、静寂が戻った。
彼女はゆっくりとうつむき、強く握っていた手がかすかに震え始めた。毛布の上に、ぽたりと涙が一粒、静かに落ちる。
それは感動の涙だった。
胸の奥に広がるその感情は、恐れでも悲しみでもない――
幸福だった。
生まれて初めて、自分が誰かに――本当の意味で受け入れられたと感じた瞬間だった。