第21話:仮の家を買う
「ネロ様にご満足いただけるよう、高品質な住宅をご紹介いたします。まずはこちらの物件からどうぞ」
そう言って、柔らかな低音で話しかけてきたのは、立派な髭を蓄えたふくよかな男性だった。彼は第二地区と第三地区の中間に位置する広大な土地――二千五百ライ以上を所有する、裕福な不動産業者である。業界では“市場が崩壊しても笑顔を絶やさない狡猾な商人”として知られていた。
最初に案内されたのは、二階建ての木造住宅だった。伝統的なスタイルで建てられ、敷地面積は約80〜85平方メートルほど。家の周りには低い木製の柵と、玄関までの小道に沿って植えられた松の木が並んでいる。周囲は静かで落ち着いた雰囲気で、喧騒から離れたい人には理想的な環境だ。
ネロが家の中に足を踏み入れると、家具がすべてきちんと揃えられているのが分かった。ベッド、クローゼット、ダイニングテーブル、そして小型のキッチンまで、どれもほとんど使われた形跡がなく新品同様に見えた。内部は寝室が二部屋、バスルームが一つ、リビングとキッチンが一つずつという構成で、新生活を始めるには十分な設備が整っていた。
――だが、それはあくまで“見た目”の話だ。
「……この家、ほとんど松の木で作られてるんだな」
ネロはそう呟きながら、壁を指先で軽く叩いた。
見た目は悪くない。だが、彼の経験からすれば、松材の家は湿気の多い環境では劣化しやすい。長期的に使用するとなれば、シロアリや構造上の問題が発生する可能性もある。
「値段は?」
「五十万セリンでございます。このクオリティであれば、大変お買い得かと」
「……貴族の格に見合ってないな」
そう小さく呟いたネロの言葉に、土地の所有者は苦笑しながら、次の物件へと案内を続けた。
次に案内されたのは、石灰岩造りの二階建て住宅だった。広さは先ほどの家と同程度だが、外観からして頑丈で、内部には高級感のある装飾が施されていた。小さなシャンデリア、大理石の床、クラシックな貴族風の壁紙などが印象的だ。
「この家の値段は?」
「百万円セリンでございます」
そう自信たっぷりに答える不動産業者。
「家具もすべて揃っており、一部は他の王国から輸入されたものもございます」
ネロは部屋を一瞥した後、無表情で口を開いた。
「確かに豪華にはなったが……まだ足りないな」
「……は?」
不動産業者が思わず声を漏らす。
「俺はただの一般人じゃない。貴族だ。自分の地位にふさわしい家が必要なんだ」
その言葉に、不動産業者の顔にわずかな緊張が走った。彼自身も元貴族であり、今では実業家だが、「クラウド・ルシファー」なる名家のことは一度も聞いたことがなかった。
「……まさか詐欺師か?」
そう心の中で疑念が浮かんだが、それでも彼はプロらしく笑顔を絶やさず、ネロをさらに高価な家へと案内し続けた。
しかし、ある分かれ道を通り過ぎようとしたとき、ネロの目が何かにとらわれ、思わず足を止めた。
鉄製の高い柵が道路と、その奥に広がる大きな敷地との境をなしている。柵の向こうには、手入れの行き届いた広大な庭園の中心に、白亜の邸宅が堂々と佇んでいた。
その大きさはただの「大きい」では表現しきれない。面積はなんと一千平方メートルにも及び、一般的な住宅の十倍以上──まるで小さな王宮のようだった。
「……あれは……」
ネロの目が何かを見出したかのように光を帯びる。まるで、ずっと探していたものにようやく出会えたかのようだった。
先を歩いていた地所の持ち主が、少年の足が止まったのに気づいて振り返り、問いかけた。
「どうかしましたか、お客様?」
彼もネロの視線を追ってその先を見て、思わず目を丸くし、小さくため息をついた。
(まさか……この子、数千万セリンもする邸宅を本気で買えるつもりなのか?)
「これだ……! 私が求めていたのはこれだ!」
まだ十代と思われる小さな少年の自信に満ちた宣言に、地所の持ち主は思わず動きを止めた。
「な、なんとおっしゃいましたか?」
彼は驚きのあまり聞き返す。
ネロはほんのわずかに微笑みながら立ち尽くす。その紅い瞳は不思議な光を放ち、相手の心に寒気を走らせる。
「この邸宅……中を見せてもらえるか?」
「は、はいっ……もちろんです!」
太った男は戸惑いながらも頷いた。
(……本当に買う気なのか、この少年……?)
疑問を抱きつつも、優れた仲介者として彼は顧客の希望を拒むことはできなかった。彼は外套の内ポケットに手を入れ、丁寧に古びた金の鍵を取り出すと、白亜の邸宅を守る重厚な鉄の門に鍵を差し込んだ。
門が開くと、かすかに木材の香りと湿った土の匂いが鼻をかすめた。アプローチの石畳は一面にわたり美しく敷き詰められ、ひび割れも沈みも一切ない──長年にわたり丁寧に手入れされてきたことが見て取れた。
両側には整然と刈り込まれた緑の低木が並び、大きな木々が規則正しく植えられている。さらに、紫色のツル植物が巻きついた小さなガゼボもあり、自然な美しさと高い美意識が調和した景観が広がっていた。
さらに奥へ進んでいくと、ネロの目に飛び込んできたのは、広大な円形の石畳。その中央には大理石の噴水があり、一定のリズムで水を空へと吹き上げては、静かに戻ってくる。水面は陽の光を反射してきらめき、そこから続く小道はやがて壮大な邸宅の正面玄関へと導いていた。
建物は「コロニアル・クラシック」様式の邸宅で、明るいクリームホワイトに塗装されている。屋根は濃いグレーの瓦で覆われ、伝統的な木製の窓には独特の装飾が施されていた。入口にそびえるローマ風の巨大な柱は、かつての支配者や王族の家を思わせる威厳と荘厳さを漂わせている。
扉が開いた瞬間、最初に感じたのは、古い家具から漂う木の香りだった。広大なホールにはクラシック柄のカーペットが敷かれ、訪問者を迎えるようにまっすぐ伸びている。頭上にはクリスタルのシャンデリアが吊るされており、柔らかな金色の光を放って空間を温かく、そして上品に包み込んでいた。
内部の空間は明確に区切られ、リビングが二部屋、来客用の応接間、天井まで本が並ぶ大図書室、十人以上が座れる長いオーク材の食卓が置かれたダイニングルーム、そして実用的な設備が整ったキッチンがあった。
さらに、ベッドルームは六部屋、それぞれテーマの異なる内装が施されている。バスルームは五つあり、共同浴室も完備。地下には収納室が二つ、食料庫、そして母屋とは別に使用人用の建物が二棟もある。裏庭には湖「リビア」を一望できるガゼボ(東屋)があり、それは言葉では言い尽くせないほどロマンチックな景色を演出していた。
ネロはまるでこの家の主人が久しぶりに帰ってきたかのように、悠然と屋敷内を歩き回り、満足げな微笑みを浮かべた。
完璧だ…まさに、ずっと探していたものだ。
「この邸宅、いくらだ?」
彼は迷いなく尋ねた。土地の所有者は眉をひそめ、乾いた笑いを漏らした。
「なあ坊や、正直に言うけどさ…君を馬鹿にするつもりはないが、その年で本当にこの屋敷を買えると思ってるのかい?」
その言葉にネロは悔しさを噛みしめたように歯を食いしばり、険しい目で相手を睨み返した。
「おじさん、俺は価格を聞いたんだ。意見なんて求めてない。早く教えてよ!」
「ふん…そんなに知りたいなら教えてやろう」
ぽっちゃりとした男は大きくため息をつき、ようやく本当の価格を口にした。
「6,500万セリンだ… 状態は極めて良好でな、築年数を考えても十分に価値がある。高いと思うなら500万くらいは引いてやってもいいが…他の家を見て回るって選択肢もあるぞ、坊や」
ネロは一瞬黙り込んだ。頭の中で素早くその金額を計算し始めた。もちろん、今の彼の手持ちでは到底足りない。急いで資金をかき集める必要があった。
しかしその時――
「そうだ!」
顔を上げたネロの瞳に、希望の光が差し込んだかのような輝きが宿った。
「なんだって?」
土地の所有者が問い返す。
「買うのか?」
「土地の権利書、用意しといてくれよ、おじさん!」
ネロは確信に満ちた声で言い放った。
「今はギルドに戻らなきゃだけど…夕方には戻って、買うから!」
「は、はあ!? おい、ちょっと待て! 君、本気で言ってるのか!? おーい!」
邸宅に背を向けて去っていくネロの背中に、男の驚いた叫びが追いかけてきた。ぽっちゃりとした彼は門の前で頭をかきながら、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
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午後三時過ぎ、ベレフ・ギルドにて。
朝の騒動が収まってから、すべてが再び平穏を取り戻していた。ギルドホールの一角では、スタッフたちの会話が微かに聞こえ、ほんのわずかに残る破損の痕跡が事件の余波を物語っている。彼らは、数時間前の衝突で壊れた壁を協力して修復していた。
本来であれば、損害を与えた者がすべての費用を負担しなければならない。しかし、今回の事件はやむを得ない不可抗力として判断され、特例として「認められた損失」として処理され、賠償は免除された。
和やかな空気が漂い始めたそのとき、一人の少年が静かにギルドの扉を開けて入ってきた。重い足音もなく、誰かの注意を引こうとする様子もなかったが、それでも彼の姿に気づいて振り返る者は少なくなかった。特に、受付カウンターにいた女性スタッフの一人が、ぱっと顔を上げた。
「やあ、ネロくん~。また何かお手伝いできることがあるの?」
アリシアが、見慣れた少年の顔に気づき、明るい笑顔で声をかけた。
ギルド内は先ほどよりも静かだった。多くの冒険者たちは午後のクエストに出かけており、残っているのは数人の報告中の冒険者や、くつろいでいる者たちだけだった。
「どうぞ、好きなところに座ってね」
アリシアは丁寧に促した。
ネロは黙ったまま歩み寄り、カウンター前の木製の椅子に腰を下ろした。前回よりも少し真剣な表情を浮かべており、それを見たアリシアは少し驚いた様子で眉をひそめた。
「このギルドって、独自の銀行サービスを持ってるよね?」
少年は落ち着いた声で問いかけた。
「えっ……? ネロくん、それをどうして知ってるの?」
アリシアは瞬きをしながら尋ねた。
「この国の経済システムについて書かれた本で読んだんだ」
ネロは淡々と答えた。
「ベレフ・ギルドは冒険者の中心地であるだけじゃなく、地域経済の中枢でもある。素材の取引や、隣国への輸出もしていて、年間の収益は莫大だ。その利益で大陸全体に支部を展開しているってわけさ」
アリシアは目を輝かせた。
「わあ〜、そんな細かいことまで知ってるなんて!」
「たしか、主な収入源はモンスター素材の販売だったと思うけど」
彼が続けると、アリシアは笑顔でうなずいた。
「その通りです。それがこのギルドがすごく裕福な理由なんですよ」
「素材の買取りもやってるんだよね?」
ネロはそう言いながら、腰に下げた魔法のポーチを開いた。
「旅の途中で集めた素材を売りたいんだ」
「もちろんです! すぐに確認しますね!」
アリシアは意気込みながら答えた。
その直後、ネロは「大きな布袋」をポーチから取り出した。アリシアは思わず後ずさりした。驚いたのは袋の大きさだけではない。この年齢の子供が空間魔法を使っていること自体が、彼女にとっては初めての光景だったのだ。
「うわぁ……ちょ、ちょっとこれ……すごく重そうなんですけど……」
布袋がカウンターにどしんと音を立てて置かれた。袋のサイズはネロの身体とほぼ同じくらいで、遠目から見れば、まるで巨大な砂袋を持ち込んだかのようだった。
「どれくらいの値がつくかは分からないけど……本で読んだ限りだと、結構貴重なものらしいよ。特に、これなんかは――」
ネロはそう言いながら、目の前の袋に顎をしゃくった。
アリシアは急いで袋の口を結んだ紐を解き、中をそっと覗き込む。
「え……?」
彼女は一瞬、動きを止めた――そして次の瞬間には、
「えええええええええええええええええええっっっ!!!!!!」
その叫び声はギルド全体に響き渡った。
まだギルドに残っていた数人の冒険者たちが、思わずカウンターの方へ顔を向ける。
「ネ、ネロ君っ!こ、こんなもの、一体どこで手に入れたんですかっ!?」
アリシアは震える声でそう言いながら、指先まで小刻みに震わせつつ、例の袋を指さした。
「ただのガーゴイルの皮だよ。」
ネロはまるで他愛のない話でもするかのように、平然と答えた。
「“ただの”……!?ガーゴイルの皮、ですかっ!?」
アリシアは思わずカウンターを叩いて立ち上がる。
「ネロ君、知ってますか?ガーゴイルって、Aランクモンスターに分類されてるんですよ!?1体でもBランクのパーティーを壊滅させるくらいには危険な存在なんですっ!それが……この袋には、その皮が……ひゃ、百枚もあるなんて……!?」
「えええええええええええええっっっ!!!!」
ギルド内の全員が、オーケストラの合唱のように一斉に驚きの声を上げる。
ギルドに残っていた冒険者たちは一斉に立ち上がり、カウンターの周りに群がってくる者もいれば、「あり得ない……」と呟きながら固まっている者もいた。
その騒然とした光景の中で、ただ一人――ネロだけは、最初と変わらぬ穏やかな表情のまま、椅子に腰かけていた。
まるでAランクモンスターの素材を何百枚も持ち込むのが、昼食後の軽い運動くらいにしか思っていないように。
……そして彼の「ひっそり来よう」という目論見は、見事に粉々に打ち砕かれたのだった。




