第19話:ベレフのギルド
冒険者ギルド内の混乱は、それほど長くは続かなかった。騒ぎが静まると、青い制服をまとった兵士たちがすぐさま現場を掌握し、狂った男を取り押さえ、厳重に手錠をかけた。彼らは男の所持していた大剣と、何か秘密が隠されていそうなネックレスを押収し、余計な言葉もなく現場から連れ去っていった。
ギルドの中には静けさが戻った……が、それも束の間のことだった。
兵士の一人がその場に残っていた。額の半分を隠すように帽子をかぶり、手に持ったノートを開きながら、現場に居合わせた証人たちに話を聞き始める。その表情は真剣そのもので、わずかな情報も見逃さないという姿勢が伝わってくる。
目撃した冒険者たちの証言はすべて一致していた。ギルドの職員たちも同様だった。暴漢に襲われた少女も大事には至らず、多少怯えてはいたが、重傷は負っていないようだった。
しかし、ネロにとっては──今の状況は頭が痛くなるほど厄介だった。
完全に注目を浴びてしまい、顔もはっきり見られてしまった今、ここから逃げ出すという選択肢は賢明とは言えない。
「クソっ……ここは究極の誤魔化しスキルを発動するしかないか……」
心の中でそう呟きつつ、彼は背筋を伸ばし、できる限り“品格のある”態度を装った。
「証言によると、お前があの男を止めたようだな」
兵士の青年が口を開いた。その声には重みがあり、目には疑念が宿っている。
「見たところ、まだ若いようだし、見覚えもない。旅人か?」
その問いに、ネロはうっすらと汗を浮かべながら一瞬口ごもった。
「え、えっと……それは……」
だがその刹那、ネロの伝説級誤魔化しスキルが発動した。
「私は……遠い地の貴族の血を引く魔術師でして、ベレフの冒険者ギルドの名声を耳にして、この街を訪れたのです」
彼は薄く微笑みながら、さらに言葉を重ねる。
「ちょうどギルドに足を踏み入れた時に、騒ぎが起こっていまして。ですから助けに入った、それだけです」
最初こそ多少ぎこちなかったものの、ネロの声には不思議な自信が宿っていた。兵士の青年は眉をわずかに上げ、信じきれない様子を浮かべた。
「魔術師なのに魔法の杖を持ってないのか……面白いな」
くすりと笑みを漏らす。
ネロはその隙を逃さない。
「そんなもの、私には必要ありませんよ! さっきの暴漢を止めたのがその証拠です。証人にもう一度聞いてみたらいかがです?」
自信満々に胸を張るネロに、兵士は一瞬、言葉を失った。
「杖を使わない魔術師か……まあ、高位の者ならいないこともないがな」
そう呟いた後、兵士はすぐに続けた。
「まさか……お前、そのクラスなのか?」
「自慢するつもりはないが……強いて言うなら──」
「うっ!」
言い終わる前に、ネロは急いで顔をそらし、自分の口を手で覆った。自分でも、とんでもないことを口走りそうになっていたことに気づいたのだった。
「大丈夫ですか?」
突然、若い兵士の低く引き締まった声が響き、ネロはわずかに肩を震わせた。彼は自分の口を手でしっかりと覆ったまま、首を横に振って答えた。その様子があまりにも不自然だったため、兵士は困惑したように眉をひそめる。
「まあいい。どうせ一日中ここで質問してる暇なんかないしな」
少し苛立ちを含んだ声で、兵士は再び手帳を開いた。
「というわけで……名前と姓を申告してくれ。それで終わりにしようじゃないか」
投げやりにも聞こえるその言葉には、しかし明らかな圧力が込められていた。ネロはしばし虚ろな目で相手を見つめたのち、疲れたようにため息を吐く。
もちろん、彼は状況を理解していた。自分が「遠方から来た魔術師」と名乗った以上、都市の報告書に名前を記載されるのは当然だった。それはリベリア王国の管轄下にある自治領の決まりであり、都市外からの訪問者の名前を記録することによって、犯罪者の潜入や、禁じられた武器、あるいは「人間の奴隷」といった違法な物品の持ち込みを防ぐための措置だった。
「ネロ・クラウド・ルシファー」
彼は無表情で名を告げた。
兵士は眉をわずかにひそめながら、手帳にその名を書き留め、低くつぶやく。
「聞いたことない名前だな……本当に辺境から来たんだろうな」
手帳を乱暴に閉じると、彼は鋭い目でネロを睨んだ。
「それにしても、お前の話し方ってやつは……敬語の“け”の字もないじゃないか。ただのガキのくせに、家では礼儀の一つも教えてもらえなかったのか? まあいい。せいぜいこの街を楽しむんだな、坊や」
わざとらしいその嘲笑が、周囲の空気を一気に凍らせた。
「じゃあな……」
兵士は帽子をかぶり直し、一度も振り返ることなく去って行った。
ネロはその場でじっと立ち尽くし、鋭い眼差しで去っていく背中を睨みつける。紅い瞳には今にも燃え上がりそうな怒りの炎が宿っていた。
(「敬語がなってないだと? 大人ってのはどっちのことだよ……俺なんて、お前のひいひいじいさんのさらにひいじいさんの時代よりも前から生きてるんだぞ。あと十代分遡っても足りねぇくらいだ」)
内心の呟きは、もはや抑えきれないほどだった。本当なら声に出して怒鳴りたかったが、今はその時ではないと分かっていた。それに何より、彼には進まねばならない目的がある。脳筋の兵士相手に時間を浪費している暇などないのだ。
ネロがギルドのカウンターへ戻ろうとした、その時だった。
春先の風のように優しく、温もりを帯びた声が、彼の耳元でそっとささやいた。
「あ、あの……さっきのこと……本当にありがとうございました。助けてくれて……」
その声にネロは立ち止まり、振り返った。そこに立っていたのは、小柄な少女だった。自分より少し背が高いくらいで、おそらく身長は155センチほど。後ろで丁寧にまとめられた淡い金髪が、風に揺れている。エメラルドのような緑の瞳が、はっきりとした感謝の気持ちを伝えていた。
彼女は、先ほど狂った男に人質に取られていたあの女性だった。
今の彼女は、柔らかな肌触りの上質な白いコットンのブラウスに、深緑のロングスカートを身に着けていた。その服装は、一般的なギルド職員の制服と一致している。これは、冒険者ギルド「ベレフ」に所属する女性スタッフの標準ユニフォームだった。
彼女は丁寧に頭を下げ、両手をスカートの前で揃えて握りしめていた。その姿はまるで童話に出てくる天使のように優美だった。まだ瞳の奥には恐怖の名残があったものの、感謝の気持ちを伝えるために自ら歩み寄るその勇気は称賛に値するものだった。
ネロは、そんな彼女をただ静かに見つめていた。つい先ほどまで荒れていた心が、不思議なほど穏やかになっていく……あるいは、「ありがとう」というその一言に、何か不思議な力があったのかもしれない。
「別に、助けるつもりなんてなかったさ」
ネロはそう言って肩をすくめ、そっぽを向いた。無表情な瞳は、まだ少し騒がしさの残るギルドのホールの一角に向けられている。
「ただ、あの馬鹿の怒鳴り声がうるさくて仕方なかっただけだ。時と場所くらい考えろって話さ」
棘のある言い方だったが、少女は柔らかく微笑んだ。朝の陽射しのような金色の長い髪がふわりと揺れ、彼女は首を少しかしげてから、真心のこもった声で感謝の言葉を続けた。
「それでも……今の私はあなたに助けられました。いくらお礼を言っても足りないくらいです」
緑の澄んだ瞳が、まっすぐネロを見つめる。彼女は胸にそっと手を添えて、微笑みながら言葉を続けた。
「――あっ、自己紹介がまだでしたね。私はアリシア・サンドレイ。このギルドで働いています。これからよろしくお願いしますね!」
「俺の名前なら、さっき兵士に言っただろ。聞こえてたと思うけど。呼びたいように呼べばいい」
ネロは淡々とした口調でそう返し、マントのポケットに手を突っ込んだ。名乗られたことに対して、特に関心はないようだった。
「じゃあ……『ネロ君』って呼ばせてもらいますね!」
アリシアは明るくそう言って、人差し指をぴんと立てて見せた。
「私たち、たぶん年も近いですし、こう呼んだ方が距離も縮まる気がしますから!」
ネロは何も返さなかったが、否定もしなかった。ほんの少しだけ頷いた。それは「好きにすればいい」という意味だったが、アリシアにとってはそれで十分だった。
その頃、ギルド内の空気も次第に落ち着きを取り戻し始めていた。
他のスタッフたちは床に散らばった道具や備品を手早く片づけており、先ほどの騒動の痕跡が所々に残ってはいるものの、全体としては平常に戻りつつあった。
負傷した冒険者たちは魔法使いたちの助けを受け、彼らは古代語で〈癒しの魔法〉を詠唱しながら、傷や痣を瞬く間に癒やしていった。
ネロは周囲を見回し、小さくため息を漏らす。
未だに多くの視線が自分に向けられていることに気づいたのだ。
それは冒険者だけではなく、スタッフや通りかかる使用人たちの目も含まれていた。
彼はこの町では見慣れぬ顔、外部の人間――
しかも厳格な体制の中で暮らすこの地では、注目されるのも無理はない。
本来なら「目立たないように行動する」つもりだったのに。
だが現状は、目立つどころか、すでに“ギルドの注目の的”と言っても過言ではなかった。
彼のことを優れた魔法使いだと思っている者もいるだろう。
しかし、どれほど力を見せつけようと、彼が“貴族”であるとは誰も信じないに違いない。
貴族を演じるならば、“金”も重要な要素となる――
幸いにして、それなりの資金は手元にあった。
だが、それをどう使うか……それは慎重に計画を練る必要がある。
「さて、本題に入ろうか」
低く落ち着いた声が、アリシアの注意をカウンター前のテーブルへと引き戻した。
「ここに来たのは、聞きたいことがあるからだ」
「ギルドに関することなら、私にお任せくださいっ!」
アリシアは自信たっぷりに微笑み、スカートの裾を整えながら、真剣に質問を待つ姿勢を見せる。
「どうすれば――大迷宮に入れる?」
その一言がネロの口からこぼれ落ちた瞬間、場の空気が一瞬凍りついた。
アリシアは目を大きく見開き、頬を染めていた顔色も徐々に青ざめていく。
「な、なにを言ってるんですか!? ちょ、ちょっと待ってくださいネロくん……自分が何を言ってるか分かってますか!?」
「もちろん。あそこがどれほど危険かも理解している」
ネロは冷静に返し、鋭く研ぎ澄まされた眼差しをまっすぐに彼女へ向けた。
「けれど、危険かどうかは問題じゃない。俺が欲しいのは、そこへ入る“方法”だけだ」
アリシアは一瞬言葉に詰まり、目の前の少年が本気なのか冗談なのか判断しかねていた。
だが、その視線と交わった瞬間――彼の言葉に嘘はないと理解した。
彼は本気なのだ。
「……それなら」
彼女の声は、これまでで一番真剣な響きを帯びていた。
「職員として、ギルドの規定に基づいて詳しく説明しなければなりません。ですので……ネロくん、どうかお座りください」
そう言って、カウンター前の椅子を手で示す。
ネロは無言でそれに従い、静かに腰を下ろすと、真剣な面持ちで彼女の言葉に耳を傾ける体勢を取った。
大迷宮へと至る方法は、二つだけ存在する。
一つ目の方法は、魔法によって結界を解除すること。
大迷宮を包み込む魔力の結界は、まるで鋼鉄の壁のように頑丈だ。
しかし、それを解くことができる者は、ただ一人しかいなかった――
“賢勇者”。
栄光の勇者団の一員であり、天才的な魔法の才能を持つ彼は、自らの無限とも言えるマナによってこの結界を創り上げた張本人でもある。
だが、世の中はそう都合よくできていない。
その賢勇者は、既に三百年以上前に寿命を迎え、この世を去っている。
創造主が消えた今、彼が遺した結界を破れる者などほとんど存在しない。
現代の大魔導師たちですら、「我々の魔力では到底及ばない」と認めざるを得ないほどだ。
……いや、例外が一つだけある。
それは、かつての栄光の勇者団の力を一部継承した、現代の勇者たちだけである。
その事実を知ったネロは、まるで世界がまた新たな問題を押し付けてきたかのような表情で、静かにため息をついた。
「……あいつらに助けを求めるなんて、あり得ない」
デスからの警告を思い出す。
この世界に存在してはならない存在――それが自分。
もし勇者たちにその正体を知られれば、面倒どころか災厄を引き起こすのは明白だ。
――だから、関わらない方がいい。
こうして、ネロに残された選択肢はただ一つだけになった。
第二の方法――冒険者の道を選ぶこと。
この方法は、主に高ランク冒険者のために用意された手段だ。
特に、Bランク以上の者に限られる。
このギルドのランク制度は、最低ランクのCから始まり、B、Aと続き、
そして最上位に位置するSランクは、各大陸に数人しかいない超一流の証とされている。
Bランク以上の冒険者になれば、ギルドマスターから直接認定を受け、
特別な魔法が込められた徽章を授かることができる。
それは、結界を通過するための鍵となる、神聖魔法の力を秘めたものだった。
一見、簡単そうに思える。
だが、これは一種の罠でもある。
――なぜなら、ネロはまだ冒険者ですらなかったのだ。
「……つまり、俺が冒険者登録しなきゃならないってことか」
低く落ち着いた声で、ネロがそう呟いた。
その視線は、目の前で微笑みを浮かべている少女――アリシアに向けられていた。
まるで、最初から答えを知っていたかのような微笑みだった。
「ネロくんがどうしてもダンジョンに入りたいなら、その方法しかありませんね」
「それで……登録したばかりの俺は、どのランクになるんだ?」
「新規の冒険者にはランクがありません。
“ノービス”――初心者という扱いになります。審査を通過するまでは」
「……ランクを最速で上げる方法って、あるのか?」
「あるとすれば一つだけ。
自分より上のランクの依頼をこなすことですね」
そう言いながら、アリシアは人差し指を立ててみせた。
「中には、一回の依頼で一気にBランクまで上がった人もいますよ」
「ギルドのシステムは、そんな感じか……」
ネロはぼんやりとクエスト掲示板を見つめていたが、やがて、口元にいたずらっぽい笑みが浮かび始めた。
「じゃあ、そのクエストを持ってきてくれ。
一日で最高ランクに上がってみせる」
アリシアが問い返す前に、ネロは左手を上げ、指差した。
それは、何かの合図のようでもあった。
アリシアは指の先を見て、思わず目を見開く。
ネロが指していたのは、掲示板の一番上に貼られた――
きらめく金色の紙――SSランクの依頼だった。
初心者向けの依頼が並ぶ中、
それだけが場違いな存在のように見えた。
Sランク冒険者ですら、慎重に検討を重ねるレベルの依頼。
アリシアは絶句し、つい叫んでしまった。
「……えっ、初日でSSランクの依頼を受けるつもりですか!? 本気ですか!!?」




