0.9 距離
待ち合わせ場所のコンビニで雑誌を立ち読みしていると、ウインドウの外に待ってた相手がやって来た。
小さく手を振ってから雑誌を棚に戻して、すぐに外に出る。
「おはよ」
「おはよう葉月ちゃん」
春の暖かな日差しの中、のんびりと目的地まで歩き出した。
昨日卒業式を済ませた私たちは、今中学生と高校生の中間。
なんだか変な感じがする。
「もう準備終わったの?」
葉月ちゃんが綺麗に伸ばした長い髪を揺らして聞いた。
「もうバッチリ」
「そっか、寂しくなっちゃうけど頑張ってね」
「うん、ありがと」
京先輩に勧められて進路を決めた私は、頑なに反対するパパをなんとか説得してお許しを貰った。
まぁ説得っていうか、味方になってくれたママの“一生嫌われるわよ”の一言に泣く泣く頷くしかなかっただけだけど。
ママには大感謝してる。
あと数日で寮に入って、また京先輩の後輩になるんだ。
「嬉しそうにしちゃって」
「ごめん」
家族や葉月ちゃんと離れるのは私だって寂しい。
でも、楽しみのほうがどうしても勝ってしまって顔が緩んでしまった。
「京先輩によろしく言っといてね」
「え?うん」
頷いてはみたものの、葉月ちゃんと京先輩って接点あったっけ?
多分話したこともないんじゃないかな。
「私の零をしっかり見ててもらわなきゃ」
「なにそれ」
私は吹き出して笑ってしまった。
「ひとりで遠く旅立つ親友を心配して何が悪い。自分の高校に呼んだからには責任とってもらわないと」
「ふふっ、葉月ちゃんむちゃくちゃ」
「当たり前でしょ」
そんな風に胸を張る葉月ちゃんは、有名な進学校へ進学が決まってた。
行きたい大学があるんだって。
私の親友は私よりずっと先を見てて尊敬する。
離れてしまうけど、きっと一生親友なんだろうな。
「でも、私のことより葉月ちゃんだよ」
「ん?」
「今朝電話くれたとき、ほんとにびっくりしたんだから」
そう。
今日の外出は今朝突然決まったものだった。
葉月ちゃんに電話で呼び出されて今に至る。
理由はまだ聞いてないけど、大事な話があるって言ってた。
自分のことよりそっちのほうが気になって仕方がない。
「ちょっとね、紹介したい人がいるんだ」
さらりと言う葉月ちゃん。
でも、待って。
紹介したい人?
「もしかして……」
「彼氏」
「えぇー!!」
聞いてない!
何にも聞いてないよ、葉月ちゃん!
好きな人いたの!?
「昨日告白されて、付き合うことになったの」
「そうなんだ……」
「うん。私も昨日まで知らない人だったんだけど」
はい?
昨日まで知らない人?
「ちょっと、ちょっと待って!」
「うん」
「えっ、知らなかった人と付き合うの?」
「うん」
葉月ちゃんは迷いも照れもなく頷いた。
なにその、もちろんみたいな顔。
「大丈夫なの?その人……」
すっごくすっごく心配なんだけど。
第一葉月ちゃんは、その人のことどう思ってるのかな。
私の心配なんて葉月ちゃんにはどこ吹く風。
いつも通り落ち着いてて、しっかりしてて、おとなな雰囲気はそのまま。
「そういう反応すると思った」
なんて言う。
「だから、まず会ってみてよ」
しかも満面の笑顔をふりまいて。
わぁ、相変わらずの美少女っぷりに感嘆のため息が漏れちゃうよ。
でも葉月ちゃんがそこまで言うなら素敵な人なんだろうな。
今までに何人もの男の子から好意を向けられても誰ひとり全く眼中になかったのに、たった1日で振り向かせるなんてただ者じゃないのかも。
かなり興味が沸いてきた。
「うん。早く会ってみたいな」
私は期待を胸に頷いた。
案内されて入ったのは、家から程近いファミレスだった。
店員さんに待ち合わせてることを伝えて、中に入り席を探す。
と、葉月ちゃんが誰かに気付いて笑いかけた。
視線の先には男の人。
あの人かなと思うと、何でか私のほうがすごく緊張してきた。
「お待たせ」
一声かけてからファミリー席にひとりで座ってたその人の前に、葉月ちゃんと並んで腰掛けた。
「零、この人がさっき言った彼氏。青山 尚人。青山、この子が親友の園村 零」
「青山です」
ぺこりと頭を下げて自己紹介してくれたんだけど、私は聞いてなかった。
だって、
「それ、」
思わず指差してしまった。
特大の、なぜかビールジョッキに入ったチョコバナナパフェ。
「あぁ、うまいよ。園村さんも食べる?」
「ううん、いいや」
「そう?オススメなんだけど」
「そ、そうなんだ」
変わった人みたい。
はっ!
そういえば今私、挨拶もしなかった。
しかも人様が好んで食べてるものにすっごく失礼なこと思った。
うわぁ、折角紹介して貰ってるのに最低だ。
「あの、ごめんなさい」
「?なにが?」
でもその人は全く気に障った様子もなく、首を傾げてぱくぱくとスプーンを口に運んでた。
「零、気にしなくて大丈夫」
「え、でも」
いいのかな。
心配になって葉月ちゃんを見たら、肩を揺らして笑ってる。
本当に大丈夫みたい。
よかった。
葉月ちゃんの真正面に座る彼に改めて目を向ける。
短めの黒髪に切れ長の目が特徴的だった。
同じ年かな?
フレーム眼鏡がよく似合ってて、知的な感じがする。
「あの、よろしくお願いします」
「よろしく」
遅ればせながら挨拶したら、無表情のまままたぺこりと頭を下げられた。
なんか、真面目そうな人。
それが次に感じた印象だった。
カフェオレをふたつ注文してから、葉月ちゃんが教えてくれた。
「青山とは同じ予備校だったの。ま、私も昨日知ったんだけど」
「そうなんだ」
じゃあやっぱり同じ歳なんだ。
ちらっと青山君に視線を向けると、あんなにあったパフェはもうからになっていて、紙ナプキンで口許を拭ってた。
えっ、食べるの早すぎない?
「俺は知ってた。いつも俺の上にいたから」
私が思わず口にする前に、青山君が口を開いたので、今度は失言しなくて済んだ。
危ない危ない。
って、
「上?」
って何だろう。
「予備校の成績の順位ね。いつも私が1位で青山は2位だったから」
「い、1位!?」
葉月ちゃんは頭がいいとは思ってたけど、まさかそこまでとは思わなかった。
凄すぎるよ、葉月ちゃん。
尊敬を越して、拝みたくなるくらい。
「どんだけ勉強しても、いつも届かなくて悔しかったな」
思い出話のように話す青山君。
そんな彼に、葉月ちゃんは驚いた様子で聞き返した。
「そうなの?」
「うん、すごく悔しかった」
悔しかったって言う割りには、もうたいして気にしてないのか淡々としてる。
そしてまたゆっくりと語り出した。
「でも、合格発表の時」
「あ、それは覚えてる。いきなり“受かった?”って聞いてきたよね」
「うん」
「青山のこと知らなかったからびっくりした」
「うん。すごい不信な目で見られた」
葉月ちゃんらしい強気な態度が、安易に想像できる。
きっといつものナンパだと思ったに違いない。
葉月ちゃんはすごくモテるから、そう思って警戒しても仕方ないよね。
でも、青山君はそんな葉月ちゃんの態度は気にならなかったみたい。
それよりも、
「あの時が一番悔しかった」
いつも追いかけてた自分を、葉月ちゃんが知らなかったことが一番ショックだったんだって。
「ごめん」
「や、謝んなくていい」
ばつが悪そうにする葉月ちゃんを軽く制して、青山君が笑う。
わぁ、微笑むとかなり印象が変わる。
もちろんいい意味で。
でも、合格発表って結構最近だよね。
それから何がどうして、ふたりは付き合うことになったんだろう。
葉月ちゃんも青山君もそういうことを軽く考えるタイプじゃないだろうし。
その急展開の顛末が物凄く気になってきた。
訊いてもいいのかな。
「零、全部顔に出てる」
「えっ」
くすくす笑いながら葉月ちゃんに指摘されて、恥ずかしかった。
「園村さんには全部話すよ」
「え、いいの?」
本音は聞きたいけど、そんなプライベートなこと本当にいいのかな。
私の思いとは裏腹に、青山君は頷いてさらりと言った。
「園村さんに話すのが姫野と付き合う条件だから」
「はい?」
なにそれ?
条件?
「なんかね、正直まだわからないの」
運ばれてきたカフェオレを一口飲んで、ため息とともに吐き出すように葉月ちゃんが話し出した。
「青山のこと。好きなのかわからない」
「えぇ!?」
その一言に本気で驚いた。
わからないのに付き合っちゃうの?
「私らしくないとか思ったでしょ」
「うん、思った」
「だよね。自分でもそう思う」
本当に葉月ちゃんらしくない気がする。
いつもはどんな相手だってよく知らない人ならばっさばっさ切り捨てるのに、どうしちゃっんだろう。
そんな疑問に対して、口角をきゅっと下げて呟かれた声は小さかった。
「なんか、引き留めちゃったんだよね」
よく聞こえなくて葉月ちゃんの顔を覗き込むと、あれ?
ちょっと顔が赤い?
「昨日は俺の学校も卒業式だったんだけど、」
黙秘してしまった葉月ちゃんに代わって青山君が口を開く。
「そのあとそっちの学校に行ったんだ」
「うちの中学に?」
「そう。告白しに行った」
葉月ちゃんとは昨日は校門まで一緒だったけど、私は部活の後輩に囲まれちゃってそこで別れたんだった。
全然気付かなかった。
「学校から少し歩いたところで声をかけて、言った」
「へぇぇ!」
「それで、」
で?で?
「帰った」
「え?」
帰った?
「葉月ちゃんの返事は?」
「別にいらなかったから聞かなかった」
いらなかった、って。
私は呆気にとられて、葉月ちゃんに視線を向けた。
「……」
「……」
青山君はもう自分の話は終わったとばかりにメニューを開くと、甘そうなアイスココアを注文してる。
よっぽどの甘党に違いない。
「……最初はね、またかって思ったの。面倒だって」
ここ数日の葉月ちゃんは、京先輩ほどではないけど告白ラッシュに陥ってた。
だから面倒って言う気持ちもよくわかる。
「しかも、合格発表の時の人だってわかったからなおさらね」
うんうん。
葉月ちゃんに付きまとう変なやつは割りと多いから、きっと青山君のこともそういう人だと思ったんだよね。
「でもね、この人」
「うん」
「“好きだ。じゃあ”って、それだけ言ってほんとに帰っちゃったの」
「返事がいらないって本気だったんだ」
「うん。スッキリした顔でさっさと帰った」
返事はいらない。
私は不意に京先輩を思い出してた。
「でね、どうしてかわからないんだけど、気づいたら追いかけて引き留めちゃって、」
「葉月ちゃんが?」
「そう」
物凄く意外。
意外過ぎる。
「あれは俺もびっくりした。いきなり腕を捕まれて“名前くらい名乗れ”って怒られた」
店員さんからアイスココアを受け取りながら、青山君がしみじみ相づちを打つ。
葉月ちゃんは額に手を当てて俯いた。
きっと今頃、その時の自分の行動を思い出して、心の中で悶えてるんじゃないかな。
「それで名前を言って帰ろうとしたら、また呼び止められて“私と付き合う?”って聞かれた」
「あぁ、もう!訳わからなくなってたの!」
真っ赤な顔をあげて、頭をぷるぷる振る姿はめちゃくちゃ可愛い。
どうしても引き留めたかったんだね。
「俺のこと知らないみたいなのにいいのかって思ったけど。……断るはずないだろ?好きなんだから」
思ってもみなかった葉月ちゃんの言葉は強烈で、青山君は考える前に頷いてた。
でも逆にそれで我に返った葉月ちゃんは、慌てて“でも、まず親友に話させて!”って言ったんだって。
それで今に至るらしい。
なるほど。
昨日そんなことがあったんだね。
でもなんで私に?
「不思議なことにね、全然後悔とかしてないの」
それは今朝からの葉月ちゃんをみてればわかる。
ファミレスに来てからはどこか楽しそうだし。
「むしろ、ちゃんと付き合ってもっと青山のこと知りたいと思ってる」
うん。
葉月ちゃんが間違いなく青山君を気に入ってるのは一目瞭然だった。
同級生の男の子が特大スイーツなんて食べてたら、確実に眉間に皺が寄ってたはずだもん。
「零はどう思う?」
「私?」
「うん、おかしいって思う?」
真っ直ぐに私を見つめて葉月ちゃんが訊いた。
私は、飲みかけの自分のカフェオレに視線を落として考える。
最初は、どうしちゃったの?って、大丈夫なの?って思ってた。
でも、葉月ちゃんはそんな心配全然してなかったよね。
私の意見を聞きたかったんじゃなくて、ただ単に、私に紹介したいって思ってくれただけなんじゃないかな。
そんな風に思った。
今まで葉月ちゃんの側いてこんなに驚かされたことってないけど、葉月ちゃんが選んで決めたことなら私は全力で応援するに決まってる。
だから、
「私はいつでも葉月ちゃんの味方だよ」
「?」
「葉月ちゃんが、例えばすごく悪いことをしたら。私は怒ると思うけど、でも味方なの」
「なにそれ」
あれ、うまく伝わらなかったみたい。
ふふっと笑われてしまった。
でもいいの。
本当のことだから。
「葉月ちゃんは、もう決めてるでしょ?」
「!」
「私は応援するだけだよ」
自分の気持ちもわからなくて、でもなぜか惹かれて突き放せないんでしょ?
側にいてみたいんでしょ?
「……ありがと」
葉月ちゃんは私がそれ以上なにか言う前に、微笑んだ。
「ありがと、零」
「うん」
うまくいくといいね。
たぶん間違いなくうまくいくと思うけど。
「青山君」
私は前に向き直って呼び掛けた。
青山君は私たちのやり取りを静かに見守ってた時のまま、視線だけを私に向ける。
「葉月ちゃんのこと、お願いね」
「うん」
「ちょっと、ちょっと!なに言ってんの!」
ぎゃーとか言いながら葉月ちゃんはわたわたと慌ててる。
「なにって、大事な親友なんだから」
葉月ちゃんだって、さっき言ったじゃん。
「心配して何が悪い!」
でしょ?
私だっておんなじなんだから。
誰よりも幸せを願ってるんだから。
葉月ちゃんは照れ臭そうにしながら笑う。
うん、大丈夫だね。
それから少しお喋りして、ファミレスを出ると青山君と別れた。
「いいの?」
「いいのいいの、どうせ同じ高校だし」
あ、そっか、だから合格発表の時に会ったんだ。
「今日は零と話したいの」
「うん、私も」
そう言ってもらえると嬉しいな。
大きな休みには帰ってくるけど、しばらく会えなくなっちゃうから。
ふたり並んで歩きだした。
「零はさ、どうするの?」
葉月ちゃんは躊躇いがちにきりだした。
何を言いたいのかはわかる。
でもなんて答えていいのか、わからなかった。
「会うの?」
「……うん」
那由多のこと。
そっちの高校に行くってことは、進路が決まった時点で伝えてあった。
そのあとママが、何かあったときのためにって那由多のお母さんに私のことを電話してくれたんだけど、“折角だからみんなで食事でもしましょう”なんてことになってしまった。
もう3年近く会ってないのに、いきなりの提案に凄く戸惑う。
でも、やっぱり会いたくて。
悩んだ末、那由多の家の食事会に招待されることに決めた。
「やっと会うんだね」
「……うん。怖いけど、やっぱり会いたいから」
「そっか」
「うん」
那由多とは、スマホでのやりとりは、今ではもう普通にしてた。
恋愛の話はしないけど、学校のこと友達のこと部活のこと、お互いに報告しあってる。
那由多も私と同じように部活漬けの中学校生活だったみたい。
高校も近くの美術系のとこにいくんだって教えてくれた。
電話はしないから、あんまりたくさんのことはわからないけど、取り敢えず那由多は自分の家の近くに進学する。
それがわかってほっとした。
だって、やっと、やっと近付けるんだから。
側に行けるんだから。
私、決めたんだ。
那由多を好きな自分に素直になろうって。
私も京先輩みたいに前向きでいたいから。
もし、那由多が誰かを想ってても、私には関係ない。
多分ショックだし傷つくと思うけど、もう決めたの。
怖いけど、逃げないよ。
だって、まだ告白できてない。
だから、那由多の気持ちもなんにも聞いてない。
まだなんにもしてないって気付いたから。
それに、那由多の気持ちは全然わからないけど、希望はあるでしょ?
キスしてくれたのは本当だから。
感触はまだ覚えてる。
思い出しただけで顔に熱が集まっちゃう私はもう重症なんだ。
数日後にいきなり会えることになってかなり焦ったけど、昨日よりも今朝よりもさっきよりも、会いたい気持ちは膨らんでた。
これはピンチじゃない。
私も“片想いなりに頑張る”チャンスだよね。
京先輩や青山君の気持ちが今凄くよくわかった。
那由多に会いたくてどうしようもない。
伝えたくて、どうしようもない。
私の気持ちは、加速度的に勢いを増して走り出してた。
公園のベンチでそんな気持ちを素直に話したら、葉月ちゃんはぎゅっと手を握ってくれた。
「きっとうまくいくから、大丈夫」
「そうかな」
「もちろん!」
力強く頷いて背中を押してくれるから、まだ少し不安に揺れてた気持ちはがっちりと固まったみたい。
「会ってくるね」
「うん」
「それで、もう一回ちゃんと告白する」
まずそこから、頑張ろう。
「頑張れ」
「うん」
もうすぐ、高校生活が始まる。
新しい自分の部屋を見回して、私はふぅと息を吐き出した。
荷物は全部運び入れて、なんとか片付いた。
あとは足りない文具を買いにいけば、もう準備は万端。
私に割り当てられた寮の部屋は二人部屋で、同室の子は明日入ってくるらしい。
どんな子かな、仲良くなれるといいななんてワクワクしながら、まだがらんとした部屋の半分を見てた。
ふと備え付けられた壁掛け時計が目に入る。
「あっ!」
しまった。
もうこんな時間だったんだ。
私は急いで着ていたパーカーとジーパンを脱いで、前もって選んでいた服に着替えた。
お気に入りの柔らかなニットのセーターにデニムのミニスカート。
それに、昔よりも少しだけ伸ばした髪をピンでアレンジしてとめる。
「よしっ」
鏡で全身をくまなくチェックして、ぺしぺし頬を叩いて気合いを入れた。
うん、ばっちり。
今日は、ついにやってきた那由多の家族と食事に行く日。
緊張で飛び出そうになる心臓を飲み込んで、部屋を出た。
外出届を提出して通りに出ると、バス停でバスを待ちながら連絡した。
“今寮を出たよ”
駅にも那由多のマンションにもこのバス停から行くことができるらしくて、今日はその途中の繁華街のバス停で那由多が待っててくれることになってた。
これからはどこに行くにも利用する大切な交通手段。
ここが私のスタートラインになるんだ。
今まであまりバスには乗ることはなかったから、ちょっとドキドキする。
こんな些細なことでさえ緊張してきて、これから那由多に会ったらどうなっちゃうんだろうって心配になった。
軽く深呼吸をして、スマホをポケットに入れようとしたら、すぐに振動して再び出した。
画面には返事が一言。
“待ってる”
もうすぐだっていう実感が、物凄い早さで沸き上がってきた。
バスを降りたら、那由多がいる。
ずっと会いたかった那由多に会える。
エンジンブレーキの音を立てながら停車したバスに、もう一度深呼吸をしてから乗り込んだ。
空いてた座席に座ろうと思ったけど、なんだか落ち着かなくて結局立つことにして、見慣れない街並みを見つめながら、ひとつ、またひとつとバス停を過ぎる。
その度にお腹の底がむずむずした。
早く着いて欲しいような、やっぱりもうちょっとゆっくり走って欲しいような変な気持ちは段々酷くなってきて、途中で一回降りてしまおうかなんて考えはじめてた。
でも、次にアナウンスされたのは目的のバス停で、私はごくりと唾を飲み込んでバスを降りた。
ステップを降りて歩道に立つ。
他の下車した乗客が右に左にと流れていくのを避けながら、那由多を探した。
人の波が途切れて視界が開けた先に、こっちを見つめる人影を見つけて、私は動けなくなった。
想像してたよりも、また更に背が伸びてる。
かわらないのは艶やかな黒髪と、穏やかに細められた瞳。
那由多の濡れたように煌めく黒い瞳が、私を見てた。
一瞬目が合った気がしたけど、反射的に視線を下げてしまった。
でも、次に見えたのは服の上からでもがっしりしてるのがわかる肩や腕で、無償に堪らなくなった私は、せっかく反らした視線をまた顔に戻してしまった。
「零ちゃん」
顔をあげたら、思ったよりも近くまで来ていた那由多が私の名前を呼んだ。
聞いたことのない、知らない人みたいな声で。
「久しぶりだね」
少し掠れたやや低めの声が降り注ぐ。
「うん、」
告白するぞって意気込んでた筈なのに、情けないことにそれだけしか言葉が出てこなかった。
緊張と動揺を隠すように、少し早口になりながらも声を出した。
「あの、おばさんたちは?」
「先にお店に行ってるよ」
「そっか、えと、待たせてごめん、ね」
「いや、大丈夫。時間ぴったりだよ。僕が早く来すぎただけ」
僅かに眉尻を下げて、那由多が笑う。
みたことない大人っぽい笑顔で。
その拍子に、ドキンと胸が大きく跳ねた。
今からこんな調子でこれから大丈夫かな。
もつかな、私の心臓。
「行こうか」
「うん」
会えたら、まず何を言おうかって考えてたのに、全部飛んでいってしまった。
また相づちをうって頷くことしかできなくて、あまりの情けなさに涙が出そう。
って!
ダメダメ!
頑張るって決めたんだから!
弱気になるな、弱気になるな、弱気になるな。
心の中で呪文のように唱えて、奥歯に力を入れた。
よしっ。
「せ、背が伸びたにぇ」
あ、噛んじゃった。
しかも裏返ったし。
くすりと笑われて、頬が熱くなってしまう。
でも、この那由多の笑いかた。
さっきとは違うこの楽しそうな笑顔のほうが、私の顔を急激に赤く染め上げる原因だった。
子どもの頃、いつも向けられてたのと同じ顔に胸まで熱くなって、好きって気持ちが溢れてしまいそうになる。
「まだ伸びてるよ」
「そう、なの?」
「うん。180いけそうかな?」
「私も結構伸びたのに、全然追いつけないね」
「それは無理でしょ」
笑い混じりの会話は、昔に戻ったみたいで楽しい。
少しずつ自然に戻れてるのも自分で感じて、なんとか落ち着いてきた。
だから、調子に乗ってぷっと頬を膨らまして見せたんだけど、那由多はまたしても見たことのない、ちょっとだけ意地悪な視線を送ってきた。
「僕は男だからね」
「!」
なに、その顔。
「負けないよ」
「……なんか、ズルイ」
本当にずるい。
ひたすら優しかった那由多が、そんなこと言うなんて。
穏やかに笑うか、泣いてばかりだった那由多が、そんな顔するなんて。
カッコよすぎてドキドキしちゃうじゃん。
いっぱいいっぱいになりながらもなんとか会話を繋げてるうちに、那由多が一件のお店の前で立ち止まった。
私も足を止めて、そのお店を見上げる。
そこはレトロな雰囲気のドアが特徴的な、おしゃれなイタリアンレストランだった。
「ここだよ」
そう言うのと同時にドアが開かれる。
那由多に促されて中に入ると、途端にいい匂いに包まれた。
「ここのピザ、母さんの大好物なんだ」
「そうなんだ」
「あ、いたいた。零ちゃんあそこ」
言われて視線を向けるとそこにはおばさんがいて、すぐに私たちに気付いて控えめに手をあげた。
そんなに広くない店内を、テーブルと他のお客さんを避けながら抜けていく。
ランチの時間はとっくに過ぎてるのにこんなに混んでるなんて、びっくりだよ。
きっとすっごく美味しいに違いないから、食事が楽しみになってきた。
ここに来るまでは、正直お料理やお店のことにまで気が回らなかったけど、那由多ともなんとか普通に話せてるし、食事も楽しめそうな余裕が出てきてた。
誘ってくれた那由多のお母さんに感謝しないと。
まずは笑顔で挨拶した。
「こんにちは」
「零ちゃん、よく来てくれたわね」
手を握って本当に嬉しそうに笑いながらの熱烈な歓迎に、ちょっと照れる。
「おばさん、今日はわざわざありがとう」
「いいのよ!零ちゃんはもう私の娘みたいなものなんだから!さ、座って座って」
さすがうちのママと気が合うだけある。
有無を言わさぬ雰囲気で、気付いたときには隣の椅子に腰掛けてた。
本当は、那由多の隣に座ろうと思ったんだけどな。
でも、話もできたし、まぁいっか。
ふと思い出したように、那由多は辺りを見回してから首を傾げた。
「父さんは?」
そういえば、那由多のお父さんの姿がない。
今日は那由多の家族全員と食事する予定だったはずだけど、トイレかな。
「それが急に会社から呼び出されちゃったのよ。零ちゃんに会えないの悔しがってたわー」
そうだったんだ。
那由多のお父さんにも会いたかったな。
「私も残念です」
「でも、高校がこっちならまた機会はあるわよね。今度はみんなで来ましょう」
そうだよね。
これからは会おうと思えばいつでも会える距離にいるんだもん。
また会うチャンスはいっぱいあるんだ。
「今日は3人で楽しむわよ♪」
「はい!」
いそいそとメニューを開くと、那由多のお母さんのオススメからピザとパスタを何種類か選んだ。
そしてまた3人でわいわい喋りだして、運ばれてきた美味しいお料理を食べたら、いつしか変な緊張は跡形もなくもう消え失せていた。
1時間もたてばテーブルの上はからのお皿だけになった。
「あぁお腹いっぱいだわ。食べ過ぎちゃったみたい」
「私もです」
「ふたりともすごい食べたね」
「な、那由多だっていっぱい食べたじゃん!」
自分はそんな食べてないような言いかたしてるけど、半分近くは那由多が食べたのに。
そんな痩せた身体のどこに入ったのか、本当に不思議。
苦しいそぶりも見せないなんて異常にさえ思えるよ。
これが、男だからってことなのかな。
さっきのを思い出して、顔に熱が集まっていくのを感じた。
「さてと、そろそろ出ましょうか」
私と那由多に笑いかけて、那由多のお母さんが席を立った。
私たちもそれにならってあとに続き、お会計を済ませて外に出た。
「じゃあ那由多、零ちゃんを寮まで送ってあげてね」
「わかってる」
「ごちそうさまでした」
那由多のお母さんもこれから会社に行くみたい。
いつも忙しいのにわざわざ時間を作ってくれたんだなって思うと、凄く嬉しかった。
だから力一杯手を振って別れる。
そして、またふたりきり。
あれ。
なんか、また緊張してきちゃったみたい。
右手と右足が同時に出そうになったのをなんとか堪えて、普通を装う。
那由多だけ普通なのが悔しかった。
「行こう」
かちこちになってしまった私は、ただ頷いて後ろを歩き出した。
「あ、バス停まででいいよ」
那由多のお母さんが寮までって言ってたけど、ただ乗ってれば着くんだからと思ってそう言った。
でも、
「寮まで送るよ。まだ、話したりないから」
そう返されてしまったら断れるわけない。
私だってまだまだ話したいもん。
ううん、話さなくてもいいや。
一緒にいれるだけで特別なことだってわかってるから。
那由多も少しは同じ気持ちでいてくれてるのかな。
ただ単に懐かしんでるだけだったら、悲しい。
まだ離れたくないって思ってくれてたら、幸せなんだけどな。
それを知るには、伝えなくちゃいけない。
もう一度、ちゃんと。
今度こそ、那由多からの返事を聞かなきゃわからない。
2度目の告白。
今度こそ聞いてくれるかな。
答えが聞けるかな。
「那由多」
名前を呼んだら優しく見つめてくれるから、期待せずにはいられなくて困る。
こんな風に私を見てくれたら、それで十分な気さえしてきてしまうけど、確かな答えが、言葉が欲しいから。
「あのね、」
言うんだ。
でも、私の告白はうまくいかない運命みたい。
「瀬尾!こんなとこでなにしてんだ?」
那由多の知り合いらしき人が声を掛けてきた。
「柳田」
相手を見て、那由多も声をあげた。
柳田君っていうらしい。
友達かな。
なんとなく、仲良さげな雰囲気なんだけど、私にはとっても意外だった。
だって、柳田君は一言で言うとヤンキーみたい。
両耳にたくさんのピアスをしてるし、髪も赤茶色く染めてかなり遊ばせてる。
はっきり言って、優等生に見える那由多とは対照的だった。
話すふたりは正反対の見た目だけど、同じくらい目立ってた。
通りすぎる女の子はみんな見ていく。
私には柳田君のような友達はいないからちょっと怖く感じてしまうけど、那由多と親しげに話す姿に少し安心した。
那由多も、私が知ってる那由多となんか感じが違う。
友達の前だとこんななんだ。
私と話すときよりくだけて見えて、これが素の那由多なのかもって漠然と思った。
新たな発見は、寂しいような嬉しいような変な気持ち。
「そういや昨日、まーた京子先生んとこ行ってたのか?」
柳田君の呆れたような声がして、私は首を傾げた。
京子先生?
「あぁ、行ったよ」
「うわー熱烈だなぁー。毎日通ってね?」
誰、なのかな。
那由多が毎日会いに行ってる人がいるの?
ドクン。
なんか、嫌。
那由多がなにか言いたげに眉を寄せて口を開いたけど、その前に
「あれ?誰?」
「あ、」
柳田君がやっと私に気付いて、指を指した。
那由多の友達だし、ちゃんと挨拶しないと。
そう思って名乗ろうとしたら、那由多に遮られてしまった。
「お前に関係ない」
「なんだよつれねぇなー。紹介しろよ」
「嫌だ。もう帰れよ」
友達の前だとこんな言葉遣いなんだ。
私の同級生と比べておとなっぽいと思ってたけど、こうして友達を前にした那由多を見たら、実はそうかわらないのかもって思った。
そんなつれない言葉を受けて、柳田君は肩を上げてやれやれと息を吐いてる。
「ちぇー、わぁったよ!……あんたも気を付けなよー」
「えっ?」
いきなり話をふられて、上ずった声が出てしまった。
気を付けるって何に?
意味がわからなくて、柳田君を見つめて首を捻る。
「こいつ手が早いから。ムッツリだから」
「柳田!」
慌てた那由多が柳田君の口を塞いだ。
でも、聞こえちゃったよ。
どういう、こと?
真っ赤になったその顔が、間違いなく肯定だって知らせてる。
那由多は、“京子先生”のところに通ってて。
毎日、熱烈に、通ってて。
………。
そういう、ことなの?
那由多は“京子先生”が好きなんだ。
それで……。
「零ちゃん!?」
私は駆け出した。
バス停まで全力で走って、タイミングよく来たバスに飛び乗った。
追いかけてきた那由多が私を呼んでたけど、振り返れないよ。
バスのドアが閉まって、すぐに走りだす。
伝えるだけでいいって、那由多が誰を好きでも関係ないって思うようにしてたけど、ダメだ。
私は京先輩や青山君ほど強くなかった。
強くなれなかった。
失恋、しちゃった。
痛いよ。
胸が、痛い。
那由多から着信とメッセージがたくさん来てたけど、それも見れなかった。
見たくなかった。
寮の部屋に駆け込んで、スマホの電源を落として乱暴に机の引き出しに投げ込んだ。
翌朝。
スマホは仕方なしに引っ張りだしたけど、那由多からのメッセージは相変わらず開けなかった。
まだダメージが大きすぎて、立ち直れそうにない。
こんな時はどうしたらいいんだろう。
前回は、聞いて貰えなくて落ち込んだけど、今回は違う。
失恋しちゃったんだもん。
なんにもやる気がでないし、気を抜くと涙が涌き出てしまう。
だから、枕に顔を押し付けてベッドでごろごろと転がってた。
すると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
あ、そうだった。
今まで忘れてたけど、今日はルームメートが来るんだった。
慌てて髪と衣服を整えて返事をすると、ドアが開いて女の子が顔をのぞかせた。
同室のその子は、小柄な身体に大きな荷物を抱えて部屋に入る。
肩で揺れる緩くウェーブした髪が可愛らしくて羨ましい。
「私、椎名 美加。美加でいいから。今日からよろしく」
美加は、見た目はのんびりした感じなんだけど話してみると結構ハキハキとしてて、ちょっとの時間でも結構打ち解けられた。
なんとなく気が合いそう。
美加もそう思ってくれてるのか、
「零みたいな子が同室でよかった」
なんて言ってくれた。
今の私には、新しい友達ができたのはかなりの救い。
最低だった気持ちがちょっとだけ上向きになった気がした。
片付けを手伝おうかって言ったら、そんなにないから大丈夫と断られてしまって、少し手持ちぶさた。
とりあえず、邪魔にならないように外出することにした。
出掛けようにも特に行くところもないし、買い物や遊びに行く気分でもない。
少し悩んで、私は京先輩に電話を掛けた。
入学前だけど一足先に高校の部活に参加できないかな。
むしゃくしゃして、じっとしてられなくて、なにも考えずに走りたかった。
京先輩はちょっと走りたいって相談したら、快く迎えてくれた。
こんなときにこんなことを頼むなんて最低かもしれないけど、ついつい頼ってしまう。
実は高校でも成績を残して、今ではまた部長を勤めてる京先輩。
面倒見がいいし、きっと向いてるんだろうな。
他の部員の先輩たちまで紹介して貰った。
先輩たちも気さくに迎え入れてくれて心底ほっとした。
私はいつも仲間に恵まれてると思う。
そんな新たな出会いに、更に気持ちが紛れてたのに、
「今練習場の整備工事しててさ、近くの別の高校のグラウンドを借りてるんだ」
どくん。
京先輩の一言で、胸が嫌な感じに波打った。
だって、ここから近い高校って、実はひとつしかないって知ってたから。
私の予感は外れて欲かった。
でも、見事大当たり。
せっかく距離をとって必死に紛らせてたのに、那由多の高校に行くことになってしまった。
那由多の高校に着いて、みんな各々スパイクに履き替えたりアップを始めたりしてたけど、私は落ち着きなく辺りに視線を巡らせてた。
もしかして、那由多がいるかもしれない。
会っちゃったらどうしよう。
会うのが、怖い。
そんなことばかり考えてしまう。
そうしたら、京先輩が私の様子に気付いて声を掛けてくれた。
「零?どした?」
「いえ、なんでもないです!」
「そ?ま、なんかあったら言えよ?」
言えるわけないよ。
本当は相談したくて仕方ないけど、私だってそこまでバカじゃない。
作り笑いで頷いて見せた。
きっと、分かりやすい私のことだから、京先輩には何かあるってばれちゃってると思うけど。
なにも聞かないで、いつもみたいに優しく笑いかけてくれるから安心する。
つけ込んでるみたいで罪悪感を感じるけど、でも、今のぼろぼろの私の心には酷く心地好くて、その優しさを求めずにはいられなかった。
「よし、走るか!」
「はい!」
京先輩と話してると不思議。
なんとかなる、大丈夫って気持ちになってくる。
うん、大丈夫だよね。
まだ春休みなんだし、いるわけない。
まずは思いっきり走って、落ち着こう。
準備を整えて、グラウンドへ踏み出した。
高校の部活はやっぱり凄い。
先輩方にいろいろ教わりながら、無心に走ってた。
こんなときでも、やっぱ走るのは楽しかった。
京先輩の人気も相変わらず凄かった。
他校なのにファンがいる。
それもひとりやふたりじゃなくて、人だかり。
女の子の声援を受けながら走る姿はちょっと懐かしいかも。
「相変わらずモテモテですね」
休憩時間にそう言うと、金色の髪から汗を落としながら眉を寄せられてしまった。
「嬉しくない」
本当に嬉しくなさそうな困った顔に、ちょっと笑ってしまう。
京先輩は変わらないな。
それが嬉しかった。
「笑うなよ」
「すみません」
なんだか、よく京先輩をからかってた武先輩や千里先輩の気持ちがわかった気がした。
「佐久間と後輩ちゃんは仲良いな」
いつの間にか、周りには部員が集まってた。
人を惹き付ける力も相変わらずみたい。
「そうですか?」
「付き合ってんの?」
「付き合ってませんよ!」
まさかの直球にびっくりして声が裏返ってしまう。
いきなりなんの質問をするんですか。
京先輩も一緒に否定してくれた。
けど、
「付き合ってないよ。俺の片想い」
「マジか!」
な、なななにを!
私は真っ赤になって京先輩のTシャツの裾を引っ張った。
「け、京先輩!?」
「頑張るって言っただろ?」
言ったけど。
まさか、まだ好きでいてくれてるなんて自惚れてなかったし、あれは私を励ますための言葉だと思ってたのに、まさか、本気で言ってくれたの?
というか、そんなキラキラした顔でそういうこと言わないで下さい。
キャーキャー騒がれてしまったらたまらない。
私はトイレを口実にそそくさと逃げた。
校舎脇を抜けてトイレに入ると、どっと力が抜けた。
本当に焦った。
まさか、あそこであんな風に言われると思ってなかったから。
京先輩ってあんなキャラだったかな。
冷たい水で顔をばしゃばしゃと洗って気持ちを落ち着けると、重くなる足を引きずりながらトイレを出た。
ゆっくりグラウンドに向かって歩きながら辺りを見回す。
真新しい白い校舎に、至るところに植えられた木々から溢れた木漏れ日が降り注いでる。
ここが那由多の通う高校なんだ。
さっきまでは怖くて会いたくなかったのに、今は無性に会いたくなってた。
会いたい、会いたくない、会いたい、会いたくない。
自分で自分の気持ちがわからなくて、混乱する。
無意識に那由多の影を探してしまう。
一階の隅の部屋の窓が開いていて、カーテンが揺れてた。
なんとなく目が離せなくて、ゆらゆらと揺れるそれをぼんやり眺める。
と、その向こうに人影が見えた。
ウソ。
そこにいたのは、紛れもなく今探していた人。
会いたくなくて、でも、会いたかった、那由多の姿。
それと、那由多の肩に手を置いて楽しげに話す綺麗なおとなの女性。
あれが“京子先生”なんだって、すぐにわかってしまった。
なんの話をしてるのかな。
那由多の顔は見えないけど、凄く親密そうなのはよくわかった。
どうしてだろう。
近付けば近付くほど、さらに遠く離れてしまった気がした。
なんでもない風を装って練習に戻ったけど、もう走れる気分じゃなかった。
あやふやだった“京子先生”がはっきり目の前に現れて、頭を殴られたような衝撃が私を襲う。
何をしたって、もう一生この傷みを治せる術はない気さえしてた。
だから、京先輩にお礼を言って、もう帰ることにした。
様子のおかしい私に、最初は普通に手を振って別れた京先輩だったけど、私がバス停でバスを待ってると追いかけてきた。
「零!」
遂に呼ばれて、ゆっくり振り返る。
何を言われるのかは予想できてた。
「なにがあった?」
「なんでもないです」
だからすぐにそう答えられた。
隠してる訳じゃない。
そう。
何もない。
ただ単に、直面した現実に参ってるだけ。
私が弱いだけ。
「いいから、言ってみな」
「嫌です」
優しい京先輩。
心配してくれてるのがわかる。
でも、ここで甘えられない。
甘えるわけにはいかなかった。
だって、京先輩の気持ちに応えられないのにそんなことしたら、本当に最低になっちゃうから。
「……そっか」
「……」
「悪い、ムリに言わそうとして」
京先輩は申し訳なさそうに謝る。
悪くないのに、謝らせてしまった。
でも今は、そんな京先輩に対してフォローもできなかった。
私はただ首を振ってやっときたバスに乗る。
ドアが閉まってガラス越しに振り返ってみたら、京先輩は笑ってた。
「またな」
もう一度、手を振り合って別れたけど、いつまでも京先輩の笑顔が頭から離れない。
らしくない作り笑いが、私と京先輩との距離まで広げてしまった気がした。