0.7 告白
大会が終わると、陸上部も夏休みに入った。
3年生は、これで引退。
今度は受験を目指して頑張ることになる。
特に武先輩は目に見えて憂鬱そうだった。想像しただけで大変そう。
部長は、京先輩の指名で千里先輩に受け継がれた。
大会翌日に部室の掃除をみんなでしたけど、荷物を片付けるうちに、3人の先輩がいなくなってしまうことに段々と実感が沸いてきて、寂しさが募った。
でも、京先輩が、
「引退しても俺くるし」
って当たり前のように言うから笑っちゃった。
そうだった。
京先輩は走るために陸上部を作ったんだ。
また京先輩と走れるのは嬉しいな。
そう思ったら、寂しさはかなり薄くなってた。
残りの夏休みも部活の予定はあるけど、もう毎日とかじゃない。
みんな遊んだり旅行に行ったりするから、お休みの割合がぐっと増えた。
今日も部活は休み。
私は葉月ちゃんと映画に行く約束をして、出掛けた。
「おはよ」
待ち合わせの駅前に着くと、もう葉月ちゃんは来てた。
「おはよー葉月ちゃん!」
急いで駆け寄って挨拶をかわす。
「早くチケット買いに行こ!」
「うん!」
今日は久しぶりに二人で遊ぶから浮かれてたけど、それは葉月ちゃんも同じだったみたい。
ニコニコとご機嫌に微笑んで、私の手をぐいぐい引いていった。
無事チケットを買うと、上映までの時間を潰すためにファーストフード店に入った。
ポテトとジュースの載ったトレイを持って窓際のカウンター席に並んで座る。
「2位おめでと」
紙カップを傾けて葉月ちゃんが言った。
「ありがと」
鮮やかなオレンジジュースを揺らして乾杯した。
「零スゴイ」
「そんなことないよ」
「ううん、スゴイ」
「そっかな」
「うん」
葉月ちゃんは、まるで自分のことみたいに私の入賞を祝ってくれる。
ちょっと照れるけど、やっぱり嬉しいな。
でも、そんなにキラキラした目でまじまじと見つめられると恥ずかしいよ。
「あのね京先輩もスゴイんだよ!」
照れ隠しに探し出した話題を早口に喋る。
「あのアイドル先輩?」
「そう!3連覇したの!」
私は熱く語る。
「すっごく速くて、フォームも綺麗なの」
「……ふぅん」
あれ?
興味ない?
うちのクラスで京先輩の話題に食いつかない女子はいないんだけど。
やっぱ葉月ちゃんは他の子達とは違うみたい。
「零さ、京先輩には気を付けなよ」
「え?」
気を付ける、って何?
「噂になってるから」
「噂?」
「そ。零を狙ってるって」
は?
私を狙ってる?
「……」
「……」
ストローでジュースを吸い上げる葉月ちゃんは、涼しげな表情で私の反応を待ってた。
なんか、よくわからないけど。
「京先輩には私なんか敵じゃないよ?」
「え?」
「なんで3連覇の京先輩が私なんか狙うの?私のほうがついていくだけで必死なのに、相手になんないよ」
「……」
「その噂ウソだよ」
うん、デマだよ。
間違いない。
京先輩は高校生にだって挑めるくらいだし。
あれ?
なんで葉月ちゃん項垂れてるんだろ。
「葉月ちゃん?」
声を掛けてみても、返ってきたのは溜め息だけだった。
今度は私がジュースをズコズコ飲みながら、様子を見てた。
「まぁ悪い先輩じゃなさそうだし、大丈夫だと思うけど……」
「京先輩は良い先輩だよ」
「……」
また溜め息つかれちゃった。
さっきからなんなんだろ。
「葉月ちゃん?」
いいかげんもどかしい。
「うん、わかった。もういいわ。大丈夫」
「そうなの?」
いったい何が大丈夫なんだろう。
聞こうと思ったけど、その前に葉月ちゃんが口を開いた。
「瀬尾がいるし、大丈夫でしょ」
「えっ?那由多?」
なんでここで那由多が出てくるの!?
予想外の名前に思わず顔が赤くなる。
毎日話はしてるけどその名前を耳にするのは久しぶりで、ドキドキした。
「うん、その反応なら心配ないか」
葉月ちゃんはひとり納得して頷いてた。
意味わかんない。
「そういえば、明日だっけ?」
あ、と声をあげて葉月ちゃんが聞いた。
「うん、明日のお昼頃」
私はにやける顔を抑えられないまま答える。
「嬉しそうにしちゃって」
「だって嬉しいもん」
呆れ顔で見つめられても気にしない。
だって、本当に嬉しいから。
明日、那由多が遊びに来る。
一年ぶりに会えるんだ。
楽しみすぎて、もう1週間くらい前からよく眠れなかった。
新しい家に引っ越してからは初めて。
部屋の掃除もちゃんとしたし、昨日は、たくさん並べてた那由多の写真を引き出しの中に隠したりした。
部活の仲間とか葉月ちゃんとかの写真と一緒に、不自然にならない程度に那由多の写真を混ぜて残したけど。
ハッと我に返ると、もう映画はエンディングになってた。
公開前からすごく楽しみにしてたのに、ぼんやりしてて内容は殆ど頭に残ってない。
ちらっと隣の葉月ちゃんを見たら、感動して涙ぐんでた。
なんでこんな結末になってるんだろう。
いつの間にそうなったのかな。
今更ながらに気になる。
でも、ま、いっか。
私は展開においてかれた映画を諦めて、また明日に想いを馳せた。
当たり前なことだけど那由多も中学生になった。
ぐっとおとなに感じるその響きに、ドキッとする。
また背が伸びたっていってたけど、どれくらい伸びたのかな。
きっと更にカッコよくなってるんだろうな。
那由多の中学校はどんなところかな。
制服はブレザーだっていってたけど、どんな感じなんだろう。
ちょっと妄想してみた。
ヤバイ。
那由多にブレザー、似合う。
っていうか似合いすぎる!
学ランもいいけど、でもネクタイが凄くしっくりくる。
今度絶対見せて貰おうと、ひとり心に誓った。
「零?」
葉月ちゃんに名前を呼ばれて目を向けると、もう映画は終わって帰る準備をしてた。
あ。
結局、映画はほとんど観ることなく終了。
終わったことにも気づかなかった。
葉月ちゃんはそんな私を見て一瞬で全てを悟ると、訳知り顔で笑ったのだった。
いよいよ那由多が遊びに来る日。
私は1年前と同じように朝からソワソワしてた。
1時間って、ううん、1分ってこんなに永かったっけ。
時間を潰そうと宿題をやってみてもひとつも進まないし、ちょっとなにかをしても集中できるはずもなく、全く落ち着かなかった。
またお昼に駅に迎えに行くことになってるけど、まだ今は朝と呼べる時間帯。
私は遂に家で待っていられなくなって、出掛けることにした。
とりあえず駅への道のりにある図書館へ行こう。
痛いくらいに強い日差しの中へ、私は歩き出した。
数分で図書館に着いて自動ドアをくぐると、ひんやりとエアコンの効いた空気に包まれた。
この図書館は新刊や読みやすくて面白い本が多くていい。
もう私の行きつけになってる。
最近は部活ばっかりで来てなかったけど、今日は昨日見逃した映画の原作を借りようと思ってた。
本棚をゆっくり廻って目的のファンタジー小説を探す。
別の本を手に取ってパラパラ捲ってみたりしながら、ゆっくりと歩くのが楽しい。
綺麗な挿し絵が入った本は特に好きで、それに惹かれて読み始めた物語もたくさんあった。
何冊か気に入ったものを抱えて、最後に目当ての本を取って、貸出しカウンターへ向かった。
「お願いします」
「はい」
カードと本を司書さんに渡す。
カウンターの後ろに掛かってる壁掛け時計に目をやったら、待ち合わせの時間までもう少ししかなかった。
意外と時間を潰せたみたい。
はやる気持ちを抑えながら、貸出し手続きが終わるのを待ってた。
「あら?」
司書さんが声をあげて私に向き直った。
「園村さん」
「はい?」
眉尻を下げて、ちょっと言いにくそうに名前を呼ばれる。
なんだろう。
「以前貸し出した本を、まだ返して頂いていませんよ」
「えっ?」
あれ?
なにか借りてたっけ?
あ!
そうだった!!
「すっ、すいません!」
前に借りた陸上の本を、返すの忘れてた。
私は慌てて謝る。
「この本は予約にしておきますから、前の本を持ってきてくださいね」
「はい!」
あぁ、お姉さん優しい。
すでに顔見知りの司書のお姉さんは、次に借りたい本をいつもこっそりとっといてくれる。
私もいつか、あなたのようになりたいです。
密かに憧れてた。
「絶対あとで持ってきます!」
「お待ちしてます」
笑顔でそう返して貰うと、私は手を振って図書館を出た。
あぁ、バカみたい。
すっかり忘れてた。
自分のドジっぷりに溜め息が漏れる。
あとでまた来ようと決めて、私は頭をプルプル振った。
本のことはちょっと置いといて、今はそれよりも大事なことがある。
急いで駅に行かなくちゃ。
私はまた夏の光の中へ駆け出した。
息を切らせて駅に着くと、そこにはもう那由多がいて、すぐに私に気づいて手を上げた。
「ゴメン、那由多!」
謝りながら駆け寄る。
「零ちゃん、久しぶり」
「はぁ、はぁ、ひ、久しぶり!」
「大丈夫?」
「ん、平気」
呼吸を整えて顔を上げたら、少し心配げにしながらも微笑む那由多がいた。
どきん、と胸が鳴る。
ほんとにまた背が伸びてる。
私の視線の高さには那由多の肩があった。
私もまだまだ伸びそうだけど、きっと差は開くだけかもしれない。
それに顔つきもちょっと変わったかも。
1年前よりおとなっぽくなってる。
相変わらずの綺麗な顔は柔かさが減って少しシャープになったみたい。
な、なんか緊張してきた。
「走ってきたの?」
「うん、遅くなってゴメン」
「いいよ」
那由多は遅刻した私を笑顔で許してくれた。
あ、この顔はなんにも変わってない。
よく知ってる表情を見たら、なんか凄く安心して、気づけば私も笑ってた。
少し話してみればすぐに変な緊張も解けて、私たちは並んで歩き出した。
新しい家までの道のりを教えながら、ゆっくり歩く。
会話は途切れることなく、ずっと喋ってた。
毎日スマホで話はしても話題は尽きなくて、あっという間に家に着いた。
「ただいまー」
「お邪魔します」
声を掛けながら玄関へ入ると、ママと元気がパタパタと出迎えに出てきた。
「いらっしゃい、那由多くん」
「おにいちゃん!」
あ。
去年の記憶が甦る。
そういえば、みんなに那由多を独占されてたっけ。
案の定、靴を脱いだ瞬間に元気は那由多の手を取って、リビングへ引っ張って行った。
やっぱりね……。
私はがっくりと肩を落として、苦笑した。
「あ」
突然声を上げた私に、元気たちを追ってリビングに入ろうとしたママが振り返った。
「零?」
「ごめんママ。私部室に忘れ物してたから取りに行ってくる」
「今から?」
「うん、図書館の本だから。返すの忘れてたの」
「あらら」
「ちょっと行ってくるね」
「はいはい、行ってらっしゃい」
私は再び外出しようと玄関ドアを開けた。
「あ!待って、零」
「何?」
「那由多くんも連れてってあげたら?」
「え?」
「那由多くーん!」
私の返事を聞くまでもなく、ママは那由多を呼ぶ。
顔を出した那由多は二つ返事で、一緒に学校へ行くことになった。
元気が泣きそうな顔で私を睨んでたのは、見なかったことにしよう。
「付き合わせてごめん」
貸出し期限が切れてるから取りに行かない訳にいかないし、ひとりでささっと取ってきてぱぱっと返してしまおうと思ってたけど。
まさか一緒に行くことになるなんて。
せっかく遊びに来てるのに、申し訳ない気持ちになった。
でも、そんな私の想いとは反対に、那由多は嬉しそうに笑った。
「気にしないで。零ちゃんの中学見たかったから嬉しいよ」
「ホント?」
「ホントに」
「ならよかった」
嘘じゃないってわかった。
本当に行ってみたかったんだって。
そういえば、私も那由多の学校が見たいってずっと思ってたっけ。
那由多も、おんなじように思ってくれてるんだ。
嬉しいな。
もう歩き慣れた通学路を、那由多と並んで歩くのは変な感じ。
叶わないと思ってた夢が、まるで叶ったみたい。
私は浮かれて多少変なテンションのまま、中学校の校門を潜った。
「これがうちの学校だよ」
那由多に学校を紹介する。
「そっか、ここで勉強してるんだ」
「うん。あそこがうちのクラスの教室」
校舎の一角を指差して、教室も教えた。
「ちなみに席は窓側の前から3番目」
調子に乗って席まで教えちゃう。
「じゃあ、あの辺?」
「そうそう!」
那由多も指差して乗ってくれるから楽しい。
ふたりしてクスクス笑いながら校舎を見上げた。
なんか、同じ学校に通ってる気分。
私はクラスメートの那由多を想像してた。
ヤバイ。
超楽しい。
そうだ!
グラウンドも見せてあげよう。
早く部室も見せて、同じ部活に入った那由多も想像したい。
「ちょっと待っててね」
「うん」
私は昇降口に那由多を待たせて、駆け足で職員室へ向かった。
本を取るために部室の鍵を借りるのだ。
ドアをノックしてガラリとあける。
「失礼しまーす」
今日は当直の先生がいるはず。
夏休み中も部活があるから、それはちゃんと把握してる。
「お?園村?」
「あれ?先生!」
今日の当直はちょうど陸上部の顧問だった。ラッキー。
先生のいつものやる気のない表情が少し驚いてるけど、気にせず職員室へ入る。
「今日は部活休みだろ?」
「はい、そうなんですが忘れ物しちゃいまして」
「ったく」
先生はみなまで言わずに悟ると、呆れた目で私を見た。
「すいません」
「さっさと取ってこい」
「はい」
先生は部室の鍵を私に投げてよこした。
それを慌てて両手でキャッチする。
「ありがとうございます」
私は待たせてる那由多の元へ急ごうと踵を返した。
早く那由多に見せたい。
埃っぽいけど妙に落ち着くあの部室を見たら、なんて言うかな。
そんなことを考えながら職員室を出る寸前、先生が声を掛けた。
「あ、園村」
「はい?」
「佐久間も来てるぞ」
「え?」
京先輩が?
なんで?
今日は部活は休みだし、そもそももう引退しちゃったし。
先輩も忘れ物かな。
あれ?
でも鍵はここにあるし……。
何しに来てるのかな。
ま、会ってみればわかるかな。
私はそれ以上考えるのをやめて、昇降口へ走り出した。
「お待たせ!」
すぐに那由多と合流して、今度は部室へ向かった。
校舎を回り込んですぐのところが我が陸上部の練習場になってる。
部活の話をしながら校舎裏側のグラウンドへ歩いていった。
校舎の陰を抜けると目の前の視界がひらけて、野球部が練習してる姿が遠くの方に見えた。
野球部は今日も練習なんだ、暑そう。とか思いながら部室の前まで行くと、
「零?」
突然、後ろから名前を呼ばれた。
「あ、京先輩!」
「なにしてんだ?」
「先輩こそなにしてるんですか?」
先生が言った通り、京先輩がいた。
「俺はちょっと走りに来ただけ」
うわ。
やっぱり。
なんとなく予想してた答えに思わず吹き出した。
ちょっと走りにって、物凄い汗だくだし絶対ちょっとじゃないでしょ。
「ん?なんかおかしかった?」
「いえ、先輩らしいです」
「そ?」
「はい」
そのやりとりもなんか可笑しくて、ふたりして声をあげて笑った。
「友達?」
京先輩は私が笑いやむのを待ってから、那由多にちらりと視線を向けて私に問い掛けた。
「はい、幼なじみなんです」
「へぇ!いいなぁ」
本当に羨ましそうなその顔に、また吹き出しそうになった。
「俺、佐久間 京。よろしく」
京先輩は人懐こい笑顔で那由多に手を差し出した。
「瀬尾です」
那由多も薄く微笑んで手を握り返す。
わぁー。
すごい不思議な光景。
目の前で那由多と京先輩が握手してるよ。
こうやって並んで見ることなんてないと思ってた。
これはまさに、奇跡のコラボ!
「零ちゃん?」
ハッ!
「あ、ごめん!ぼぉっとしてた!」
いけないいけない。
トリップしてた。
「じゃ、那由多帰ろっか」
「本はいいの?」
「あっ!」
バカだ、私。
「……取ってくる」
恥ずかしさに赤面しながら部室の鍵を開けて中へ飛び込み、テーブルの上の起きっぱなしになってた本を引ったくるように掴んで戻った。
あぁ、那由多笑ってる……。
なんてマヌケなところを見られてしまったんだろう。
那由多に学校に来たわけを説明して貰った京先輩も一緒になって笑うし。
恥ずかしすぎる。
「ほら、那由多!帰ろう!」
いてもたってもいられなくなって、那由多の手を掴んで引っ張った。
「あ!零!」
逃げようとしたところで京先輩に呼び止められる。
「カギ!」
あ。
私の左手には那由多の手。
右手には本と、部室の鍵。
うわーん!
「パス!」
京先輩の声に条件反射してた。
私に投げられた鍵は放物線を描いて、京先輩の手に吸い込まれるようにキャッチされる。
「返しといてやるよ」
「ありがとうございます!」
私は今度こそ本当に逃げた。
せっかく那由多と同級生気分を味わってたのに、それはあっと言う間に終わってしまった。
本当に本当に残念。
図書館への道のりを歩きながらため息を吐いた。
「あーあ」
「零ちゃん?」
心配した那由多が顔を覗き込んだ。
「あっ!なんでもないよ!早く本返して帰ろ!」
いけない。
那由多に心配かけてしまった。
私は笑う。
大丈夫アピールをするために、多少無理矢理。
だって頑張らないと笑えなかった。
さっきまであんなに楽しかったのが嘘みたい。
嘘みたいに寂しい。
やっぱり那由多は遠くにいるって実感が嫌でも沸き上がってきて、苦しい。
「……まだ帰りたくなかったな」
私は無意識に声に出してた。
もっと夢を見てたかった。
「何か言った?」
那由多が首を傾げて聞く。
よかった、聞こえてなかったみたい。
「ううん、なんでもないよ」
今度はちゃんと笑えたと思う。よかった。
私たちはまた喋りながら図書館へ歩き出す。
那由多が、歩き出した私の後ろ姿を見て、少し悲しそうな顔をしたのに、私は気づかなかった。
図書館へ寄って本を返し、新しく借りた小説を持って家に帰った。
家に着くとすぐに、那由多はやっぱり元気に取られて、夜になると定時で帰宅したパパに独占された。
那由多はうちの家族にモテモテ。
私は小さなため息を吐いてママが洗った夕食の食器を拭く。
対面キッチンからちらちら様子を見てたら、たまに目が合うのが嬉しい。
ジェラシーは沸くけど、ま、いっかって気になる。
元気がはしゃぎ疲れて眠りパパもお風呂に入れば、やっと那由多の側へいった。
「はい、お疲れさま」
那由多によく冷えたミルクティーを渡しながら隣に座る。
「ありがとう」
那由多は笑顔でコップを受け取って、美味しそうに飲んだ。
「ママが和室に布団敷いてくれたから」
「うん、ありがとう」
もう1回お礼を言って、また笑う。
那由多の笑顔は、いつ見ても綺麗だ。
優しくて柔らかくで、でも凛としてて。
月の光みたいに仄かに眩しい。
私は目を細めて笑い返してた。
今日はパパの断固たる主張で那由多は和室で眠ることになった。
パパの心配はなんとなくわかる。
那由多なら一緒でも大丈夫だと思うけど、泣きそうなパパを見たらあまりに可哀想で私もママも今回は反対しなかった。
今は客室もあるし。
それに、きっと私の方がドキドキして眠れる気がしない。
良かったってちょっと安心してた。
「あ!」
那由多がスマホを取り出したのを見て、思わず声が出た。
私の視線の先には、スマホについたストラップ。
小さな緑の星が並んでる。
「去年貰ったやつだよ」
「つけてくれてるんだ」
「うん、気に入ってる」
今度は太陽みたいな笑顔を見せてくれる。
うわ、なんか物凄く照れる。
「わ、私もね、……ほら!」
誤魔化すように慌ててポケットからスマホを出して、那由多に見せた。
おんなじ白い機種。
その端からぶら下がるのはブレスレット。
「私もお気に入りなんだ」
夏祭りで交換した宝物が揺れた。
その向こうでは相変わらず、那由多が笑ってた。
でも、それがどこか儚く見えたのは気のせいだったのかな。
コンコン。
コンコン。
ドアをノックする音で目が覚めた。
「零ちゃん?起きてる?」
はっ!
一瞬で覚醒し、慌てて時計を見ると、寝坊してた。
「零ちゃん?」
「ななな、那由多ゴメン!今起きた!」
慌ててベッドから降りてドアを開けると、もう身支度を済ませた那由多が立っていた。
「おはよう」
「おはよー……」
くすりと笑われて、私の顔はきっと真っ赤になったと思う。
恥ずかしすぎる。
「あ、入って入って!私顔洗ってくる!」
昨日から失態続きでいたたまれない。
那由多を部屋に押し込んで洗面所に駆け込んだ。
冷たい水で顔を洗ったら、やっと落ち着きを取り戻せた気がする。
ボサボサの寝癖もバッチリ見られたに違いない。
鏡の中の自分に深い溜め息が漏れた。
丁寧に髪を直して最後にしっかりチェックもして、部屋に戻った。
部屋に入ると那由多は私の机の前に立ってぼーっとしてるみたい。
凄く珍しい。
「那由多?」
思わず呼び掛けると、いつもの笑顔でゆっくり振り向いた。
「おかえり」
「ただいま。写真見てたの?」
「うん。勝手にごめん」
「いいよいいよ!」
あ、危なかった!!
那由多の大量の写真を隠しといて良かった!!
ストーカーばりに置いてたのを見られたら、絶対に気持ち悪がられちゃうよ。
今はお気に入りの一枚だけ飾ってあるけど、普段はベスト10くらいまであるし。
「零ちゃんらしい部屋だね」
「そうかな」
「うん。明るくて居心地いい感じ」
居心地いい?
そう言って貰えると凄く嬉しいな。
私はえへへとにやけて頭をかいた。
そういえば昨日は那由多に私の部屋を見せてなかった。
パパと元気が那由多を独占してたから。
「この人って昨日の先輩だよね」
那由多は不意に視線を机に戻すと、陸上部のみんなで撮った写真を指して言った。
「うん、そうだよ」
「“京先輩”だっけ」
「うん」
「聞いてた通りで本当に芸能人みたいだね」
「学校でもモテモテで凄いんだよ」
「そうなんだ」
あれ?
なんか那由多の様子が変な気がする。
何枚か飾ってある部活のみんなと撮った写真を、静かに見つめてる。
「那由多?」
「ん?」
「どうかしたの?」
私の問いに那由多が応えようと口を開く。
けど、その答えを聴くことはできなかった。
「零ー!那由多くーん!」
ママが声を張り上げて私たちを呼んだ。
「早くしないと遅くなっちゃうわよー!」
あ!しまった!
ゆっくりしてる場合じゃなかったんだ。
今日はずっと前から楽しみにしてた一大イベントがあるのをすっかり忘れてた。
「すぐ着替えて行くから、先にご飯食べてて!」
「うん、わかった」
那由多を部屋から見送って急いで着替える。
今日着る服はもう決めてあったから袖を通すだけでいい。
モノトーンのチェック柄に黒いリボンが付いたノースリーブのワンピースは、普段ほとんど着ない一番可愛い服。それを着た。
だって、可愛くしなくちゃ。
普段おしゃれとかあんまりしないから恥ずかしいけど、頑張った。
今日は、那由多と出かける予定だったから。
しかもただのお出かけじゃないし。
なんていったって、那由多の家に遊びに行く日だから。
それから急いでご飯を食べて、ふたりで家を出た。
ママから那由多のママに渡すようにって預かった菓子折りと、大きめのトートバッグをぶら下げて改札を抜ける。
やばい。
ドキドキしてきた。
那由多の家に行くのは6年ぶり。
どんなマンションだったかなんてほとんど覚えてないし、那由多のパパとママに会うのもそれ以来だ。
しかも、今日はお泊まりして明日帰る予定だった。
バクバクバクバク。
心臓が暴れ狂ってた。
極限に緊張するよ。
「零ちゃん?」
「ななな何?」
「だ、大丈夫?」
さっきまで様子がおかしかった那由多はもういつも通り。
代わって私が挙動不審になってる。
ど、どうしよう。
変に思われちゃうよ。
昨日までは楽しみすぎるくらいだったのに。
今はちょっと吐きそうだよ。
本当にどうしよう……。
「大丈夫?」
もう一度そう言って、那由多が心配そうな顔で覗き込んできた。
早くなんとかしないと!
えーっと、えーっと、えーっと……。
あ!
「楽しみなだけ!」
本当は、不安と緊張と期待と喜びと、他にもいろんな感情がごちゃ混ぜだったけど。あえてそう言った。
“なんにも心配なんてしなくていい、あとは楽しむだけ”
前に教えて貰った方法は、私にはいつもとっても効果的に働く。
次第に緊張は取れて本当に楽しみになってきた。
神様仏様京先輩様、どうもありがとうございます!
私はぶつぶつ呟きながら、尊敬する前部長にお礼を言った。
それから約3時間にもおよぶ長い旅も、私は楽しく過ごした。
お喋りしたりゲームをしたりお菓子を食べたり、そしてまた他愛もない話をしたり。
こんなに那由多とふたりでずっといれるのは久しぶりで、飽きることもない。
むしろずっと着かなくてもいいとか思い始めてた。
でも、電車はちゃんと予定通りに走って、あっという間に感じるほど早く那由多の家に着いた。
マンションのエントランスで、オートロックを解除するために那由多が鍵を取り出す。
チャリンと音がしてキーホルダーが揺れた。
鍵に着いてたのは水色のイルカ。
またおんなじ。
私の黄色いイルカよりはまだ色が残ってるのがちょっと悔しいけど。
「どうしたの?」
クスクス笑う私に那由多が首を傾げた。
「なんでもないよ」
嬉しいな。
那由多に案内されるまま部屋に上がり込む。
やっぱり今日も那由多の両親は仕事でいないから、すごく静かだった。
うちはまだ小さい元気もいるし普段から煩いくらい賑かだから、少し寂しい感じがする。
でも那由多はきっと慣れてるんだろうな。
慣れた手つきで照明やエアコンのスイッチを入れてた。
リビングで少し休んでから那由多の部屋を見せて貰った。
6年ぶりのその部屋はシンプルできちっと整理されてた。
「きれいに片付いてるね!」
「そう?」
「うん、すごい」
「あはは、そうかなぁ」
鼻息荒く頷いた私に那由多は吹き出して笑う。
でも仕方ない。
だって本当にちゃんとしててびっくりしたから。
私の散らかった部屋を見せてしまったことを激しく後悔した。
部屋の隅に絵が置いてあるのを見つけて、私は近付いた。
油絵の具の匂いのするそれは、美術部の作品みたい。
床の上に壁に立てかけて置いてあるキャンパスを覗き込んだ。
描かれていたのは色鮮やかな樹木とたくさんの鳥の絵。
この優しい色使いは間違いなく那由多の色だ。
見ているだけで自分の顔が綻んでいくのがわかる。
「これは美術部に入って初めて描いた油絵第1号だよ」
那由多は私の隣に来ると、絵を持ち上げて優しく説明してくれた。
「え!最初からこんなの描けるの!?」
初めて描いたとは思えない。
昔から見せてもらってた水彩とか色鉛筆とかの絵ももちろん綺麗で大好きだけど、この絵は迫力が全然違う。
絵の中に引き込まれてしまいそうな魅力があった。
「いろいろ失敗してるよ」
「全然わかんないよ!」
「そうかな」
「うん、すごい!」
本当に凄いと思った。
それが顔に思いっきり出てたのか、那由多は小さく吹き出して笑った。
「美術部に入って良かった」
「うん、那由多ぜったい才能あるよ」
「教えてくれる人がいると新しい発見ばっかり見つかって楽しいんだ」
「そっか、良かったね」
本当に良かったと思う。
美術部は間違いなく那由多に合ってたみたい。
自分の絵を見つめる那由多はキラキラ輝いて見えた。
夕方近くになると、剣道の稽古へ行く為に那由多は準備を始めた。
私も小さいバッグだけ持って、那由多を待つ。
今日は私も一瞬に道場へ連れていって貰うのだ。
ずっと見たかったからもうワクワクして仕方ない。
にやにやした顔は簡単には戻せなかった。
「お待たせ」
スポーツバッグを肩に背負って那由多がきた。
まだ洋服だけど手に持った竹刀袋があるだけでいつもと雰囲気が違って見える。
なんかかっこいい。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
私は元気よく応えて、スキップしだしそうなテンションで外へ出たのだった。
道場には、また電車に乗って30分くらいで着いた。
写真で見た通りのまるでお寺みたいな立派な建物に、少し緊張しながら那由多の後に続いて入っていく。
奥へ行くにつれて声が聞こえてきた。
やぁー!とか悲鳴みたいな叫び声だ。
那由多から話には聞いていたけど凄い声。
私はドキドキしながらついていった。
「ここが道場だよ」
がらりと引き戸を開けられた奥には、磨き上げられて艶々とした板の間が広がっていた。
「わぁ……」
至るところに木を使用した内装はお祖父ちゃん家にも似てる。
広い部屋は天井が高くて更に広く感じた。
そこにはもう稽古や素振りを始めてる人がいて、みんな一所懸命汗を流してた。
「僕は着替えてくるから、ここに座ってて」
「うん、いってらっしゃい」
「いってきます」
床に膝を抱えて座る私に薄く微笑んで、那由多は更衣室へと向かった。
ひとりになると、周りの声が更に大きくなった気がする。
私は叫びながら打ち合いを続ける人たちを呆然と眺めてた。
凄い迫力。
時々、防具を打つ音が響いてついビクッとしてしまう。
女の人も男の人に混じって見つけて驚いた。
私よりずっとちいさい子もいるし。
那由多はいつもここに来てたんだ。
遠くなったように感じた那由多にまた近付けた気がした。
落ち着きなく視線を巡らせてると着替えを終えた那由多が戻ってきた。
紺色の袴姿は前に貰った写真より板について見える。
な、なんか意味もなく焦るよ。
だって似合いすぎる。
凄く見たいのにどういう訳かチラチラとしか見れなかった。
カッコよすぎて直視できないみたい。
那由多は私のところへ真っ直ぐ歩いてくる。
あぁ、早く治まって、心臓。
那由多がここまで来る前に落ち着かないと。
しかし、私のそんな心配をよそに那由多は立ち止まった。
誰かに声をかけられて振り返って話してる。
話の相手は今来たばかりみたい。
那由多の影に隠れてよく見えないけど、那由多よりちょっと小さい身長と耳にかかるくらいの髪が見えた。
同い年くらいかな。
すごく親しげに話してる。
そういえば那由多の友達とか見たことなかった。
仲良さそうなあの子はきっと友達だよね。
不意に那由多がこっちを向いて、私を指差した。
動いた那由多の影から現れたのは、女の子。
すごく綺麗な顔してた。
そして、遠くから私を見つめてる。
どこか睨むような、冷たい目で。
那由多が視線を戻すと、その子は薔薇が咲いたみたいに華やかに笑った。
笑い合うふたりはまさに美男美女。
理想のカップルみたい。
さっきまでのドキドキは一瞬で姿を消した。
身体は、夏なのにどうしてか冷えきってる。
さっきまで楽しげに暴れてた胸は、今度は不快に脈打ってた。
「零ちゃん」
「あ、おかえり……」
「?ただいま」
那由多に呼ばれてハッとした。
そんな私の反応に、那由多はちょっと不思議そうな顔してる。
私は曖昧に笑い掛けて誤魔化した。
横目でチラッと視線を向けてみると、さっきの子はもういなかった。
着替えに行ったみたい。
「じゃあ僕は稽古に入るから」
「うん。ここで見てるね。頑張って」
また那由多を見送る。
いつの間にか、膝を抱えた腕に力が込もってたけど、今はほどく気にもならなかった。
なんかイヤな気持ち。
あの子の、あの私を見る瞳が頭から離れない。
あの瞳には見覚えがあった。
あれは、いつも陸上部の練習中に向けられてた目。
京先輩と話す私に、京先輩を好きな女子が向ける目。
あの子も同じだった。
あの子も、那由多のことが好きなんだ。
ズキ。
なんか、痛い。
イライラするし。
さっき、凄く親しげに話してた。
かなり仲が良さそうに見えた。
私の知らない子。
とっても美人な女の子。
イライラは治まることなく、底無し沼にはまったみたいにゆっくりと沈んでいく。
エアコンのない道場は熱気でサウナみたいなのに、身体は冷えてくように感じた。
あんなに楽しみにしてた見学だったのに、着替え終わったあの子と那由多がまた一緒にいるのを目撃してしまったら、もうそれ以上見ていられなくて。
私は膝に額をくっ付けて俯いてた。
「大丈夫?」
心配そうな声がしてゆっくり顔をあげると、想像通りの表情の那由多が屈んで覗き込んでた。
「具合悪い?」
「……うん」
本当は具合なんて悪くない。
でも、ついそう答えてしまった。
那由多は目に見えて焦りを露にした。
「じゃあもう帰ろう。すぐ着替えてくるからもう少しだけ待てる?」
「ごめん、せっかく連れてきてくれたのに」
「気にしなくていいよ」
謝る私に優しく笑い掛けて、私の額に手を当てた。
じわりと温もりが伝わって、やっと身体に熱が通ったみたい。
「熱はないみたいだね」
「うん」
「外の方が風が抜けて涼しいから外で待ってて」
「うん、待ってる」
そう言うと、那由多は小さく頷いてから小走りに先生らしい人のところへ行き、ひと言ふた言話すとすぐに更衣室へ駆け込んだ。
私はそれを見送ってから立ち上がる。
最後にあの子をもう一度覗き見ようと思ったけど、身体がうまく動かなくて諦めた。
きっと振り返ってたら、また睨まれてたと思うから、それで良かったのかもしれない。
なんか、凄い罪悪感だ。
ただの嫉妬くらいで心配かけて、稽古も抜けさせて。
ほんとに情けなくて、涙が零れそうだった。
落ち込みながら、庭の隅の木陰に隠れるように入る。
風が優しく肌を撫でるのが、まるで慰めてくれてるみたいだった。
それからすぐに、那由多が見えた。
イチョウの木の下に立ってた私の所へ真っ直ぐ駆けてくる。
「お待たせ」
「ううん」
「早く帰ろう。大丈夫?」
「大丈夫だよ。……ごめんね」
木陰で涼んで少し冷静になれたおかげか、申し訳ない気持ちばかりが溢れてきた。
「何言ってるの。さっきほんとに顔色悪かったよ。気づかなくて僕こそごめん」
優しい那由多は自分を責める。
違うのに。
ただのヤキモチに、私が耐えられなかっただけなのに。
お互いに自分を責めて、ふたり口数少なく歩いてた。
なんか話したくても、気まずい空気のせいかつい口をつぐんでしまう。
でも、訊かなくちゃ。
あの子のことを。
あの子が那由多を好きなのは間違いないと思う。
じゃあ、那由多は?
微笑み合ってるふたりがフラッシュバックする。
私には、恋人同士みたいに見えた。
「零ちゃん?」
「えっ?」
突然那由多が私の肩を掴んで振り向かせるから、びっくりした。
「なに?那由多?」
普段の那由多はそんなことしない。
どうしたのかな。
「なに、じゃないよ……何で泣いてるの」
肩に置いた手と反対の手で涙をぬぐってくれる温かい指先。
頬に触れた瞬間に、複雑に絡み合った感情の糸が解かれて。
私は声もなく泣いていた。
「ご、ごめんね、なんか」
次から次へ墜ちる雫を、両手でぐいぐい拭う。
あははと笑って誤魔化そうとしてみても、全然涙は止まらなかった。
那由多もそんなのに誤魔化される訳もなく、真剣な顔でじっと私を見てた。
「もうホントになんなんだろ。あーとまらない」
私はその視線に耐えきれなくなって那由多に背を向けた。
みっともない。
恥ずかしい。
情けない。
とにかく早く止めないと。
瞼を押さえつけて頑張ってた。
「どうして泣いてるの?」
「……っ」
一瞬、息が詰まった。
躊躇いがちに、でもはっきりと問われて、ドキッとした。
「体調のせいじゃないよね?」
「……」
「……零ちゃん?」
どうしよう。
那由多にバレちゃうよ。
私のドロドロした汚ないところ、見せたくない。
絶対見せられない。
「あ、あのね、なんでもないの」
「……なんでもなくないでしょ」
那由多が悲しそうに顔を歪めるから、ぎゅっと胸が締め付けられた。
すごく心配してくれてるのがわかる。
「ほんとになんでもないの。那由多には関係ないことだから、気にしないで!ほんとにごめんね!」
気にしないで。
私のせいだから。
「……関係ない、か」
「え?」
那由多が何か呟いたみたいだったけど、その声はあまりに小さくて、私には聞き取れなかった。
でも、表情はよく見えた。
さっきよりも悲しそうな、苦しそうな、辛そうな顔が。
ズキン。
あ。
失敗した。
こんな顔させたくなかった。
自分の汚ないところを隠すことに必死で、何を言ったか自分でももう覚えてないけど、間違いなく、那由多が私の言葉に傷付いたのがわかる。
嫌だ。
私のせいでそんな顔をさてしまうなんて。
こんなことなら、私の汚さなんてどうでもよかったのに。
なんでだろう。
少し前までの私はこんなじゃなかった。
思ったことはちゃんと言ってたし、こんな風にみっともなく言い訳を探したことなんて、多分ない。
きっとさっきだって“ただのヤキモチだよ”って言えたはずなのに。
いつからこんなに弱くなっちゃったのかな。
仮病使って、いきなり泣いて、軽い言葉で傷つけて。
弱虫どころか、卑怯者だ。
私、強い私に戻りたいな。
どうしたら戻れる?
前の私なら、どうしてた?
そうだよ。
聞く前に、言わなくちゃいけなかった。
怖がらないで素直に言えばよかった。
“好き”って。
だから、悲しかったんだよって。
苦しくて泣けてきたんだよって。
それくらい好きなんだよって。
うん。
そうしよう。
ちゃんと言おう。
まだ恐怖心は消えない。
だって、あの子と付き合ってるのかもしれない。
友達の何人かはすでに彼氏がいるし、那由多が誰かとそうなっても不思議じゃないって気づいてしまったから。
どうして今までは思いもしなかったんだろう。
那由多がモテるだろうこともわかってたのに。
どうして安心してたんだろう。
那由多に一番近いのは私なんだって勘違いして。
バカみたい。
「那由多」
小さく声を掛けただけのつもりが意外と大きい声が出て、那由多は少し目を見開いて私を見つめた。
ああ、ドキドキする。
告白なんてしたことないから、なんて言えばいいのか頭が真っ白になる。
「あのね、私、」
「うん」
「その、」
「うん」
決して急かさず、ゆっくりと相づちを返してくれるから、少し緊張が解けた。
うまく言えるかな。
堪らずぎゅっと瞳を閉じる。
「好き、な、人できた」
言えた!
ちょっとかたことになったけど。
あともう少し。
頑張って言わなきゃ。
“那由多が好きなの”
そう続けようとしたら、
「それで泣いてたの?」
「え?」
那由多の声は私とは対照的にか細かった。
「好きな人のことで泣いてたの?」
「……うん」
そうだよ。
那由多のことばっかり考えてた。
いつも。
「なんか、寂しくなっちゃって」
私は頬を指先でかきながら答えた。
なんか気恥ずかしくて、ちょっと笑っちゃう。
「……そうなんだ」
そう呟いた那由多に頷き返して、さっきの続きを伝えるべく口を開いた。
よし、言うぞ。
「私ね、那……」
由多が、って言えなかった。
それは、つい今まで話してた私の口が、塞がれてしまったから。
那由多の、熱い唇に。
動けなかった。
肩をがっしり捕まれてるからっていうだけじゃなくて、身体が動かない。
時間が止まってしまったように何も、息すらできない。
ただわかったのは、目の前にある近すぎてよく見えない那由多の顔だけ。
今、何が起きたの?
今、何が起きてるの?
那由多の熱っぽい唇の端から熱い息が漏れた。
どくん。
胸が大きく跳ねて、それから暴れ馬みたいに暴れだす。
私、那由多とキスしてる。
やっとそれに気付いたときには、もう唇がゆっくりと離れていくところだった。
私は呆然としながら、そっと両手で口元を押さえた。
「……っ!」
なんで?
なんで!?
パニックで頭も目の前もぐるぐるする。
なんでいきなり、こんな……!
え!?
今、私、那由多にキ、キキキスされたよね!?
それって、もしかして、もしかして……。
那由多も同じ気持ちでいてくれてるってこと……?
あの子とはなんでもないってこと……?
じゃなきゃ、こんなことしない、よね?
私を想ってくれてるって思ってもいいの?
鼓動が頭にまで響いて止まらない。
でも、不思議と不快感はなくて。
私はちょっと見えた希望に更に昂る胸を押さえた。
言わなきゃ。
今度こそ、ちゃんと。
「那由多、私、」
「ごめん、何にも言わないで」
私の言葉はまたしても遮られてしまった。
思いもよらない那由多の言葉によって。
え?
ごめん、って言った?
何にも言わないで、って……
告白しないでってこと?
応えられないって、こと……?
極度の混乱状態の私を現実に引き戻したのは、那由多の声だった。
「ごめんね、零ちゃん」
「……どうして謝るの?」
どういう意味の“ごめん”なの?
「ごめん」
「謝らないでよ……」
「……」
訳わからない。
那由多は何も言わなかった。
ただ“ごめん”だけ。
さすがに黙っていられなくて、問い詰めようと思って那由多を真正面から見つめたら、酷く辛そうな瞳で見つめ返されて、私も、何も言えなくなった。
子供みたいな泣きそうな顔。
そんな顔をされたら、こっちまで泣きたくなる。
きっとふたりしてこの世の終わりみたいな顔をしてるに違いない。
「……帰ろ」
私はそれだけ呟くと、うろ覚えの道のりを歩き出した。
那由多もゆっくり動いた気配がしたけど、振り返れなかった。
黙ったまま電車に乗って、少し距離をあけたまま那由多のマンションに帰る。
マンションには那由多のパパママがすでに帰ってて、ほっとした。
那由多とふたりじゃ、きっと今は耐えられなかったから。
那由多のパパママとの話に花を咲かせながら、頑張って那由多にも少し話しかけたりしたけど、なんとか普通に見えたかな。
結局、それ以外はまともに会話もできずに翌日になり、私は自分の家へ帰った。
別れ際。
“またね”って言った那由多は、もういつも通りに見えて。
自分のことみたいになんでもわかってると思ってた那由多が、全然わからなかった。
夢でも見てたのかな、なんて考えてもみたけど、いつまでもひたすら熱い唇が、現実だと私に告げていた。
こうして、私の初めての告白は、言わせても貰えないまま終わったのだった。