STORM ー那由多ー
自分の感情がこんなにも思い通りにならないなんて、思わなかった。
零ちゃんの部屋に飾ってあった“京先輩”の写真を見てから、それはさらに酷くなった気がする。
いや、その前に零ちゃんの学校に行ったときかな。
“京先輩”に会って、その帰り道で寂しそうにまだ帰りたくなかったっていう言葉を聞いたときかもしれない。
決定的なとどめはあれだった。
“好きな人ができた”
そんな言葉、聞きたくなかった。
記憶にないほど昔からしてる片想い。
それが板につきすぎて、つい告白する機会を逃し続けてきた。
そのツケがこんな風に返ってくるなんて。
最低な僕は衝動的な行動で、零ちゃんの言葉を飲み込んだ。
自分が聞きたくないという理由だけで、言わせなかった。
聞いてあげられなかった。
全然成長してない。
体は成長しても、僕は弱虫のままだ。
これじゃあ、いくら鍛えたって意味がない。
今まで一体何をやってたんだろう。
零ちゃんごめん。
弱くて、ごめん。
罪悪感で一杯になった。
でも、それと同時に沸き上がる別の感情が、“ごめん”を飲み込んでいく。
“京先輩”に対する嫉妬が。
押し込んでも押し込んでも、溢れてきて止まらないそれは、そのまままっすぐ作品に写し出された。
「いいぞいいぞ、若者はもっと悩め」
美術部の先生はそう言った。
訳知り顔が勘にさわって、でも言い返せるわけもなくて、行き場のなくなった苛立ちを解消すべく生まれてはじめて授業をサボった。
重たい屋上へのドアを開ける。
外へ出ると、陽の眩しさに目を細めた。
フェンスに寄り掛かって、ずるずると座り組こむ。
そしてぼけっと屋上で時間を潰していた。
なにやってんだろう、僕は。
手に持ったハガキに視線を落とした。
今朝、ポストに入れようと思って出し忘れたそれ。
毎年恒例の零ちゃんへのバースデーカード。
今年のできは過去最低だった。
祝福したいのに、零ちゃんのことを想うと“京先輩”が浮かび上がる。
それでも何とか花を描いて贈りたくて、ガーベラを選んで描いたけど……。
酷すぎた。
げんなりとした気持ちで、いつまでもそれを見つめていた。
赤い、赤い花。
自分で描いたものなのに、ゾッとする。
零ちゃんは、これを見たら僕をどう思うんだろう。
普通に思ったことをスマホで送ることもできない今、このハガキ一枚でどれだけのことが伝わってしまうのか、考えただけで怖かった。
この汚い心を、見せたくない。
でも、気付いてほしいのも本心で。
なんて、矛盾。
出すのをやめようかと迷いもしたけど、繋がりがさらに薄れることの方が怖くて、昨日切手を貼った。
……。
帰りに投函しよう。
それだけ決めて、その赤から視線を外した。
その時、嘲笑うように風が吹き抜けて、手元からハガキが離れた。
まるで、零ちゃん自身が僕の手をすり抜けていってしまったように錯覚して、不穏に胸が鳴る。
慌てて手を伸ばしても、指先を掠めただけだった。
僕はほとんど無意識に追いかけた。
けど、そんな僕よりも先に、誰かの手がそれをキャッチした。
「うわ、ドロドロしてんなー」
そんな呟きが聞こえて、ハガキを持つその手を辿れば派手な姿が目についた。
明るい赤茶色に染めた髪は、毛先をわざと四方八方に跳ね上げていた。
それと両耳にずらっと並んだピアス。
それに私服を織り混ぜて着崩した制服。
不良?
先輩かな。
どうみても校則違反だ。
「欲求不満?」
「……」
「フラレたんか?」
なんだ、こいつ。
僕の描いた絵を見て、慣れ慣れしたく話し掛けてきたけど、取りあえずそれらは無視した。
なんで初対面でそんなこと聞かれないといけないんだ。
「ほれ」
意外にもそいつは何も言わずにハガキを返してくれた。
そして、
「じゃあな」
そのまま踵を返すと、ガチャリと重たい音をたててドアを開け校舎内へ入っていった。
さっきのあいつは柳田というらしい。
驚くことに同じ1年生で、今まで知らなかったけど、見た目の派手さから有名だった。
あの見た目じゃ騒がれるだろうな。
思った通り、先生も手を焼く問題児。
でも、生徒からの評判は悪くなくてさらに驚いた。
それからも僕はたまに屋上でサボるようになっていた。
そこには大概、常連の柳田がいて、でもお互い、特に話しかけることもなく過ごしていた。
柳田はいつも少年誌とかを読んでるし、僕は街並みを眺めていた。
そんな風に何度か顔を合わせたある日。
午後の授業を一時間サボって教室に戻ろうと立ち上がった時。
「なぁ、瀬尾ー」
最初に声を聞いて以来、始めて話しかけられた。
どうやら僕のことを知っていたらしい。
今まで全くの無関心だったのに、ちょっと意外だ。
「どんな子?」
「?」
「好きな子」
「……」
なんでそんなことを聞くのか。
第一、僕に好きな子がいるってなんでわかるんだ。
そう言えば最初も失恋したとか言い当てられたっけ。
カンの鋭いやつだな。
「関係ないだろ」
「ないけど」
僕は再び出口へ向かった。
「でも気になるなぁー」
「ほっといてくれ」
「だってお前、モテるじゃん」
「そんなことない」
「あるって!」
そうか?
別に普通だと思うけど。
零ちゃんしか見てこなかったからよくわからない。
「なのに、誰とも付き合わないって女子が騒いでるからさ」
「……」
なんだそれ。
当たり前じゃないか。
他の誰かなんて考えられない。
欲しいのは、ずっとひとりだけなんだから。
「押せば落ちそうなのに全然落ちないとか言われてんだぞ、お前」
「は?」
思わず立ち止まって振り返った。
手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルが、ちゃぷんと鳴った。
「優しいのはいいけど、はっきり断った方がいいんじゃね?」
余計なお世話だ。
第一、ごめんってちゃんと断ってる。
ただ泣きつかれたりして困ることはあるけど……。
「なぁ、どんなコ?」
まだ言うか。
案外しつこかったんだな。
「……幼馴染みだよ」
いいかげんめんどくさくなってきて、ぶっきらぼうに答えた。
「へぇ!離れてるとキツイんじゃね?」
痛いところをついてきた。
なんで離れてるってわかるんだろう。
「たまに会ってるし」
「ふぅん」
虚勢にも気付いているのか、柳田はなにか考えていた。
僕は動揺を隠すためにミネラルウォーターに口をつける。
「でも、我慢できなくなって手でも出した?」
危うく水を吹き出すところだった。
「で、フラれたんだろ。あのハガキ、ジェラシーの塊って感じだったもんな」
なんでバレた?
僕は動揺のあまり柳田を凝視した。
「けけけ。ムッツリめ」
柳田は楽しそうに笑う。
全然、面白くない。
「でもお前をフッちまうなんて、その嫉妬の相手どんなやつだよ」
……。
鋭すぎる。
詳細な事情まではわからないだろうけど、それにしてもなんてカンしてるんだ。
ちょっとゾッとするな。
嫉妬の相手、か。
凄いカッコいい人だった。
明るくて楽しそうで爽やかで、そして、きっと零ちゃんと同じ感覚を持ってる。
近いふたり。
ズキン。
……苦しいな。
苦しい。
嵐に飲み込まれてグシャグシャにかき回されているようだ。
苦しくて、苦しくて、そこから抜け出そうとどんなにもがいても、結局今の僕にはこの苦しみの中で絵を描くことしかできないのがもどかしい。
零ちゃんが見つけてくれた、道。
冬を越えて、春がきてもスランプからは抜け出せないままだけど、そこからそれることはなかった。
そんな時、
「瀬尾、これに作品を描いてみないか」
顧問に薦められてチラシを覗き込んだ。
“小説表紙コンテスト”
審査員欄には“佐久間 京子”と描いてあった。
「この人……」
“佐久間 京子”は有名だ。
画家でありながら、近くの美術系高校の講師もしている。
パワフルで、なのに凄く繊細で、その作風には熱狂的なファンも多いのは知っていた。
「どうだ?美系に進学するなら推薦にも有利だぞ。締め切りも夏でまだ時間はあるし」
2年になってからそういう風に薦められることが増えたけど、そんなことはどうでもよかった。
でもこの人、佐久間 京子先生にみて貰えることに魅力を感じた。
今の僕では満足な絵は描けないだろうけど。
やってみたいって、描きたいって、随分久し振りにそう思った。
それから、僕は作品を描き始めた。
屋上へも行ってない。
柳田は、まだあそこにいるのだろうか。
僕には関係ないけど、なんとなく気になった。
でも、それもすぐに意識から消えていく。
生活に必用最低限の時間以外は、ひたすら描いていた。
一心不乱に。
こんなに集中できたのはいつぶりだろうっていうくらいに。
だから、初夏には作品を描きあげて出展した。
その絵は、なんと入賞した。
それだけでも信じられないのに、最優秀賞を受賞して、たぶん僕が一番驚いたと思う。
ずっと思うように描けなかったから、結果に期待はしてなかったんだけど。
……今回は違ったからかな。
描きたいものを、やっと素直に描けたような。
そんな感じがした。
夏休み。
僕は佐久間 京子先生に招待されて、先生が講師を勤める高校へ行った。
会ったときの最初の感想は“若い”、その一言に尽きた。
長くウエーブしたダークブラウンの髪と、スタイルの良い引き締まった身体。
でも痩せすぎていなくて、とても健康的でセクシーな印象を受けた。
確か50代だと思ったけど、とてもそうは見えない。
下手したら20代と言われても信じてしまいそうだった。
「ふぅん」
開口一番。
先生は妖艶とも言える仕草で指を顎にあて、不躾に僕をじろじろと見つめた。
「なかなかイケメンじゃないか」
「えと、ありがとうございます。佐久間先生」
「“京子先生”でいい」
「え?あ、はい」
ニッと笑う顔もやっぱり色気があるけど、その表情はどこか男勝りな印象を受けた。
京子先生は笑顔のまま、部屋に置かれた一枚のキャンバスの前に行き、手招きをして僕を呼んだ。
それは賞を貰ったあの女神の絵。
横に並んで一緒に眺めた。
ここにあったのか。
まるで、遠く離れた零ちゃんと再会できたような気持ちになった。
自分で描いた絵なのに感動してるなんて、ちょっと笑える。
「この主人公、モデルがいるだろ」
え?
視線を向けると京子先生は僕を見ていた。
「リアルだ。生き生きしてる」
「……はい」
そう。
これは零ちゃん。
零ちゃんをモデルにした。
小説を読んで、その主人公を零ちゃんに重ねずにはいられなかった。
春のような暖かさと、夏の強さ、秋の鮮やかさに、冬の眩しい煌めき。
主人公は強くて優しい女神。
太陽のようなひと。
似ている、と思った。
僕の太陽。
描くなら、零ちゃんしかいなかった。
「いい表情してる」
京子先生は柔らかく笑って、絵を誉めてくれた。
似てるとはいえ、主人公じゃないひとを重ねて描いた。
それをわかっていたにも関わらず、そんな風に言って貰えるとは思わなかった。
嬉しい。
自分の気持ちが受け入れられたような感じに、胸が震える。
僕は、もう一度その女神を見つめた。
この絵には僕の中の零ちゃんを詰め込んだ。
小さい頃憧れた、ヒーローのようにも思ってたその姿を。
今度は僕がそうなりたい。
守れるように、なりたい。
ずっと、そう思ってきた。
あぁ、逢いたいな。
陸上部で頑張ってる零ちゃんは、今年の夏の大会で優勝したって教えてくれた。
なにかお祝いがしたいと思ってたけど、そうだ。
秋にはこの絵が本当に本の表紙になるらしいから、今年の誕生日にバースデーカードと一緒にプレゼントできたらいいな。
去年は、最低だったから。
傷付けてばかりだったから。
これからは優しくしたい。
もう傷付けたくない。
いや、もう傷付けない。
絶対。
自分自身に、そしてこの絵に誓おう。
そんな風に思ったら、目の前が晴れて、嵐がようやく過ぎ去った気がした。
それから季節が二回りして。
僕たちは一緒にいる。
まさか、零ちゃんが側に来てくれるとは思わなかった。
会いたくなったらすぐに会いに行ける。
そんな距離、夢みたいだ。
零ちゃんは寮生活を楽しんでるようだった。
でも、たまに寂しそうにもしてる。
そんな時は無償に抱き締めたくなって、少し困る。
寂しくないように、いつでも笑ってくれるように優しくしたくて仕方なかった。
それなのに、零ちゃんの拗ねた顔も見たくて、つい意地悪をしてしまう、最近の僕。
もしかして、実はサディストだったのかもしれない。
今日はうちで一緒にテスト勉強をして、今はカフェで休憩中。
夏の日差しの中歩いてきた僕たちは、冷たい飲み物を頼んで他愛ない会話を楽しんでいた。
同じタイミングでテストがあることが奇跡にさえ思える。
テスト休み以外はお互いに部活があるから、全然といっていいほど会えないからだ。
貴重な、そして最も大切な時間だ。
鮮やかな緑色の上に乗った真っ白なアイスクリームをスプーンでつつく。
久々に食べたけど、冷たくて美味しい。
昔よくふたりで飲んでいたメロンソーダだ。
懐かしいな。
あ、そういえば。
僕は自分のグラスからさくらんぼを摘まんだ。
「はい」
僕は真っ赤なその果実を零ちゃんの顔の前に差し出した。
子供の頃は、よくこんなことしてたな。
「えっ!?」
「ほら」
でも、もうそんな小さな子供じゃない。
零ちゃんは急速に赤面して固まった。
……。
だからその顔はダメだって。
僕は、その柔らかな唇にちょんとさくらんぼを付けた。
零ちゃんは一瞬でこのさくらんぼと同じくらい真っ赤になった。
可愛いなぁ、もう。
嵐のように感情が吹き荒れるのは、君のことだけ。
その嵐が過ぎ去った後の、綺麗な青空を綺麗だと思えるのも、隣にいてくれるからこそ。
大事にするよ。
君が大好きだから。
たぶん、絶対、一生。
「うわ、やらしー」
「!」
……。
……。
台無しだ。
なんでこいつはいつも、こう邪魔しにくるんだろう。
「や、柳田くん!」
零ちゃんはさくらんぼを食べようとしていた口をパッと閉じて僕との距離をとった。
僕の指先でさくらんぼが弾けて揺れる。
道路沿いのデッキ席にしたのは失敗だったな。
「よっ!おふたりさん!」
にぱっと歯を覗かせて笑い、柳田は更にこっちに近付いてくる。
……。
「邪魔」
なんだけど。
「うっわ、ひでー」
「ちょ、那由多!?」
おっと、いけない。
零ちゃんの前でつい本心が出てしまった。
でも、まぁいいか。
柳田だし。
「いいから零ちゃん、気にしないで。はい、あーん」
今はこっちの方が大事。
「おい、無視すんな」
聞こえない。
ああ、オロオロする姿も可愛いな。
イタズラ心が芽生えた僕は、もう一度はいっと差し出した。
素直な零ちゃんは、柳田を気にしながらも再びさくらんぼに挑み始める。
「……泣いちゃうぞ、俺」
勝手にしろよ。
今度は零ちゃんも柳田どころじゃなくて、結果的にその呟きは独り言になった。
ほら零ちゃん、頑張って。
もうちょっと。
横目でこっそり柳田の様子を伺ってみれば、あ、柳田が本気で凹んでいるのがわかった。
……。
……。
「ふっ」
僕は思わず吹き出した。
だって、なんだよその顔。
子供みたいだ。
「那由多?」
「瀬尾?」
ふたりは真ん丸く目を見開いて僕を見つめた。
「なんでもないよ」
零ちゃんは不思議そうに首を傾げる。
柳田はなんだよ教えろよーと俺の肩に腕を回した。
重い。
「なんでもないって」
「でも、笑ってんじゃん」
だって、勝手に溢れるんだから仕方ない。
そう。
なんでもないんだ。
こんなのは。
当たり前なんだから。
やっと掴んだ日常なんだから。
僕は目を細めて、ふたりに笑いかけた。
そしてもう一度。
「なんでもないんだよ」
そう答えた。
零ちゃんと柳田は、顔を見合わせている。
そんなに可笑しいかな。
……。
……っていうか。
おい。
なに零ちゃんと見つめ合ってるんだよ。
また僕の中で、嵐が巻き起こり始めた。