RUN ー京ー
どういう訳か、俺はモテる。
うぬぼれてる訳じゃなくて、客観的に見ての話。
いつも周りには女の子が集まってくるし、たまに“好き”って告白してくる子もいたから、たぶん間違いないと思う。
でも、それを嬉しいと思ったことはなかった。
バレンタインに鞄に入りきらないくらいのチョコを貰ったのは、あれはちょっと嬉しかったけど、それでも正直言って男友達と遊んでる方が楽しかった。
中学生になったっていうのに、女の子に興味の薄い俺は、おかしいのかな。
友達にもよく変だって言われていた。
でもしょうがないじゃんか。
そんなこと言われたって、好きな子ができないんだから。
男友達が、何組の誰がかわいいとか言う話もあんまり興味ない。
適当に相づちをうって、いつもぼけっと聞き流してた。
あーあ。
つまんね。
なんか面白いことないかな。
最近そんなことばっかり思ってた。
「ただいまー」
靴をぽいっと脱ぎ捨てて、家に入る。
まだ制服には慣れなくて、動きにくくて仕方ない。
そんなことさえだるいと感じる自分に溜め息が出た。
「おぅ、お帰りー」
いつもなら聞こえないはずの声が聞こえた。
顔を向けると母さんの母さんであるばぁちゃんが出迎えてくれていた。
「なんだ、ばぁちゃん来てたんだ」
スパコーン!!
目の前に星が飛んだ。
「いってぇぇえ!」
ばぁちゃんの鉄拳が後頭部にメガヒットして、あまりの痛さにその場を転げまわった。
「今、なんてった?」
ばぁちゃんの冷たい声が降りかかる。
「……っ!」
なんで、自分のばぁちゃんをばぁちゃんって呼んで殴られなきゃなんないんだ。
訳わかんねぇ。
俺はむくりと起き上がるとキッとばあちゃんを睨む。
そして、
「クソババア!」
捨て台詞を吐いて、外へ逃げ出した。
玄関ドアの向こうでばぁちゃんは鬼婆みたいに叫んでる。
俺は聞こえないふりで家を後にした。
あーあ。
つまんねー。
帰り道に歩いてきたばかりの道を、逆行して歩く。
ふらふらと蝶のように。
あたりまえだけど、同じ制服を着た何人かと擦れ違った。
行き先も特にないまま逆行する姿は変に見えるらしく、みんな俺をちらちら見て行った。
見んなよ。
俺がどこに行こうが関係ないだろ。
あまりに見られればそんな悪態もつきたくなる。
実際口に出したりはしないけどなぜかイラついて、そんなことばっかり思ってた。
いつしか視線に耐えられなくなって、俺は道路を外れた。
そこはちょっとした土手になっていて、青々とした草が生い茂っている。
躊躇いなくその草へ腰を下ろすと、ごろんと仰向けに寝転がった。
空が青い。
雲は白い。
視界の端は緑。
見えたのはそれだけ。
それだけなのに、なんとなく落ち着いた。
あーあ。
なんか面白いことないかな。
緑の大地に寝転がって、青と白の空だけを見つめて。
いつしかうとうとしていた俺の耳に変な音が聞こえてきた。
“ふっ、ふっ、ふっ、ふっ”
閉じかけた目を開いて、眉間にシワを寄せる。
なんの音だ?
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
段々近づいてくるそれが気になって、体を起こした。
そして道路の方を覗いてみる。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
一瞬、笑い声かと思うその音は、やっぱり人から発せられていた。
でも、
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
「……」
俺はそれを目撃して固まっていた。
目の前を通り過ぎてまた次第に遠ざかるその音。
それは、メタボな腹を揺らして走る男から漏れる呼吸音だった。
たぷんたぷんと脂肪が跳び跳ねる音も聞こえた気がする。
ふと、一旦通りすぎた男は立ち止まって振り返った。
「あ、」
「お」
俺は気付いた。
相手も気付いた。
でも驚きすぎて俺は声にならなかった。
「なんだ、佐久間じゃないか」
相手の言葉でやっと我に返る。
「……先生」
男は担任の先生だった。
グレーのジャージの上下を着た身体は汗びっしょり。
首から下げたタオルは、絞ったらじょばじょば滴るだろうことがひと目でわかった。
なんだあの腹!
っていうか、体型!
ダルマじゃんか!
いや、それは大袈裟か?
でも太りすぎだろどう見ても。
「道草せんとさっさと帰れよ」
俺の心の声はもちろん聞こえていない先生は、やる気のない声で軽く注意した。
道草って、一回家帰ったし。
思わずそう返しそうになったけど、その前に俺は勢いよく立ち上がって道路へ飛び出した。
「ちょ、先生!」
先生は俺に一声掛けただけで、さっさと背中を向けて走り出していて、俺は別に用も興味もないのに、つい追いかけていた。
はっと我に返ったけど、今更引っ込みもつかなくて、ただ道路に立つ。
そんな俺に先生は、背中を向けたまま片手を上げて振っただけだった。
もう振り返りもしない。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
ちょっと笑える呼吸音が次第に小さくなっていく。
俺はなぜかその背中を見えなくなるまで見送っていた。
翌朝。
ホームルームでいつも通り適当に出欠をとって、だらりだらりと職員室へ帰る先生をずっと見ていた。
……。
いつも通りだ。
ナマケモノかっていうくらいの、マイペースな担任の姿は一月も経てばもう見慣れていた。
昨日のあれは幻覚だったのかな?
それとも人違い?
いや、いや、走ってた。
それに声も掛けられたし、名前も呼ばれた。
あれは間違いなく先生だった。
なんで走ってたんだろう。
あ、ダイエットか?
あの身体じゃ痩せないと命に関わりそうだよな。
そうか。
きっとそうだ。
ひとり納得して、うんうん頷いた。
「京!」
「ん?」
友達に呼ばれて視線を向けた。
そこには期待に満ちた楽しげな友人の顔。
「なぁなぁ今日さ、またバスケ部見に行かね?」
「んー」
「じゃあ野球部は?」
バスケ部に野球部か……
「んんー……」
「なんだよ、お前部活入んねぇの?」
「悩み中」
素直にそう答えた。
部活。
どうするかな。
いろいろ見ては回ったけど、これといって気になったところはなかった。
なんか、面白いことがしたいとは思うけど、それがなんなのか全然見えない。
適当に友達に付き合って入部するのも嫌だし、俺はここんところずっと考えあぐねていた。
結局、バスケ部の見学は断った。
もちろん野球部も。
だって、興味もないのに行ったってしょうがないもんな。
そしてまた、今日も俺は土手に寝そべって空を見ていた。
さわさわと草が風に揺れる音がする。
なんかいいよな。
こういうの。
自分だけの世界にいるみたいに錯覚する感じ。
今日は雲が多いから、視界には白が多かった。
見上げているのに吸い込まれそうな感覚に時々陥るのも不思議だ。
豊満な雲に飛び込むような感覚で、意識が放れていく。
部活なんか入んないで、ここで毎日昼寝でもしてようか。
あ。
すげぇ名案かもしれない。
本気でそんなことを考え始めていると、
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
ん?
聞き覚えのある音が聞こえてきた。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
「……先生?」
俺は草むらをごろんと転がって反転する。
そのままひょっこり道路を覗き見た。
まんまるい人影が意外と軽いフットワークで近づいてくる。
今日も走ってんのか。
頑張るなー。
俺は身を隠したままその姿を目で追う。
いつものだらだらした歩き方とはまるで違うその動きは、見ていて感動さえ覚えた。
ぽよよんぽよよん跳ねる腹は笑えるけど。
でも、なんか……
俺に気付かず通り過ぎていく。
前しか見ていない視線。
俺はまた、姿が見えなくなるまで見ていた。
それからまた翌日も。
さらにその翌日も。
そして、今日も。
俺は土手にいた。
草むらに腰を下ろして、先生が走ってくるのを待っていた。
俺、なにやってんだろ。
これじゃ、先生のストーカーみたいじゃん。
……。
やばい、今の例えば気持ち悪すぎた。
俺は断じてそんなんじゃない。
神に誓って。
でもこんな毎日を送ってれば、その内誰かにそう思われるかもしれない。
それだけはやだな。
でも、なんか、いいんだよな。
先生はなんで走るんだろう。
普段のやる気のなさなんて、生徒の俺が見たって呆れるほどなのに。
走ってるときは別人みたいに生き生きしてる。
そう、楽しそうなんだ。
先生を見に行くのは、もう既に日課みたいになってるのかもしれない。
雨の日や会議とかのある日は来ないって知ってる俺って、本格的に気持ち悪いよな。
でも、なんかやめらんなかった。
先生は何を思って走ってんだろう。
何がそんなに楽しいんだろう。
興味はどんどん大きくなるだけだった。
その日も、俺はいつも通りに土手にいた。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
独特の呼吸音が聞こえて、道路を見る。
丸い影が弾むようにやって来た。
先生はかなり近くを通るのに、いつも俺には気付かない。
だから、油断していたのかもしれない。
先生が目の前に差し掛かった瞬間。
ばちん。
目が合ってしまった。
見つめ合う先生と俺。
「佐久間?」
「……」
名前を呼ばれてもとっさに返事もできなかった。
悪いことをした訳でもないのに、イタズラが見つかった子供みたいな心境だ。
「またこんなとこで道草くってんのか?」
そんな心情を知るはずもない先生は、普通に話しかけてきた。
「せ、先生こそまた走ってんですか」
あ、やべ、ちょっと動揺が出た。
でもマイペースな先生は気付かない。
「ん?ああ」
緩慢な動きで頷いた。
今日はどうやら少しは俺と話してくれる気があるらしい。
立ち止まったまま、首にかけたタオルで汗を拭っている。
これはチャンスか?
「……先生」
「んあ?」
「なんで走ってるんすか?」
俺はついに、気になっていたことを口にした。
答えはすぐには返ってこなかった。
そしてやっと返ってきたのは、
「意味わからん」
その一言。
「え?」
「質問の意味がよくわからん」
「だから毎日走ってる理由っす」
なんでわかんないんだよ。
そんな訳ないだろ。
「んなもんあるか」
「え?」
理由がない?
それって、どういう……
「お前もこい」
「は?」
言葉の意味を考える俺に、先生は手招きをした。
ひらひらと。
ゆるゆると。
それから、
「めんどくせぇ」
そう言ってくるりと背を向けた。
今なんて言った?
「え?」
「ほら、行くぞ」
「ちょ、」
俺は慌てて土手から道路へ登る。
先生は俺が登りきるのを待たずに、また走り出した。
今、めんどくせぇって言われた?
俺は先生を追いかけて駆け出した。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
先生の呼吸音を聞きながら後をついていく。
あんなに丸い身体なのに、先生のペースは思ったよりも速い。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
俺も息が上がってきて、同じように短い呼吸を繰り返していく。
車通りの少ない道は、歩行者かたまに自転車とすれ違う程度で走りやすかった。
それにしても、なんで俺、走ってんだろう。
今更ながらそんなことを思っていた。
しばらく先生の後ろを走っていると、
「どうだ?」
振り返らずに先生が聞いた。
「どうって?」
なにがどうなんだよ?
俺は首を傾げつつ言葉を返す。
「なんも感じねぇのか?」
「え?」
なにも感じない?
そんな訳ない。
息は苦しいし、脚は重いし、身体は熱いし、汗は気持ち悪い。
そう言いそうになって、でもなぜか言葉にならなかった。
先生は無言で俺の言葉を待ってる。
いや、待ってるのか?
もうどうでもよさそうにも見える。
今俺に投げ掛けた質問なんてもう忘れたとばかりに、軽やかに前へ前へ足を運んでいく。
なんだよ、自分から聞いといて。
俺は乱れる呼吸の合間に小さい溜め息を吐いた。
でも、
「……」
俺は走りながら考えた。
だって、知りたかったら。
なにがそんなに先生を惹き付けてるのか。
マラソン大会や運動会でももちろん走ったことはある。
俺は昔から足が速い方だったから、大概一位だった。
まぁ、勝負に勝つのは嬉しい。
けど、まだゴールもしてないうちに何を感じるっていうんだ?
やっぱりよくわかんないな。
先生が走る理由が全くわからなかった。
ぽたり。
汗が雫となって肌を滑り落ちていく。
呼吸はいつの間にか適度なリズムを保っていて、息苦しさはなくなってきた。
……。
あれ?
なんか、さっきより気持ち悪くない?
じっとりべたべたしていた汗は不思議なことに今では不快ではなくなっていた。
汗で湿った身体を撫でるのは、清々しい風。
「なんだ、これ」
思わず言葉を溢すと、
「これだからやめられん」
先生はひひっと変な笑い声をあげて、そう呟いた。
今、先生笑った?
やめられんって、それが走る理由ってこと?
苦しさが和らいで、少し余裕が出てきた。
だから、掴みかけた理由に手を伸ばす。
感じるのは、なんだ?
身体の芯は熱いのに、表面を撫でる空気は涼しくて気持ち良かった。
周りを見回せば流れる景色があっという間に後ろに流れていく。
普段見るそれとは、どういうわかが違って見えた。
まるで万華鏡のようにくるくる移り変わる。
不思議とも思える感覚。
「気持ち良いだろ」
ちらりと顔だけ振り返って、先生が言った。
どこか得意気に。
「はい」
確かに気持ち良いから、俺は素直に頷いた。
もう先生はなにも言わなかった。
俺も、なにも言わなかった。
ただ黙々と走っていた。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
ふたつの呼吸音だけが頭に響いていた。
走るのがおもしろくて仕方なくなった俺は、先生が走るときにはジャージに着替えてお供をするようになった。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
今日も息を弾ませて、先生の後を走る。
相変わらず後ろから見てもぽよぽよの巨体が、嘘みたいなスピードで駆けていく。
その少し後を軽やかに追い掛けた。
あぁ、良い天気だな。
もうすぐ梅雨なのに、なんか嬉しい。
最近ではそんな些細な発見をしながら、走っていた。
ふと、思い立った。
俺は少しずつ速度を上げて先生との距離をつめる。
横に並んで暫く並走してから、一思いに追い抜いた。
先生は別に俺が後ろにいようが前にいようが関係ない様子で、自分のペースを保っている。
でも俺は、
「あ……」
気づいてしまった。
走るのは楽しい。
先生のジョギングに付き合ってはじめて知った。
また更にわかったのは、もっと、もっと、速く走りたい。
そんな衝動の存在だった。
先生を追い抜いた瞬間、肌が粟立つような感覚がした。
スピードをあげるほど強くぶつかってくる風をきって、前へ前へと脚を投げ出していく。
速く。
速く。
もっと動け。
もつれそうになる脚を、それでも遠くへ踏み出した。
「はぁっ、はぁっ、っく、……はぁっ、」
ついに限界がやって来て、膝に手をついて息を整える。
乱れた息のまま後ろを振り返ってみたけど、先生は見えなかった。
だいぶ差を離していたみたいだ。
やばい。
肩が小刻みに震えた。
ジャージの袖で顔を覆う。
息苦しさが更に辛くなったけど、ぐっと腕に顔を押し付けた。
俺は込み上げる笑いを堪えていた。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふぅー……」
いつの間にか追い付いた先生が、俺の隣に立ち止まった。
滴り落ちる汗を首からかけたタオルで拭ってるけど、呼吸は乱れていなかった。
すげぇ。
「佐久間」
「はい?」
のんびりとした声で呼ばれて顔を向けた。
あ、にやけてなかったかな。
まぁいいか。
「どうだ?」
また脈略のないセリフ。
でも、もう答えられる。
「俺、走りたいです」
「そうか」
「はい」
変な会話だと思う。
第3者が聞いていたら、首をかしげてるに違いない。
「先生、」
「あ?」
「俺、陸上部に入ります」
決めた。
もう決めた。
やりたいこと、見つけた。
鼻息も荒く意気込んで宣言する。
そういえば、陸上部はまだ見学とか行ってなかったな。
明日にでも行ってみよう。
ん?
ていうか、部室どこだ?
ま、あとで調べればいっか。
ひとりそんなことを考えていると、
「ないぞ」
さらりと先生が言った。
「え?」
「うちに陸上部はないぞ」
「えっ!?」
マジで!?
普通どこの学校でもあるんじゃないのか!?
そんな……。
俺は愕然とした。
だって、今やっと見つけたのに。
本気でやりたいと思ったのに。
告げられた事実がショックで、もう項垂れるしかなかった。
「なに落ち込んでんだ」
そんな俺に声をかけて、先生はまたゆっくりと走り出した。
俺もほぼ無意識にその後に続いて走り出す。
「そりゃ、落ち込みますよ……」
「なんで?」
なんで、って。
それこそなんでそんなこと聞くんだよ。
俺は大きな溜め息を吐いた。
普通わかるだろ。
そうしたら、先生はほんとにわからないといった顔をした。
そして、
「なかったら、作りゃいい」
「え?」
さらりととんでもないことを言った。
作る、って……。
……は?
「そんなに陸上部に入りたきゃ作りゃいい」
ってか、俺、
「え?いや……別にそこまで陸上部に入りたいわけじゃ、」
「なんだ、そうなのか」
「俺は、自由に走れれば、……それで」
そうだ。
別に部活なんか入んなくたって良いんだ。
ただ単に本気で走ってみたくなって、きっとそれができる場所は陸上部なんだろうなと思っただけなんだ。
ひとりで思う存分走れれば、それで満足だから。
きっかけはこのジョギングだったけど、俺はもっと全速力でやってみたい。
より速く、駆けてみたい。
それだけなんだ。
「そりゃ無理だな」
芽生えた想いを告げたら、それはまたしても打ち砕かれた。
「なんで!?」
敬語も忘れて食って掛かる。
だって、なんで無理なんだよ。
「全力疾走したいならグラウンドがいる」
「放課後とかに校庭のすみっこ走るくらいできるだろ」
「駄目だ」
きっぱりとダメ出しされて、俺はぐっと口を結んだ。
何がいけないんだよ。
小学生だって放課後は校庭とか駆け回ってるじゃんか。
そんな抗議をしようと口を開く前に、先生が言った。
「やるからには本気でやれ」
「……え?」
「半端にやるな」
普段気力の欠片も見えない先生がはっきりきっぱり喋るから、自然と俺も落ち着いてきた。
「……俺、本気ですけど」
「本気で校庭の隅を走んのか」
「!」
「あんなところ全力で走れるか」
「……」
確かにそうだった。
校庭の隅にはぐるりと桜の木が植えられていて、とても走れたもんじゃなかった。
「放課後のグラウンドは部活優先だ。全力で走れる様なところは使えんだろうよ」
「そんな……」
じゃあどうしろっていうんだよ。
俺は項垂れて、その場に立ち尽くしていた。
だから、必然的においていかれたかたちになる。
先生はその場で足踏みしながら俺を振り返った。
「だから言ってんだろうが」
そしてもう一度、
「作りゃあいい」
そう言った。
それから、俺は毎日を慌ただしく過ごしていた。
その理由はもちろん、陸上部の立ち上げ。
おかげでテストの成績は散々で、母さんにはめちゃめちゃ怒られたりした。
部活作りはほんとに大変だった。
何が大変って、まずは顧問探し。
どんな部活もまず顧問をしてくれる先生を確保しないといけなかった。
俺に作ればいいと言った担任には、頼んだらソッコー断られたから。
なんでだ……。
当たり前のように引き受けてくれると思ったのに、
「めんどくせぇ」
その一言で終わった。
ま、先生らしいと言えばらしいか。
仕方ない。
俺は手当たり次第に頼みに頼みまくった。
でも、他に引き受けてくれる先生も見つからず、結局教師全員に断られてしまったのだった。
「どうすりゃいんだよ……」
途方にくれた俺は久々に土手に寝転がって空を見上げてた。
今日は厚い雲には覆われてるけど、雨の予報はない。
重たそうな雲を、同じく重たい気持ちで眺めていた。
そこへ、
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
先生が来た。
今日俺がここにいるのは、実は先生を待っていたから。
梅雨の合間の曇りの日を、逃すはずないと踏んだのは正解だった。
すかさず飛び起きて道路へ飛び出す。
先生はすぐに俺に気づいたみたいだ。
「先生!」
進路を塞ぐように道路の真ん中に仁王立ちして、叫んだ。
「おー、佐久間」
先生は俺の前で立ち止まり、よぉと軽く手を上げた。
でも俺はそれに応えることなく、
「先生、お願いします!顧問になってください!!」
がばりと頭を下げた。
それはもう膝に頭を打つような勢いで。
「お願いします!!」
もう一度叫ぶ。
だって、後がないんだ。
教師全員に断られた今となっては、一番俺の気持ちを知ってる先生になんとか引き受けて貰うしか。
頼む。
どうか聞いてくれ。
これでもダメなら土下座だってしてやる。
そんなつもりでひたすら頼み込んだ。
「お願いします!!」
バカの一つ覚えみたいに繰り返す。
深く頭を下げすぎて自分の足しか見えないから、先生の反応はわからない。
わかるのは、返事がまだ返ってこないってことだけ。
やっぱ嫌なんだろうな。
他の先生たちに断られたとき、理由を聞いた。
なんでダメなんですかって。
返ってくる答えはだいたいみんな同じ。
はっきりとそう言われた訳じゃないけど、態度でわかるよ。
めんどくさい。
時間がもったいない。
そんなとこだ。
きっと同じように思ってるんだろうな。
そりゃそうか。
お楽しみのジョギングの時間も削られるだろうし。
……。
……。
……。
やっぱ、先生に頼むのは自分勝手だったかもしれない。
あんなに楽しそうに走るのを邪魔することになる。
そのことに、不意に気付いた。
顧問になってもらうなら、名前だけって訳にはいかない。
監督責任だって負ってもらうことになるし、大会とかに出るなら休みの日に引率してもらわないといけない。
先生にそれをさせるのか。
暇さえあれば意気揚々と走りに行くこのひとの時間を、俺が奪っていいのか?
……。
……。
……。
なんか、それも嫌だな。
もう、諦めるしかないのかな。
結構頑張ってみたけど、もう打つ手なしだ。
まぁ、また一緒にジョギングに付き合わせて貰えばいっか。
速さを追い求めることはできないけど、十分楽しかったし。
残念だけど。
自分の膝を見詰めたままそんなことを考えていると、
「はぁぁ~」
後頭部に深い溜め息が降り注いだ。
俺はゆっくりと顔をあげて先生を見上げた。
先生はタオルでわしわし顔を拭いている。
「先生…、」
困らせるつもりはなかった。
でも、なかったら作れば良いって言ってくれた先生なら助けてくれると思ったんだ。
勝手に期待してたんだ。
先生は熱血じゃないって、むしろ、面倒事はのらりくらりかわす人だって知ってたのに。
早く言い訳して、謝ろう。
それで、また一緒に走らせてくださいって頼んでみよう。
そう決めて口を開いた瞬間。
「わかったよ」
思わぬ声が耳に聞こえた。
「…え?」
「わかった」
もう一度繰り返される。
わかった、って。
「顧問引き受けてやるよ」
今度ははっきりとそう言った。
「えっ、でも」
「あぁー…めんどくせぇなぁー」
力の抜けるようなその言葉は、不思議と親しみを感じられる。
「でも、ま、俺がけしかけたしなぁ」
ひひっ、といつもの笑顔を見せて、また汗をタオルで拭った。
「せ、先生?」
「んあ?」
「いいの?」
ほんとに顧問になってくれるのか?
「しょうがねぇからなぁ」
先生は呆れたような、でもどういうわけかどこか嬉しそうな、そんな顔をしている。
じわり。
胸が熱くなった。
俺はもう一度ベコンと頭を下げる。
「ありがとうございます!!」
勢いがよすぎて今度は本当に膝に顔をぶつけた。
痛ってぇ。
ひひっ、と。
また笑い声が聞こえた。
ついに手に入れたんだ。
自分の居場所を。
早速学校へ戻って、先生に創部の申請をしてもらった。
めんどくせぇを何十回も繰り返してるけど、その面倒臭い仕事をちゃんとやってくれるから頼もしい。
俺は緩む頬を必死に引き締めながら、書類に必要事項を書き込む先生の手元を見てた。
と、紙の上を滑らせていたペンを止めて、先生が顔を上げた。
「部員は何人集まったんだ?」
「え?」
「お前の他に何人いるんだよ」
「いないですけど」
部員?
「は?」
「え?」
先生はぽかんと口を開けて俺を見ている。
なんで、そんな変な顔してるんだ。
眉間に皺を寄せて目をまんまるくしたその表情は、今までに見たことがない。
やばい、ちょっとおもしろい。
「お前一人なのか?」
「そうですけど」
そう答えると、今度は大きな溜め息を吐かれた。
なんだよ、さっきから。
「…佐久間」
「なんすか」
「陸上部は作れんぞ」
「え!?」
なんで!?
「部員が3人以上で部活だ」
「マジで!?」
「まじだ」
そんな……。
じゃあ、先生に顧問になってもらったって意味なかったのか。
なんてことだ。
俺は目に見えて落ち込んでいた。
「まぁ、陸上部でなくてもいいのか」
項垂れた俺の耳に聞こえたのはそんな言葉。
嫌だよ。
他の部活じゃ、嫌なんだ。
そんなこと言わないで欲しかった。
先生は顧問にならずに済んでほっとしてるのかな。
だったら、悲しい。
やっと手に入れたと思ったのに、やっぱりダメだったなんて、あんまりすぎる。
俺は本気で凹んでた。
すると、
「同好会だな」
ん?
同好会?
「部員が入るまでは陸上同好会でやるか」
「陸上、同好会?」
「おぅ」
“部活”はダメでも、“同好会”ならひとりでもいいのか?
作れるのか、居場所を?
ぱっと咲いた希望の花に、目を輝かせて先生を見つめる。
「同好会なら人数は関係ないしな」
「それで!それでいいです!お願いします!!」
なんでもいい。
やった。
「ま、頑張って部員集めして後で部にすればいい」
浮かれる俺に、笑いながら先生が言った。
でも、
「別に部員はいらないです。俺が走りたいだけなんで」
全開の笑顔のままそう応えた。
すると、
「……」
なぜか真顔の先生に見つめられた。
なんだろう。
でも結局なにも言わずに、また書類に視線を落とす。
カリカリとペンが用紙を引っ掻く音がした。
部員がいらないって言ったからかな。
孤独を愛する可哀想なやつと思われたとか?
うわ。
孤独を愛するってなんだ。
自分で言っててキモくなった。
ひとりが好きとか、別にそういう訳じゃない。
理由は単純。
一言で言うと、ただめんどくさいだけだったりする。
クラスには友達だって一杯いるし、あえて部員が欲しいとも思わなかった。
それに、“仲間”には苦い思い出があったりもする。
小さい頃、友達に誘われて入ったドッジボールクラブでそれは起きた。
最初は、みんなで地域の大会での優勝を目指して仲良くやっていた。
友達やクラスメートとはちょっと違う、同じ目標をもった仲間との初めての出会いだったし、楽しかった。
でも、ある日。
自分たちでチーム分けをするときに、女子が大喧嘩をしだしたんだ。
はじめは一対一の口論だったのが、その内に十人くらいに膨れ上がって、髪を引っ張り合うわ、顔を平手で打ち合うわ、それはひどい有り様だった。
俺は何が起きたのかよくわからなかった。
なんでこんなことになんのかな、って。
みんなで仲良くドッジボールをするはずが、全然そんな空気じゃなくなって。
楽しみだったはずが、早く帰りたくなった。
あとで喧嘩の理由を聞いたら、俺がどっちのチームに入るかで喧嘩になったと教えてもらった。
俺のせいだったのか。
無償に悲しくなって、腹立たしくなって、一気につまならなくなって、俺はすぐにクラブをやめた。
それから俺はそういったものを敬遠している。
だって、別にクラブとかじゃなくても友達と遊べばいいし。
友達同士の喧嘩はたまにあるけど、こんな気持ちになることはない。
俺自身どう違うのかはっきりとわかってないけど、でも全然違うんだ。
中学に入って部活に入ってみようかと思ったりもした。
でも、やっばり、そのことも思い出して、結局入る気にはなれなかった。
なんとなく嫌だった。
しっくりこないし、惹かれない。
何が違うのか。
腹が立ったのか。
今となっては、考えるのもつまらない。
めんどくさい。
そう思っていた。
だから、陸上部を作ろうとしてる今も、別に部員が欲しいとも思わないんだ。
そもそも、自分が走る場所が欲しいだけなんだし。
やっと面白そうなことを見つけて、やっと実行できる。
それだけでもう大満足。
俺は頬を緩ませながら、先生の書き込む書類を見ていた。
空欄が埋まって創部(創同好会?)届けができていく。
ペンを置いた先生は、椅子に座ったまま隣に立つ俺を見上げた。
そしてぽそりと呟いた。
「ま、そのうちな」
「え?」
「できたぞ。ほら、教頭へ出してこい」
「あ、はい!」
何か言われたみたいだったけど、よく聞こえなかったのと早く出しに行きたい衝動からすぐに忘れた。
職員室を飛び出して、年がら年中花壇の世話をしている教頭先生を探しに校舎を飛び出した。
教頭先生はすぐに見つかった。
昇降口の脇の花壇の前にしゃがみこんでいる。
「教頭先生!」
「はい?」
返事をしながらゆっくり立ち上がって腰をとんとん叩く姿は、もうおじいちゃんと呼ばれてもおかしくなさそうだ。
教頭先生は優しそうな笑顔を俺に向けて、首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「はい、あの、…これ!」
俺はうまく言えなくて、咄嗟に手に持った創部(創同好会)届けをぐいっと前に差し出した。
ドキドキドキドキドキドキドキドキ。
うわー。
異常に緊張する。
目を閉じて両手をぴんと伸ばし、相手が受けとるのをひたすら待った。
……。
なんか、ラブレターを渡してるような気分だ。
いやだから、気持ち悪いぞ。俺。
そもそもラブレターなんて書いたことないし。
なんて、どうでもいいことを考えていると、
「どれどれ、なにかな?」
そんな言葉と共に、ついに書類が手元から離れた。
顔をあげると、軍手を外した教頭先生が手に取った創部(創同好会)届けを見ている。
「陸上部ですか。なるほどなるほど」
「は、はい!」
うんうん頷きながら上から下までゆっくり目を通していくのを、俺はまだ緊張の面持ちで見つめていた。
大丈夫かな。
ドキドキドキドキドキドキドキドキ。
あぁ。今度は判決を受ける被告人の気分だ。
って、やっぱり裁判なんて受けたこともないけど。
当たり前か。
俺は視線を空へ逃がして、すーはーと深呼吸するように呼吸を繰り返した。
しばらくそうしているとかさりと音がして、教頭先生が書類を折り畳んで胸ポケットに入れたのに気づいた。
「では確かに受けとりました」
「え」
ということは、
「頑張ってくださいね、陸上部」
「はい!」
にっこり笑った教頭先生。
俺の方は、きっと顔が壊れる寸前くらいの笑顔になってると思う。
最後にもう一度頭を下げてから、踵を返した。
やった。
やったよ。
歩いていた足はいつしか速くなって、すぐに全速力になる。
これで自由に走れる。
いつでも。
あげたくなる奇声を我慢しながら、俺は見えないゴールテープを切った。
あ、そうじゃないな。
スタートしたんだ。
この日、こうして陸上部が誕生したんだ。
翌日からグラウンドの一部を使って早速活動を開始した。
といっても、俺も先生もド素人。
図書室で色々本を借りてきたり、インターネットで検索することからのスタートになった。
まず競技の種類やルールから始まって、ウォーミングアップや練習方法を調べる。
一個一個試してみながら試行錯誤を繰り返して、少しずつ部活らしくなっていった。
先生は、日々の練習が軌道に乗るまで付き合ってくれた。
俺はそこまで巻き込むつもりはなかったけど、意外と面倒見がいいんだよな。
普段の授業もこれくらい親身にやれば、生徒にももっと慕われると思うんだけど。
ま、それが先生のらしさなのかもしれない。
段々日々の活動が部活っぽくなってくると、ぱらぱらと入部希望者がやってくるようになってきた。
特に同じクラスの女子。
俺もつい言っちゃったのがいけなかったのかな。
「ねぇ佐久間。昨日の放課後走ってなかった?」
「ああ、陸上部作ったから」
「えっ!マジで?」
「うん」
「へぇ…そっか」
「?うん」
隣の席の女子とのそんな会話がきっかけだった。
噂はたちまち広まって、練習を見に来るギャラリーが出始めた。
きっと、1年生がひとりで部活なんか作ったから、珍しいんだと思う。
正直言ってやめて欲しいけど、今ちょっと騒がしいだけで、すぐに落ち着くと思っていた。
のに、
「なに抜け駆けしてんの!」
昼休みに友達と通り掛かった渡り廊下で、そんな声が聞こえてきた。
「別にしてない」
淡々とした別の声も聞こえた。
目をやると、人気のない中庭には見覚えのある女子がふたりいる。
あれはクラスメートだ。
「してんじゃん!その入部届けなに!?」
「あたしがなに部に入ったって、関係ないじゃん」
「はぁ?」
うわ、喧嘩かな。
隣で同じく立ち止まってしまった友達と視線をあわせて、お互い眉間にシワを寄せた。
見なかったことにして、さっさと退散しよう。
女子の喧嘩に巻き込まれたら、いいことなんてひとつもない。
目で会話をしてまた歩き出した。
と、一歩目を踏み出したとき。
「陸上がやってみたいの」
「ウソばっか!佐久間目当てのくせに!」
お、俺!?
いきなり自分の名前を呼ばれて、ついまた立ち止まってそっちを見てしまった。
ふたりはキッと睨み合ったまま動かない。
どちらも怯まずに、睨み返している。
「なんか言いなよ」
「じゃあ自分も入ればいいじゃん!」
あ、この感じ。
なんか嫌だな。
なんとなく、どういう経緯か読めてしまった自分が憎い。
そう。
今までにもこういうシチュエーションには遭ったことがある。
男友達は“モテる男の宿命だ”なんて言うけど、全然嬉しくない。
むしろ困る。
もちろん望んだわけでもないし。
なんでこんな風になるんだろう。
俺は足早にその場をあとにした。
案の定、その日の放課後には昼休みに見た二人が俺を呼び出した。
仲直りしたのかな?
「佐久間、うちら入部したいんだけど」
「いいよね」
当たり前のようにそう言って差し出されるのは、入部届け。
部活に入るには部長か顧問に出さないといけないのが決まりだ。
俺はそれをまじまじと眺めてから、聞き返した。
「陸上部に?」
「うん」
「実は前から興味あってー」
「ねー!」
……。
嘘だ。
俺、知ってる。
「それにさ、ひとりじゃ寂しいでしょ?」
「あたしたちが入ったら楽しいよ」
ついさっき、喧嘩してたのって気のせいだったのかな。
今度はなかよしオーラを放ってる二人を眺めてみた。
って、そんなわけないのはわかってる。
だって顔は笑ってるけど、目が笑ってない。
どう見ても。
怖いぞ。
なんだかな。
「…ごめん」
俺はそれだけ言って入部届けを受けとるとこなくその場を去った。
取り残されたふたりが何か言ったけど、脱兎のごとく逃げたお陰で聞こえなかった。
「はぁ~…」
なんなんだよ、もう。
どっと疲れた。
割り当てられたばかりの部室まで辿り着いたけど、中にはいる前に気力が尽きて、ドアに背中を預けてずるずると座り込んだ。
別に部活を独り占めしたくて入部希望者を断ってる訳じゃない。
ただ、昔を思い出してつい拒否してしまうんだ。
俺のやっとみつけた居場所。
走るための場所。
頼むから奪わないでくれ。
壊さないでくれ。
お願いします。
願うのはそれだけだから。
それからも、俺は誰からの入部届けも受けとらなかった。
本当は断ったりして問題になるのかもしれないけど、そうならないで済んでいることにはほっとした。
先生のところにも入部届けを持った女子が行ったらしいけど、“めんどくせぇから、佐久間に渡せ”そう言って一蹴したらしい。
すげぇ。
実は先生って、かっこいいよな。
そういうところ。
俺はうんうん頷いて、ひとり納得していた。
そんなことをしていると、
「お前、1組の佐久間か?」
呼ばれて振り返ると、そこにはがたいのいい男子生徒がいた。
背は俺と変わらなさそうなのに、骨格ががっしりしてるためか、大きく見える。
制服についている校章をちらっと見ると、俺のと同じ色だった。
同学年、1年か。
「そうだけど」
「俺、3組の千葉 武」
それが武との出会いだった。
入部希望者はたくさん来たけど、男は初めてだった。
しかも、
「砲丸投げやらせろ」
入部届けも受け取らないうちにそんなことを言い出した。
なんか変わったやつだな。
当たり前ながら、今までの女子と違って俺には全く興味がなさそうな様子が新鮮だ。
だからこっちの方が少し興味も湧いてきた。
ただ、残念ながら、
「なにそれ?」
俺は部長といえど陸上初心者。
その競技を知らなかった。
「はぁ?」
只でさえ不機嫌そうだった顔がさらに歪む。
怒るなよ、怖いから。
密かに怯えながら問いかけた。
「ごめん、俺それ知らない。どんな競技?」
殴られるかな。
それは嫌だな。
「…ちっ」
うわ、舌打ちした。
怖えぇって。
マジで覚悟を決めるしかないか。
そんな心配をしていたけど、予想に反して怒られたりはしなかった。
というか、延々と砲丸投げの素晴らしさを力説された。
変なやつ。
けど悪いやつじゃなさそうだな。
尽きることなく熱く語る姿は好感さえ持った。
砲丸投げが好きなのが、やってみたいって本気で思ってるのが、ものすごく伝わってくるから。
「ねぇ」
話に熱中していると、また声をかけられた。
今日も客が多いな。
声のした方へ視線を向けると、そこには小柄な女子がいた。
腰まで伸ばした綺麗な黒髪が、微かな風に揺れている。
今まで饒舌に語られていた隣からの声が、パタリとやんでいた。
うん、わかるぞ。
この女子めちゃくちゃ可愛いもんな。
俺は口を開けたまま固まる隣に向かって笑いそうになるのを堪えながら、返事を返した。
「なに?」
するとその子は、
「これ」
ひらりと一枚の紙を差し出した。
どきり。
心臓が鳴った。
「入部したいの」
それは最近では見慣れてしまった入部届けだった。
俺はそれを受けとることはもちろん、返事もせずにただ見つめていた。
っていうか、それしかできなかった。
どうしよう……。
と、ずっと黙って俺の反応を待っていたその子は、突然、
「明日また来るから」
「え?」
「じゃあ」
すっと入部届けを鞄にしまうと、そのまま簡単に帰ってしまった。
え、いいのか?
入部したかったんだよな?
なんで、明日またなんだ?
俺は呆然とその子の後ろ姿を見送った。
いや助かったけど。
俺は自分でどうしたらいいのか、最早わからなくなっていたから。
明日、またか……。
「変わったやつだったな」
「うん」
お前もだけどな。
そう言いそうになって、やめた。
それは秘密にしておこう。
怖いから。
今日は美女と野獣だな。
なんて、メルヘンなことを考えていると。
「俺も帰る」
「え?」
あれ?
こいつも入部希望じゃなかったのか?
「入部届け忘れたし」
忘れてのか。
そんでさっきの子のを見て思い出したんだな。
だって心なしかばつが悪そうだ。
「俺も明日またくる」
また、明日か。
俺は帰っていく様子をぼんやり見送った。
そしてひとりに戻る。
あいつら本当にくるのかな。
そうしたら、俺は……。
……。
やっと解放されて自由に走ることができたのに、なんとなく集中できなくて、俺は惜しみながらも切り上げて帰宅することにした。
家に入ってどさりとバッグを置く。
久しぶりにいつもよりかなり早く家に帰ったから、なんか変な感じがした。
「京」
頭上から呼ばれて顔をあげた。
「ばぁちゃ、「あ゛?」じゃなくて、京子サン…」
危ねぇー!
セーフセーフ。
ば、もとい、京子さんは暇さえあれば娘である母さんに会いに来る。
遠くに住んでんのにわざわざ来るのは、ふたりとも美術の先生で画家ってやつだから。
昔から、よくこうやって一緒に共同作品を製作したりしていた。
“ひとりじゃできないこともある”
“誰かとひとつのものをつくるってのは、いいもんだよ”
よくそんな風に言われてたっけな。
「おかえり」
「ただいま」
挨拶だけひとこと交わすと、ばぁちゃんはさっさと部屋に入ってしまった。
(もういないし、心の中ならばぁちゃんでいいだろ)
きっと何か画材を取りに来たとこだったんだろうな。
玄関の横のドアはアトリエに繋がっていて、そこからは母さんとばぁちゃんの声が聞こえた。
何をいってるのかはわからないけど、真剣そのものだ。
時には大喧嘩に発展することもある。
それもけっこう頻繁に。
なのに、しばらく時間がたつとまた二人してあれこれ相談してるんだよな。
本当に不思議だ。
あんな大喧嘩しながら一緒にやってて楽しいのかよ。
ウソだろ。
でも、そうやってできた作品は凄いと思う。
純粋に、凄い。
もちろん個人活動の方がメインだしそっちもかなり凄いんだけど、個展とかも共同作品の方が人気が高いって言ってたっけ。
……。
それが、“誰か”と一緒になったときの力なのかな。
あいつらは、今までのクラスメートたちとはなんか違ったな。
胸がぎゅっとする嫌な感じがしなかった。
……。
なんだろう。
今までなら、誰にも邪魔されたくない、ほっといてくれって、それだけを思って逃げてきたのに。
あいつらとは、俺、少し話をしてみたいと思ってる。
明日本当にまたくるかな。
……くるといいな。
いつの間にか変化した気持ちに、自分でもちょっと戸惑う。
けど、楽しみなのは本心だから。
ちゃんと話してみよう、かな。
湯船に鼻の下まで浸かって、ブクブクと息を吐く。
家に帰ってから、何をしてもその事ばかり考えていた。
うん、話してみよう。
弾けたお湯が鼻に入って、激しくむせながら、俺はそう決めた。
授業時間って、こんなに長かったっけ。
まだ午前の半分も経ってないことにうんざりする。
まるで催眠呪文のような数学式をぼけっと眺めながら、黒板の上の時計をもう何十回と見ていた。
あのふたりはまだこない。
っていうか、昨日の夜なかなか寝付けなくて、俺が遅刻ギリギリに登校したからかもしれないけど……。
そんな自分にちょっとがっかりだ。
いつ来るかな。
ドキドキしながら現れるのを待つ俺って、結構小心者だったのか。
そんな自分にはちょっと笑える。
結局、授業の合間の休み時間には誰も来なかった。
あ、いや、隣のクラスの女子が来た。
入部届けを持って。
だから、トイレに行くふりをして、また逃げた。
……。
情けないよな。
でも、ダメなんだ。
俺の中の、一番真ん中にあるところが、ダメだって叫ぶんだ。
俺はそれに逆らえないし、逆らいたくない。
きっとこの本能に背いたら、また居場所を奪われてしまう気がするから。
奪われてしまうから。
……怖いんだ。
あいつらだけだったな。
叫ばなかったのは。
早く、来ないかな。
いつの間にか待ち遠しくなっていた。
結局、少しも身の入らないまま午前の授業が終わった。
ついに昼休み。
俺は友達と机をつけて弁当を開きながら、そわそわ教室のドアを見ていた。
「なぁ佐久間、俺はちょーショックだよ」
「うん」
「まさが若林さんが、あんなんなっちゃうなんて」
「うん」
「あーあ…、もったいねー…」
「うん」
「どうしちゃったんだろな?」
「うん」
はっ。
やべ、全然聞いてなかった。
でも、慌てて友達を見たら、まだなんたらさんの話をしている。
よかった。適当に相づち打ってたのはバレてないみたいだ。
危ない危ない。
ちゃんと聞いとかないとな。
俺は改めて話に耳を傾けた。
でもやっぱりドアが気になって、最終的にはほとんど聞いてなかったけど。
ごめん。
そして、弁当を食べ終わった頃。
やっとあいつがやって来た。
「おぅ」
「あ、」
ぴらぴらプリントを振り回して、俺の席までゆっくり歩いてくるのは、千葉 武。
「持ってきたぞ」
そう言って目の前に突き付けられたのは、予告通り入部届けだった。
そこには、太くてでかい字が枠をはみ出して書き込まれてる。
それもかなり豪快に。
「ぷっ」
「あぁ?」
思わず吹き出してしまったら、ちょっと睨まれた。
怖い。
でもあんまりにも、らしいからさ。
おもしろくて。
「ごめん、なんでもないよ」
「ならほら、早くとれ」
「あ、…うん」
……。
どうしよう。
実は、さっきから凄いんだよな。
女子の視線。
そりゃそうか。
全部断った、っていうか逃げたもんな。
こいつのだけ受け取ったら大ブーイングかもな……。
でも。
「じゃあ、」
俺はおずおずと手を伸ばした。
それを掴むために。
入部届けは、予想に反してあっさり受け取るとこができた。
なんか拍子抜けだ。
こそっと周囲を探ると、……なるほど。
女子たちは何か言いたそうにはしているものの、どうしてもそれができないみたいだった。
なんか怖いもんな。こいつ。
「よろしくな、部長」
満足そうにニヤリと笑う。
その顔はやっぱりこわ、…あれ?
え、なんか、……え。
プー○んみたいじゃねぇ?
はちみつとか舐め始めそうじゃねぇ?
えぇー!?
あまりの衝撃に俺は言葉を失った。
笑うと怖くないどころか、マスコットって感じだし。
やばい。
マジでおもしろい。
また吹き出しそうになって、頑張って堪えていた。
あぁ、これから一緒にやってくのが、どんどん楽しみになってきたな。
いつも以上に放課後が待ち遠しかった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
やっと放課後だ。
鞄を肩に掛けて一番に教室を出ると、俺は隣のクラスへ向かって、近くにいたやつに適当に声をかけた。
「千葉いる?」
「ん?おーい、千葉ぁ!客だぞー!」
「あぁ!?」
……。
なんで返事でドスを効かせるんだよ。
「なんだ部長かよ」
……。
「……普通に名前で呼べよ」
「は?部長だろ?」
確かに部長だけど、落ち着かないっていうか。
「なんか、やなんだよ」
「まぁ、どっちでもいいけど。んじゃあ、名前教えろ」
「は?」
知ってるだろ?
昨日訪ねてきたんだから。
呼ばれたし。
まさか、忘れたのか!?
「佐久間 京だけど」
一応答える俺。
「わかった。京、なんか用かよ」
!!
確かに言った……。
“名前”で呼べって。
意外とマジメかよ。
ほんとおもしろい。
「俺、武な」
「あ、うん、」
うおぉぉぉ……。
なんかこいつを名前呼びするのはちょっと抵抗あるな。
まぁ、すぐ慣れるだろうけど。
「えっと、部室行く前に一緒に先生んとこ行くから」
「あぁわかった」
やっと俺が用件を伝えると、武は驚くほど素直に頷いた。
そして、自分の机の上にあった荷物を乱暴にとり戻ってくる。
まるで、取ってこいみたいだな。
ふとそんな風に思ったら、熊を飼ってる気分になった。
絶対言えないけど。
武のことを話すと、先生は片眉を上げて、微かに笑った。
そして、少しだけ入った部費で砲丸投げの道具を用意してくれると言った。
その時の武の喜び様は、思い出しただけで、ちょっと恐ろしかった。
もうひとり。
あのこは来るのかな。
もし来たら、今日はちゃんと話を聞こう。
聞きたい。
グラウンドに出てアップを始めても、ずっと気にしてた。
校舎の方をたまに見つつ、軽く走ってからストレッチをして体をほぐす。
よくほぐれたら水分補給して練習開始だ。
武はまだ競技の環境が整ってないから、しばらくは俺の練習に付き合ってもらうことになった。
もともと素直な正確なのか、説明をすれば不器用ながらも頑張ってついてくる。
武とは思ったよりも、ずっとうまくやれそうで、嬉しかった。
放課後になって随分時間がたった。
もう来ないのかな。
そう思い始めた時、
「佐久間くん」
「ん?」
聞き覚えのある、女子にしては低めのよく通る声で呼ばれた。
あのこの声だ。
って、え!?
驚きすぎて、コントのように2度見してしまった。
だって、
「それ…」
「半端な気持ちじゃないから」
「え?」
凛とした声にドキッとした。
ということは、
「だから、その髪に…?」
「そう。私、どうしても走る場所が欲しいの」
彼女は目をそらすことなく、まっすぐに俺を見つめる。
昨日も印象的な目だと思ったけど、今日はもっと格別。
耳は丸出しだし、前髪なんて眉毛の遥か上にあるから尚更だった。
そう。
あの長い黒髪はいわゆるベリーショートってやつになっていた。
「あはははは!お前男らしいなぁ!」
武が豪快に笑いだした。
俺は言葉もでなくて、佇むしかない。
「男扱いでいいよ」
「マジで言ってんのか!」
「うん」
そして、
「だから、入部させて」
はっきりと俺に、そう言った。
本気なんだって、一目でわかる。
本気で“陸上部”を求めてるんだ。
自由に走れる、自分だけの居場所を。
俺と、同じだ。
「お前名前は?」
「若林 雪子」
「なにやりたいんだ?」
「長距離」
「へぇ」
新たな入部希望者に興味津々の武が、次々質問を繰り出していく。
間髪いれずにぽんぽん答えるところは、顔に似合わずどこか男らしい。
いつしか弾む会話に、俺はひとり取り残されて聞いていた。
淡々とした低めの声なのに、すごく弾んで聞こえるのが不思議だ。
そうなんだよな。
同じものに興味を持っている同士で話すのって、楽しいもんな。
俺も昨日知ったばっかりだし。
うんうん、わかるぞ。
「ねぇ」
「え?」
物思いに耽っていると、声がかけられて顔をあげた。
気付けば二人の視線は俺に向いていて、探るような挑むような、そんな色を見せていた。
突如向けられたそんな視線に俺が戸惑っていると、痺れを切らしてか、溜め息と共に言葉が吐き出された。
「それで、入れてくれるの?」
あ。
そうだった。
ただ会話しに来たわけじゃないよな。
この子は入部したくて昨日も今日も陸上部に来てるんだ。
「私は、」
瞬きもせずに訴えかけてくる。
「別に佐久間くんに興味ない」
そんなの、
「わかってるよ」
わかってたのに俺がはっきりしなかったから、切ってきたんだろ髪。
あんなに長く伸ばすのに、どれだけの時間がかかったんだろう。
ツヤツヤ光ってサラサラ風に揺れてた髪はきっと手入れだってしてたんだろうし。
母さんも伸ばしてるから大変なのは知ってる。
それをばっさり切り落とすなんて、どんな気持ちだったのかな。
探るようにその顔を見ていると、唇が少し震えてるのがわかった。
そうか。
他の子とは違うって俺に知らせるために、必死なんだな。
そしてそこまでやらせちゃったのは、俺だ。
「……うん」
俺はゆっくり頷いて、顔をあげる。
気丈にしていてもどこか不安げな瞳と目が合った。
怖いのか。
そうだよな。
俺も“ここ”がなくなったらって考えたら怖かった。
手に入れたいよな。
失いたくないよな。
やっとみつけた、大事な場所。
「いいよ」
俺は応える。
それから、手を出した。
「入部届け、ちょうだい」
なんか変な感じだな。
自分から仲間を求めるなんて。
初めてだ。
むず痒い気持ちをこらえながら相手の反応を待つ。
すると、少し目を見開いてから、ふわりと笑った。
うわ。
笑顔、初めて見た。
ちらっと横を見れば、武が見惚れてる。
それがなんだかおもしろくて、俺は声を上げて笑った。
あー、暑い。
毎日毎日うんざりするくらい暑い。
いくら言ったって変わらないのはわかってるけど、止められない。
夏休みに入ったんだから暑いのは当たり前だよな。
ただでさえ汗ダラダラなのに、そんな中スポーツする俺らって相当タフだと思う。
ま、もうすぐ初めての大会で、特に気合いが入ってるからな。
そりゃ頑張りもするか。
今日の日射しも痛いくらいに強烈だけど、そんな中を俺は走っていた。
武も雪子も、同じくそれぞれ練習に励んでいる。
あ、そうそう。
うちの部はいつしか名前呼びが定着していた。
そんなルール作った覚えはないけど、あの言葉のあやによる誤解から、律儀な武によって既に決まりごとになっていた。
ま、いいけどさ。
武は本当にマジメで素直だ。
しばらく付き合ってよくわかった。
雪子はクールで寡黙。
でもたまに熱い一面を見せるときは、男の俺から見てもカッコいいなと感心した。
なんか、ふたりの見た目のイメージだと性格逆じゃないか?とか思ったりもしたけど、それは密かに思っとこう。
俺たちは学年でも特に目立つらしく、入部希望者はさらに増えていった。
でも、今では俺が逃げることはほとんどない。
それは武の牽制と、雪子の面談を突破できる強者がそうはいないからだった。
なんとも心強い。
先生は逆に部活にはあまり来なくなった。
部活動が軌道に乗ってきたから、またジョギングを再開したんだ。
それでも走る合間を縫って顔を出してくれるとこは、やっぱり面倒見がいいからなんだろうな。
明日だって、明後日だって。
きっと続いていく毎日。
この陸上部で。
この仲間たちと。
あぁ。
おもしろいな。
毎晩眠ろうとするたびに明日が待ち遠しいなんて、きっと重症だ。
もっと、もっと、速く。
走りたいな。
だから早く、明日になれ。
いそいそと玄関で靴を履く。
よし。準備オッケー。
「お?出掛けんのか、京」
アトリエから出てきたばぁちゃんが俺に気付いて声をかけた。
また来てたのか。
どうやら徹夜で作業してたらしく、目の下にクマがあった。
ほんとよくやるよ。
俺も人のことは言えないけど。
「部活だよ」
「そうか」
「うん」
なんだろう。
部活だと答えたとき、ばぁちゃんはどこか嬉しそうだった気がする。
それがなぜか無償に恥ずかしくて、俺はちょっと慌てて立ち上がった。
「気を付けていってきな」
「うん」
壁に背を預けて腕組みをしたばぁちゃんが、見送ってくれた。
俺はスパイクを肩にかけてドアを開ける。
さて。
「いってきます」
自分の居場所へ。
さぁ行こう。
そこを目指して、快晴の空の下へ飛び出した。