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1.0 想い

 なかなか浮上できないまま、気付けば入学式前日になっていた。


 那由多からは度々連絡があったけど、やっぱり見れなくて、無視という最悪のかたちで応えてた。


 この数日は寮の部屋で本を読んだり、仲良くなった美加と話したりして過ごしてる。

 今まで休みの日にほとんど家にいたことのない私にしたら、これは末期かもしれない。


 那由多は今日も“京子先生”に会いに行ってるのかなとか、そんなことばかり考えてしまうと出掛ける気になれなかった。

 こんなことなら、美術部なんて勧めなければよかった、なんて思う自分も嫌いだった。


 だからといって、いつまでもうだうだしてる訳にいかないのもちゃんとわかってる。


 推薦入学の私は入学したらすぐ部活だって始まるし、勉強だって頑張らないといけない。

 実は授業のレベルも割りと高めの高校だから、油断できなかった。


 今日の内に準備を済ませておかなくちゃ。

 やる気のでない身体になんとか気合いを入れて、リストをチェックしていく。


 あと少しで完了というところで思い出した。

 しまった、文具を買い足しておくの忘れてた。


 私は大きな溜め息をつくと、仕方なしに買いに出掛けることにした。




 バスを降りて文具店の入った複合ビルに向かって歩き出す。


 数十メートル歩いたところで、突然後ろから声を掛けられた。


「あ、おい、あんた!」


 不振に思いながらも顔だけ向けてみる。

 と、そこにいたのは、


「えと、やなぎ、だ君?」


 那由多の友達、柳田君だった。


 柳田君は名前を呼んだ私に少し驚いたみたい。


「あ、覚えててくれたんだ」

「うん」


 那由多の友達だもん、覚えてるよ。

 そう返す前に、パンッと目の前で手を合わされて、今度は私が驚いて目を瞬かせた。


「悪い!こないだ俺勘違いしてた」


 突然謝る柳田君に、意味がわからなくて聞き返した。


「勘違い?」

「あんた、瀬尾の幼なじみでしょ」


 那由多に聞いたのかな?

 別に隠す必要もないし、こくりと頷いた。


「うん」

「うわー!やっぱり!」


 頭を抱えて俺としたことが、とか言ってる。


 なんなんだろう。

 なにか、失敗したらしいことだけはわかるんだけど。


 ひとり大袈裟に悶える姿を、首を傾げて見つめてた。


 しばらくしてゆっくり立ち上がってから、ばつが悪そうに私に視線を向けた柳田君は、躊躇いがちに話し出した。


「あのときさ、俺、瀬尾のこといろいろ言ったと思うんだけど、」

「……うん」


 聞いたよ。

 那由多が慕う“京子先生”のこと。


「ごめん!まさか本人だと思わなくて!無神経だった!」

「?」


 え?

 本人?


 って何?


「いやー、幼なじみとは離ればなれになってるって聞いてたからさー」


 ?

 なんの話?


 私が混乱してるのには全く気付かない様子で、柳田君は喋り続ける。


「まさか一緒にいると思わなくて、あの後すげー瀬尾に怒られた。もーそのあとも機嫌悪いのなんのって」


 え?


 那由多が怒る?

 機嫌が悪い?


 那由多だって普通の男の子なんだから、もちろんそういうこともあるのかもしれないけど、私には凄く意外に感じてた。

 だって、今まで本当に見たことなかったから。


「でも確かに手早いよな?だっていきなりキスしたんだろ?」

「え?」


 ちょっと待って、今、何て言ったの?

 私の混乱はどんどん酷くなってる。


「キス?」

「キス」


 そうだけど?と当たり前のように繰り返されて呆然としてしまう。


「あんた、瀬尾にいきなりキスされたんだろ?」

「え?あ、うん」


 だから、なんで知ってるの、なんていう疑問の前に、思わず答えてしまった。


「うわ!やっぱムッツリだ!」

「え?」

「普通いきなりはねぇよなー!まぁ我慢できない男心もわかるけど」


 楽しそうに笑う柳田君。

 でもちょっと待って。


「あの、どういう意味?」


 ここまで会話が噛み合わないなんておかしい。

 今ちゃんと確かめないといけないって思った。


 だから、ごくりと唾を飲んで思いきって訊いた。


「那由多は京子先生っていう人と付き合ってるんだよね?」


 私は緊張しながら答えを待った。

 ああ、遂に決定的に失恋するのかななんて思いながら。


 でもそんな思いとは裏腹に、柳田君は声をあげた。


「まさか!京子先生は結婚してんよ!」

「え、でも通ってるって」

「あぁ、有名な美術の先生なんだ。瀬尾は京子先生に絵を習いたくて高校を選んだくらいでさ、先生も瀬尾に期待してんだよ」

「じゃあ、……絵の勉強で通ってるってこと?」

「そ!」


 那由多は“京子先生”となんでもない?

 私の思い違い?


 あんなにお似合いのふたりなのに?


「もしかして、勘違いしてた?」

「……うん」

「あちゃー、それってやっぱ俺のせいだよなぁ」


 謝ってくれてたけど聞いてなかった。


 柳田君の話は本当なのかな。

 本当に本当だったら、嬉しい。


「瀬尾はさぁ、あの見た目だろ?モテんだよ」

「うん」


 そうだと思う。

 っていうか、贔屓目抜きにしたってモテないわけないと思った。


「でも基本優しいからいつも断るのに困っててさ、そんで女の子もそこにつけこむのが多くてさ」


 想像できる。

 きっと、那由多は女の子を傷付けるようなことしないよね。


 柳田君は、だから、と続けてから私を見た。


「最初は、あんたもその一人だと思ったんだ」

「え?」

「だから手っ取り早く、女の子が引くようなことを言ってみたんだよなー」


 それって、


「那由多のために?」

「そ!瀬尾のために!ダチだからなぁ」


 そう言ってにんまり笑う。


 あんまり仲良くなれるタイプじゃないと思ってた自分が恥ずかしい。

 柳田君は間違いなく那由多のことを大切に思ってて、私にとっての葉月ちゃんみたいなひとなんだってわかった。


「それにしても、そっかー、そうなのかー!瀬尾のやつも勘違いしてんのな」

「?」


 何が面白いのか、今度はくくくっと笑い出すから、私は首を傾げるしかない。

 そうしてたら、意地悪な顔で、


「あんた、瀬尾が好きだろ」


 またバレた!

 もう、なんでだろう……


「うん」


 俯きながら小さく頷いた。

 それを見た柳田君はなぜか満足そう。


「瀬尾がムッツリだってーのは、あんたにとってだけ本当だからな」

「え?」

「ま、あとは本人に聞けよ。じゃ、俺は謝ったからな!」


 私が何かを言う前に最後にそれだけ念を押すと、柳田君はひらひら手を振って去っていった。


 柳田君を見送った私は、腰が抜けてへなへなとその場にしゃがみこんでしまった。

 そして、そのまま歩道の隅でもう一度よく考えてみた。


 違ったの?

 私の勘違いなの?


 さっきと同じ自問を繰り返してみても、答えを返してくれるひとはいない。

 でも柳田君の言葉がぐるぐるとリピートしてた。


 私は深く深く息を吐き出す。


「違っ、た……」


 小さく声に出してみたら、一気に落ち着いてきた。

 ここのところ変に力の入ってた肩が、ふっと軽くなったみたい。


 歩道にしゃがみこんだまま、仕舞いには笑いまで込み上げるから、道行く人は変な目で見ていく。

 けど、今の私には全く気にならなかった。


 そっか、違ったんだ。


 なんか、ようやくまともに呼吸ができたみたいだった。

 それに、冷えきってた身体に、胸に、灯が点ったみたい。


 私はスマホを出して、那由多のメッセージを開いてみた。

 ずっと無視してしまった那由多の言葉たち。


“電話に出て”

“話がしたい”

“会いたい”


 そんな内容ばっかりだった。


 私は那由多のアドレスを表示して、通話ボタンを押した。

 呼び出し音が鳴るまでのわずかな時間にも、緊張が急速に高まっていく。


『零ちゃん』


 たったワンコールで那由多は電話に出た。


『よかった、やっと連絡とれて』


 心底ほっとしてるのがわかる。

 その慌てた声に、ちくんと胸が痛んだ。


「ごめんね……」

『気にしないで。電話くれてありがとう』


 嬉しそうな声に、今度は胸が締め付けられる。


 私はこくりと唾を飲み込んだ。


「那由多、」

『うん?』

「会いたい」


 なんとかそれだけ伝える。

 那由多が息をのんだのが、電話ごしにわかった。


『うん。僕も会って話がしたい』

「今から家に行っていい?」

『……うん、いいよ』


 那由多は、突然の申し出にも優しい声で応えてくれた。


 私は今から行くことを伝えて、電話を切った。


 沸いた期待。

 可能性。

 ちゃんと会って確かめたい。


 私は立ち上がって、歩き出した。




 那由多はまたバス停で待っててくれた。

 私の姿を見つけて薄く微笑んでくれるから、少し気まずかったけど安心できた。


 黙ったまま、那由多のマンションまで並んで歩く。

 前にもこうやってマンションへ歩いたことを思い出した。


 あの時から、私たちの関係がおかしくなってしまったんだ。

 だから、なんだか恐い。


 バス停から近いはずの距離は、もの凄く遠く感じた。

 でも、立ち止まらなければちゃんと辿り着ける。

 お互いに無言のまま、マンションに着いた。


 やっぱり那由多のお父さんとお母さんはいなかった。

 こんな話をするにはベストだけど、ふたりきりの空間はどうしても緊張する。

 私は高鳴る胸を押さえて、靴を脱いだ。


 リビングのソファに並んで座ると、那由多が口を開いた。


「柳田に会ったんだって?さっきあいつからも電話があって、ちょっと話したとか言ってたけど」

「うん」

「また余計なこと言ってなかった?」

「余計なこと?」


 って何かな。

 希望の言葉なら貰ったけど。


 那由多と柳田君はやっぱりとっても仲が良さそう。

 全くあいつは、って顔しながらもその目はどこか穏やかだから。


 今度またちゃんと話してみたいな、なんて思ってた。


「いや、あいつのことはいいや。それより……」


 不意に見つめられて、心臓が跳び跳ねた。


 真剣な顔は物凄く綺麗で、見惚れちゃうよ。


「まず謝らせて」

「え?」


 思わぬ台詞にびっくりした。

 謝るって、それは何に対して?


「前に、キスしたこと。……すごい遅くなったけど、ごめん」


 頭をしっかりと下げて謝る那由多。

 私は、何も言えなかった。


「最低だった」

「那由多……」

「零ちゃんの気持ちも考えずにあんなことして、本当にごめん」

「私の、気持ち?」


 どうして那由多が知ってるの?

 知っててどうして謝るの?


 那由多は、私のどんな気持ちを知ってるの?


 それを聞く前に、那由多が顔をあげた。

 辛そうな顔。悔やんでるって、自分を悪いと思ってるって顔。


 でも、


「私は、嬉しかったよ」


 あの時も、今も、謝らないで欲しかったんだよ。


「……え?」


 那由多は目を見開いてた。

 意味がわからないって表情。


「嬉しかったの」


 私はもう一度、はっきり伝える。


 何回だって言うよ。

 だって、本当に嬉しかったから。


 那由多はまだビックリしてるみたい。

 瞬きもしないで私を見てた。


 今、言ってもいいよね。

 今度こそ。


 3度目の正直だよ。


「私ね、那由多が好きだったの。……好きなの」


 言えた。

 やっと、伝えられた。


 すると、那由多はやっと瞬きを繰り返してから、ためらいがちに口を開いた。

 戸惑ってる、っていうか混乱してるみたい。


「え、あの先輩は?」

「先輩?」

「“京先輩”が好きなんじゃ、」

「京先輩?」


 なんで?


 私はキョトンとしてしまった。

 どうして那由多がそう思ってるのかわからなかったから。


 それが私の態度から伝わったみたい。


「だ、だって、零ちゃんはあの先輩の話が凄く多かったし、嬉しそうに話してたし、それに、写真もいっぱい飾ってて、……違うの?」

「違うよ!私が好きなのはずっと那由多だもん!」


 目を見開く那由多。

 動揺を隠しきれてない瞳が、揺れてた。


 聞いてよ、これが私の気持ちなんだよ。


 好きなの。

 大好きなの。


 他の誰でもなく、


「那由多だけ、」


 なんとか気持ちを伝えたくて必死に叫んでたら、途中で言葉は飲み込まれた。


「な、ゆた」


 ……っ。


 苦しい。

 痛いくらいに強く抱き締められて、身動きもとれなかった。


「ほんとに?」


 那由多の小さな声が頭に直に響く。


「ほんとだよ……。那由多が好きなの……」


 信じてよ。

 いつの間にか、涙が頬を伝ってた。


 からだ全部に感じる那由多の体温はやっぱり熱くて、でも、それがあまりに心地好くて、その広い肩口に顔を埋めた。


 那由多は、力を増して距離をさらになくしてくれる。


 さっきまでの不安は一瞬で消え去ってた。

 ただ、ただ、安心する。


「僕も、」


 耳元で絞り出された声。


 一瞬、那由多も泣いてるのかと思った。


「僕も零ちゃんが好きだよ」


 それはずっとずっと欲しかった言葉。

 ようやく聞けた、那由多の答え。


 やっと言えた。

 やっと聞けた。


「何度も諦めなきゃって、応援しようって自分に言い聞かせてた。でも、やっぱりムリで……」

「私もおんなじこと思ってた……」


 そっか。

 ずっと同じだったんだね。


 抱き合ったまま、那由多がくすりと笑った。


「なんか、バカみたいだな」

「……そうだね」


 本当にバカみたい。

 まさかずっと両想いだったなんて。


 今度はふたりして、苦笑するみたいな笑いが漏れた。

 頭の後ろに息がかかって、ちょっとすぐったい。


「あーあ」

「那由多?」

「こんなことならあのときちゃんと聞けばよかった」


 あのとき。


「そうだよ!せっかく告白しようと思ったのに!」


 反射的に、ばっと少し離れて那由多の顔をちょっと睨む。


 そうだ。

 那由多が“なんにも言わないで”なんて言うから、こんな回り道しちゃったんだ。

 苦しかったんだ。


 またじわりと涙が浮かぶ。


「……ごめん、どうしても我慢できなかった。“京先輩”を好きになったって報告だと思って」


 那由多は申し訳なさそうにしながら、私の目元を拭ってくれた。


 あ、そんなに攻めるつもりはなかったのに、つい反応してしまった。

 それにせっかくくっついてたのに離れちゃった。


 ……私のバカ。


「カッコ悪いな」


 少しの距離を残したまま、那由多がぽつりと呟いた。

 でも、


「そんなことないよ」


 那由多はかっこいいもん。


 たくさんの女の子が好きになっちゃうくらいに。

 不安なくらいに。


「あのとき、那由多は私に告白されたくないんだって思った。幼なじみでいたいのかなとか、でも、だったらなんでキスしてくれたのかなとか、凄くぐるぐるしてた」

「……ごめん」


 さっきから謝らせてばっかりだ。

 また悲しそうな顔をさせてしまって、胸が痛い。


「でも、もういいの。だって、もう伝わったよね?」


 だから、気にしないでって気持ちを込めて、そう言った。

 本当にもうどうでもいいことだって思ったから。


 そしたら、那由多はふっと笑ってくれた。

 それは、穏やかで温かくて、私の大好きな笑顔。


「うん」


 那由多が笑う。

 それだけで胸が一杯になった。


 那由多はとろけそうに微笑んだまま、ゆっくりと顔を近づける。

 こつんとおでこ同士がくっついた。


 そして、額を触れ合わせたまま、見つめてくる。


 ち、ちょっと待って。

 途端に恥ずかしくなった。


 ち、近い近い近い!

 さっきまでどうやってぴったりくっついてたんだっけ!?


 た、耐えられない。

 恥ずかしいよ。


「な、那由多、」

「ん?」


 焦って名前を呼んでみたけど、掠れた声で返されたら鼓動は加速するだけだった。


 心臓が、死ぬ。

 なんて意味不明なことを考えながら、反らせない視線を見つめ返すことしかできない。


 あ、那由多まつげ凄く長い。

 それにお肌もすべすべだし。

 羨ましいな。


 なんて現実逃避をはかっても、全く意味はなかった。


 只でさえ近い距離がさらに近づいていくにつれて、鼓動が耳に大きく鳴り響いた。


「……っ」


 そして、ふっと唇に触れて離れる熱。


 う、わ……。


 視線が絡まる。

 いつしか那由多の手は頬に当てられていて、顔の全体が熱かった。


 私はたまらず那由多の服をつかんでた。


「零ちゃん、」


 また近くなる距離に、今度はぎゅっと目を閉じて応える。


「可愛い……」


 言葉と共に再び触れ合う、その前に。


 ピンポーン。

 インターフォンに邪魔された。


 暫く吐息のまざる距離でストップしてから、


「はぁ」


 ため息と共にすっと離れる手のひらと那由多の気配。


「ちょっと待ってて」


 瞼を開けると、那由多は立ち上がってモニターへ向かってた。

 そして一言二言喋ると、廊下へ出ていってしまった。


 残された私は、体を硬直させたままパタリとソファへ倒れこんだ。


 な、なに今の。

 なに今の。

 なに今の!


 色っぽい那由多の声が耳から離れない。

 きらきら光る瞳が目に焼き付いてる。

 そして、燃えるように熱い……。


 き、きゃあぁぁぁ!

 私は狭いソファを転げ回ってた。


 ははは恥ずかしい!


 あんな那由多は知らないよ。

 恐いくらい綺麗で、悲しいくらいかっこいい。

 今まで知ってた那由多より、何倍も何十倍も。


 こんなの死んじゃうよ。

 ショック死しちゃう。

 私にはいきなりハードル高すぎるよ。


 でも、またキスしちゃった。


 指先で唇に触ってみた。

 さっきのとはやっぱり違う。


 ………。


 って!

 なんでこんなにがっかりしてるの、私。


 もう自分で自分がよくわからなかった。


 ガチャッと音がして那由多がリビングに戻ってきた。

 反射的にぱっと顔をあげてみたけど、どんな顔したらいいのか、今どんな顔してるのかもわからなくて、ためらいがちにちらちらと那由多を見てた。


 そうしてたら、


「……あのさ、」


 困ってるみたいな声がかけられて、私は意を決して今度はちゃんと見つめてみた。


「零ちゃん、」

「う、うん」

「気をつけて」


 え?

 気をつける、って何に?


 ぱちぱち瞬きして見てても教えてくれない。


「……うん。とりあえず、ちゃんと座って?」

「あ!ごめん!」


 ソファを転がってた名残そのままに、乱れた髪と服を慌てて整えて座りなおした。


 そんな私に苦笑をこぼして、また那由多も隣に座る。


「あんまり僕を試さないで。自信ないから」


 ためす?

 またよくわからなくて首を傾げていたら、


「なんでもない」


 そう言って笑われてしまった。

 結局教えてくれないまま。




 さっきのお客さんは柳田君だったらしい。

 届け物をしてくれたんだって、那由多が教えてくれた。


 さっき手に持って戻ってきた、あの紙袋かな。


「実は柳田には話してあったんだ。幼馴染みが好きだって」


 好きって言われて、またドキッとしてしまった。

 でも恥ずかしいから、気付かれないようにただ頷く。


「一時どうしようもないスランプになってさ、絵もかけなくて、ちょっと荒れてて。授業をサボって一日中屋上にいたりした。その時知り合ったんだ」


 意外。

 那由多が授業をサボる姿なんて想像できなかった。


「なんか気が合ってさ。でも零ちゃんのこと、そんなに話した訳じゃないのにあいつ異様にカンが鋭くて。ガーベラの絵を送ったの覚えてる?あの絵を見ただけで、ほとんど全部バレた」

「バースディカード?」

「そう」


 那由多は微かに眉を寄せて頷いた。


「嫉妬心丸出しだって」

「嫉妬!?」

「確かにその通りだった。あの時は何を描いてもあんな感じで……。ごめんね」


 だから、いつものバースディカードと違うと思ったんだ。


 でも、ヤキモチ焼いてくれてたんだ。

 それはそれで嬉しいな。


 にやける口許を那由多に気付かれないように引き締めて、続きを聞く。


「それでも、描くのはやめられなくて描いてた」

「うん、わかるよ」


 凄くよくわかる。


 私も、苦しくても走るのをやめられないから。

 やめることなんてできないから。


「でも、ある時いきなりちゃんと描けるようになって」

「いきなり?」

「そう。描きたい衝動が込み上げてきて、気付いたら描きあげてた……。送ったよね、小説」

「あの女神様の?」


 優しそうで、強そうで、凄く綺麗な絵だった。

 小説の中の彼女もまさにそんな人で、憧れた。


「違うよ」


 え?

 あの絵のことじゃないの?


「あれは零ちゃんなんだ」

「わ、私?」

「そうだよ」


 あんなに綺麗なあの絵のひとが、私なの?


 優しくない、強くもない、綺麗じゃない。

 本当の私なんて、卑怯で、臆病で、醜い。


 なのに、那由多はそんな風に私をみててくれたの?


 嬉しい。

 凄く凄く嬉しい。


 じわじわ胸が熱くなった。


「柳田が届けてくれたんだ」


 そう言いながら、那由多はソファの横に置いていた紙袋を引き寄せた。

 そして、そこからするりと出されたのは、白い布に包まれた四角いもの。

 ゆっくりと丁寧に開かれていく布を、私は黙って見つめてた。


 現れたのは今まで話題に出てたあの絵だった。


 その圧倒的な存在感に、吸い込まれてしまいそう。

 本物だってすぐにわかった。


 本を貰ったときも素敵だと思ってたけど、これは全然違う。

 生で見たこの絵は、生きてるみたいだった。


「あげる」

「いいの?」

「うん」

「ありがとう……」


 嬉しい。

 本当に嬉しいよ。

 これ、私なんだって。


「大事にするね!」


 私は絵を受けとると、そっと、でも、ぎゅっと抱き締めた。


 絵を綺麗に布に包み直して、丁寧に袋にしまった。

 寮の部屋のどこに飾ろうか今から悩んじゃうよ。


 そうだ、美加にも自慢しちゃおうかな。

 それであの部屋のどこに飾ったらいいか、相談にのってもらおう。


 だって、こんなに素敵な絵をおける場所なんてそんなにないから。


 あれ?

 そういえば、


「柳田君はどこから届けてくれたの?」


 ふと気になって聞いてみた。


「ああ、高校からだよ。ずっと京子先生のところに預けてあったんだ」


“京子先生”


 その名を聞くと、まだちくんと胸が痛む。


 柳田君はあり得ないって言ったけど、本人からはまだ聞いてない。


「ねぇ那由多、京子先生とはなんにもないんだよね……?」


 へんなこと言ってる自覚はあるけど、聞かないで後悔はもうしたくないから思いきって口にした。


 でも、


「何が?」


 あれ?

 那由多には、私の聞きたかったことが伝わらなかったみたい。


 不思議そうな瞳を向けられてしまって、私の方がちょっと焦ってしまった。


「あの、お付き合いしてるとか……」


 控えめに、でもなんとか気になってたことを口にする。

 と、


「あ、あるわけないよ!」


 那由多は心底驚いた顔をして、声をあらげて言った。


 確かに、さっきは私に気持ちを伝えてくれたけど、不安だったんだもん。

 だからひとこと否定してくれたらそれで充分だったんだけど、その反応には私もびっくりしてしまった。


「あるわけない、の?」


 だって、凄く美人な先生だったよ。

 これぞおとなの女性って感じの、色気たっぷりのナイスバディな人だった。


 男のひとだったら誰でも素敵だと思うんじゃないのかな。


「……零ちゃん、京子先生って孫までいるんだよ?」


 ………。


「は?」


 まご?


「見た目は若いけど、歳は僕たちの3倍以上なんだ」

「う、うそ!」

「本当。今度会わせてあげるよ。先生にも、零ちゃんを連れてこいって言われてるし」


 孫……。

 3倍……。


 ………。


 そ、そっか。

 なんだ。


「私、勘違いしてた」


 やっぱり不安なことはすぐに聞くのが一番みたい。

 さっきまでの嫌な気持ちは、もう跡形もなくどっかにいっちゃった。


 ま、半分は驚いて飛んでっちゃったんだけど。


「もしかしてこの間、それで逃げたの?」

「……うん」


 逃げたって言われて、今度は申し訳ない気持ちになった。

 話も聞かずに勘違いして逃げ出して、那由多を不安にさせてしまった。


 謝らなくちゃ。

 私はごめんって言おうと口を開いた。

 のに、那由多が盛大なため息をついたから言いそびれてしまった。


 どうかしたのかな。

 心配になって顔を覗き込んだ。


「なんだ。そうだったんだ、よかった」

「え?」


 よかった?


 那由多は複雑な表情で、言いにくそうに口を開く。


「僕に軽蔑して逃げたのかと思った」

「け、え、なんで?」


 あまりに予想外だったから、思わずまぬけな声が出てしまった。


「柳田が変なこと言ったから、そうかなって……」

「軽蔑なんてしないよ!」


 那由多の言葉を遮って、声をあらげて力一杯否定した。

 なんで那由多を軽蔑するの。


「だって、好きすぎて困ってるくらいなのに」


 勢いのままに思わずそう言ってしまったら、那由多はちょっとビックリした顔をして、そして、嬉しそうに笑った。


 !

 なに、その顔!


 眉尻を下げて眩しそうに目を細めてる。

 更に頬まで淡く染まってて、


「そっか」


 なんて、甘く囁いた。


 ………。

 だから、なにその顔……。

 反則なんですけど。


 それに声。

 那由多の掠れ気味の声って、聞くとゾクゾクして困る。


 たまらなくなって、慌てて会話を探した。


「そ、そうだ、京子先生に早く会ってみたいな」


 先生にも、私のこと話しててくれてみたいだし。

 さっきの会話でなんか興味も出てきて、今すぐにでも会ってみたい気分になってた。


 毎日通ってるって言ってたから、今日も行くんだよね。

 じゃあもう会えるのかな。

 楽しみだな。


「うん、じゃあその内に」


 あれ?


「今日じゃないの?」

「今日はムリ」

「そうなの?あっ、もしかして予定あった!?ごめん、いきなり来ちゃって!もう帰るから……」


 悪いことしちゃったな、なんて思ったんだけど、


「違うよ」


 那由多は否定した。


 じゃあなんで?

 視線で問いかけてみる。


 そうしたら、


「今日はふたりでいたい」


 真顔でそう言う那由多。


 ボンッ!

 そんな効果音がまさにぴったりなくらい反応しちゃったと思う。


 だって、唯一見える自分の手まで赤いから。


「嫌?」

「じゃ、ない、……けど」


 どうしてさらっとそんなこと言えるの。

 私はすっごく恥ずかしくて、しどろもどろにしか返せなかった。


 囁かないでよ!

 首傾げないでよ!!

 覗き込まないでよ!!!


 なに、この那由多。

 なに!この那由多!


 さっきから私を殺す気なの?


「零ちゃん」

「!」


 せっかくちょっとそらしてたのに、呼ばれて思いっきり視線を合わせてしまった。


 濡れた黒い瞳に、私が映ってる。

 吸い込まれていく。


 あ。

 ダメだ。


 もう、そらせない。

 そらす気も起きない。

 頭の中が真っ白になってしまった。


 今の私にできたのは、ただ目の前にある端正な顔を見つめることだけ。

 時間が止まったような錯覚に陥ってた。


 ううん、本当に、このまま時が止まってしまえばいい。

 そんな風に思い始めてた。


 そうしたら、ふっと耳元に柔らかな感触がして、思わず肩が震えた。

 那由多の細く長い指が、耳の後ろをなぞるように動く。


 髪を絡ませた指先が下から上へとするりするり上がっていくから、くすぐったくて背筋が反るほど伸びてしまった。


「……っ、くすぐったい、よ」


 ちょっと待ってほしくて言ったのに、那由多の手は離れない。

 それどころか、緩やかに滑る熱い手のひらが私の思考をどんどん溶かしていった。


 気付いたときには耳ごと包み込むように両手で顔を挟まれていて、慈しむように那由多が私を見てた。


 どくん、と、

 心臓が不規則に跳ねる。


「……好きだよ」


 甘い囁きに背骨がしびれた。

 そして、痛いくらいに胸が締め付けられる。


 那由多の光を放つ瞳は、まるで濡れてるみたい。

 もしかして、本当に泣いてるの?


「思い出せないくらい昔から、ずっと……」


 ほとんど吐息みたいな声だったけど、ちゃんと聞こえた。

 ちゃんと伝わってきた。


 思い出せないくらい昔って、いつからなのかな。

 そんなに、想ってくれてたんだ。


 身体の奥深くから、何かが込み上げてくる。

 それは勝手に涙へと姿を変えて、止めるすべもなく溢れ出した。


「ずっと、好きだよ」


 那由多はもう一度囁くと、静かに唇を重ねた。


 今までで一番長い、お互いの体温を確かめるみたいなキス。

 触れてるだけのそれが、私をひどく安心させてくれた。


 しばらく触れあって、少しだけ離れて。

 ちょっとだけ見つめ合ってから、寂しさを感じる前に、再び口付ける。


 また離れたと思ったら、今度は涙を吸いとるように目元に触れて。

 私の心はどんどん那由多で埋めつくされていく。


 那由多、那由多。


 頬に添えられたままの那由多の手に私も手を重ねたら、那由多が柔らかく微笑んだ。


 あ、


「好き」


 今の笑顔、


「好き、」


 那由多が。


「……大好き」


 気持ちが溢れるまま口にすると、もう1回、ちゅっと音をたててキスしてくれた。


 反射的に閉じてしまった目をゆっくり開けてみる。

 私、もう死んじゃってもいいかも。


 あまりにも速く鳴ってる心臓が今にも壊れそうで、でも、幸せすぎて。

 そんなことを思ってしまった。


 今度は、さっきよりも嬉しそうな那由多の顔があったから。


「僕も、」

「……うん」


 私もきっと、今おんなじ顔してる。


 さっきまでの不安は何だったんだろう。

 もう言葉なんていらなかった。


 私は腕を伸ばして、自分から那由多に抱きついた。




 翌朝。

 寮の部屋で目を覚まして、新しい制服に袖を通した。


 今日は入学式。

 那由多より一日早いので、一足先に高校生の仲間入りだ。


 首もとのストライプ柄のリボンが可愛くて、制服も凄く気に入ってる。

 だから、浮かれながら鏡の前で念入りにチェックをしてたんだけど、それを見た美加には笑われてしまった。


 いいんだもん。

 嬉しいんだから。


 気にせず鼻唄を歌いながら、髪の癖を丁寧に直してた。


 本当に、嬉しいな。

 入学式も制服も私の気持ちをぐぐっと引き上げてくれたけど、でも一番は、やっぱり昨日のこと。


 やっと気持ちを伝えられた。

 そして、応えて貰えた。


 今思い出しても顔が赤くなっちゃうよ。

 まだ肌寒さの残る四月だけど、ぱたぱたと手で風を送って熱を冷ましてた。




 那由多とキスをした。

 たくさん、たくさん、数えきれないほど。


 唇に、頬に、額に、瞼に、鼻先に、耳に、首筋に、手のひらに、指先に。

 まだ触れてるみたいに全部が熱い。

 特に唇は、やっぱり燃えてるみたいだった。


 何度も何度も、時間を忘れてしまうくらい夢中になってキスしてたから、那由多のお母さんが帰ってきたときは本当に焦った。

 玄関ドアの開く音で二人同時に我に反って、慌てて離れたっけ。


 那由多のお母さんは私を見つけても、


「零ちゃん!遊びに来てたのね!」


 と嬉しそうに笑いかけてくれるだけだったから、ほっとした。


 見られてたら、私死んでたよ。

 本当に。


 今思い出してもヒヤリとする。


 私はその場面を回想して深いため息をついた。


 ひとりでそんな百面相を繰り広げていると、美加が私を呼んだ。


「零、そろそろでようか?」

「うん、そうだね」


 私たちはふたりで部屋を出ると、これから毎日通うことになる学校へと歩き出した。




 式が終わって、クラスで短いホームルームをしたら、今日はもう終わり。

 私は寮に帰るべく校舎を出た。


 寮は同じ敷地内だけど、一度校門を出て道路から回り込まなくちゃ行けない。

 私は回りの景色を興味深く見回しながら、ゆっくり校門へ向かっていった。


 周りには新入生がちらほらいたけど、知ってる顔はない。

 美加もクラスが違ったしひとりで歩いてた。


 校舎と道路を繋ぐ広い道はイエローベージュのタイルが敷き詰められていて、その左右には何年生きてるのかも想像がつかない木々が生い茂っている。

 キラキラ降り注ぐ春の木漏れ日を受けて、眩しさに目を細めながら眺めた。


 今日はまだ部活はない。

 陸上部には明日の放課後から行くことになってた。


 また陸上がやれる。

 しかも強豪校で。

 それは嬉しい。


 けど、小さな胸の痛みには気づいてる。

 昨日から目に見えて浮かれっぱなしの私でも、心の隅でチクチク刺さるものがずっとあった。


 あれから、京先輩に会ってない。


 らしくない顔をさせてしまったあのときから。

 前はよくしてた連絡も、あれからしてなかった。


 那由多とのことは、きっと報告しなくちゃいけないよね。

 でも、だからといって、そそくさと連絡を取る気にはなれなかった。


 京先輩とは、気まずくなりたくない。

 一方的に突き放しておいて、そう思う私はずるいってわかってる。


 だからこそ、せめて、ちゃんと向き合って話したいって思ってた。


 明日、部活が始まる前に話ができるかな。

 スマホを開き画面に表示させた京先輩の連絡先を見つめて、そんなことを考えながらゆっくりゆっくり歩いてた。


「入学おめでとう!」


 突然の声に振り向いた。


 そこにいたのは、今まで考えてたひと。

 この間の気まずさなんて感じさせない雰囲気で笑う京先輩だった。


 顔を見ただけでほっとするのは、やっぱり京先輩の持ってる空気がそうさせるなかな。


 相変わらずのかっこよすぎる顔を眩しい笑顔で飾って目の前まで歩いてくる。


 気付いたときには余計な力は抜けていて、私は背筋を伸ばしてちゃんと向き合った。


「ありがとうございます」


 私も普通に笑えたと思う。


 よかった。

 この間みたいな空気は本当に嫌だったから。

 私は気付かれないように小さく息をついた。


 京先輩に、何て言ったらいいのかな。


 那由多とのこと。

 言わなきゃいけないって思うのに、なにをどう言ったらいいのかわからなかった。


 どうしよう……。


「零、あそこ」

「はい?」


 ちょっと俯いて考えていると不意に呼ばれて、顔を上げた。

 京先輩はどこかを指差してる。


 その先を辿ってみると、そこには、那由多……?


 校門の横に那由多が立っていた。


 こっちにまだ気付いてない様子のその姿に、茫然としてしまう。


「よかったな」


 かけられた言葉に驚いて、京先輩を仰ぎ見た。

 きらきらと光を振り撒くような表情は、本当に喜んでくれてる証。


「京先輩……」


 その表情を見たら、ぎゅっと胸が締め付けられた。


「俺、零のこと好きだよ」

「……っ、」


 いつもの突然の告白に、また私は言葉を詰まらせてしまう。


 まだ好きでいてくれるの?

 それなのに、喜んでくれるの?


 なんで?


 よかったって言いながら、好きだって言う京先輩。

 わからないよ。


「でも、」


 私が聞く前に言葉を繋いでいくから、黙って耳を澄ませてた。


「俺、」


 うん。


「零と一緒に走ることの方が、もっと好きなんだ」


 ……。


「え?」


 なに、それ。


 私自身よりも、私と走ることの方が好きってこと?


「だから、これからもよろしくな」


 そう言って笑う。


 太陽みたいな、私の大好きな、いつもの笑顔で。

 わかってるよ、って顔で。


 その瞳がわずかに煌めいたのが見えた。


 優しい、優しい、京先輩。


「返事は?」


 私は必死に涙を押し止める。

 そして、


「はい!」


 元気よく応えた。


 京先輩はこくりと頷いて、笑みを深めてくれた。


「よし、じゃあほら、行きな」

「えっ」


 ぽんと背中を押された。

 押された先は、那由多の待つ校門。


「走れ!」


 そう言われて、反射的に走り出した。


“振り向かずに”


 駆け出す直前に聞こえた気がした、その言葉に従って、真っ直ぐに前だけを目指して。


 校門までダッシュして那由多の前で立ち止まる。

 たいした距離でもないのに、苦しくて呼吸が乱れた。


 ゆっくりと息を整えて顔をあげたら、那由多は私の後ろを見てた。

 視線を追うと、そこには京先輩の後ろ姿。


「……那由多?」


 なんとなくドキドキしながら声を掛けた。

 でも、


「うん、行こう」


 那由多は柔らかく笑っただけだった。

 何にも言わないし、何にも聞かない。

 綺麗な真っ黒な瞳で、ただ私を見つめるだけ。


 なんだか不思議。

 なんで、そんなに穏やかな顔してるの。


 でも、なんとなく聞けなかった。


 すっと手が差し出されて、私も自分の手のひらを重ねる。

 そしてどちらからともなく、ふたり並んで歩き出した。


 ……。

 京先輩、ありがとう。


 同じ気持ちではないけど、ずっとあなたが大好きです。


 心のなかで小さく呟いた。




 どこへともなく手を繋いで歩く私たち。

 寮への道のりはあまりに短いから、わざと帰り道とは違う方へ那由多を引っ張った。


 きっと気付いてるだろうけど、黙って付き合ってくれるから、行き先のないままぶらぶら歩いてた。


 喋りながら歩くだけで、こんなに楽しい。

 他愛もない、本当に些細な話が凄く嬉しい。

 色んな言葉を交わしながら歩いてた。


 剣道の話になって、ふと思い出した。


「ね、那由多」

「ん?」

「気になってたことがあるの。きいてもいい?」


 もう大分前から、もうひとつ胸にちくちく刺さってたその質問。


「もちろん」


 那由多は快く頷いてくれるから、思いきって切り出した。


「前に、剣道場に行ったとき話してた子がいたでしょ?」

「見学に来たとき?」

「うん、同じ年くらいの綺麗な子」


 本当に仲が良さそうな、とっても美人な女の子。

 那由多とお似合いだった、あの子。


 那由多は何かに思い当たったようで、あ、と声をあげた。

 そして親しげにその人の名前を呼ぶ。


「ああ、柏原のことかな」

「かしわばら、さん……」


 ちくん。

 また、痛い。


 私ってなんでこんなに弱いんだろう。


「柏原がどうかした?」

「あの、……付き合ったりしてた?」


 ちょっと悩んだけどやっぱり気になって、口にした。


 だって、いい感じだったから。

 お似合いだったから。

 あの子は、那由多の何だったの?


 なのに、


「……」

「な、那由多……?」


 那由多は黙り込んでしまった。


「……零ちゃん」

「はい」

「やめて」


 昔のことまで詮索するなんて、重いと思われちゃったかな。


「……ごめん」


 私って、こんなに欲張りだったんだ。

 那由多からの否定の言葉が欲しかったなんて。

 今だけじゃなくて、昔の那由多も全部欲しいなんて。


 かなり嫌そうな那由多の顔。


 そうだよね。

 昨日やっと両想いになれたのに、こんなこと聞かれたら嫌だよね。


 私、最悪だ。


「あ、いや、謝らなくてもいいけど」


 そんな訳にいかないよ。


「気持ち悪いから」


 ……え?

 きも……?


 もう一度謝ろうとしたら思いがけない言葉が返ってきて、思考が停止してしまった。


「なんで僕が男と付き合うの」


 …………………。


「お、お、男!?」


 て、え?

 え!?


「……もしかして、女だと思ってた?」

「う、うん」

「あぁ、でもあいつ、確かに昔は女の子っぽかったからな」

「で、でも私睨まれて……!」

「あ、多分それは僕が稽古の相手断ったからかも」

「え、」

「零ちゃんにいいとこ見せたくて、先生とやりたいって断っちゃったんだよね」

「……」


 そ、そうだったの……

 本当にバカみたいだ、私。

 恥ずかしすぎる。


 っていうか、なんで那由多は嬉しそうなの。

 なんか悔しかった。


 那由多は首をわずかに傾けて、私の顔を覗き込んだ。


「心配した?」

「……うん」


 最早、勘違いは私の十八番みたい。


 もう、やだ。

 バカじゃないの、私。


 さっきまでの恥ずかしい気持ちは引いてきたけど、今度は落ち込んできた。


 だって、カッコ悪過ぎる。

 間抜けすぎる……。


 そんな私を見て、那由多がくすりと笑った。


 !!

 わ、笑わなくてもいいじゃん。


 やっぱりちょっと意地悪になったと思う。

 私は不貞腐れて、頬を膨らませながら那由多を見上げた。


 でも、拗ねた私に降ってきたのは、優しい声音。


「昔、言ったでしょ?」


 甘く掠れる、綺麗な声。

 耳に届いた瞬間に溶けて、全身に染み込んでいく不思議な音。


「僕の中には零ちゃんしかいないんだって」


 それって、


「……60個分?」


 子どもの頃の何気ない会話。


「うん」


 那由多も、覚えてたんだ。

 あの時のこと。


「だから、他の誰かと付き合うなんてあり得ないよ」


 思い出に浸る前に繰り出された、その真っ直ぐな言葉と視線に、一瞬で顔が熱くなる。


「あの頃も、今も、零ちゃんしか欲しくない」


 真っ黒な瞳の中で、青い炎が揺らめいたように見えた。

 触れてる指先は感電したみたいに痺れ出す。


 あ、どうしよう。

 息がうまく吸えない。


 そんな風に見つめられたら、どうにかなっちゃいそうだよ。


「そ、そっか……」


 必死にそれだけ絞り出して、浅い呼吸を繰り返す。


 落ち着け。

 落ち着け。

 落ち着け。


 繋いでないほうの手で胸を押さえて、ドキドキを落ち着かせようと頑張ってた。


 でも、そうはしながらも嬉しくて。

 嬉しすぎて。

 いつしか、自分の口許がゆるんでいたのに気付いた。


 もう少し拗ねて困らせてやろうと思ってたのに、敵わないな。


 でも、もういいや。

 那由多も笑ってるのを見たら、どうでもよくなっちゃったから。


 微笑み合うだけで心が満たされていく。

 今までに感じたことのない幸せを感じる。


 凄く嬉しくて、繋いだ指を更に深く絡めてぴったり寄り添ったら、こめかみにちゅっとキスを落としてくれた。


 ……。

 だから、なに、その余裕……。


 私は、また暴れ狂い出した心臓を鎮めるのに、全力を注ぐはめになったのだった。






 那由多は、1の後に0が60個。

 私は、0がたったの1個。


 桁があまりにも違うから、それが私たちの距離に思えて、なんだか寂しかった。


 でも、那由多は言った。

 60個の0は全部私なんだって。


 単純な私はそれだけで思う。

 それなら0も悪くないかも、って。






【END】

本編はこれで完結です。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

次話から番外編です。

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