0.1 幼なじみ
私と那由多が初めて会ったのは、病院だった。
産婦人科の新生児室。
もちろんその時のことは、記憶にない。
でも、誕生日がくるたびにママがその話をするので、もう耳タコだ。
那由多は、お隣さん。
新生児室のベッドも、家も。
ママどうしの仲がよくて、同じ誕生日で、同じ幼稚園で、同じ、数字の名前を持った、男の子。
性格は、優しくて、穏やかで、弱虫で、泣き虫。
私がいつも側にいて、幼いながらに守ってた。
生まれたときからずっと一緒だったから、もう使命のように思っていたのかもしれない。
毎日、手を繋いで公園に行っては、砂場へ直行した。
私はブランコやすべり台も好きだったけど、那由多は苦手だったみたい。
だから、一緒に砂でいろんなものを作って遊んでた。
不満はなかった。
だって、那由多といることの方が、ブランコよりも、すべり台よりも楽しいと思ってたから。
ふたりして笑い合いながら、ガタガタでとてもそれには見えないお城や怪獣を作って喜んでいた。
暗くなってきたら、また手を繋いで一緒に家に帰る。
私たちの家は、一階に二部屋、二階にも二部屋の小さなアパート。
階段を登って右側が私の家、左側が那由多の家だった。
私たちは迷うことなく、右側のドアの前へ向かい、背伸びしてノブを捻った。
那由多んちの部屋には、まだ誰もいない。
那由多のパパとママは二人でお仕事をしていて、帰りはいつも遅かった。
だから、夜ご飯はいつも私の家。
今日幼稚園であった出来事と、公園でした遊びをわいわい喋りながら、私と那由多と私のママの三人でご飯を食べる。
これが、私たちの普通だった。
那由多はあんまり喋らないけれど、ニコニコ笑いながら聞いていて、たまに私がうまく説明できないときには、一緒にママに話すのを助けてくれた。
ご飯を食べたら今度はお絵かき。
これもいつしか決まってた習慣だった。
那由多は絵が本当にうまくて、犬と猫を描きわけられない私と違って、お花の種類の違いまでちゃんと描きわける。
私は白いカレンダーの裏紙に、色鉛筆を使って絵が描かれていくのをいつも見ていた。
それは、自分で描くより断然楽しいから。
床にうつ伏せにふたりで並んで、横から手もとを覗き込んでた。
那由多は自然を描くのが好きみたいで、海とか空とか木とか鳥とか、そういうものをよく描いた。
その色使いは子どもの私の目から見ても、優しくて温かくて、那由多みたいにとっても綺麗だと思った。
那由多は女の子によく間違えられる。
それは、白い肌に大きな黒い目と薔薇色の唇、真っ黒でサラサラの髪の毛を持っていたから。
私は自分のことでもないのに、そんな那由多を自慢に思ってた。
私は生まれつき猫っ毛のくせっ毛で、伸ばすとすぐに絡まる自分の髪の毛が嫌いだった。
色もちょっと茶色いし、幼稚園ではうんち色とか言ってからかわれたりした。
でも、そんなときには
「きれいだよ!」
って、涙を溢しながら反論してくれる那由多がいて、私はからかった男の子たちを追いかけるのをやめて、那由多をぎゅっと抱き締めた。
那由多は自分のことでは反論しない。
女みたいってからかわれても、目に涙を溜めながら唇を噛んでただ耐える。
もちろん、那由多をいじめたやつは私が仕返しして泣かせてやるんだけど。
私は那由多が泣かないように、笑ってくれるようにいつも気にしてた。
だって、那由多の笑顔が大好きだったから。
ただ、大好きだったから。
那由多も私をよく笑わせてくれた。
ママに怒られて泣いてたりすると、紙と色鉛筆を持ってきて私に絵を描いては差し出してくれた。
そこに描かれているのは決まって同じ。
私の似顔絵。
私は嬉しくて、すぐに涙を引っ込めて笑った。
つられて那由多も笑うので、ふたりしてバカ笑いをしてはママのため息を聞いた。
いつものように公園に行って私の家にふたりで帰ると、いつもならすぐに聞こえるママの声が聞こえなかった。
その理由はもうわかっていたから、繋いだ手をさらにぎゅっと握って玄関へ入った。
リビングのドアの前で目を合わせて、思わず笑い合う。
「せーの……」
小さく声を掛けて、一緒にそおっとドアをあける。
パンパンパーン!
「「お誕生日、おめでとう!」」
ドアの向こうに見えたのは私のパパとママ、それと那由多のパパとママだった。
そう。
今日は、私と那由多の6歳の誕生日。
この日だけは、パパたちはみんなお仕事から早く帰ってきて、毎年パーティーをしてくれる。
私と那由多は顔を見合わせて、きゃーと奇声を上げて笑ってた。
バースデーソングをふたり分聞いて、一緒にろうそくを吹き消した。
ごちそうをたくさん食べて、ケーキもお腹に詰め込んで。
プレゼントに貰ったゲームをみんなでして。
くたくたになった私と那由多は、毎年のように睡魔に負けてパーティーを終えるのだった。
もうすぐ春がやってくる。
私は買って貰ったピンクのランドセルを背負って、リビングを走り回ってた。
那由多も買って貰ったランドセルを見せに持ってきたけど、背負わずに両手で大切そうに抱えて走る私を笑顔で見てた。
那由多のランドセルはモスグリーン。
子どもらしくない色かもしれないけど、那由多にはとても似合ってると思った。
「かわいい」
那由多がピンクのランドセルを見てそう言った。
「うん、ピンクかわいいでしょ!」
私は嬉しくて、那由多の前にペタンと座ってランドセルをよく見せるべく背中を向けた。
「……うん」
那由多はちょっと俯いて、小さく頷いた。
私は違和感をおぼえつつも、自分も思っていたことを伝える。
「なゆたもカッコいいね」
那由多は真っ赤になって、固まってた。
待ちに待った小学校の入学式。
私はママと、那由多はお仕事を休めたパパと、四人で学校へ向かった。
憧れの小学校はとっても大きくて、桜舞い散る校門で、手を繋いだまま、ふたりして口をあけて校舎を見上げた。
放心状態。
まわりを新入生の親子が通り過ぎる中、石像のように固まってた。
那由多のパパが、そんな私たちをこっそりカメラで撮った音で我に返り、ようやく那由多と目を合わせた。
「……おっきいね」
「……うん」
「……すごいね」
「……うん」
そんな会話を聞いて、ママが吹き出して笑った。
体育館での入学式が終わり、先生につれられて教室に移動する。
那由多と私は同じクラスだった。
那由多は、瀬尾 那由多。
私は、園村 零。
席も、前後のお隣さんになった。
少し高い木の椅子によじ登って座った私に、同じようにして座った那由多が振り返った。
私も足をぶらぶらさせながら、机を挟んで身を乗り出すと、那由多が嬉しそうに笑った。
那由多は頭が良いみたい。
そして、私はお馬鹿みたい……。
入学式から2週間がたった。
私は未だに自分の名前が書けない。
だって“れ”って、難しい。
折れたり曲がったり、本当に難しい。
那由多の“な”と“ゆ”も難しいと思う。
でも那由多は、もうお手本の字みたいに綺麗に書けた。
幼稚園でも習ったのに、まだできない私は、悔しくて涙をこらえながら平仮名の練習をしてた。
小学校から帰るのは、もちろん私の家。
アパートのドアを開けて、しょんぼり項垂れる私の手を那由多がリビングへ引っ張っていく。
「おかえり」
ママがベランダでやってるミニ菜園の世話を中断して、窓から顔を出した。
「ただいま」
「……ただいま」
いつもは私の方が元気よく声を出すけれど、今日は那由多につられるように、ぽつりと呟いた。
ママは目をまるくしてから微笑むと、軍手をはずしてリビングに入った。
「どうしたの?零?」
ん?と私の目線に合わせて、ママがしゃがんだ。
何も答えない私に変わって、那由多が口を開いた。
「おなまえ、れんしゅうしてもいい?」
私はついに堪えきれなくなって、泣いていた。
私の頭を撫でたのは、ママ。
でなく、那由多だった。
「たいじょうぶだよ」
顔を上げたら、那由多も泣きそうな顔をしてた。
「すぐ、かけるよ」
私は鼻をすすった。
「いっしょに、れんしゅうしよ、れいちゃん」
私は目をごしごしこすって頷いた。
ママはすぐに何の事か分かったみたいで、クスリと笑ったみたい。
いつもお絵かきするときみたいに、床に寝そべる。
那由多の書くお手本を見ながら、一生懸命に真似して書いた。
那由多もたどたどしく教えてくれる。
私は必死に鉛筆を動かした。
日も傾いて、ママは静かになった私たちを覗いた。
私も那由多もいつの間にか眠ってたみたい。
私たちの手元のノートに書かれた、よれよれの、でも一応形になった“れい”を見て、ママが微笑んだのを、私は夢の中で感じてた。
不意に目が覚めるとそこは私のベッドで、那由多と一緒に寝かされてた。
部屋は電気も消されていて暗いけど、隣の部屋から細く漏れる光でよく見える。
那由多は気持ち良さそうに眠ってる。
私はそっとベッドを降りた。
引き戸の向こう側にあるリビングに行こうとして、わずかにあいた隙間に手を掛けた。
開けようとしたら声が聞こえて、私は隙間に顔をくっつけて向こう側を覗く。
「……そっか。寂しくなるなぁ」
パパはもう帰ってきてたみたい。
ちょっと残念そうな声が聞こえた。
「えぇ、まさかこんな時期にいきなり決まるなんて……」
那由多のママも帰ってたみたい。
ダイニングテーブルには那由多のパパもいて、大きな背中が見える。
ママが料理を運んできて席につきながら言った。
「でも、栄転なんでしょ?おめでとう」
「ありがとう。ただ、那由多のことを思うとなぁ」
「せっかく小学校に入学したばかりなのに、あの子が可哀想で……」
「そうねぇ。那由多くんは優しいから、嫌とか言わないだろうし」
「うちの零みたいに、もうちょっと我が儘でもいいよな」
我が儘じゃ、ないもん。
リビングにちょっと笑いが起こって、私はムッとして唇を突き出した。
でも、スパイごっこのつもりでこっそり覗き続ける。
「零も寂しがるだろうなぁ」
「泣くかもね。っていうか、絶対泣くわね……」
ドキン。
心臓が跳び跳ねた。
私が泣くこと?
ってなに?
「多分、那由多もだな」
「仕方ないわよ。ずっと一緒だったんだから……」
私はそれ以上聞いているのがとても怖くなって、またベッドに入ると布団をかぶった。
近所の子たちと集団登校して、教室で授業を受けて、休み時間も一緒に遊んで、給食も席が前後だから一緒の班で食べた。
帰りも、もちろん那由多と手を繋いで。
私と那由多は幼稚園の頃と同じ、いつも一緒にいた。
同じクラスの男の子たちは、私たちをからかったりひやかしたりしたけど、全く気にならない。
那由多に手を出したら、私がお返しするだけ。
だって、那由多は私が守るって決まってるから。
那由多を傷つけるやつは、私が許さない。
ずっと、ずっと、一緒にいて、那由多を守るって思ってた。
半袖の洋服を着るようになった頃から、那由多の元気がなくなった。
私はすごく心配して、
「どうしたの?」
って聞いたけど、那由多は何にも言わなかった。
ママにも、那由多に元気がないことを言ったけど、ママはそっか、って言って悲しそうに苦笑しただけだった。
その週末。
私と那由多、私のパパとママ、那由多のパパとママでレストランに行った。
那由多はやっぱり元気がなくて、おいしいご飯もあんまり食べてなかった。
向かいに座ってた私が見ていると那由多はにっこり笑って、自分の飲んでたメロンソーダの中からサクランボを掴んだ。
「あげる」
指に挟んだ真っ赤なサクランボを、私に差し出した。
私はテーブルに乗っかるように身を乗り出して、那由多の指にぶら下がったままのそれをパクンと食べた。
「おいしー……」
ね、って言おうとしたけど、言えなかった。
那由多が泣いていた。
レストランからの帰り道。
那由多のパパが運転するワゴン車の中で。
私も知った。
那由多の元気がないわけも。
泣いたわけも。
那由多たちは明日、引っ越す。
聞いたことのない、ここからとても遠い場所に。
気がつくと、私も那由多と一緒にわんわん泣いていた。
足し算を、教えてくれるって。
もうすぐ始まるプールの授業が、楽しみだねって。
言ってたのに。
ずっと一緒だと思ってたのに。
ただ、寂しくて、悲しくて。
声がかれても、泣いていた。
ママが教えてくれた。
那由多が私に言わないで、って言ったこと。
だから、クラスのみんなにもお別れの挨拶をしなかったこと。
隠してる那由多の方が、ずっと、ずっと、辛かったこと。
私は泣きながらそれを聞いていて、繋いだ那由多の手を、ひたすら強く握っていた。
次の日。
アパートの駐車場には大きなトラックがいて、那由多の家にあったものを次々に載せていっていた。
私のパパとママもお手伝いしてる。
私と那由多は私の家のベランダに並んで座って、その様子をぼんやり見てた。
荷物が積み終わったら、那由多は行ってしまう。
そう思うと、また涙がじわじわ浮かんでくる。
それに気付いて、那由多は優しく声をかけてくれた。
「れいちゃん、なかないで……」
私は顎に力を入れて、涙を溢さないように頑張る。
「れいちゃん」
また聞こえた声に、顔を上げた。
「ママがね、またれいちゃんにあえるって」
「?」
「だから、バイバイじゃなくて、またねだよって」
「また、あえる?」
「うん」
「ほんとう?」
「うん」
那由多も目が濡れてる。
でも、ちゃんと笑ってた。
何だか悔しくなって、ついつい口を開いた。
「いっしょにプールであそぼって、いった」
「うん」
「たしざん、おしえてくれるっていった」
「うん」
「できる?」
「……」
会えるっていっても、今までと同じじゃないってわかってた。
意地悪なこと言ったって、わかってた。
那由多は、何にも言わずに立ち上がる。
珍しく怒ったのかと思って、慌てて私も立ち上がった。
那由多はまだ何も植わってないプランターの前にしゃがんで、私を呼んだ。
「たしざん、しよ」
土しか入ってないプランターを覗き込むようにして、手招きする。
私も隣にしゃがんだ。
「3たす4は?」
那由多が指で、土に式を書いた。
「7!」
私は答える。
「あたり」
土を撫でて、また新しい式を書く。
「5たす7は?」
「11?」
指をこっそり折って、ちょっと自信がなく答えると、那由多は首を傾げて唸る。
「うーん」
「あっ!12!12!」
「あたり」
やった、と喜びながら次の問題を急かした。
「8たす0は?」
答えは8。
すぐにわかった。
でも、答えじゃない言葉が勝手にこぼれてた。
「0ってなんであるのかな」
素朴な疑問だった。
だってたまに足し算の問題にでてきても、いつも意味がないから。
0は何にもないってこと。
だから足しても増えない。
意味なく見える、私の名前。
「なんでかな?」
頭の良い那由多もわからないみたい。
私はなぜかまた落ち込んできた。
「でも」
那由多がこっちを向いて何か言おうとしたから、私もプランターから顔を上げた。
「ぼく、いちばんすきだよ」
那由多はすごく嬉しそうにそう言った。
那由多の言葉で少し元気が戻った私は、また問題をねだった。
でも、那由多が次の式を書く前に、
「那由多ー!終わったよー!」
駐車場から那由多のママの声が聞こえた。
私たちは手を繋いで家を出る。
これでお別れだ。
ゆっくり階段を降りてパパたちのところに行った。
引っ越し屋さんは先に出発して、もうトラックはいなかった。
那由多の家にあったものは、もう何にもなくなった。
また寂しさが込み上げてきて、目が熱い。
那由多のパパとママは、もういつでも出発できそうだったけど、急かさずに待っててくれた。
「なゆた、またね」
なんとか震えそうな口で言った。
またね、って。
「うん。れいちゃん、またね」
もう前が見えなくて、まだ繋がってる手をぎゅうっと握って俯いてた。
「那由多、行こう?」
那由多のパパが優しく言った。
「……うん」
手が離れる。
寂しい。
寂しい。
寂しい。
ちゅ。
ぼやけた視界の中で、突然の感触にびっくりして跳び跳ねた。
何かが口にくっついた。
温かい何か。
ママたちが何かキャーキャー言ってる。
「ぜったい、またね!」
那由多が初めて聞くくらい大きな声を出したので、私も大きな声で応えた。
「うん!」
那由多を乗せて、車は走り出した。
すぐに見えなくなって、私は声を上げて泣いた。
もう我慢できなかった。
ママに抱きついて、もういない那由多に、またね、またね、って言いながら。
落ち着いた私に、ママが言った。
「那由多くん、最高のおまじないしてくれたね」
「おまじない?」
「そっ!」
「なんの、おまじない?」
ママはうふふと言って、力いっぱい私を抱き締めた。
「いつか、ずっと一緒にいれるようになるかもね」
「ほんとう!?」
私はママの胸から顔を離して、聞いた。
「零が、那由多くんを忘れなかったらね」
「わすれないよ!ぜったい、ぜったい、わすれないもん!」
ママが相変わらず楽しそうに笑ってるのを見てた。
その後ろで、パパが落ち込んでたことには、全く気付かずに。