vs7.「予感」
―――その翌日。
私はなぜか人の気配があまりない静かな廊下を、大量のノートを抱えて歩いていた。
腕に抱えているノートが、顎のちょうど下辺りまで積み重なって、バランスが取り辛い。
視界も悪いし、これで躓いたりしたらどうするんだ。
「お、重い…」
徐々に肘に痺れるような感覚が広がっていくのを感じ、ついぼやきを漏らす。
なんだって、女の子にこんな事をやらせるんだろう。
こんな仕事男子がやればいいのに。
しかもこっちは不慣れな転校生なんだよ?
転校してきて早々雑用係かい!
…と誰にでもなく、突っ込みを入れたくなる。
私は、涼しげな目元を光らせていた教師を思い出した。
「色々やった方が経験になるし、学園にも馴染みやすくなるだろ」
という、もっともそうな理由を並べて仕事を押し付けてきた小柳先生。
課せられたのは、自分の担当教科である物理の課題ノートを先生の研究室まで運んで来い、といった内容だった。
あの時、つい顔に不満が滲み出てしまったのは仕方がないよね。うん。
だって、明らかに雑用だ。それ以外の何者でもない。
そんな子供騙しが通用すると思っているのか、先生…
私は先生の言葉を素直に受け止められるほど、純粋培養に育ってないし、おそらく10人中9人は私と同じ事を思うんじゃないかな。
捻くれてて上等。
不満を口に出さなかっただけでも、褒めてほしいぐらいだ。
誰かに手伝って貰えば良かったんだけど、男子にはまぁ…雰囲気からして無理そうだし。
女子にも、何だか申し訳なさが勝って結局頼めなかった。
よろよろとした足取りで廊下を突き進んでいく。
―――とその時、視界の端に、前方から2,3人の男子がやって来るのが映った。
話が盛り上がっているのか、小突きあいながら楽しそうに喋っている。
羨ましいことだ。
ああ、まずいなぁ…
ぼんやりとその光景を見つめながら、そんな考えがちらりと頭の隅に過ぎった。
だって、絶対彼らは私の存在に気が付いてない。
前見ないで話してるし、あんなに廊下の幅めいっぱいに広がられたら、逃げ道なんて皆無に等しい。
こっちだって重い荷物を腕に抱えているわけだから、急な進路転換は無理だ。
試しに「すみません」って声を掛けてみたけど、ほらね。
盛り上がりがピークに達している彼らの耳に自分の声が届く筈がないのだ。
すぐそこにまで差し迫っている危険に、私はぎゅっと目を瞑る。
―――ぶつかる。
そう思った時には、既に遅かった。
ぐらりとした衝撃と共に、抱えていたノートがバサバサと音を立てて雪崩のように廊下に滑り落ちていく。
「うわっ、なんだぁ!?」
相手のぶつかった男子が素っ頓狂な声を上げて、驚いたように体を仰け反らせたのが分かった。
だけどそんなのに構っていられる余裕はない。
こっちはこれからこの床に散らばったノート拾い上げるという、重労働を強いられているのだ。
視線を床に落として、ついため息が零れる。
ああ。
面倒臭い事になる前に、一応謝っておかなくちゃ。
顔を上げて、目の前の男子の顔を見つめる。
盛大に顰められている表情を見て、内心苦笑してしまった。
「こちらの不注意でごめんなさい。お怪我はなかったですか?」
「あ?ああ…くそっ、ちゃんと前見て歩けよなー」
「すみません」
謝罪を口にしつつ、ぴくりと眉が動きそうになる。
…それはこっちの台詞だ。
苛々する気持ちを直隠しにして、じっと耐えて待つ。
衝突した相手の男の子はこちらを思いっきり睨み付けた後、「痛ぇ…女って本当に最悪」とぶちぶち文句を呟きながら、集団と共に去っていった。
必要以上に絡まれなかった事にほっと胸を撫で下ろしつつ、ノートの回収作業に入るため私は腰を下ろす。
…普通こういう時ってさ。
「ごめんな、俺の所為で」とかなんとか言って、キラキラのオーラを振り撒く王子の如く、一緒にノート拾ってくれるものなんじゃないの?男子って。
それで「怪我はない?教員室まで一緒に持ってくよ」とかなんとか眩しい笑顔で言って、8割方のノートをさり気無く持ってくれて、一緒に運んでくれるのが相場だと決まってるんじゃないの?
まあ、この学園の男子にそんな気遣いを求めるほど馬鹿な事はないと思うけど。
でもやっぱり、そういう期待も何だかんだでちょっとはあったのだ。
せめて一緒にノートを拾うぐらいの誠意は見せて欲しかった。
人気がなくなり再び静まり返った廊下で、散在したノートを一冊ずつ広い上げる。
「よい…しょっ」
腕に思いっきり力を入れて、渾身の力でノートをを持ち上げると、私は再び覚束ない足取りで研究室を目指した。
研究室の前まで何とか辿り着くと、扉が僅かに開いているのが分かった。
廊下にまで細く明かりが漏れている。
生憎両手が塞がっている為、ノックを出来るような状態ではない。
ちょっとお行儀が悪いけど…
私は右足で扉を無理やりこじ開けた。
どさり、と大きな音を立てて、すぐ近くの机の上にノートの束を置く。
「小柳先生ー持ってきましたよー」
「おお、ご苦労さん」
奥の方から声がして覗いてみると、窓際で煙草を吸っている小柳先生の姿が目に入った。
淡いクリーム色のカーテンが風に煽られて波打つように揺れている。
私と目が合うと、先生が眼鏡の奥で軽く目を見開くのが分かった。
「なんだ、お前1人で運んできたのか?」
「…そうです」
ほんと、ここに来るまでの壮絶なドラマを見て欲しいぐらいだ。
恨みがましい目つきで先生を見上げると、先生は苦笑した。
「誰かに頼めばいいのに」
「まあ、そうなんですけどね」
全然学園に馴染めていない転校生に、それはなかなか酷な事ですよ。先生。
そんな思いが伝わったのか、小柳先生は「ありがとな。助かった」と苦笑を深めて労わる様に頭を撫でてくれた。
うっ…一瞬ドキッとしちゃったじゃないか。
仕方がない、今日の事は許してあげるか。
「そういや、どうだ?学校は」
「え?」
転校2日目にしての失態を見ていて、それを訊きますか?
私は敢えて微笑んで告げてみせた。
「―――ぼちぼちですよ」
「…そうか」
私の答えに先生は一瞬虚を付かれた様に瞠目したが、すぐに呆れ笑いを浮かべた。
「まあ、無理はしないようにな。何かあればいつでも相談しろよ」
「はい、ありがとうございます」
たぶん先生は、私の心情に気付いていただろう。
けれどそれ以上深追いしてくる事はなく、穏やかな視線を向けてくるだけだった。
失礼します、と言って研究室を後にする。
あんな重い荷物を抱えていたからか、すっかり肩が凝ってしまったようだ。
解すように肩を小さく回しながら歩いていると、いつのまにか渡り廊下に出ていた事に気が付いた。
へぇ…こんなところに渡り廊下なんてあったんだ。
知らなかったな。
暖かな木漏れ日が廊下にまで差し込んでいる。
興味深く見回しながら歩いていると、ふと右手に見えた光景に私は足を止めた。
あれ?
あんなところにスペースがある…
木々に囲まれていて一瞬気付かないけれど、確かにそこには空間が存在しているようだった。
腕時計で時間を確認すると、昼休みが終わるにはまだ時間がありそうだ。
ちょっと寄っていってみようかな…
この学園広いし、色々と探検してみないと、ね。
普段面倒臭がりな分、こういう行動をとるのは自分にしては珍しいのかもしれない。
少し迷ったけれど、私は教室に戻る前に寄り道する事にした。
―――――無意識のうちに、何かの予感を感じ取りながら。