vs2.「それは、思いがけない」
少しずつ、景色は秋の色に染まり始める―――9月。
校舎にまで伸びた、等間隔に植えられた銀杏の木々が黄色く、徐々に衣替えを始めようとしている。
抜けるような空は青く、高い。
そんな美しい景色を眺めて、私は目を細めた。
講堂は…一体どこだったか。
そう、秋の景色に和んでる場合など露ほどにもない。
どこにもない。
腕時計に目をやると、針はすでに9時45分。
始業式は10時からの予定だった筈だから、急いで戻らなければ間違いなく遅刻だ。
初日早々に遅刻のレッテルが貼られてしまうのは、いくらなんでも避けたい。
そんなレッテルが貼られた転校生になどなりたくない。
ああ~もう。
こんなことなら、美保に付いて来て貰えば良かった。
寮を出て講堂に到着した瞬間に、まさかのトイレに行きたくなってしまった私は、慌てて逆戻り。
「一緒にいこうか?」と言ってくれたせっかくの美保の言葉も断り、校舎の方の近くのトイレに駆け込んでみたはいいものの、あまりにも焦っていたせいか講堂までの道順をすっかり忘れてしまったのだ。
左右見渡しても見覚えのない道だけで、焦燥感だけが募っていく。
「どっちだったかなぁ…」
ああ、困った。
私、筋金入りの方向音痴だったんだよね、そういえば。
すっかり失念してたよ、本当に大馬鹿。
こんな時、神様の如く誰か通りかかってくれたら…って、え!?
視界の前方に、背の高い男子生徒と思われる人物が見えて、思わず目を瞠る。
迷っている暇などなかった。
ナイスタイミング…これぞきっと神の啓示!
男子生徒の元まで慌てて走り寄った。
「あのっ、すみません!!!」
「え?」
驚いたように足を止めたその人に、寧ろこちらが驚いてしまった。
今時の芸能人のように無造作にセットされた茶髪に、精巧な顔立ち。
すれ違う女の子は誰だって彼に振り向くだろう、というぐらいカッコいい。
そこらへんの芸能人やモデルなど比にならないぐらいだ。
背も遠目で見てたよりも、実際間近で目の当たりにする方が断然高く感じられた。
180はありそうだ。
私は153しかないから、彼の顔を覗くためには首が疲れる。
正直羨ましいといか、恨めしい。
ああ、ってそんな事今はどうでもいいんだった。
「すみません、講堂の場所って知りませんか?」
「講堂?」
一瞬怪訝そうな表情を浮かべたその男子生徒は、しばらくして納得したように「ああ」と小さく呟いた。
「もしかして、君、転校生?」
「はい。ちょっと道に迷ってしまって…」
「ふぅん、なるほどね」
面白そうに唇の端を上げた目の前の男に、一瞬いらっとするのを抑えられなかった。
何が面白いんだ…何が!
無駄に良い男だからって、全国女子全員に共通するなんて大間違いなんだからね!
「あの、教えて頂けないでしょうか。無理そうだったら他の方に頼むので別にいいのですが」
「いいよ、ついておいで」
さらりと爽やかな笑顔でそう言うと、男は歩き始める。
内心ものすごくほっとしている自分がいて、思わず苦笑してしまった。
自分の刺々しくなってしまった物言いに、言った後すぐに後悔してしまっていたからだ。
ここはどんなに嫌でも謙ってお願いするべきであったから。
もしここで断られてしまっていたら、間違いなく遅刻のレッテルが現実化してしまうところだっただろう。
ほとんどの生徒はもう講堂にいるはずで、この辺りを通りかかる人など、この男子生徒以外見つけることはほとんど不可能だったはずだ。
寧ろ、なぜこの男がこんなところにいたのか、という疑問が湧いてくる。
…って、これから関わり合う事は金輪際ないだろうし、別に関係ないから良いのだけど。
「転校生ってことは、君は1年生?」
「いえ、2年生です」
「ふぅん、僕の1こ下か。この時期に転校してくるなんて珍しいね」
「ええ、まぁ…」
他愛無い話を持ちかけてくる男に、適当に答えていく。
別に気なんて遣わなくていいのに…講堂まで案内してくれればそれで。
はあ…早く講堂に着かないかな?
知らず知らずのうちに、ため息を付いていたらしい。
男がくすくすと笑うのを耳にして、ハッと意識を引き戻す。
いけないいけない…
いくらなんでも失礼だったかも。
曲がりなりにも、こっちは案内して貰っている立場な訳なんだし。
「…す、すみません」
「いや、別に構わないよ」
にこにこと、人の良さそうな微笑を浮かべている男に、思わず噴出してしまった。
「変わった方ですね」
「そうかな?そういう君はリスみたいで、可愛いけど」
「はぁ?」
聞き慣れない言葉に、自分の耳を疑ってしまった。
リスみたいで、可愛い?
徐々に自分の顔が熱くなっていくのが分かる。
「な、な、なに言って…」
「本当だよ。あ、ついたみたいだ」
「え、あ…」
言われるがまま視線を先にやると、確かに先ほどの講堂の白い建物が前に見えた。
「じゃあ、僕はこれで。今度は迷子にならないように気をつけて」
「あの、ありがとうございました」
「いえいえ」
ひらひらと軽く手を振って、男は先に講堂の中へと入っていってしまった。
なんだったんだろう、あの人。
不思議な人だったけど…
首を傾げながら、私も慌てて講堂の入り口へと向かった。
□ □ □ □ □
「あ、雫、こっちこっち~」
「美保!」
美保の姿を目に留めた私は、人混みの合間を縫って急いで駆け寄った。
美保がほっとした表情で言う。
「良かったぁ~もしかしたら雫、迷子になっちゃってるんじゃないかって心配だったの」
ギクリと思わず背筋が強張るのを隠しながら、曖昧に微笑む。
「あはは~うん、何とか大丈夫だったよ。ありがとう」
「ううん、間に合って良かった」
なんて良い子なんだろう。
感動で涙が零れそうになるのを堪えていると、講堂に大きな鐘の音が響き始めた。
「あ、始まるみたいだね」
美保の言葉で壇上へと目を向けると、ちょうど学長の挨拶が始まっていたところだった。
白髪混じりのお爺さん、って感じのいかにも学長らしい人だ。
長々と話が続きそうな雰囲気に、欠伸を噛み殺す。
「―――続きまして、寮長からのご挨拶です」
寮長?
夢の中に飛ばし掛けていた意識を壇上に戻すと、先程の自分を部屋まで案内してくれた前原さんが壇上に上がる姿が見えた。
前原さんの後に続いて現れたのは―――…って、えっ!?
「ああっ!」
「ど、どうしたの?雫」
口元に手を当てて、思わず叫んでしまった。
驚いたように美保がこちらを振り向くのにも構わず、ただ呆然と私は壇上を見つめる。
あの男の人…さっきの!?
「ねえ、美保。あの男って、寮長なの?」
「え?う、うん。木塚先輩のことだよね?男子寮の寮長だけど…雫、知ってるの?」
「知ってるも何も…」
ついさっきお会いしたばかりです。
だけどこれを言ってしまえば、迷子になった件まで話さなければならない事になる。
その事に気付き、途中まで言いかけて慌てて口を噤んだ。
そして暫くして、ふと講堂内に漂っている異様な雰囲気に気付く。
なんだかピリピリしているような…
学長の話の時はざわついていたのに、そういえばなんでこんなに今は静かなの?
そう疑問に思ってしまうぐらい、講堂内は静寂に包まれていた。
講堂内にいる誰もが、神経の先を壇上にいる寮長2人に向けている、そんな感じの雰囲気だ。
「ね、ねえ。美保…これは一体?」
「うん、あのね…」
神妙そうな表情を浮かべて、美保が小さく頷く。
そして小声で聞かされた一言は、思いも掛けない内容だった。
「この学校、女子と男子がね、なんでか凄く仲が悪いの」
―――――は、はい?
声を上げなかった私を、誰か褒めて欲しい。