アーサーの覚醒
『大地の気配が、変わった……』
ルーパスの屋敷でバルコニーに立ち
マリオの帰りを待っていたニナが呟いた。
美しく整えられた眉がつり上がり、
漆黒の両眼に、ぎらりと鈍い光が走った。
『……どういうことだ……?
まさかマリオまで、ウォルズリーの小僧に
あっさりと敗れさったというのか?
いや……それだけではない。
ロマ民族の再興と自らの屈辱を晴らすー
大気中に満ちていた、狂おしいほどの
マリオの怒りと憎しみのエネルギーが、
完全に消失してしまっている』
ニナの“呪い”の最大の特徴は、
人間が誰しも心の奥底に抱えている
闇の感情を引きずり出す事により
“呪い”をかけられた相手に魔力を持たせ、
破壊や殺戮を引き起こさせることにあった。
ーそう、繊細でナイーブなルーパスが
凶暴で残忍な性格へと変化したように。
弱小政党のリーダーに過ぎなかった
ヒトラーを、強烈なカリスマ溢れる
世界制覇を目論む独裁者に導いたように。
そして、その結果生まれた恐怖と憎しみは
さらに新たな恐怖と憎しみを生み出す。
負の感情が果てしなく連鎖し、伝染して
この世界を暗黒へと導くーはずだった。
『これは……ただ単に敗れただけではない。
奴の力で、マリオの魂が昇華され、
私の呪いが消滅してしまったと言う事だ』
ニナはバルコニーの手すりを強く握りしめた。
そのあまりの強さに大理石製の手すりに
ミシミシとヒビが入り、崩れ落ちてゆく。
ニナは黒い瞳で空を見上げ、叫んだ。
『おまえたちに、私の怒りが……
大切なものを奪われた苦しみが、
悲しみがわかるのか!
誰も、許さない。
誰にも邪魔はさせない……!』
その頃ウォルズリーの城では、ヘンリーに付き添われボロボロの姿で申し訳なさそうに帰ってきたアーサーをフローレンスが涙ながらに抱きしめ、労ねぎらうように豪華な昼食ランチョンをこれでもかと食卓に並べていた。
「何だって!あのロマの王と戦ったってのか⁉︎」
アーサーのご相伴にあずかって、ジューシーなローストビーフにかぶりついていたヘンリーが驚きの声をあげた。
「ヘンリー、食事時に大声は慎むように」
アーサーの背後に立つレスターが、低い声でヘンリーに注意する。
長めの金髪をかき上げ、バツの悪そうな顔をするヘンリーだがすぐに気を取り直すと話を続けた。
「話が急すぎるな……せっかく注意するように伝えようと思ってロンドンから飛んできたってのに」
ノーラはヘンリーの大声が耳に入らないかのように、サーブされた仔羊のソテーに使われている香草の鮮度が良くないと、不満気にフローレンスにぼやいている。
「まあ、無事でよかったよアーサー君。MI6の調査で分かったんだが、あのマリオってやつは当初考えていた以上に危険人物だったからな」
アーサーはスモークサーモンとキュウリのスライスを挟んだサンドイッチを頬張りながら、黙って話を聞いている。
「あちこちの国でゲリラ的な反政府活動を行っている、組織のリーダーだったのには驚かされたよ。
奴もルーパスやヒトラーのように、あの魔女の魔力で野望を抱いたのかな」
「そんな人じゃ、なかったです」
アーサーが小さな声でつぶやく。
「戦ってみて、わかったんです。あの人も裏切られ、絶望のまま亡くなるところをあの魔女に救われて、仲間のために戦っていたんです」
アーサーは食べかけのサンドイッチを皿の上に置いた。
「ぼく、やっと理解できた気がしました。
怒りや憎しみがどこから来るのか。
あのフロリンと言う人も、あの魔女も、
ぼくたちも、みんな同じなんだってことが」
「えらく肩を持つんだな、相手は君を殺しにきたんだぜ?同情する気持ちはわかるけど」
冷静なヘンリーに対して珍しくアーサーが声を荒げた。
「同情なんかじゃないんです!」
「まあ、それならそれでいいさ。問題はリーダーを失い、残された連中がどんな行動に出るかだな」
「……それなら、大丈夫だと思います」
「何でそう思うの、アーサー?」
食後の紅茶を味わいながら、ノーラがたずねる。
「あの人、最後に赦ゆるすって言ったんだ、ノーラ」
「自分や仲間に酷い仕打ちをした人たちを、赦すって。
その瞬間、ほんの少しだけどこの世界に満ちていた怒りや憎しみが消えてゆくのがわかったんだ。
あの人の残された仲間にも、きっとその思いは届いたはずだから」
カチャリ。
静かにティーカップを置くと、アーサーを見つめながらノーラが言った。
「合格よ。よくたどり着けたわね、アーサー」
「ぼくひとりの力じゃないよ」
そう言うとアーサーは壁にかけられた、初代当主の肖像画をじっと見つめた。
「ぼくは、導いてもらったんだ」
ノーラがわずかに微笑んだ。
アーサーは振り返ると、背後のレスターに語りかけた。
「レスターさん、ぼくお祖父ちゃんに会おうと思います」
ほんの一瞬だけレスターの片方の眉がピクリと動いた。
「……会って、どうされるおつもりですか?」
「わかんないです。でも、会って、話して……
とにかく、直接会いたいんです」
「レスター」
ノーラがレスターに語りかける。
「もう、あんたにもわかっているはずよ。
この家の継承者が誰かってことが」
「……ノーラ様」
レスターは目の前のアーサーを改めて見つめた。
その瞳にはわずか数週間前に初めて出会った時とは
比べ物にならないほどの強い力がみなぎっている。
それは、ハワード、いや歴代ウォルズリーの
当主となるものだけが持つ、導きの光だ。
人々を率い、未来を切り開く力だ。
『私は今、新しいご当主の誕生を目にしているのか……』
一拍の間を置いてレスターは応える。
「ご案内いたします、アーサー様」




