ロマの王・マリオ part2
「お呼びですか、ボス」
ヘンリーがオフィスに入り声をかけても、マクファーソンはデスクに座って無言で手元のファイルに目を通し続けていた。灰皿にはうず高く吸い殻が積み重なり、くすぶった煙が室内に薄雲のように漂っている。
「そこへ座れ、ヘンリー」
マクファーソンはヘンリーに着席するように促すと、机の上の呼び鈴を押してシャーリーンを呼び出した。
「すまんがシャーリーン、コーヒーのお替りをもらえるか。俺の分には砂糖を山盛りで頼む」
「ボス、この間の軍のメディカルチェックで再検査って言われてませんでしたか?」
「いいから」
「了解しました、ボス」
「さて」
マクファーソンはヘンリーをその威圧感のある大きな目でギロリと睨んだ。
「念のため、事の一部始終を一から説明しましょうか、ボス?」
「そんなものはいい。どうせ見当はついている。あの家絡みなんだろう」
「まあ、そんなところです」
「で、どうなんだ、ナチの様子は」
「……最悪ですね。上から下まで、軍自体が完全にあの魔女の支配下になっています」
ドアが開いて、シャーリーンが二人にコーヒーを運んできた。
「ありがとう、シャーリーン」
ヘンリーは心配そうに見つめる彼女に、軽くウインクすると微笑みかけた。
シャーリーンが部屋を出ると同時に、マクファーソンはため息をついた。
「やはり、そうか」
「否定しないんですね。あれだけ無視してたのに」
「イタリア支局からの報告書だ」
マクファーソンは自分の読んでいたファイルをヘンリーに投げてよこした。
「イタリアのムッソリーニ率いるファシスト党が、ドイツと歩調をあわすように連盟の強化と軍備の拡大を進めている。あいつら、間違いなく戦争の準備に取り掛かっている」
「なるほどね。これでちょっとは信じてくれたって訳ですか。
で、ウチの政府のお偉いさんたちは何と言ってるんですか?」
「……この間のミュンヘン会談*2でもわかるように、連中の頭にあるのはソビエトの脅威だけだ。イタリアやドイツの動向に関しては完全に二の次で聞く耳を持たなくなってしまっている」
疲れた頭にエネルギーを補充するかのように、マクファーソンは甘ったるいコーヒーを一気にあおった。
「ヘンリー。おまえ、当分顔を出さなくていい」
「いいんですか?外務省の方は」
「チェンバレン*3から新しい首相に変わらない限り、状況は変わらないだろう。おまえが今やらなければいけないと思うことがあるなら、それを優先させてかまわん」
「……わかりました」
マクファーソンはファイルから一枚の写真を取り出した。
「他のカトリックの影響下にある国々を抑えるためだろう。連中、ヴァチカンまで巻き込んでいる」
その写真に写っていたのは、教皇庁の上層部の人間らしき人物とナチ党の将校、そしてマリオと呼ばれる男だった。
「しかしボス、こいつはバチカンを追われたはずでは?」
「表面上はな。こいつはヴァチカンの闇だ。簡単には切れはしない。そのファイルを見てみろ」
ヘンリーが渡されたファイルをめくる。
「こいつの本名はフロリン・チョアバ。もともとはロマの出身だ。迫害に遭い、身寄りがなく孤児院に引き取られたが、非常に優秀なため、ある神父が引き取ってカトリックに改宗させたんだ」
「その過程でマリオという名前を与えられ、ヴァチカンの裏の仕事ー全世界から集められる莫大な寄付金の資金洗浄や、不祥事の後始末を請け負う、いわゆるトラブルシューターとしてヴァチカン内部で上り詰めていったんだ」
「だが、昨年、聖職者による未成年への性的虐待などが表面化した際にその罪をかぶる形で追放された。一部には暗殺説まで出たほどだったが、再び復活して姿を表すとナチの手先としてヴァチカンに再接近し、今や教皇庁を内部からコントロールしている」
「…ボス、おそらくはこいつもあの魔女の配下ですよ」
マクファーソンは眉間を軽く揉むような仕草をしながら、話し続ける。
「しかも、こいつは裏でもう一つ別の顔を持っている」
「別の顔?」
「ああ。ヨーロッパ全域で破壊活動を行っているロマによる反政府組織のリーダーだ」
「何ですって…?」
「迫害される同胞を救済し、民族の栄光を取り戻すという名目でどんどん規模を拡大している。
目標が達成された暁には、ロマ民族の王になると宣言していやがる。
ロマを迫害するファシストに手を貸し、その裏では破壊工作を行う。
まさに混沌のこの時代の象徴だ」
ヘンリーは心の中で考えを巡らせていた。
『もし、このままウォルズリー家がルーパスに乗っ取られたら、ドイツ・イタリア・イギリス連合として戦争を引き起こす可能性が高くなってきている。
それに加えてヴァチカンが動けば、かつての様にカトリックの国々とプロテスタントの国々とで争乱が起こるのは間違いない。
その混乱を利用して、長い歴史の中で虐げられてきたロマ民族の復讐を果たそうというつもりか…』
ノーラの告げた言葉が鮮明に蘇ってくる。
「虐げられし者の怒りや憎しみは、力でかき消すことはできない。
力による支配と服従こそが、あの魔女が望む、この世界を破滅へ導く呪いなのよ」
『復讐、憎悪、分裂。このまま世界は破滅へと進んでいくしかないのか』
マクファーソンは最後に、絞り出すような声でヘンリーに告げる。
「いいか、ヘンリー。これから先、このイギリス、いや世界がどうなるかまったくわからん。
おまえもウォルズリー家に関わる気なら、くれぐれも注意しろ」
「ありがとうございます、ボス」
ヘンリーは席を立った。
「俺は、俺にしかできないことをやります」
ヘンリーの脳裏に、アーサーの屈託のない笑顔と絶望に彩られた泣き顔が交互に浮かんでいた。
*2:ミュンヘン会談…1938年9月29日〜30日にドイツのミュンヘンで開催された国際会議。ドイツのチェコスロバキア侵攻の是非を議題にしたのだが、対ソビエト連邦のためにイギリスがフランスと共にドイツの主張を認め、結果としてドイツの軍事力の増強を進めさせてしまった。
*3:ネヴィル・チェンバレン…イギリス第60代首相。ナチス・ドイツに対する宥和政策で知られ、ミュンヘン会談でドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた戦犯のひとりと言われている。第二次世界大戦勃発後、1940年に首相の座を退陣。同年死去。




