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銀色の繭

作者: 千賀藤兵衛

 相沢律斗は往来に出てあたりを見回す。さわやかな早朝である。空は晴れ、風は涼しく、あたりの家々の庭にはさみどりの若葉が萌え、そして道ばたには銀色の繭が何十個も散らばってきらきらと朝日をはねかえしていた。相沢のしわだらけの顔の眉間に、ひときわ深いしわが刻まれる。白髪頭をぐいとそびやかし、鼻息も荒く手近な繭に歩み寄った。軍手をはめたその手に持つのは、火ばさみとビニールのゴミ袋。

 その繭は端の丸まった円筒形をしており、直径二センチ、長さは十センチほどだった。銀色の繊維でできており、朝日に照らされたそれは構造色を呈して七色の輝きをはなっている。相沢はさもけがらわしいと言わんばかりにそれを火ばさみでつまみあげ、ゴミ袋に放り込んだ。

 繭はいたるところに転がっていた。大きさはまちまちで、長さ三センチほどのものから二十センチを超える大物まであった。大きいものは重さもそれなりにあり、相沢は繭が破れないよう気をつけて拾った。ゴミ袋はどんどん重くなった。

 腰をそらして背伸びをした相沢は、ふと道の先を見やった。道ばたに若い男が一人しゃがみこんでいる。近くの大学の名前の入ったジャージを着ているところを見ると、朝練に行く途中の運動部員であろうか。見落としてはならないのは、その若者がズボンとパンツを下ろして尻を丸出しにしていることだ。何をしようとしているか明らかである。相沢はカッとなってどなった。

 「こらーっ! そこの若いの、往来で何をしている!」

 若者はしゃがんだまま相沢のほうを振り返り、あたりをきょろきょろと見たすえにやっと自分のことだと知って、いぶかしげな顔をした。

 「しゃがんでるおまえだ! ほかに誰もおらんだろうが! とにかくその汚い尻をしまえ!」

 相沢はどなりながら駆け寄る。なぜ見知らぬ老人にどなりつけられたのか、若者は理解できないようだった。相沢が走ってくるのに構わず、おもむろに尻の穴からずるりと銀色の繭をひりだし、それから何事もなかったかのようにズボンをはいて立ち上がった。相沢は怒り狂った。ようやく若者の前まで来たものの、息が切れたのと怒りがあまりに激しいのとで声が出ない。若者は心配そうに言った。

 「じいさん、大丈夫かい。あんまり興奮しないほうがいいよ」

 「お、お、おまえ、これは何だ、これは!」

 ようやく息がととのって、相沢は詰問しながら足元のそれを指さした。銀色に輝く繭である。長さは普通だが、落とし主の健康を誇示するかのように、並の繭よりもひとまわり太く隆々として、ある種の風格すら感じさせた。たったいま体の中から出てきたばかりとあって、まだしっとりと湿り気をおび、かすかに湯気を上げている。

 問いつめられた若者は、あっけらかんとして答えた。

 「クソに決まってるじゃないか。尻の穴からクソ以外の何が出てくるっていうんだ」

 「そんなことはわかってる! 往来で用便をするなんて非常識だと言ってるんだ! いいか、これを見ろ!」

 相沢は火ばさみの先を繭の腹に押し当て、ぐいと力をこめた。繭が破れ、裂け目に黒々とした中身がのぞく。あたりにプンと漂う臭気。若者は鼻をおさえて、逃げ腰になった。

 「おいおい、何やってんのじいさん。ボケてんのか」

 「よく聞け。おまえが道ばたにやり捨てたのはこういうものなんだ。繭でくるんでにおわないようにしたつもりかもしれんが、その繭が破れればこのありさまだ。わかってるのか!」

 「いや、自然に破れたみたいな言い方してるけど、あんたが破ったんだろ。付き合いきれねえや」

 若者はそばに置いてあったスポーツバッグを拾いあげ、足早に立ち去ろうとした。相沢は追いすがってどなった。

 「こら、待て。いっしょにそこの交番まで来てもらうぞ」

 「ひとの生理現象に難癖をつけて、しまいには犯罪者あつかいかよ。悪いけどおれは用事があるんで、これで」

 これ以上かかわりあいになりたくなかったのだろう、若者は目をみはるような速さで走り去った。相沢は何歩か追いかけたが、若者の足にはかなわない。肩を落として元の場所に戻り、今までの十倍ぐらい嫌そうな顔をしながら二つにちぎれた繭を拾ってゴミ袋に入れた。

 消化管の中の大便をコーティングするナノマシンが発明されたのは二十一世紀の中ごろ、六十年以上も昔のことである。このナノマシンは腸の中で食物中の繊維や腸内細菌の死骸などを材料にして丈夫な膜を作り、大便の表面を覆って繭のようにすっかり包みこむ。その結果、排泄のときに肛門が汚れなくなるのである。このナノマシンは、Catharsis(カタルシス) Innovation(イノベーション) Cordinator(コーディネーター)つまり排泄革新調整体と命名され、縮めてCAICO(カイコ)と呼ばれている。

 CAICOには多くの利点があった。その筆頭は水や紙を用いて肛門を清める必要がなくなることで、それは環境の保護や介護の負担軽減に大きく寄与した。CAICOは急速に普及し、こんにち日本では人口の九十九・九九パーセント以上が使用するまでになっている。一方で弊害もないわけではなかった。肛門が汚れないせいで、そこらへんの路上で気軽に脱糞する風潮ができてしまったのだ。老いも若きも男も女も、便意を催したらすぐさまその場でしでかすのである。いまや日本中どこでも道ばたに銀色の繭の十個や二十個ころがっていないことはないとすら言われる始末であった。CAICO発明以前に生まれ育った世代である相沢はこのありさまに我慢がならず、毎朝自宅の近所を見回って繭を片づけているのである。

 無法な若者の落とし物の始末を終えて、なお憤然としつつあたりを見回した相沢は、近くの路上にたたずむ人物に気がついて、声をかけた。

 「工藤さんじゃないか。いつ退院したんだ」

 その男は相沢と同じぐらいの年配で、足が弱っているらしく、杖をついて立っていた。禿げ上がった頭は肌につやがなく、顔色も冴えない。化繊のスラックスにワーカーシャツといういでたちは相沢と似たりよったりだが、シャツの裾がズボンに半分入って半分はみでているところなどは、いかにもだらしのない雰囲気であった。相沢の問いかけに、男はぼんやりした表情で答えた。

 「きのうの午後だ」

 「そうか、いや、無事に退院できて何よりだ。おめでとう」

 名を工藤健太郎というこの男、相沢と同じ町内の住人であり、友人あるいは仲間といってよい間柄であった。先月肺炎にかかって入院し、年のせいもあって一時は危ない状態だったのだが、なんとか回復したのである。

 「ところで、いまのやつを見たか。まったく話にならん」

 「ああ、そうだな」

 「通報してくれたか」

 もともとこの早朝のゴミ拾いは、工藤と相沢の二人でおこなっていたものである。さきほどの若者のような不埒なやつを見つけたら、一人がそいつに話しかけて注意を与え、もう一人が携帯端末で警察に通報する、という分担だった。いまの一件を工藤が近くで見ていたのであれば、相沢としては通報してくれることぐらいは期待してもいいはずである。だが工藤の答えはいたって腑抜けたものだった。

 「しなかった。したほうがよかったか」

 相沢は眉をひそめる。退院したとはいえ、工藤はまだ本調子ではないようだ。いや、これから調子を取り戻してくれるならいいが、このまま老け込んでボケてしまいそうな雰囲気もある。これは少し無理にでも元気を出させなくてはならないと相沢は考えた。

 「よし、とにかく退院したんなら、あしたからまた一緒にゴミ拾いをするとしよう。いや、あしたといわず今これからやろうじゃないか」

 工藤は力なく首を振った。

 「悪いが、引っ越しの支度をしなきゃならないんだ」

 「引っ越すのか」

 突然の話におどろいて詳しく聞いてみると、娘夫婦から同居を強く勧められたのだという。今回の入院がひとつの潮になったのだろう。

 「まあ、九十近い父親に一人暮らしさせておくのは、娘さんも心配なんだろう。しかたないさ。それに、娘さんと同居するならお孫さんとも一緒に暮らせるじゃないか」

 「ああ。まあ」

 娘夫婦のところの一人息子を工藤はたいそうかわいがって、いつも自慢していた。相沢はそのことを思い出させて元気づけようとしたのだが、思ったほどの手ごたえがない。何かほかに気にかかっていることがあるようだ。

 「引っ越しはいつなんだ。今日明日ではないんだろう」

 「来週の週末だ」

 「そうか。準備で忙しいかもしれんが、最後にもう一回ぐらい一緒に朝の見回りをしたいもんだな」

 「いや……」

 工藤は気の進まない様子で口ごもった。何か話したいことがあるがその決心がつかないというように、口をあけたりしめたりして立ち往生している。見かねた相沢は助け船を出した。

 「言いにくいことなら、無理に聞こうとは思わんよ。言わなくていい」

 「ああ、いや、こっちもまだ気持ちの整理がつかなくて、どうも、な。だが、せっかくだから言っちまおう。じつはな……」

 いったい何を言い出そうというのか。相沢はかたずをのむ。工藤は歯を食いしばるようにして口から言葉を絞り出した。

 「入院するときに、医者からどうしてもと言われて、その、CAICOを入れられてしまったんだ。私ももうさっきのやつと同じ穴のムジナだ」

 相沢はすっかり腑に落ちた。

 これまで工藤はCAICOを使用していなかった。相沢と知り合ったのもそのことが関係している。二人とも町内会主催のトイレットペーパーの共同購入に参加していたのだ。いまどきトイレットペーパーなどというものを置いている商店はないので、かわりに町内で注文を取りまとめてメーカーに直接発注しよう、という事業である。もっとも参加者はしだいに減り、いまでは相沢と工藤の二人だけになっていた。

 工藤がCAICOを使おうとしなかったのは、考え方が古いせいだった。ナノマシンなどといううさんくさいものを体の中に入れるというのが気に食わなかったのである。しかしその意地も、さすがに命の危ういときにまで貫くことはできなかった。

 「医者がな、CAICOを入れないのならよその病院に行けと言うんだ。CAICOを入れていない患者は、状態が悪くなって自分でトイレに行けなくなったら病院側が下の世話をしなければならん。そんな手のかかる患者はうちの病院では受け入れられません、とな」

 「そりゃ強引だな。足元を見て、無体な要求をつきつけてきたわけだ」

 「まったくそのとおりだ。私だって、普通のときならそんな横暴なことを言われてハイハイと従いはしなかった。だがそのときは熱は四十度を超えているし、咳と下痢と寒けとふしぶしの痛みもひどくて、とても耐えられなかった。病院に行くのに付き添ってくれた娘も医者の肩を持って、意地を張らないでCAICOを入れろと言うし……」

 「それでついに……ということか」

 工藤は陰気な面持ちでうなずく。相沢は鷹揚になぐさめた。

 「事情が事情だし、今さらくよくよしてもしかたない。そんなことより、引っ越しの準備をしないといけないんだろう。手伝いに行こうか」

 「そんなことだと。そうだな、しょせん相沢さんにとっちゃ他人事だからな。自分の体のなかに得体のしれない機械が住みついてるのがどれだけ嫌な気分かなんてわからんだろう。それに、尻から繭が出てくるときのあのぬるっとした感触ときたら、なんとも言いようのない気持ち悪さだ」

 「たぶんそのうちに慣れるだろう。あまり気にしないほうがいい」

 「わかったようなことを言うな。こんなものに慣れることができるわけがない。そもそも慣れたいとも思わん」

 工藤はしだいに興奮して、CAICOの悪口をとめどなく吐き散らした。元気が出たのはよいが、今度は血圧が上がりすぎないかと心配になって、相沢はどうにか工藤をなだめ、家に帰らせた。

 いろいろあってなんだか疲れてしまったので、相沢もゴミ拾いを早々に切り上げて家に戻った。家賃の安いことだけが取り柄の、古くて汚いアパートである。

 拾ったブツと使った道具の片付けを終えてひと息ついていると、携帯端末にメールの着信があった。相沢と工藤が共同購入しているトイレットペーパーの製造元の業者からである。なにげなくメールを開いた相沢は、本文を読んで思わず天を仰いだ。廃業の報告であった。

 製造に当たる従業員が高齢であり後継者もいない、トイレットペーパーの需要も減って利益が出ない、使命感を支えにして生産をつづけてきたが限界である、などと事情をのべている。ついに来るべき時が来てしまった、と相沢は思った。

 十五年ほど前に町内の有志に呼びかけてトイレットペーパーの共同購入を始めたとき、トイレットペーパーの生産をしているのはすでにこの会社だけだった。その後ほかの業者が新規参入することもなかった。つまり、今後トイレットペーパーを新しく入手できる見込みはほぼない。

 「万事休すか」

 大げさに慨嘆した相沢だったが、トイレットペーパーのことを考えたせいか、そのときにわかに便意を催した。のろのろと立ち上がってトイレに行き、ズボンとパンツを下げて便器に腰を下ろす。時を置かず便器の中に転がり落ちたそれは、長さ五センチあまりの銀色の繭。

 「ウウッ」

 肛門をなめるようにして通り抜ける繭の感触に、相沢は背すじを震わせてうめいた。じきに慣れると先ほど工藤に言ったのは元気を出させるためのその場かぎりの出まかせ。相沢はCAICOを入れて五十年近くたったいまでも慣れることができずにいる。

 工藤と知り合うよりも前、まだ若かったころに、相沢は事故で大ケガをして入院したことがあり、そのときにCAICOを入れられた。今回の工藤とほぼ同じで、病院が介護の負担を減らすためにゴリ押ししてきて、重傷の身では拒否しようがなかったのである。このことを相沢は誰にも話していない。

 出すものを出しおわった相沢は、壁のホルダーに手をのばしてトイレットペーパーを引き出し、適当な長さだけ切り取ると、それで尻を拭いた。もちろん紙はまったく汚れない。CAICOはちゃんと機能している。ほっとしたようながっかりしたような何ともいえない気分で、相沢は真っ白な紙を便器の中に捨て、水を流した。

 トイレットペーパーは遠からず使い切ってしまい、それ以降は尻を拭くことができなくなる。そのとき自分が正気を保っていられるか、相沢はわからなかった。


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