第九十一話「勝負」
三人は、自分達の部屋へと戻ってきた。
「ごめんなさい、ナチアさん…」
ドアが閉じられた瞬間、クリスが謝罪した。
ナチアは構わず奥へと進み、片手を振る。
「気にする必要はありませんわ。状況的に、あなたを護るのは、わたくしでしたし…」
「そんなこと…」
「ユーキも、気にしなくて結構ですわよ」
「ナチア…」
ドアの前のクリスと、すぐ後ろのユーキを、ナチアは振り返る。
「時間を稼ぐ方法なら、他にもあったはずですわ。ああいう形を取ったのは、わたくしの勝手な判断。あなた方が気にするのは…迷惑ですわ」
言葉を失った二人に、金髪の少女は首を振った。
「この話は、これでお終い。わたくし、シャワーを浴びてきますわ」
時間だけが過ぎ、ユーキとクリスが無言でソファに座っていると、シンが帰ってきた。
「待たせたな」
男の顔からは、いかなる感情も読み取れない。
「ううん…。大丈夫…」
ユーキが答えるのとほぼ同時に、シャワー・ルームからナチアが出てきた。
「ちょうどいい、タイミングでしたわね」
バス・ローブ姿で、シンの前に立つ。その姿に、ユーキとクリスが絶句する。シンだけが、冷静に反応する。
「すまんな。髪を切らせたか…」
豊かだった金髪が、ばっさりと切り取られ、ショート・カットになっていた。
「それよりも、シャワーが空きましたわ。入ったらどうですの?」
「…そうだな。そうしよう」
答えてから、ソファの二人に顔を向ける。
「すまんが、夕食は各自で頼む。外に出てもいいが、クリスは誰かと一緒だ。出発までには、戻ってこい」
言い残し、シャワー・ルームに入ろうとするシンに、ユーキが声をかけた。
「シン」
「何だ?」
聞きたくはなかった。しかし。
「あの人達は…どうしたの?」
「全員、殺した」
短い返事が、リビングに残された。
「少尉を責めてはいけませんわよ」
バス・ローブ姿のまま、ナチアが言った。
「わたくしが頼んだようなものですから」
ユーキは、答えることができなかった。
代わりにクリスが、別のことを言った。
「ナチアさん、その髪…」
「しつこいですわね。気にするなと、言いましたわよ。わたくしの意思で切ったのです。誰にも、とやかく言われたくありませんわ」
「分かった…。ごめんなさい…」
俯いたクリスから、ナチアは視線を移した。
「ユーキ」
少しだけ優しく、親友の名を呼んだ。
「…なに?」
「あなたの手料理をいただけなくて、残念ですわ」
「ううん。そんなこと…」
なんだろう?
ユーキには、ナチアが少し、遠くに感じられた。
手料理なら間に合う。作ろうと思えば。
「それでは、いってきますわ」
微笑んでから、背を向ける。歩きだす。
「…ナチア?」
「なんですの?」
「えっと…。なんでもない…けど、そこ、シンの寝室よ?」
ドアの前。ナチアは背を向けたまま。
「ですから、言いましたわよ…。いってきますわ」
そう言って、寝室のドアを開ける。
…え?
何も言えないユーキ。そして、クリス。
二人の目の前で、ドアはナチアを飲み込んで。そして静かに、閉ざされた。
「なんで? どうして? こうなるの?」
「…ナチアが…勝負をかけた…。そういうことよ…」
「そんな…。だって、シンさん…、シンさんが好きなのは、ユーキさんでしょっ?」
「そう思ってるのは、クリスだけよ」
「そんなことないっ」
「シンの本心なんて、わたしもわからない…。まして、黒豹の考えなんて…」
「そんな…」
「あの人の…答えを、待ちましょう。今は…、それしか…」
「………」
シンが、シャワー・ルームから、出てきた。
ナチアと同じバス・ローブ姿。
ソファに座る二人は、硬い表情をしている。寝室のドアが二つ。片方は開かれており、片方は閉じられている。
「…ナチアは、俺の部屋か」
二人とも答えることができない。ユーキはシンを見るが、表情は読み取れない。
「二人とも、時間までには、戻ってこい」
クリスは呆然とした。
まさか、そんな。
ユーキの顔が固まった。
頭の中が、白色に染まる。
シンは、ナチアの待つ寝室へと、消えていった。
「…行きましょう、クリス」震える声。
「え? だけど、今なら、まだ…」
「答えはでたのよ。もう、邪魔をしちゃ、ダメ」自分に言い聞かせる。
「ユーキさん…」
「ここのビーチは、まだ歩いてなかったね。付き合って、クリス」震えを、抑えこむ。
「そん…そんな…」
「…さあ」これ以上は、堪えられない。
「………」
「………クリス」ここに、いたくない。
「いいの? こんなの…、こんなの…」
「…行きましょう…」いたくない。
「………うん…」
ドアを閉じると、そこは暗闇であった。
慣れるまで、数秒。
部屋の中央にベッドが二つ並び、奥の窓際に、小さな机とソファが並ぶ。本来、美しいビーチが見渡せる窓にはカーテンがかかり、非常灯の灯りだけが、部屋をほのかに照らしている。
「待たせたな」
男の声が、女にかけられた。
「それほどでは、ありませんわ」
男は、部屋の中ほど。ベッドの足元に立つ。
女は、窓際のソファに座り、足を組む。
「ここに至って、これ以上の言葉は不要…とは思いますけれど、せっかくですから、聞いてもいいですの?」
女は淡々と聞き。
「答えよう」
男も淡々と答える。
「あなた、何者ですの?」
「状況的に、シン・スウ・リンをベースから外す訳にはいかない。黒豹が混ざりはした」
「…それも、セーブ・ポイント? 過去の引き出しのひとつだと?」
「間違いではない。連邦に帰ったら、こうなる予定だった」
「一応の完成形、ということですのね」
「そうだ」
「よろしいですわ、少尉。…いえ、黒豹様と、お呼びした方がよろしいかしら」
「好きにしろ」
「それでは、黒豹様。いつまで、そこに立っていますの? 距離が縮まりませんわよ?」
「来い、ナチア」
「嫌ですわ」
即答。
「わたくしからはともかく…。あなたはまだ、言葉を尽くしていない」
「…甘い言葉でも、囁けというのか?」
「ほほ。まさか。思ってもいないことを言われても、興ざめですわ。飾った言葉はいりません。本音をいただけませんこと?」
「懐かしい問答だ」
「そうですわね。答えは?」
「やらせろ、ナチア」
「…最低ですわね」
「すまんな」
「ですけど、まあ、本心ではあるようですし…。切実な気持ちも窺える…。許してあげますわ」
女は立ち上がり、前に進む。
距離が縮まり、男を見上げる。
「さあ、来ましたわよ…」
視線を交わし、両手を持ち上げる。
女の腕は、男の首に。
男の腕は、女の腰に。
女は目を閉じ、そしてゆっくりと、唇が重なる。
「ふふ…」
長いキスを終え、ナチアが微笑む。
「上手なキスも、できたのですわね」
「何だと思っていたんだ?」
シンは変わらず無表情。
「そういえば、朱眼の黒豹は、希代の女好きとか…」
ナチアの体が、ふわりと持ち上がり、ベッドへと投げられる。
「…肋骨は、大丈夫か?」
「この程度なら、何の問題もないですわ…」
バウンドし、揺れる体でナチアが答える。
「黒豹様こそ、お疲れでは?」
ローブがはだけて、白く長い脚と、豊かな胸元が露出する。
「…お陰で、目が覚めた」
「ふふ…。それはよかったですわ…」
ナチアが待つベッドに、シンが上る。
見上げるナチア。見下ろすシン。
「まさか俺が、クラーギナを抱くとはな…」
膝を折り、近づくシンに、ナチアは妖しく、笑みを浮かべた。
「神と、悪魔の、契りですわ…」
薄明かりの中、二人の身体が重なっていった。
<次回予告>
どこまでも続くビーチを、どこまでも歩いていた。
次回マーベリック
第十三章 第九十二話「喪失」
「ちょっと、座っても、いい?」