第八十二話「対マーベリック戦」(3)
ボーイの右拳が、シンのヘルメットに当たった。
かろうじて後方に跳び、衝撃を逃がす。低重力の空間を直進し、天井にぶつかる寸前、回転して逆しまに足をつく。宇宙服のブースターの力を借り、床へと降りる。
降りた、前方で。ボーイは不敵に笑っていた。
「………」
シンの目は鋭いまま。
いくら速くとも、ボーイの攻撃に、ユーキやナチアほどのスピードはない。実際、相手に攻撃を当てた回数ならば、シンはボーイの上をいっている。それにもかかわらず、ボーイの攻撃は緩まなかった。常人ならば死んでもおかしくないほどの攻撃を受けながら、それでも逆襲にでてくるのである。せまい通路で、攻撃をよけるのにも限度がある。体で押され、力で押され、遂にボーイの拳を、ヘルメットで受けなければならなくなった。
「よく、動けるな…」
自分のことは棚に上げ、ボーイが感心する。
シンのヘルメットには、微かなスパークが纏わりついていた。耐電処理が施されているとはいえ、完全ではありえない。そもそもサンダー・ナックルは、その耐電処理を貫いて相手にダメージを与えるべく、作られた物なのである。もし今、衝撃を逃がすことに失敗していたら、如何なシンとて無事ではすまなかった。
やはり、勝てんか…。
心中で呟いた。
このままでは勝てないのは、明らかであった。防御力はこれ以上、増やせない。しかし逆に、攻撃力を押し上げることはできる。防御力を犠牲にして。
シンは静かに息を吐き、そのスイッチを入れる。セーブ・ポイントの、自分を呼び起こすために。
「………」
ボーイの顔から、笑みが消えた。
そこには、ボーイの知らない、シンがいた。
シン・スウ・リン。またの名を、黒豹。白龍の真王が、その牙を剥こうとしていた。
真っ暗な空間。
真っ暗な大地。
真っ暗な壁。
その壁の前に、明るい髪を持つ青年と、体長二メートル程の黒い猫科の生物が並んでいた。
「そんな…、ばかな…」
クリスの口から、溜め息のような声が漏れる。
「ぼくとキキのパラレル・アタックが…躱された…?」
一人と一匹の背後には、二号機が擁する、汎用対ウイルス・プログラム、ケルベロスの大軍がいた。一体残らず地に倒れ、屍を晒している。ここまでの直線上にあった、二つの防御壁も、大穴を空けて崩れ落ちている。しかしそれでも、届かなかった。最後の壁に。予定では、一気に三層の壁を突き破り、内部へと侵入する筈であった。確実に達成しなければならなかった、その、最初の一歩でしくじった。
…なぜ?
クリスは即座に、高速で思考する。
…どうして、しくじった?
侵攻ルートを読まれた。壁が、構造が、自分の世界と似ている。キキの存在は知らない筈なのに。これほど似ていて、偶然である筈がない。いや、帝都でのアタックで見られた。Dブロックで見られた。ルート上に全ケルベロスを配置。あの時、自分達の命綱を握っていたのは、スタイナー教官。内部にいたケルベロスも、全部。しかし、そもそも真似る必要がない。防御壁も、その部分だけを厚くした。いや、ある。他の一切を犠牲にして。自分が思考する、この時間を奪うため。そんなことができるのか。教官もいないのに。
ちがう!
相手を教官だと思えばいいと、自分で言った筈。シンに言われた筈。分かっていたつもりが、分かっていなかった。致命的なミス。
これこそは、ヘレン・スタイナーが遺したであろう、必殺のシナリオ。クリス達四人を攻略するための。
ならば、どうする?
ならば、どうなる?
ならば…。
「気を付けてっ!」
振り向いて、叫んだ。必殺のシナリオならば、当然こうなる。「カウンターがくるっ!」
目の前の、モニターが消えた。
命綱が切られた。
「クリスうっ!」
ユーキが必死にコンソールを操作する。
約束したではないか。見失わないと。
それがあっさりと、信じられないほどに、あっさりと。
「………」
ナチアは、決断しようとしていた。親友の姿をモニターで見ながら。
クリスの最後の言葉どおり、三号機のサイバー・スペースに対し、敵側からカウンター・アタックが敢行された。第二層まで削り取られ、現在、最終防御壁の前で、送り込まれたウイルスと三号機のケルベロスが激しく交戦している。
このままでは負ける。しかし、防ぐ方策がない訳ではない。
先ほどまでは、できなかった。今ならば、できる。
クリスの救出を諦めて、ユーキに、自分の命綱を握らせる。そしてナチアがダイブする。これならば負けない。クラーギナの祝福は、絶大なのだから。
迷っている時間はない。
しかし、ウイルスを退けて三号機を護れたとして、それで最終的な勝利を得られる訳ではない。そのあとの戦略が描けない。護るだけでは意味がない。クリスとキキが失敗した二号機攻略を、自分達ができるのか。三人と一匹で及ばなかったものを、残った二人で覆せるのか。
「ナチアっ!」
叫んだのは、ユーキ。
「三号機のハッチが開いたっ!」
一瞬、意味が分からなかった。
敵機である二号機が接舷したのは、二箇所。ひとつは、一号機との境界。ボーイがくぐったハッチ。もう一箇所は当然、三号機の側となる。スクリーン上、いくつも展開したモニターのひとつに、その光景が映し出されていた。
「中央隔壁も開いたっ。パイロットが来るっ!」
今、まさに、ハッチの向こうに、スモーク・ヘルメットを着けた女の姿が見えた。帝国軍の宇宙服。
「…あとは任せましたわっ」
シート・ベルトを外しながら、ナチアは立ち上がった。怒りが、湧いてきた。
続く