第七十六話「黒豹」
マーベリック到着予定時刻まで、残り約五時間。
旧型のモニターの前で、ユーキとナチアが、互いの顔を眺めた。クリス扮するシュミットの行動は、おおよそ把握することができた。
「何をやっているのです、あのお子様は」
「閲覧数、すごいことになってる…。とにかく、世論は味方につけたみたいね」
モニターと同じくらい古ぼけたホテルの、古ぼけたベッドの上で。二人の少女は、息をついた。
太陽系内部において、非認可の亜光速航行をすることを問題視する論調もあったが、帝都の国民としては、概ね好意的に、シュミット少年の冒険譚を歓迎しているようであった。
「サイバー・スペースが、一度乱れたみたいだけど…?」
「撹乱のために、何かやったのでしょう」
「そうね。助けられた」
「あと約五時間。…問題は、こちらですわね」
ナチアが首をめぐらした。左頬には、大きなパッドが貼られており、痛々しい姿を、ユーキの視界に晒していた。
「まだ、起きないね」
ナチアに続き、ユーキも顔の向きを変える。
二人の視線の先には、黒髪の男が、シーツの中で横たわっていた。
シュミットの冒険話に隠れた面もあるのだろうが、帝都の爆発事件は思っていたよりも扱いが小さかった。規制がされているのか、皇帝病院については、表立った報道自体がない。自分達にとって、特別に良い情報もないが、悪い情報もない。
「状況を、再度確認する時間がほしいですけれど…」
「脳の検査も、どこかでやりたいね…」
「本格的な治療は、マーベリックに戻ったあとですわね。キキがしてくれますわ」
「キキが?」
二人の少女は、視線を互いへと戻して、会話を続ける。
「ええ、そうですわ。クリスが言ってましたもの。ほとんどの怪我や病気は、自動修復システムで治せる、と」
「クリスの時は、できなかったじゃない」
「あれこそ、特殊な例ですわ。キキもまだいなかったですし。…けれど、あれ以来ですわね、人体の修復プログラムを、クリスが熱心に作りだしたのは」
「そうなんだ…。知らなかった…」
「まぁ、片手間ですし、三号機でやっていましたから」
実は、ユーキが妊娠しても大丈夫なようにと、クリスが気をまわしたのも大きな理由であったが、ナチアはそれを言わずにおいた。
「…でも、クリスには、なんて言えばいいのかしら…」
ユーキの顔が僅かに曇る。
「ボーイのことですの?」
「そう。ボーイと、教官の、こと…」
「仕方ありませんわね。事実を話すしかありませんわ」
「事実?」
「教官は、わたくし達が殺した。ボーイも、すでに死んでいた」
「そんな…」
「ユーキはクリスを甘やかしすぎですわよ」
「そんなことないと思うけど…」
「立派な大人、とは言えませんけれど。もう少し、信用してもよろしいと思いますわよ」
「そうね…。そうかもしれないわね…」
笑顔をみせるナチアに、ユーキは若干の戸惑いを覚える。
これまでのナチアとは、何かが微妙に違っているように思えた。しかし、それが何かは分からない。
「!」
突然、体が浮いた。
がっ…!
背後から首を掴まれていた。強烈な力で握られ、そして体を浮かされた。
「黒豹様っ!」
ベッドから跳び下がったナチアが、振り返りざま叫んでいた。
…シン?
ユーキの後ろの人物に向けて、ナチアは叫んでいた。
「およしください、黒豹様っ。ユーキは味方ですわっ!」
先ほどまでシンが横になっていたベッドは、空になっていた。完全に気配を断ち、二人の背後をとったのである。
「騒ぐな、ナチアスチア」
聞きなれた声が、凍りつくほどの冷たさで、ユーキの背後から発せられた。
「…昨日の出来事は、夢ではなかったという事だな」
背後のシンが、周囲を見回す気配が、ユーキに伝わった。
「現実ですわ。昨日、わたくしがエア・カーで説明したことを、覚えてらっしゃいますか?」
ナチアは、ゆっくりと話しかけた。
危険な状態である。さらに力を加えれば、ユーキの首は折れる。そして、今のシンは、それをやりかねない。
「次世代ワープ機関を積んだ宇宙船と、六人のクルーの物語、か。ふん、笑わせてくれるな」
ユーキは、消えかかる意識を、必死に保っていた。
「信じてはいただけないのですか?」
「くだらんな。そこまで考えた想像力は、褒めるべきか…」
ユーキの背後で、殺気が凝縮する。
ひっ…。
ユーキの体が震えだした。
「事実を話せ、ナチアスチア」
シンの放つ殺気に、かろうじてナチアは対抗する。
「すべて、話したとおりですわ。黒豹様こそ、どうして事実でないと言い切れるのです?」
シンの目が細まる。
「…何故、言う事をきかん?」
凝縮した殺気が、その密度を変えずに膨張する。
「…何故、嘘がつける?」
シンの右手に、力が加わる。その力は、直接的にユーキの首に伝わる。
「およしくださいっ。ユーキを人質にとっても、どうにもなりませんわっ」
ナチアの顔が強張る。
ユーキは白目を剥きかけていた。意識を持ちこたえているのが、不思議なくらいである。
「もう一度言う。事実を話せ。さもなくば、この女の首を折る」
シンの目は本気であった。だが、だからといって、ナチアにも、すでに話した以上の事実を持ち合わせていない。
「ユーキは黒豹様を裏切りません。絶対に裏切りません。何を賭けてもいいですわ…」
ナチアの請願。
十秒足らずの、睨み合い。
そして。
「…分かった。それは信じよう」
永遠とも思えた時が過ぎ去り、シンが、ユーキの首を放した。
親友の名を呼び、駆け寄るナチア。咳をしながら、意識を回復させるユーキ。
そんな二人を視界の隅に置きながら、シンは、昨夜寝る前に脱いだ服に向かってベッドを降りた。この時までシンは、こめかみと胴体に包帯を巻いた、ボディ・スーツのみの姿であった。
シャツを羽織ってから、自分のベッドに腰掛ける。
ユーキとナチアは、正面のソファに並んだ。
「…理解いただくにあたり、ひとつ提案がありますわ」
ナチアが、気丈にも視線をシンにぶつけていた。ユーキは、そんなナチアの腕にしがみついていた。とてもではないが、今のシンの顔を、まともに見ることができなかった。
「提案?」
「はい」
「あくまで事実と言い張るつもりか…」
数秒の睨み合いの後、シンの方が息をつく。「…いいだろう」
シンが譲歩してくれたことに対し、ナチアは小さく、安堵の息を吐いた。
「黒豹様は、昔の記憶と、混同していると思われます」
「昔、か…」
「そうですわ。ですから…」
ナチアの提案は、単純なものであった。「鏡をご覧ください」
「…なるほどな」
シンは立ち上がり、シャワー・ルームの傍らにある、姿鏡へと足を進める。
「黒豹様の記憶であれば、おそらく今、十四、五歳の筈ですわ」
逞しい背中に向かって、ナチアが声をかける。
信じられないことではあった。たかが十四、五歳の記憶の人間が、あれほどの殺意を纏えるとは。
「確かにな…」
そう言いながら、シンは、鏡の前で立ちどまる。
「………」
「………」
見守る二人の少女の前で、シンは、体を硬直させていた。
「…何だ?」
シンの体が、大きく傾く。
「黒豹様っ」
ナチアが駆け、よろけるシンを支える。
「…ナチアスチア。これは何だ? …俺は、どうしたんだ…?」
苦しそうに頭を押さえるシンの視界から、ナチアは、体を使って鏡を遮る。
「少し、混乱してるだけですわ。大丈夫、大丈夫ですわ…」
ナチアの豊かな胸に横顔を埋めて、シンは、頭を押さえ続けた。
「大丈夫ですわ。大丈夫…」
シンを抱きしめるナチア。ナチアに抱きしめられるシン。
そんな二人の姿を、ユーキは、見ていることができなかった。
ナチアの腕の中で、まどろんでいたシンが目を覚ましたのは、鏡の前で二時間も過ごした頃であった。
「ナチアスチアっ」
突如として目を開き、自分の名を呼ぶシンに、ナチアは穏やかに対応する。
「なんですの?」
シンの声と顔は、強張っていた。
「イシスは、どうした?」
イシス。それは、死んでしまったシンの恋人。
「イシスは、もういませんわ」
「いない?」
顔を上げるシンに対し、ナチアは、ゆっくりと頷いて見せる。
「今、あなた様の傍には、わたくしがいますわ。わたくしと、ユーキが」
ユーキの名を聞いた、シンの顔が変わる。
「ユーキは無事なのかっ?」
立ち上がろうとして、よろけ、そしてナチアの腕の中に戻る。
「…ユーキのことは、思い出しましたのね?」
抑揚のない声を聞きながら、シンは頭を押さえる。シンをして、押さえなければ我慢できないほどの痛みが、頭の中で暴れまわっていた。
「あたり…まえだ…。あれは、俺の…」
「おれの、なに?」
男の視界に現われたのは、紛れもなく、ミナヅキ・ユーキ。
その姿を見て、シンはゆっくりと、大きく息を吐き出した。
「無事で…、よかった…」
その後のシンは、記憶の錯乱はあるものの、どうにか状況を把握し、ユーキとナチアに協力した。
時に黒豹になり、時にシン・スウ・リンになった。
記憶は混濁の中であっても、やることに変わりはない。
帝都を脱出する。
その目的さえ見失わなければ、十分であった。
三人は、ぎこちないながらも、新たな協力関係を築いていった。
<次回予告>
帝都ロマリア衛星軌道上、宇宙ステーション・クレイの一室。集まったのは、四人。
次回マーベリック
第十一章 番外話「帝国の憂鬱」
「では、始めましょう。皆様、既に御承知の事ですが、オースティン号改めホワイト・キャットは、現在、ロマリアより約一時間の距離に到達しております」