第五十八話「試合」(3)
クリスは、息をすることすら忘れそうであった。
ナチアが変わっていた。
ユーキも変わっていた。
もはや、訓練でも、模擬戦でも、大会でもなかった。
神と悪魔の殺し合い。
クリスの目には、そうとしか見えなかった。
ナチアの瞳は、かつてないほどに落ち着き、澄み切っていた。一方ユーキのそれは、どす黒い殺気に燃え上がっていた。
ユーキの攻撃は、その鋭さを増していった。途中まで、一方的に投げられていたものが、いつしか、覚醒したナチアをして、防戦一方に追い込むようになっていた。
その鬼神のような攻撃を躱すナチアの防御も、また見事であった。反撃にこそ出られないものの、通路の中央から一歩も退かず、白色の閃光をいなし続けている。
果てのない戦いに思われた。
しかし、そんな戦いにも、転機は訪れる。
二人が戦いはじめてから、すでに二十分近い時が過ぎていた。如何に人外の技をふるうユーキとナチアといえど、体力の限界が近づいていた。
両者の動きがとまり、互いに対し、距離をとった。
ナチアは、初めから変わらぬ自然体。
一方のユーキは、剣を腰にあて、居合いの構えをみせる。
ユーキの剣は、あくまでもビーム・ソードである。鞘はなく、当然、居合い本来の形とは、少し異なる。光の束を柄に納めることはせず、自らの体によって、相手の視界から隠していた。
クリスは、その後ろ姿を見て不思議に思った。
確かに、武器を体で隠すのは有効な手段ではある。だが相手はナチアである。刀身を隠したくらいで、太刀筋を誤魔化せるような相手ではない。その程度は、クリスでも分かる。
そして何より、狭い通路である。
横幅が限られている以上、居合いの構えから出せる攻撃は、その方向が限定される。
上からか、下からか。
それ以外にはない。防御し、受け流すことを狙っているナチアにとっては、比較的対処しやすい構えの筈。
いったん離れた両者の距離が、少しずつ詰まっていった。
上と下、どちらから攻撃するのか?
ビーム・ソードは、床と平行に構えられていた。そのままひけば、壁に当たるしかない。
ユーキの間合いに入っていく。
両者の体勢はともに変わらず。
ナチアの間合いに近づいていく。
ユーキの剣は、その位置を変えず。殺気だけが膨張する。
どちらかが、死ぬ。
ボディ・スーツの安全措置を差し引いてなお、クリスが確信した時、ユーキの剣が閃いた。
「!」
クリスには見ることができなかった。目が追いきれなかった。
ユーキの剣は、横にひかれた。水平に。壁の方に。
壁は切れず、そして。
剣が、曲がった。
ありえない現象ではなかった。人間に出すことのできない力と、人間に出すことのできない速さが加われば、可能となる。
この瞬間、ユーキは人ではなかった。
ありえない方向から襲いかかった光の束は、だが、ナチアの体を引き裂きはしない。
予想していたかのように、宙に舞うナチア。
その縮めた足の下をかすめる、光の輪。
サンダー・ナックルで受け流したことが、金色の火花で示される。
この戦いで初めて、ナチアが宇宙服のブースターを使い、ユーキに急接近を仕掛ける。
ユーキの剣が撥ね上がり、空中のナチアの迎撃に向かう。
ナチアが近づく。
ユーキが跳び下がる。
ナチアの両手が、ユーキの首をヘルメットごと掴む。
ユーキの光剣が、ナチアの脇に迫る。
最後の、瞬間。
「!」
何故、ナチアはブースターを逆噴射させたのか。
何故、ユーキは再び床を蹴ったのか。
何故、二人は揃って通路の奥に跳び込んでいったのか。
そして、何故。
なぜ…、二人はこっちを見ているの?
混乱するクリスの横で、一人の男が立ち上がろうとしていた。
その男の言葉を聞いて、クリスは理解する。
ユーキとナチアが、シンから離れるために、通路の奥へ跳び込んでいったのだと。
二人の視線が、自分ではなく、シンを見ていたのだと。
「その戦い…、あとは俺が引き継ごう…」
黒い獣が、薄く笑っていた。
「二人まとめて、かかってこい」
黒豹は、歓喜に身を震わせていた。
本気を出すなど、いったい、どれほど久しぶりのことだろうか。
キキとの戦いとは違う。生身の、人間との戦い。
血と、肉と、骨が相手。
脳と、脊髄と、内臓と、生殖器が正体。
奪うのは、その者の命と、それに連なる筈だった未来。
自分が飢えていたと、ようやく気が付いた。
ボーイと本気で戦ってみたかったと、心の底では後悔していた。
それが、このような場で取り戻せるとは。
「ふぅううううう…」
息を吐き出した。
身体に力が漲り、血が、その温度を上昇させる。
二匹の獲物までの距離は、およそ八メートル。
逃がしはしない。逃げる道もない。その意味では、すでに間合いに入っている。
獲物達が攻撃の体勢を整える。その肢体の、何と可憐なことか。
黄金の獲物は、変わらずの自然体。
漆黒の獲物は、居合いの体勢で前に出てくる。
ユーキが前衛、ナチアが後衛。
シンの理性が辛うじて状況を判断する。
ユーキが下方から襲い、その後ろから、ナチアが飛び出してくる。その、筈だ。
下と、上…。
踏み潰し、叩き落とす…。
シンの中の理性が、次第に駆逐されていった。
<次回予告>
ユーキとナチアは、ベッドで横になっていた。二段ベッドの上段。下段には、誰もいない。
次回マーベリック
第九章 第五十九話「約束」
出会った時のこと、覚えてる?