7話 足りない知らない
朝からお昼過ぎるまで、マナーレッスンや貴族の名前を覚え、その後はガヘリスと共にダンスレッスン。そして夜にはアーサーとのお茶会。これが結衣のルーティンだ。
1度きりの月夜の逢瀬は、2度、3度と続き今では2日に1度は結衣とアーサーは逢瀬を重ねるようになった。
普段はただのお茶会だったが何故か今日に限っては様子が違ったのだ。
「ユイ。君がどれ程ダンスを上達したのか見てあげよう」
「はい?」
「ガヘリスとの練習の成果を見ておこうと思ってね」
成程わからない理屈だ。結衣が首を傾げるおすかさず傍に仕えていたガヘリスが結衣に耳打ちをした。
「アーサー様は夜会では名の馳せた方です」
「はぁ……」
「ダンスだけで令嬢を骨抜きにさせる程です」
「ダンスだけで骨抜きに、ですか」
一体それはどんな妖術や魔法なんだ。と言いたくなったが、結衣は表情に出してもそれを言葉にする事はなかった。
……何事も挑戦する事が大事だよね。
断る理由もなく結衣は差し出されるアーサーの手を取った。勿論美しい音色を奏でるピアノもなければ、壮大なオーケストラもいない。あるのはアーサーが口遊むテンポだけだ。
ここ最近毎日のように踊っているガヘリスならいざ知らず、一緒に踊り慣れていないアーサーのリードかつ、陛下という身分である事に恐れを為した結衣の動きは普段よりも固く、何度かアーサーの足先を踏みかけている。
「っ!」
「ごめんなさいっ!」
ついに結衣はアーサーの足を思いっ切り踏んでしまった。
やってしまった。
一国の王様の足を踏んでしまった……。
結衣の頭の中に顔を真っ赤にさせ怒鳴るヘレスが浮かび出てきた。なんて事を! と怒鳴るヘレスに謝っているのか、足を踏んでしまったアーサーに向かって謝っているのかわからなくなってくる程、結衣は頭を下げて謝る。
それも日本人らしく何度も何度も腰を曲げ頭を下げると、アーサーは吹き出すように笑った。
「笑ってごめん……その、君があまりにも必死だったから」
「いえ……踏んでしまってごめんなさい」
「君は何も悪くないよ」
アーサーはそう言うやいなや結衣の腰に回していた手に力を入れ更に結衣を引き寄せた。ぐっと近付いた距離に結衣は驚きを隠せず、目を大きく見開く。
「緊張させないようにするのが男性のマナーだからね」
「そんな! 私が下手くそなんです」
「ねぇ。僕の目を見て会話をしよう」
唐突の提案に結衣は首を傾げながらも、アーサーの碧眼を見た。吸い込まれそうなその瞳を持った彼は確かに顔がいい。何を言おうと顔はいいのだ。それこそ、侍女のマリアテルも陛下は容姿端麗で見惚れてしまう。と絶賛していたくらいだ。
それでいて足を踏んでも、相手の所為ではないと庇う優しさや、楽しませようという心意気が伝わる。
成程。これは確かに骨抜きになるのもわかる。
結衣はうんうん、と頷き、それを見たアーサーが今度は首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
「気になるな、君が何に笑ったのか」
口説き文句のような、そんな声色で話すアーサーに結衣は頬を赤く染める。
少し意地の悪そうに笑う男は自分の事を分かっているのだ。
「まぁ……何となく察しはついているのだけどね」
「……え?」
「ガヘリスが何か言ったのだろう」
確かにガヘリスはアーサーの事を夜会で名を馳せた方と言っていた。それが悪い事だとは思わない。が、それはこっちでの常識がないからだろう。と結衣は考えアーサーにガヘリスが何と言っていたか黙る事にした。
然しそれが答えになるとは結衣には思いもしなかったのだ。
「無言は肯定と同じだよ。覚えておくといい」
「う、……はい」
「気にする事はない。素直なのは君の長所だ。それに彼の言った事は正しい」
僕は……と語りだしたアーサーの口を動くのを結衣はじっと見た。
「僕は辺境貴族だったから、夜会位でしか自分の存在を示せなかったんだよ」
「アーサー様は寂しかったのですか? 人に見てもらいたかったのですか?」
「……どうだろう。ただ、気に食わなかったんだと思う」
何が気に食わなかったのか、アーサーが口に出す事はなかった。
それに対して結衣は何か言うこともなく、ただ視線をアーサーの目から更に上に向けた。
ぐっと上を向くと、初めてアーサーと月夜の茶会をしたあの時と同じような満点の星空が広がっていた。
「……何も聞かないのだね」
「貴方が話すつもりもない事を聞こうとも思いませんし、正直私には関係ありませんから」
「成程。君は見かけ通り優しいね」
「私は普通です」
話したくないなら話さなければいいし、話したいのなら話せばいい。確かにアーサーの事を知りたいとは言ったが、彼が語りたくない事を無理矢理聞くのは失礼だろう。
そんな思いで結衣は何も聞かなかったが、アーサーはそれを優しさと受け取った。
「それにしても君は覚えるのが早いね」
「はい?」
「ほら、もう僕の足を踏む事なく踊れている」
そう言われ結衣はアーサーの足をあれ以降踏んでいない事に気が付いた。アーサーの顔を見ると彼は少し困ったように笑っていた。
「本当はもう少し明るい話題で緊張を解してあげたかったのだけどね」
「いえ、十分に御座います」
アーサーの鼻歌が再開され、2人は満点の星空の下踊った。その様子を見ていたガヘリスは結衣の上達ぶりに目を大きくさせた。
幾らか踊れるようになったとはいえ、未だに私の足を踏む事もあるのに……。
何故こんなにも違うのか、と顎に指を当てて考えるが、答え等出てくるわけがない。ただ、ガヘリスとアーサーのリードでは明らかに結衣の動きは違ったということだけが分かっている事実だ。
「今夜はこのくらいにしよう。夜が深くなった事だしね」
「そうですね。えっと……」
ガヘリスとマリアテルを連れて来た結衣は二人の姿を探すも、マリアテルの姿は何処にもなく、視界の中にはガヘリスしかいない。
マリアテルは黙って何処かに行くような人じゃないのだけれど、何かあったのかな?
不思議がった結衣は首を傾げると、ガヘリスが大股で歩き近づいて来た。
「失礼致します。結衣殿マリアテルは急用で席を外しております。部屋までは私が同行致します」
「そうなんですね。ではよろしくお願いします」
ガヘリスに軽く頭を下げた結衣は続けてアーサーに向かって、与えられているドレスの裾を両手で摘み軽く持ち上げ、頭を下げながら片足を僅かに後ろに下げ膝を軽く曲げた。
「陛下、今宵もお会い出来て嬉しかったです。ダンスの指南も有り難き幸せに御座いました」
「ははっ、前も思ったけど君その口調合ってないね」
「っ! 勉強中の身ですので」
似合ってないという言葉に胸を刺された。正にその通りだと思ったからだ。まだまだ上流階級の口調が身につかないし、所作だってヘレス先生に怒られるばかりで、自分の不甲斐なさに溜息を吐く。
そんな結衣の頭をアーサーは乱雑に撫でた。セットされた髪型は当然のように乱れる。紳士としては最低な行為だ。当然アーサーだってそれがわかっているし、結衣もアーサーらしからぬ行動だと驚いた。
「ゆっくりでいいんだ。君は突然この世界に連れて来られたんだから……私はそう思うが皆がそう思うとは思わない。何も出来ないのであればそれは直接君への評価になるんだ」
どういう意味か分かるかい?と言ったアーサーの言葉に結衣は顔を上げて頷いた。
「何も出来ないと評価されれば君の立場は危うくなる。幾らドラゴンを封印する乙女だとしてもだ」
「はい」
「今ユイの周りは優しく暖かいものだろう。それがいつまでも続くとは限らないんだ……僕を見たら分かるだろう」
アーサーは剣を抜いてしまったばかりに、辺境貴族から国王にまでなってしまった。全ては神の予言のままにアーサーの取り巻く環境は全て変わり、城の中で今彼は右も左も分からないまま立っているのだ。
その事を考えるとアーサーの言葉に納得する他なくなる。
確かにこの環境はいつまで続くかわからない。
……だけど、それもドラゴンを封印するまでだ。それ以降は私はお役御免なわけだし家にだって帰れる筈。
「説教じみてしまったね。君の努力は必ず君を助けるものになるから、この調子で励むように」
「はい」
「ガヘリス。彼女を頼んだよ」
「はっ。仰せのままに」
もう一度丁寧に頭を下げ結衣とガヘリスはアーサーに背を向け歩き出そうとすると、赤いマントが視界を過ぎった。それはガウェインのもので結衣とガヘリスは立ち止まったまま頭を下げた。
「ガヘリス。お前と陛下の違いを考えるように」
「はい。兄上」
……兄上?
ガヘリス様は今兄上、と言ったのか?
え?もしかして二人は兄弟なの? って事はガヘリス様もアーサー様の甥っ子という訳で……。
突然知った間柄に結衣の頭の中は混乱したが、ガヘリスはそんな結衣に気が付かないでガウェインに挨拶を済ませ歩き出した。
「あ、」
三人の関係性を考えているうちにガヘリスが歩きだし、結衣はその後を早足で追いかけた。
「ガヘリス様、少し待ってください」
「はい? あぁ。すみません、着いてきているものだと」
「すみません」
謝る必要がないのに、条件反射として謝ってしまった結衣に対し、ガヘリスは首傾げた。
「何故謝るのです? ユイ殿に謝る理由などないでしょう」
「そう、かもしれないのですけど……何となくですかね」
その答えは酷く曖昧で結衣自身何となく謝っただけだ。大した理由もないのに謝ってしまうのは最早癖のようなもので、教育係のヘレスに何度も注意をされているが、中々直りはしない結衣の悪癖だ。
俯く結衣を見たガヘリスは目を細めたが、タイミングよく頭を上げた結衣には、睨んでいるようにしか見えず、反射的に、ごめんなさい。とまた謝った。
「私は貴方に謝らせてばかりいる。ダンスも陛下とは楽しそうに踊られていた」
「えっと……?」
「私と陛下はそんなにも違うのでしょうか?」
これはガウェインが実弟であるガヘリスに考えるように言った内容ではないだろうか? と結衣は思ったが、眉間に皺を寄せ自身の胸元を強く掴むガヘリスを見るとそんな事は言えず、アーサーとガヘリスとの違いについて考えてみた。
何が違うって……お顔、とか? アーサー様は綺麗な金色の髪に碧眼だけど、ガヘリス様のは少しくすんだ金髪に深い青の目。
いやいや、そういう事を聞いているのではないだろうに。
初っ端から逸れた思考を振り切ろうと結衣は頭を振った。
……そうじゃない。ガウェインさんはそういう事を聞きたいのではない。
だけど、どこが違うのか正直に言ってもいいものなのだろうか? アーサー様は素直は美点だと褒めてくれたが、それも時と場合によるものだろう。
人を傷つけるかもしれない時、一体どうしたらいいというのだ。
散々悩んだ末に結衣はゆっくりと口を開いた。
「陛下は……私の緊張を解してくださいました。違う事に集中していたので陛下の足を踏まずに済んだのだと思います」
「そうか」
ガヘリスはぽつりとそう漏らし、そのまま結衣に背中を見せて歩き出した。その足取りは酷くゆっくりとしたもので、さっきまでと違い私がちゃんと歩いてきているか気にかけてくれている。
ガヘリス様って意外と素直……?
ぽっと明かりが灯るように、結衣の胸の奥に温かさが灯りガヘリスの隣に並んだ。
その後、ダンスレッスンをする度ガヘリスは他愛もない話をしてくれるようになり、結衣はパートナーの足を踏まずに踊り終える事が出来るようになったのだった。