1話 逆召喚
雀の鳴き声に畳の匂い。窓から差し込む柔らかい日差しと頬を撫でる風。
寝起きの頭で朝が来たのだと認識した結衣は、酷くゆったりとした動きで、布団という魔の誘惑から抜け出した。
結衣の朝は同年代の人と比べても幾らか早い。というのも結衣の家は神職を預かるもので、結衣自身巫女として神職を全うしている為だ。
「眠い……」
慣れたように寝間着から白衣と緋袴に着替え、結衣は外に出た。結衣が暮らすこの神社は竜神を祀っており、普段狛犬が置かれるポジションは神使である龍が睨みを効かせ、龍神を護っているのだが、やはり龍神を護る神使なだけだって表情が怖い。
小さい頃はこれを見てよく泣いていたらしいが。
バケツと雑巾を持ち、睨みを聞かせる龍の前に立ち1度頭を下げ、土台に塒を巻くしっぽ先から身体を清めていく。いきなり頭から水をかけると神使が驚き怒ってしまう。と父に教えられた通り、結衣は丁寧にしっぽから洗っていった。
「よしっ」
数十分かけ一体終わらせ、軽くかいた汗を手の甲で拭い、結衣はもう一体の神使を清める為バケツの中の水を新しくし、これまたしっぽ先から丁寧に身体を清める。
春先とはいえ朝の空気はまだ冷たく、水仕事はきついが結衣は文句1つ言わず、毎日この仕事を熟した。
石畳の道の脇に生えている桜は、枝に小さな蕾を付けており、もう時期本格的な春を連れてくる。
そうなればお花見の季節だと、結衣は頬を緩め僅かばかり口角を上げた。
何処のお花見スポットに行こうか。
と考えを巡らせる結衣の耳に砂利を踏む音が聞こえた。龍の顔を清めていた手を休め、音がした方向を向くと幼馴染の慎吾が眠たそうな顔を前面に出しながら歩いて来たのだ。
「ふぁ……おはよ、結衣。相変わらず朝早いな」
「慎吾だって毎朝早いじゃない」
「おう。散歩しねぇとな」
「おじいちゃんか」
うるせぇ。なんて覇気のない声を出す慎吾は、清めたばかりの神使である龍の頭に掌を乗せ、そのまま撫でた。いつも注意しても慎吾は必ずどちらかの龍の頭を撫でる。何年か前に「何で撫でるの?」と尋ねると「だって龍格好ぇじゃん!」と返ってきた事があり、多分今も同じ気持ちなのだろう。
嬉しいやら、面倒やら……。
「そう言えば今日は修行やるのか?」
「うん……家の中で私だけが式神呼べてないからねぇ」
現代社会の日本は科学が発展した中でも、風習や文化が廃ったわけではない。神力もその中の1つだ。神力によって式神を召喚する事が出来れば1人前と言われるこの界隈で、私は未だに式神を召喚出来ていない。その為に祖父母に修行を付けてもらっているが、一向に成果が見えないのは、私の神力の弱さなのだろうか……。
「神力って持って生まれたものなんだろ?」
「まぁ……後は叩き上げるしかないみたい」
狙うなら大物。と強欲な私に対して物欲センサーでも働いているのじゃないか、と疑う程に成果が出ない。祖父母も何故だと首をよく傾げている。
忌み子と祖父母が結衣の事を貶しているのは結衣自身がよく知っていた。が、これだけ教わっても式神を召喚出来ないのだから仕方のない事だと理解はしている。故に結衣は毎朝神使の龍を清めてはお願いするのだ。
「私も式神を召喚出来るように頑張るので見守りください、と龍神様にお伝え下さいね」
この神社では式神を召喚出来ぬ者に本殿へ足を踏み入れる事は許されていない。結衣は1度も本殿に入った事がない故に祀られている龍神の姿を拝見した事もない。
「よし! 今日の放課後どっか食いに行くか?」
「何処? あまり遅いと修行の時間に響くのだけど」
「んな事わーってるって。お前パンケーキ食いてぇって言ってただろ? そこに行こうぜ!」
「いいの?!」
あぁ! と頷いた慎吾は私の頭を乱雑に撫でると背を向けて家路に着いた。放課後の楽しみが1つ出来た結衣は頬を緩ませ龍を清めた道具を片付けた。その足取りはとても軽く浮き足立っている。
黒のブレザーに薄い白の細いストライプが入ったスカートに着替え最後に胸元にリボンを装着すれば、巫女服が馴染む結衣だって、立派な女子高生だ。授業中睡魔に誘われる事だってあるし、テスト前には1夜漬けだってする。勿論慎吾と交わした放課後の約束だって楽しみで仕方ない。
それだと言うのに……。
「……ごめん。呼出された」
放課後。教室で帰る支度をしていると隣のクラスの筈の慎吾が両手を合わせて頭を下げた。
こういう時は大体先生からの呼び出しだと相場が決まっているのだ。結衣はその事をよく知っている為溜息を吐き呆れながら慎吾に呼出された理由を聞いた。
「今度は何? テストの点数? それとも生活指導?」
「授業中のスマホと言えばいいのでしょうか? いや! すぐ終わるからちょっと待っててくれ」
「分かったから早くしてね。楽しみにしてるんだから」
「おう!」
結衣は元気よく返事をする慎吾を見送り、自分の席に座りポケットからスマホを取り出しイヤフォンを接続した。音楽アプリをタップすると流れてくるのは神楽歌だ。結衣はこの神楽歌で何度も何度も神楽を舞い巫女としての務めを果たして来た。然しそれでも使役する為の式神を召喚する事が出来ない。神と人を繋ぐものが巫女だと言うのに、その巫女が役目を果たせていないのは正直焦る。
そもそも何故式神を必要とするのかと言うと、全ては神議りと神社存続の為だ。自分の神社に祀っている神が11月には出雲に行き神議りに参加する。その時に周りの神に格下に見られないようにする為。格下に見られると暇な神たちに馬鹿にされるし揶揄される。何より神社存続に関わる出来事になってしまうのだ。
神の格は元より持っている神力に人々からの信仰と、我々神職の神力によって殆ど決まると言ってもいいだろう。例え元々強大な神力を神自身が持っていたとしても、人々からの信仰心がなければ十分に神力を発揮する事が出来ない。
では、神の神力は何処で使われるかと言うと、お参りに来た人の宣言の力になる為に使われる。
そして、式神は十分に調教し使役すれば御籤や御守りに力を込めてくれる。
よく当たると評判になれば、祀っている神にも信仰が寄せられ、格落ちしなくて済む。という事だ。
格落ち……つまり神から邪神に落ちた神の大半は、信仰がなくなり、廃れてしまった神だ。
拝見した事はないけれど、うちの龍神様がそんな邪神になんてなって欲しくないもの。頑張らないと。
十分に気合を入れ、慎吾の案内の元美味しいパンケーキを胃袋に収めた結衣は本装束に着替え、神楽殿の真ん中に立った。その手には神楽鈴が握られている。
「廻れ廻れ我が紋に。我は血潮と力において召喚し、汝と血と言霊で契約を結ぶ者……召喚するは我が求むものよ!」
シャンと神楽鈴の音が神楽殿に響く。額に術陣が光り浮かぶものの、やはり式神が現れる事はない。これで何度目の失敗なのかと結衣はとうの昔に数える事を止めている。
失敗は成功のもとという格言をもとに、結衣はもう1度気合を入れ直し神楽鈴を胸元に当てた。
大丈夫。大丈夫。
必ず成功出来る筈なのだから。
「廻れ廻れ我が紋に。我は血潮と力において召喚し、汝と血と言霊で契約を結ぶ者……召喚するは我が求むものよ!」
──“来たれ。異世界より導かれた乙女よ!”
耳元に聞こえた男性の声。それと同時に光り出す足元。その光は徐々に強さを増し遂に結衣は眩しさ故に目を強く瞑った。
「何事なの?!」
床をすり抜けて落ちて行く感覚に身体が強ばる。“奈落の底”まさにその単語が頭の中を過ぎる。結衣は誰かに助けて欲しくて腕を伸ばし、必死にもがくが誰もこの手を取ってくれはしない。
「痛いっ!!」
思いっ切りお尻から落ちた結衣は、目を開け無意識に床に打ったお尻を摩った。然しその痛みも視界から強制に入ってくる情報を前に消え去り、代わりに頭が混乱し思考が停止した。
何……此処……え?
此処は、何処なの……?
結衣の目には自身を囲むように立つ、黒い服に十字架を胸に下げた外国人と、台座の前に立ち剣を握っている金髪碧眼のイケメンがいた。
「……は?」
「うぉぉおおおおお!!!!」
耳が割れんばかりの大歓声が辺りに響く。その声に混乱し左右を見渡すが私の知っている景色もなければ、知っている人1人もいない。
「アーサー王万歳!」
「異界より来れり乙女万歳!」
口々に聞こえる単語に耳を塞ぎたくなった。
何だアーサー王って……。
何だ異界より来れり乙女って……。
そう混乱し耳を塞ぎ俯く結衣に影が出来た。顔を上げると台座の前に立ち剣を握っていた金髪碧眼のイケメンが片膝を地面に着き、結衣に向かって手を差し伸ばしている。結衣は差し出された掌と男の顔を交互に見るが、訳の分からない状況で、目の前の男を信頼出来る筈もなく、只々男の顔を見ているだけだった。
「僕の名前はアーサー。君をこの世界に呼んだ者だ」
優しい口調で話すアーサーは目を細め結衣に向かって笑顔を見せた。容姿端麗のアーサーの笑みに目を奪われない女性はいないだろう。だが、今の結衣はそれどころではないのだ。知らない風景に知らない人。挙句に呼び出されたと言うのだ。
結衣が召喚術を発動させている時に……!
「お家に、帰らせてください」
「……ごめんね。今それは出来ない相談だ」
あぁ、龍神様。
私が一体何をやったと言うのでしょうか……?
どうして私はこんな目に遭わないといけないのでしょうか?
しかも、寄りにもよって何で人が式神を召喚している時に、この男は私を召喚したのよ!もしかしたら、あの時召喚術が上手くいっていたかも知れないのに……!!
「君の名前を教えてくれないか?」
未だに響く大歓声の中、結衣の耳にはしっかりとアーサーの声が聞こえたのだった。
ごめんなさい!
手違いで1度データを消してしまったので、改めて投稿し直しています!