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牧場町での騎士の仕事をする初日、レスカの牧場の一室で俺は目を覚ます。
どのような環境でも寝て、すぐに起きれるように訓練された俺だが、レスカの牧場のベッドは、非常に質が良かった。
何時もは、【頑健】の加護で疲れなど残らず、居心地の悪い寝床から早く抜け出すために起きるのだが、気持ちのいい寝具にベッドから抜け出したくなくなる衝動に駆られる。
だが、その衝動を意志の力で抜け出し、部屋の窓を開け、朝日を浴びる。
「今日からこの牧場の町で騎士の仕事か」
開けた窓から見えるのは、レスカの牧場の牧草地であり、その牧草地の至るところで二足歩行のキノコ状魔物が歩いている姿が見える。
オルトロスの幼生体のペロに追い立てられるコマタンゴたちは、刈り取った後に放置されてカリカリの干された牧草を丸っぽい両手で集めて、牛舎の中に運んでいる姿を見る。
そして、干し草を置いて牛舎から戻って来るコマタンゴの中には、齧られた跡があるコマタンゴが居たので、きっとリスティーブルに食べられかけたのだと予測する。
「普通の牧場の朝とは違うんだな」
鶏が鳴いて、朝を知らせるのとは全く違う光景にこれからこの地でやっていけるのか、不安になる。
俺は、弱気になる心に喝を入れるために、自分の顔を両手で叩いて気合いを入れ直してから部屋を出る。
「あっ、コータスさん。おはようございます、今起きたんですか?」
「ああ、おはよう。って、レスカは随分と早く起きているな」
「それが私の仕事ですから」
そう言って微笑むレスカは、朝の搾りたてのミルクの入ったバケツを両手で抱えている。
「そうか。居候の身の俺だ。それを運ぼう」
「いいんですか? 確かにコータスさんには、牧場の手伝いを頼みますとは言いましたけど、それは騎士の仕事の範疇で、まだ仕事の時間じゃないですよ?」
「騎士だからって何もしないのは性に合わないんだ」
「その、ありがとうございます」
何やらモゴモゴと言っているレスカの手からミルク入りのバケツを受け取り、運ぶ場所を聞く。
「それで、これはどこに運べばいいんだ?」
「台所に頼みます。一度煮沸してから使いますから」
レスカの指示の通りに台所にバケツを運び終えたが、それでは何か物足りない気がする。
「コータスさん、助かりました」
「それで仕事はこれだけか? 何か他に仕事はないか?」
俺がレスカに聞けば、レスカは遠慮がちに仕事をくれる。
「それじゃあ、裏手の井戸から水を近くの貯水樽に汲んでくれますか?」
「分かった。任せろ」
俺は、レスカに案内され、裏手の井戸に回る。
「牧場の畜産魔物たちのための水と生活用水に使うんです。その大きな樽に水を溜め置きして使っています」
「分かった。早速、水汲みをする」
「後は任せますね! 朝食ができたら呼びに来ますから!」
俺は、牧場裏手に置かれた巨大な樽への水汲みをレスカから仕事を任される。
レスカは、先程のミルクを使った朝食を作るために台所へと戻る。
俺は、改めて見上げる巨大樽は、特注品と思しき樽で通常のワイン樽の五倍以上の液体が入りそうな大きさだ。
上の注ぎ口までには足場が組まれており、水を上に運ぶだけでも重労働に思える。
「これが牧場の町の女の子の仕事か。大変だな」
下手な騎士の仕事よりも重労働な水汲みの往復を半刻で済ますレスカの体力に関心しながら、俺は滑車のついた井戸に桶を投げ入れる。
井戸の中に落とした桶が水を満たしたのを確認して、引き上げる。
「むぅ、これは結構重いな」
ロープ付きの桶を滑車で引き上げる時に、腕に掛かる負担が意外にも大きい。
重力に従い、再び井戸の底に落ちようとする水入りの桶を引き上げる度に、ロープを握る掌が強く擦れる。
剣を振るい続けて皮膚の厚くなった掌だから平気でいられるが、何の苦労もない貴族や貴婦人たちは、すぐに手の皮が剥けそうだ。
そして、引き上げた桶を運びやすいバケツに水を移し替える。
その時、二つのバケツに水を入れ、特注樽の注ぎ口まで水を零さないように持ち運ぶ。
両手にそれぞれ持つ水入りバケツの重さは、農具に変わってしまった鉄の長剣に比べれば、軽いが、それでも足場を登りながらの運搬には様々な筋肉を使う。
「これは、体幹が鍛えられるな!」
動きに合わせて揺れる水を零さないようにするバランス感覚の育成と体のブレを無くすための筋肉の鍛錬になる。
俺は、日常生活に隠れる小さな鍛錬に密かに感動する。
水汲みのロープの引き上げも腕の筋肉だけでは無く、足腰や屈伸の運動もすることができ、程よい全身運動をすることができる。
「合理的で素晴らしいな。明日の朝からは、レスカに頼んでこの仕事を割り振って貰おう」
俺は、満足げに頷きながらも次々に水を特注樽に運び入れる。
最初は、巨大な樽の底が暗くて見えなかったが、みるみる水が満たされ、樽の八割まで水位が上がっている。
「これで最後にしよう。ふぅ、朝からいい鍛錬になった」
水を汲み上げる重労働に満足した俺は、着ていた衣類が汗をかなり吸っていることに気が付いた。
騎士の鍛錬は、かなり汗を掻くほどの運動をするために、そのままにしていると汗や汚れの匂いが酷くなる。
他の騎士は、気にしない人がいる中で割と綺麗好きな俺は、汗の匂いや不快感が我慢ならない。
「軽く汗を流してから部屋に戻って着替えるか」
生憎タオルなどの汗を拭う物がないために、自身のシャツを脱いで、近くで見つけたタライで揉み洗いする。それを絞って水気を取ったら、その濡れたシャツをタオル代わりにして汗を拭う。
「後でちゃんと着替えないとな」
俺は、そう呟いていると、家の角から砂利を踏む足音が聞こえる。
「コータスさん、朝食ができたから食べま……せんか?」
上半身裸で濡らしたシャツで汗を拭っている俺の姿を見たレスカは、言葉が尻すぼみになり、顔を徐々に真っ赤にしている。
「あ、あわわわわっ!?」
「す、すまん。今、シャツを着る!」
俺は、タオル代わりにしていた濡れたシャツを着直す。
そして、互いに背中を向ける形になり、気まずい雰囲気が流れる中、牧草地に放たれたはずのリスティーブルがこちらを見ているのに気が付く。
「な、なぁ、レスカ……」
「ななな、なんだ!? い、言っておくけど、わざとじゃないからな!」
上擦った声で返事をするレスカ。
また言葉が変な感じになっているが、俺の方をじっと見続けるリスティーブルの存在に気が付いていないようだ。
俺は、先程とは違う冷や汗を掻きつつ、自然と腰を深く落とす。
「リスティーブルの機嫌って今日はどんな感じなんだ?」
「リスティーブル? 今日は、ちょっとストレスが溜まっているみたいですから放牧して青空の下で伸び伸びとしてもらう予定で――きゃっ! コータスさん!?」
レスカの言葉が言い終わる前に駆け出すリスティーブル。それを前回同様に正面からガッチリと受け止める。
今度は、肩が壊れたりせず、ストレスの少ないために突撃の勢いが弱いが、それでも人一人を後ろに吹き飛ばすだけの力はある。
「――ぐあっ!」
突き飛ばされるようにして、地面へと受け身を取る俺は、そのまま青空を見上げることになる。
今回は、身体強化の《オーラ》なしだったが、突き飛ばされる程度で済み、突撃して満足したのか、機嫌良さそうに尻尾を振りながら、牧草地に戻っていくリスティーブル。
倒れている俺の様子を恐る恐る覗き込んでくるレスカ。
「コータスさん、大丈夫ですか? 怪我してませんか?」
「大丈夫。怪我はないから」
前回と違って、と内心で付け加えながら、俺は濡れたシャツのまま地面に倒れたので泥だらけになっている。
泥で汚れたシャツを着る不快感を我慢しているとレスカが尋ねてくる。
「その、ですか……朝食の準備で沸かしたお湯が余っていますから使いますか?」
「……お願いしよう」
なんとなく、気まずい雰囲気になる中で、一度部屋に戻り着替えを用意したら、レスカがタライにお湯とタオルを容易してくれる。
「その、朝食の準備ができていますから冷めない内に早く来てください」
「わ、分かった」
俺は、レスカからお湯を受け取り、泥と汗を掻いた体を拭い綺麗にしていく。
ただ水浴びするよりもお湯の温かさとちゃんとしたタオルの柔らかさに、水で拭った時よりも綺麗になるような気がする。
そんな中で、自然とある言葉が口を突いて出る。
「……レスカってやっぱり初心なんだな。気をつけないと」
男の上半身を見て、あの慌てようはちょっと悪いことをしたような気がしたが、だがあの反応に少し違和感を覚える。
「それ以前に、俺が怪我して倒れた時に処置したのは、レスカだよな。そうなると……」
リスティーブルの突撃で大怪我した時の包帯や薬などの手当て、服の着替えなどは、全部レスカがしたことになると……
自然と自分の下半身に目を向ける。
「見られたか……いや、だとしたら非常に悪いことしたか?」
もしそうなら、俺が水浴びしている時、着替えの時に見たものを思い出した可能性がある。そして、それに対する俺の反応は――
「よし、見なかったことに、知らなかったことにしよう」
俺の予想が当たっていたとしても、口に出すのは憚られるのだから、知らないことにして自然と忘れることにする。
俺は、着替えを終えて、平静を保ちつつレスカのところに行く。