不幸な人魚(9)
お母様に関する話題は半年が過ぎても途切れることはなかった。
伯母様が彼女の母親であるという真実を、六カ月が経とうとしても、ついぞ言わずにいたわたくしだったが、その理由が後ろめたさからくるものではなくなっていたことを、わたくし自身もとうに承知していた。
そして、いまや、わたくしの中に生じた、クルミほどの不安の塊が透けて中の実の丸さがくっきりと分かるように、鞠子お姉様の麗しい唇から紡がれる“お母様”という五文字の言葉もまた、向こう側が透けて見えるかのごとく、薄っぺらな印象を、日ごと、わたくしに与え続けたのであった。
「ねえ、桃ちゃん。今度の土曜日に、お母様について、お話しましょうよ」
鞠子お姉様は、内緒話をなさるかのように、わたくしを彼女の家へと誘う。この頃、社交倶楽部の人達がわたくし達を見る目が、以前と少し違う。よそよそしいような、他人を見るような、冷たい感じがする。わたくしはそれに気付かぬふりをして、「ごきげんよう」と微笑み、通り過ぎる。
社交倶楽部に入ることを許された理由を、わたくしはこれまでずっと、あの日の度胸と鞠子お姉様との境遇の類似が招いたものだと思っていた。もしくは、わたくしを不憫に思った鞠子お姉様の聖母のごとき慈悲がわたくしを救い上げたのだと。
「それなら、一時からお夕食までの都合はどうかしら」
「ええ。特に何もありません」
けれど。もしかしたら。鞠子お姉様はわたくしを相手にあの言葉を唱えたいだけではないかと思ってしまう。それだから、わたくしは、伯母様のことを言う気にはなれない。
「ねえ、桃ちゃんはお母様とどこへお出かけにいきたいかしら?」
「わたくしは、お母様と観劇に出かけるのが憧れでした」
「きっと楽しいわね。ねえ、桃ちゃん。私と観劇に行きましょうか。そして、帰りの喫茶店でとびきり苦いコーヒーを飲みながら、色んなことをお話しましょう」
「ええ、喜んで」
わたくしは、鞠子お姉様の言葉に、何も存じ上げませんの、というような、幼子のごとき純真さを懸命に取り繕った顔をして、答えてみせる。
たとえ、わたくしが、彼女の慈悲から、入会を許されたのではなくとも、たとえ、ねじれてしまった彼女の心を満たすがための存在だとしても、わたくしは、自ら、この奇妙な関係を続けることを選んでしまう。
何故なら、彼女の恐るべき美貌は、蜘蛛が吐き出した糸にかかる虫けらのように、わたくしをいとも容易く絡めとり、意のままに行使できる呪いなのだ。
「楽しみだわ。こんな風に休日を過ごすなんて、考えもつかなかった。桃ちゃんはいつでも私に新しい世界を見せてくれるのね。同級生ともこんな風に過ごすなんて考えられないのに。私達、三年生と一年生だというのに」
嬉しそうに微笑む鞠子お姉様に、わたくしもまた、ぎこちない笑みを送る。
「わたくし達の間に、年齢なんて関係ありません。だって、わたくし達は、同じ人魚ですもの……」
わたくしの声は、真っ暗な深海の底にぽとりと落ちる、淡き白さに塗れた真珠の粒のように、わたくしと鞠子お姉様の間を、少しずつ、少しずつ、埋めていった。
それは、確かに、あの日、思い描いていた形こそ違えど、鞠子お姉様の写真をこの目に映したときから、毎夜、跪いて請うほどに願った、憧れの方との、甘やかで愛おしい、幸福な時間であった。
FIN(仮)