8話
すいません。神旗と人騎のルビを打ち忘れていました。どちらも『ジンキ』と読みます。
それでは、と一礼しトオルはリーリエの部屋から出た。自室に戻る最中、ニクルに出会った。何か言いたそうな顔をしていたので、トオルは立ち止まってニクルに笑いかけた。彼女らの好感度も重要である。
「トオルさん、何をしてたんですか?」
「マッサージだよ。気になるなら今日の夜してあげる。仕事が終わったら、私の部屋においで」
これも計画していた策だった。使用人にマッサージをして、リーリエの情報を聞き出すつもりだったのである。
ニクルとクロはトオルにも尽くそうとするので、距離の詰め方が難しかった。
トオルは下手に出ることで何とかしてきたので、尽くされることになれていなかったのもある。最底辺で産まれたからこそ取れた戦略だった。
「失礼します」
約束通りニクルはトオルの部屋にやってきた。小さな体躯に不釣り合いな大きな乳房がパジャマによる薄着で強調されている。今は五月なので普通の格好だった。
暦は一年が三百六十五日と変わらないが、メリド大陸は季節の移り変わりが激しい。四月まではとても寒いのだが、五月にもなると薄着でよくなる。暑いのが五月から九月まで。寒いのが十月から四月と、寒い時期の方が長い国であった。
「待ってたよ、ニクル。さ、ベッドに寝転んで」
「え、は、はい」
ガチガチに体を硬直させて、ニクルはベッドに座った。寝転ぶことに躊躇しているらしい。
これではマッサージの効果もでないだろう。
なので、トオルは世間話から始めることにした。
「ニクルはいつも料理をしてくれてるんだよね」
「あ、はい。姉は掃除や洗濯をしてますね。家でそうだったので、自然とそういう風に」
「家でもしてたんだ。だから、あんなに料理が上手いんだね」
「いえ、そんなことはありませんよ」
ニクルは首を振って、顔を伏せ、前髪で表情を隠す。話すのが苦手なのか、時々言葉をつまらせることもあった。
トオルはゆっくりニクルを待つ。
「家でしていた料理は限られた具材でしたけど、ここはたくさんあるから楽しいです。リーリエ様に調理法も教えていただきましたし」
「そうなんだ。リーリエ様は優しいよね」
「はい。わざわざ私と一緒に料理をしてくださったこともありますし、読み書きができないから調理の本の音読も」
トオルが来る前から使用人に対してずいぶん親しい態度だったようだ。
それがどれほど珍しいかはトオルがよくわかっている。幸運だと手放しに喜べるほどだ。
なので、共通点であるリーリエを褒めることで会話を弾ませる。
そうしていると、ニクルは表情を緩ませ、しきりに話しかけてくるようになった。しかし、言葉はつまりやすい。どうやら話すのが得意ではないという推測は当たっていたようだ。
「ごめんごめん。マッサージのこと忘れてたね」
「あ、そうでした」
照れ笑いを浮かべ、ニクルはベッドに横たわった。
トオルが信用されたこともあるが、話の最中マッサージの説明も挟んだので、マッサージに対する恐怖心は全くなくなったようだ。
弱めの力で指圧していく。
ニクルの体は柔らかかった。広い屋敷の家事を行っているので、決して太っているというわけではない。胸自体の大きさはリーリエとそう変わらないだろう。その豊満な体と小柄な体躯のアンバランスさがとても魅力的であった。組み合わせてはいけないパーツで構成されているので、劣情を集めやすいだろう。
スラムで生活していたら特に危険だろうなあ、とトオルは思った。
気持ちいいのかニクルは口数が減っていき、ついには話さなくなった。
「ニクル、聞きたいことがあるんだけど」
「ふ、はあい」
あくびをして、ニクルが返事をしてくれた。
本来、マッサージ中にうとうとしているなら起こす必要はない。しかし、そうしないとトオルが困るのだ。
リーリエのような美しい少女に触れ、艶かしい声を聞いたから並み大抵のことでは揺るがない、と考えていたトオルだったが、その考えは甘かったと悔やんでいた。
ニクルもリーリエもあまりにも魅力的だった。男だった人間にそういう気分になるな、というのが無理な話である。
今も股間には男性器が備わっているので、外見上は女性だが、トオルの心は男性のままだった。女性になろうと努力しているのである。
「私はリーリエ様と学校で知り合った訳だけど、貴女たちはどこで知り合ったの?」
「スラムです。リーリエ様がわざわざ来てくださって」
「わざわざ?」
トオルは勤めて平静に聞き返した。使用人より下の地位である従僕であれば、スラム出身でも珍しくはない。しかし、使用人をスラム出身者が勤めるというのは聞いたことがなかった。
「えっと、二年前の三月ごろ、スラムの住宅街に使用人を探すために来られていたんです。バイル学園に入学する際、使用人を連れてこなかったそうで、加護を持たない私たちの元へ。トオルさん?」
「ああ、ごめん。気にしないで」
思わず手を止めてしまったトオルは指圧を再開した。
スラムは大まかに見ると二つの役割が、場所によって分けられてある。スラムの商業地である歓楽街と彼らが住まう住宅街だ。
通常、貴族が遊びや従僕などを探すのは歓楽街だ。そこに商品として用意されているのだから当然である。なので、貴族が住宅街に入ることはまずない。
歓楽街は衛生面もそれなりに整っているが、住宅街の場所次第では疫病の巣といって差し支えない場所もある。
わざわざ住宅街で、使用人を探す必要がどこにもないのだ。
トオルはリーリエのことを変わり者だと思っていたが、ここまでとは想像もしていなかった。
「なんでも、奴隷を買うつもりはない。物ではなく対等に私と契約して働いてくれる者がいいのだ、とか。私はその意味がよくわからなかったから、お姉ちゃんに後は任せました。その結果、お姉ちゃんも私も加護がありませんが、ここに使用人として雇われています」
ニクルは、それが幸運なことだとは馬鹿でも気づいてますよ、と付け足した。
台詞だけでは推測しかできないが、商品として売られているものより、スラムの住民のほうがいいということらしい。奴隷と住民、スラムの中の順列など大した差はない。むしろ、奴隷として売られている者のほうが、用途に応じた教育が行き届いている。トオルにはリーリエの考えが理解できなかった。
とにかく、今言えるのは、リーリエが一般的な貴族と違い、スラムにいる人間だから、と差別しないということだ。
「そういえば、前の従者が辞めた理由って知ってる?」
「はい。お母様が選んだ人間は私に雇われているのではなく、お母様に雇われている。だから、私の望みを叶えてくれないんだ、と」
リーリエの望み。それはなんだろう、とトオルは頭を働かせるが、良い意見しか出てこない。リーリエという少女から悪しき考えが生まれそうにないのだ。
しかし、それを信じきることができないのが、菊地トオルという人間だった。
考え事をしながらでも、身に染み付いたマッサージは問題なく終了した。
2017-11/23-誤字の修正をしました。