6話
優勝した翌日、トオルの生活はスラム暮らしから、リーリエの屋敷住まいに変わることとなった。
昼前に訪れることになっていたので、早朝にステラの家で湯あみをしていた。
今日で風呂を借りるのが最後だからか、ステラは丁寧に後ろからトオルの暗い赤髪を洗っていた。
トオルが転生して唯一、気に入っているのが自分の容姿だった。瞳は青く、肌は瑞々しく驚くほど白い。近頃は手入れもしているので髪は艶やかで柔らかく仕上がっている。
髪はサイドが顔のラインに沿うようにしてあり、肩にかからない長さだった。スラムにいたため、男性とも女性とも取れる髪の長さにしていたが、これからは伸ばしてもいいのだ。今の状態でも身なりを綺麗にすれば、ふわふわの髪に、平均的な背丈で、まさに可愛らしい女の子だった。
一方、ステラはすらりと背が高く、常に肩肘を張ったような雰囲気のある女性だった。発育もよく、女の子というより、いい意味で女という言葉が似あっている。 そんな女性が愁いを隠そうともせず、トオルの髪を洗い流した。
「ありがとう、ステラ」
トオルは身を捻って、ステラの鎖骨に唇を付けた。ステラはそれだけで、風呂の気温の高さから赤くなっていた頬をさらに上気させ、惚けた表情になる。
厳格な管理者がここまで蕩けられるのはトオルの前だけであった。
ステラとトオルには似た部分がある。どちらも、地位を持っていない人間だった。スラムは貴族が統治しないので、成り上がりには持って来いの稼ぎ場である。ステラは貧しい平民の子から、一代で管理者まで上り詰めた。そこには不断の努力があり、無駄を排除するストイックさがあった。仕事のために生きてきた女性が初めて仕事以外のものに熱意を傾けていた。
それはトオルに惹かれてではない。ある事件を機に発覚した唇の魔力だった。
その事件はトオルにとって、人生のターニングポイントだったので、鮮明に記憶していた。
スラムは4つの地区に分かれており、ハイフという地区がトオルの出身地であり、ステラが管理する場所であった。
管理者は地区ごとにいて、4人はお互いの利益のために男どもを使って小競り合いをよくしていた。それが直接管理者に関わることは滅多にないが、あることにはある。何らかの攻撃で呼吸が止まっていたステラをトオルが発見したのだった。
「こいつを殺してしまえ」
トオルはまずそう思った。憎き管理者を殺すことは正しい行いであるような気さえしていた。いいや、そんな建前以前に、世界を激しく恨んでいたせいかもしれない。何かに原因を擦り付けようとしていたのだ。
幸い、近くには誰もいなかった。防犯カメラは存在しないし、運が良ければ罪に問われることもない。
トオルは一歩足を踏み出す。ステラの首を砕くために、拳を握る。そして、ステラの顔を真上から見れる距離に近づいた。途端、感情がくるりとひっくり返った。
濡れた長く美しいステラの黒髪を見て、何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。
「情けない」
聞き覚えのない声がした。それは少女の声だった。メリドに転生してから、トオルはろくに声も出していなかったので、自分の声に驚いたのだ。そこで再確認する。俺は男でも菊池トオルでもないのだと。だから、今度こそは、と転生した当初思ったのだではないか。
情けない自分を変えたい、と日々思いながらも、行動に移せなかった自分を憎んでいたのではないか。
リセットした先の条件が悪いからといって、これ以上情けない事を重ねれば、自分自身を許せない。
何事にも本気になれなかった奴が、直接何かされたわけでもない人を殺めることだけに躍起になるなんてダサすぎる。
「そうだよ。どうせなら、もっとイイ事しようぜ。昔は思ったじゃないか、菊池トオル。俺は何かを成したかった。勝利にこだわっていた」
勝利を得るには突っ立っている訳にはいかない。
トオルには治癒の加護もなく、成人女性を担げるほど力もなかった。なので、外傷が見られない事、心肺が止まっている事だけを確認し、何をすべきか考えた。そこで浮かんだのが人工呼吸と心臓マッサージだった。
学生時代に保健体育の授業で人形相手にしかしたことがなかったが、うろ覚えの知識をすぐ実行に移した。
人工呼吸と心臓マッサージを施すと、ステラは口から水を吐き出し、ごほごほと咳をした後、息を吹き返した。
呆気なく済んで驚きつつ、ステラが目を覚ます前に、トオルは去った。
本来であれば、それで終わりのはずだった。トオルの口づけに超常的で魔的な力がなければ。
未だに、加護として認識されていないので、能力についてはトオルの推論の域を出ないが、どうやら相手を魅了するものであるらしい。
そう考えれば、顔を見ていないトオルの元へ、ステラはやってきたことの説明が出来る。
「匂いで解ったのです」
何故ここがわかったのか、と訊くトオルにステラはそう説明した。
「私を助けてくれたのは、貴方様ですか?」
「疑問形というのことは、わからずに来たんですか?」
当時、ステラに刃向かえば命がないとまで考えていたので、トオルは敬語で話していた。
「ええ、何というか、引き寄せられたんです。目覚めてから、ずっと私は貴女様を探さなければならない、という言葉が己が内から聞こえてくるのです。その声と匂いに従うと迷うことなくここに」
ステラの話を聞けば聞くほど、トオルは混乱した。管理者様は電波女だったのか、とすら思ったほどだ。このまま逃げようか、とも。
しかし、権力者であるステラをないがしろにはできず、トオルは再度会話を試みた。
「それで、私に何かご用が?」
助けたお礼がしたいというなら、話が続けられるが、そうでなければどうしようか、とトオルは考えていた。
一方、ステラは目を伏せ口ごもっていた。
「大変申し上げにくいのですが」
そう前置きしながらも、ステラはトオルの目と首のあたりに視線を慌ただしく交互に移動させ、頬を真っ赤に染めていた。
「キス、していただけませんか?」
トオルは答えることが出来なかった。恥じらった様子のステラを見れば、これが冗談でも聞き間違いでもないことはわかっている。
だが、そうであれば余計に不可解だった。加護を失うといわれているのに、と。トオルは加護を持っていないが、ステラはそうではない。そんなリスクを冒して何がしたいのだ、と。
「本当は、貴方様が助けてくれたのか、と訊くべきだとわかっているんです。でも、囁いてくるんです。貴方様の唇はとても甘く、この火照りをどうにかしてくれるから、重ねてもらえ、と」
トオルが驚いた表情をすると、ステラは恥じらいから悲しみに表情を変えた。
「無理を言っているのはわかっています。でも、抑えられないんです。何でも致しますから、お願いします」
トオルは返事の代わりに、身を乗り出してそっと唇を合わせた。
ここまで必死にお願いされて、無視できるほどトオルの精神力は強くなかった。前世から女性にはもちろん興味があったし、目の前にいるステラはファーストキスをささげるのに、申し分ないほど美しかった。
そして、トオルに未来の展望がなかったのも大きい。スラムでの小汚い暮らしは彼女から大半の希望を奪っていた。例えば、女に転生したことで、好きな女の子と恋なんてできないだろう、とか。
キスという行為は自然に行われた。トオルは唇を重ねていた時よりも、離れてからの方が心地よかった。
トオルが離れていくのを、濡れた目で惜しむステラがあまりにも美しく、愛おしかったからだ。初対面の人間にそんな感情を抱かせた行為に、トオルは終わってから驚いた。
「それでは失礼します」
トオルが驚いている間に、ステラは丁寧に礼をして、トオルの部屋から出て行った。何が何やらわからなかったが、始まりからしてよくわかっていないので、まあいいか、とトオルは諦めた。これは夢だったと思うようになった。平民街から出た残飯を漁り、人権を無視した仕事をしている内に頭がおかしくなったのだろう、と。
しかし、夢は覚めなかった。次の日もステラはやってきたのだ。彼女とコミュニケーションを重ねていき、ステラはある結論にたどり着いた。自分の唾液を摂取した相手は、自分のことを良く思ってしまう。そんな能力が自分には備わっているのだと。
キスでなくても、相手の指を舐めるだけでも効果がある。しかし、キスのように直接接種したほうが効果は高い。そういう能力の詳細を、トオルはステラの身体で確かめたのだった。
トオルが感慨に耽っている間にステラは彼女に服を着せていた。
心なしか、ステラは物足りなさそうな顔をしている。それが徐々に悲しみへと変化していった。トオルと会えなくなることを本当に悲しんでいるのだ。
トオルはステラを家族のようなものだと捉えていた。
「これで終わりじゃない。俺もステラが大切なんだ。また会いに来る」
ステラは感極まってトオルに抱き付いた。いつも遠慮している彼女にしてはずいぶん思い切った行動である。
「話は変わるが、ラッドの奴らがランクラーにちょっかいを出すらしい。ハイフは関係ないが、気を付けてくれ」
「ありがとうございます。注意しておきますね」
「それじゃあ、また」
「はい。いつでもお待ちしています」
ステラは強くトオルの匂いを嗅ぎ、彼女から離れた。
風呂場から出ると、トオルとステラの関係は外向きのものになる。そのことをいつも悲しんでいたステラの表情が今日は、どこか晴れやかであった。
「やあ、いらっしゃい」
トオルがリーリエの屋敷につくと、リーリエ本人が出迎えてくれた。休日だというのに淡い緑色のスーツを着ていて、爽やかな笑顔を浮かべている。トオルはまともに服がないので今日も制服だった。
「それじゃあ、屋敷を案内するよ」
リーリエの屋敷は貴族にしては質素だった。華美すぎるということもなく、最低限威厳を失わない程度に装飾されている。真ん中に中庭があり、それを囲うように2階建ての建物が4棟ある。建物の外にも庭があって、庭、建物、庭と3つの四角で囲われた構造だ。
建物は北がリーリエの居住区、東に食堂とキッチン、西に客室があってそこにトオルの部屋がある。南は使用人が使っていて、書庫もあるそうだ。
リーリエ自らの案内が終わると、食堂に通された。そこにはエプロン姿の女の子が二人いた。
「お待ちしておりましたトオル様」
2つの声が見事に重なる。少女らは似た顔をしていた。背丈の違いはあるが姉妹ではなく、双子のようである。
「クロとニクルだ」
リーリエに名前を呼ばれたとき、クロとニクルは別々に礼をしたので区別はついた。
クロの方は背が高く細身で、ニクルの方は背が低く豊満な体つきだった。よく見れば他にも細かな差異はあるが、顔以外の部位が真逆である。
「この屋敷には私たちしか使用人がおりませんので、何か御用がありましたらお声がけください」
クロが頭を下げると、ニクルも遅れて頭を下げた。
ニクルはその行為が咎められないか、と心配になったのか横目でトオルを見たので、微笑んでおく。
「あう、よろしくお願いします、です」
礼節という面でみればニクルは欠けていたが、クロも、主人であるリーリエですら微笑ましいといった様子であった。
屋敷がイノ家という大貴族のものにしては小さいというだけで、この土地に使用人の数が2人というのは少ない。なので、仕事ぶりは優秀なのだろう。
トオルは彼女らが仕事のパートナーとなるので、その辺りも確認しなければならないな、と気を引き締める。
「これで案内は最後だ。さて、食事にしよう」
料理は2人分用意されていた。
どうやら、リーリエとトオルの分らしい。通常、雇い主が従者と食事を取るというケースは稀だ。
これは礼節を試されているのか、とトオルは訝しんだが、応じるしかなく大人しく着席する。
「これでようやく1人で食事せずに済む。朝も昼も晩も、誰かと食事できることは良いことだ」
リーリエは満面に喜色を浮かばせ、料理に手を伸ばす。彼女の言葉をそのまま飲み込むなら、初日だからもてなしたわけではなく、これからも続くというニュアンスである。従者と使用人の地位は大差ないはずなのだが、リーリエという少女は従者に寛大なようだ。
これは作業がしやすい、とほくそ笑み、リーリエに再度感謝の言葉を告げ、トオルも料理に手を触れた。




