41話
トオルが目を覚ますと、隣にマトイが眠っていた。その奥にはリルが寝ている。
昨晩、リルより先にトオルは眠ったためどういう状況かわからなかった。恐らく、リルをトオルから遠ざけようという考えだろう。姉思いの妹のようだ。
寝起き特有の倦怠感のまま呆けていたが、指に力を込めることができるのを感じた。
恐る恐る指を折り曲げ拳を作り、開き、と繰り返す。何度かしてから、手を布団につけ、起き上がってみせる。そして、壁伝いに立った。
「おお、動く」
トオルはつい感嘆の声を漏らしていた。それに反応して、リルとマトイが起きてしまった。
「あ、姉様、もういいのですか?」
「みたいだな。痛みはないよ。昨日、あれだけ動かなかったのに不思議なもんだ」
「馬鹿ね、あんた。半年も食事を取らず、体を動かさなかったら鈍るに決まってるじゃない」
マトイに毒づかれ、トオルは自分が半年も眠っていたことを思いだした。まだ実感として湧かないものがある。
「だとしても、おかしくないか? 一回の食事でここまで回復するのはさ」
「お姉ちゃんのおかげよ。毎日、あんたに付きっきりだったんだから」
そう言って、これ以上話をしたくないということか、マトイは布団を畳み、外に出て行った。
「また怒らせちゃったみたいだな」
「顔を洗いに行っただけですよ。でも、失礼なことには変わりない。怒っとく」
「いや、彼女が正しいよ。急に来た奴が半年もいたんだ。不安を抱くのは仕方ない事さ」
「ありがとうございます。あの子も悪い子じゃない。すぐ仲良くできる」
「そうだな。俺も顔を洗ってくるよ」
トオルはリルに心配されながらも一人で歩いて外に出た。そして立ち止まる。
段差のある玄関。そこに並ぶ靴。引き戸の扉。外に広がる霜がかった田園風景。
日本に住んでいた頃は、典型的なベットタウンだったので、厳密に言えばこの景色を故郷とは言えない。だが、トオルは胸打たれた。
しかし、それを引きずってはいられない。
外で深呼吸をし、極力何も思わないようにして、顔を洗い、排泄を済ませた。
ここは日本ではない。自分は男ではなく、女であり、加護がないのだ。そう言い聞かせ、トオルは胸の揺らぎを抑えた。
不調を気づかれることなく朝食を済ませ、トオルは体の可動域を調べた。
初めは慎重にしていたが、すぐに諦めた。なぜなら、どこにも異常がないからである。走ったりしていないのでわからないが、普通に生活を送るのには支障がなさそうだった。
その証拠に食事も一人で取れた。これなら、昨晩のように色んな意味でのお世話を頼まずに済む。風呂も入れるだろう。
元気になると、じっとしていられないもので、トオルは訊いた。
「あとで外を見てきていいか?」
「なら、お昼から散歩に行きましょうか」
昼食後、念のためにと言ってきかないリルに手を引かれながら、外を歩く。
冬という事もあって農作業は行われていないが、あちこちで春に向けて準備をしていた。
彼ら彼女ら、村の人々の髪色は黒で統一されていた。そして、皆、トオルよりも背が低い。
それが一番初めに目についたが、ネメスで暮らす人々がより驚くのは、男の扱いだろう。
和気藹々と男女で仕事をしていた。そこには差別など微塵も感じない。
「もしかして、ジュ―ブルの男性は加護があるのか?」
「いいえ。本当に、ジュ―ブルの話はネメスに伝わっていないのか」
「話?」
「加護の伝承の違いです。ジュ―ブルでは男が加護がなくなったのは、男たちへの罰というわけではなく、男たちに加護を与えていた神がいなくなったため、と伝わってる。だから、加護がないだけで同じ人、という考え」
「罪を犯していないから、加護がないだけ、ね」
ネメスで暮らしていたトオルには素直に呑み込める言葉ではなかった。
女性であっても加護がなかったから迫害されてきたのだ。そんな人間からすれば、ここは天国だろう。
男だろうが女だろうが、加護があろうがなかろうが、人の営みを許される世界。
そんなものが、メリド大陸にあるだなんてトオルは考えもしなかった。
「狭いところに囚われていたわけか。世界は広いな」
トオルの呟きにリルは言葉を返さなかったが、代わりに神妙な面持ちで頷いた。
間者としてネメスで暮らしてきたリルには心当たりがあるのだろう。
そうトオルは考えていたが、リルが口にしたのは違う事であった。
「私の母は、ネメスへの使節団の長でした。ネメスでの現状を嘆き、改善しようとしていたらしい」
ジュ―ブルがネメスへ送った使節団は全員帰ってきていない。トオルはすぐにそのことを思いだした。
リルが間者になったのは、母を探すためでもあったのだろう。
が、彼女はこう思っているだろう。母は死んでいる、と。
ネメスという国を見て、ジュ―ブルと間反対の差別的な文化を見て、その可能性を完全に拭えることはないはずだ。
トオルの肩ほどしかない小さな体躯の少女のことを、何も理解していなかった。そんな相手を助けてくれたのだ。
「母の口癖でした。世界は広いって聞いて、久しぶりに思いだせた」
リルは遠い目をして、口元に笑みを作った。トオルはそれを直視できず、田園風景を眺めながら、違うことに気を配る。
目覚めて早々、嫌な予感がしてきた。ずっと背に刺さる視線は気のせいという訳ではなさそうだったからだ。
そちらに集中していると、前方から足音が聞こえてきた。相当な速さだったので、何ごとかと振り向くとマトイだった。
「お姉ちゃん。なんだ、居候もいたの」
マトイは明らかに不機嫌そうな顔になった。
「まあ、いいや。ちょうど、出来上がったんだ。見に来てよ」
「何が出来上がったんだ?」
「服です。私がネメスで買ってきたものの複製。私たちは仕事場を持っていて、そこで作業している」
マトイはトオルの問いに答えようとしなかったので、リルが答えた。
一同はリルたちの仕事場へ黙々と進んでいた。そこへ付いてくる男がいる。初めは偶然かと思っていたが、トオルが家を出てからずっと後ろにいるということは彼女たちを付けていると見て間違いないだろう。視線の主も奴に違いない。
トオルはその事をリルに伝えようとしたが、彼女も気づいているようで曖昧に笑った。
「不快ですよね。でも、避けようがない」
「あんたを助けるために、任務を放って村にネメス人を連れてきたからよ。誑かされたって思うのが普通じゃない?」
「マトイ!」
リルの怒鳴り声にひるまず、マトイは立ち止まってトオルに言葉をぶつけた。
「それだけじゃないわ。お姉ちゃんはあんたを守るために片時も離れなかった。時間もお金もあんたは奪った」
半年間仕事もせず、付きっきりで世話をした。本を出せるほどの献身だ。
その対象が家族でもなく、同郷のものでもなく、母を奪った国の人間と知ればどう思うか。そんなこと、整理せずともわかる。
だからこそ、トオルはマトイを叱ろうとするリルを止めることしかできなかった。
そうこうしている内に、後ろからつけてきた男が近づいてきた。
トオルは身構えるが、リルとマトイは警戒すらしていない。監視ということもあって、知らない仲ではないのだろう。
「リル、ジューブル神がお呼びだ。その女も連れてこい」
「待って」
「本当にどうかしてしまったのか? あれほど信仰深かったお前がジュ―ブル様より、他所の女を取るだなんて」
男の言葉でリルは目を伏せた。口ぶりと態度からしてそれなりに交友があったらしい。
彼もマトイと同じように、トオルを恨めしい目で睨んでいた。
「そうよ、お姉ちゃん。ジュ―ブル様は居候が目覚めるまで待ってくださったじゃない。目覚めたら任務を放棄した罰を受けるってお姉ちゃん、自分で誓ったじゃない。それを反故にしようっていうの?」
リルは反論しなかった。いくらジュ―ブルで男性が尊重されていようと、神に逆らうということの重さはネメスとそう変わらないはずだ。
それでも折れないのは、彼女が自分が罰せられることではなく、トオルのことを考えているからだ。
マトイはそれがわかっているのだろう。付けてきた男を助けるのも、ただ姉に罰を与えたいのではなく、神による罰で目を覚まさせたいのだ。
姉を案じての嘆願を、リルがはねのければ、姉妹の仲に傷をつけてしまう。トオルは咄嗟にそう思った。
「行こう」
トオルがそう言えば、リルの心は元より、神の所に行きたがっていたのだから、彼女は従うしかない。
男に先導され、トオルとリル、そしてマトイは神の元へと向かった。