40話
リルはトオルの問いに答えようとしなかった。言いたくない、と顔で主張している。
何一つわからないトオルはそれでも訊かねばならなかった。
が、その前に情報を整理しようと考えた。寝ているのはベットではなく布団だ。辺りを見渡しても和箪笥や炬燵があり、どう見てもリーリエの屋敷でもスラムでもない。リルが着ている服もよく見れば和服だ。
ネメスで和服や炬燵など見たことがなかった。
それらから、ここはネメスではないのだろう、という結論にトオルはたどり着いた。
だとしたら、どこだ?
外に出て確かめようとしたトオルだったが、立つことはおろか、布団から這い出ることもできなかった。力が全く入らないのだ。
驚いているトオルの精神を笑うように、体は鳴いて栄養を要求した。
「落ち着いてください。説明する。その前にご飯」
そう言って、リルは立ちあがり部屋の奥に去って行った。リルの後ろ姿を見て、銀髪に着物というのは案外映えるな、とトオルは思った。
思うことはできても、考えることはできなかった。栄養が足りていないらしい。
説明してくれる、というので、トオルは目を瞑って待つことにした。
その間、鼻歌は流れず、心地よい包丁とまな板が奏でる音が部屋に響いていた。
菊池トオルであったころ、マンションに住んでいたため、母が朝食の準備をする音はいつも聞こえていた。彼が彼女になるまで。
和風の品々を見たせいかもしれないが、食事が運ばれてくるまで哀愁に囚われていた。
「ご主人様、ご飯です」
そう言ったリルが体を起こすのを手伝ってくれた。ご飯は何だろう、と目を動かしたトオルは顔を叩きたくなった。お盆の上にあるのはどう見ても米だったからだ。メリド大陸に転生してから、米という存在を聞いたこともなかった。
「リル、これは夢か?」
「ご主人様、起きていきなり冗談は止してください。夢じゃない」
そう言って、リルはお盆からお椀を持ち、トオルの眼前におじやを持って来た。梅干しと刻みのりを散らしてある。ますます、夢である説を推したいトオルだったが、その前に米を堪能することにした。夢なら楽しむまでである。近頃は悪夢しか見ていなかった気がするのでその分も。
しかし、手が動かない。話すことはできるが、体はほとんど動かせなかった。これでは、食事もままならない。
そのことをリルは聞かずとも知っているようだった。
「では、お口を開けてください」
リルは小さな口をすぼめて、木製の匙で掬ったおじやに息を吹きかけた。そうすることで、梅干しの香りがトオルの鼻をくすぐり、一瞬のうちに恥も外聞もかなぐり捨て口を開けてしまう。
その様子を見て、リルは微笑んだ。そして、トオルと同じように口を開け、彼女の口に匙を入れ、ゆっくりと上に傾け抜く。
舌へとおじやが乗った途端、トオルは多幸感に包まれた。まだ噛んですらいないというのに、口の中に広がるまろやかな風味、鼻を突き抜ける酸味だけで逝ってしまいそうだった。
幸せすぎて夢から覚めるのに臆してしまうという感覚を経て、トオルはゆっくりおじやを咀嚼した。
「もしかして、不味かったですか? ネメスじゃお米食べないから嫌い?」
泣き声になりながら言うリルを慰めることより、トオルはおじやを堪能することを選んだ。行儀的問題ではなく、欲求の問題で。
口の中から完全におじやが消え去ってから、トオルはリルの方を向いた。
「いや、美味しかった。今まで食べたものの中で一番美味しいよ、リル」
ほら、もっと、とトオルは口を開けた。
十口ほど食べてから、トオルにも恥が湧いてきた。小さい子に世話をされるというのはむず痒いものである。
が、おじやは美味しいし、それ以前に体が栄養を欲しているので、口は開き続ける。普段は表情を抑えようとするリルが、満面の笑みで匙を運んでくるので、満腹でも拒めそうになかったが。
結構な量があったので、完食できるだろうか、とトオルは思ったが、そんなことは問題ではなかった。
問題は恥ずかしさが心地よくなってきたことだ。性癖に羞恥という文字があるのがわかる気がした。
しっかり完食し、邪な気持ちを抱くのはまずいなあ、とトオルは思いつつもリルに口元を拭ってもらっていた。そんな時に物音がした。その方向にリルが声をかける。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま。お姉ちゃん。1人での作業でも私は問題ないけどさ、村のみんなが」
言葉の主は、トオルを見て話すのを止めた。
リルと似た背丈で、髪色は彼女と違い銀ではなく黒だが、可愛らしい目元など似ている部分がある。似てない姉妹ではないので、リルの妹と言われても違和感なく受け入られる。
誰であれ、変な所を見られたことには変わりない。幼女に口を拭かせているなど、白い目で見られても不思議はないのだ。もしや幼女の罵倒もゲットか?
トオルはそのような予想を立てていたが、リルの妹はトオルを睨みつけて身を翻した。
「待って、マトイ」
リルの制止の声も聞かず出て行ってしまう。
「追いかけなくていいのか?」
「よくあることなんです。少ししたら戻ってくる。ご主人様を放っておけない」
「リル、前も言っただろう? ご主人様は止めてくれ」
リルは出会った頃、トオルのことをご主人様、と呼んでいたのだが、文通をする友達で通す以上、違和感があるということで呼称を変えさせていた。いつの間にか忘れてしまっていたらしい。
「わかりました、姉様」
「起きた時はそう呼んでくれてたのに」
トオルが何気なく言うと、リルは顔を真っ赤にした。思いがけない反応だったので好奇心が湧く。
「私は長女なので、兄や姉という存在を欲していたんです。だから、ご主人様のような人を姉と呼べるのは嬉しい」
今度はトオルが赤くなる番だった。可愛らしいはにかみ方をするリルを抱きしめたい衝動があったが、体が動かないので未然に終わる。
しかし、動かそうとはしたので、痛みがしっかり止めてくれた。
もう、止めにしよう。痛みが、そんな風にトオルの肩を叩いた。家族団らんを味わうのはもう終わりらしい。
「さっきのは妹さん?」
「はい、妹のマトイです」
「似ていない姉妹を見たばかりだから、リルとマトイちゃんのような見て姉妹ってわかると安心するよ」
「似ていない姉妹ですか?」
「ああ。ボクが最後に見た覚えがあるのはジョゼット・イノだからな」
マトイの登場でトオルはおぼろげに記憶を取り戻していた。自分がジョゼットに拷問されたこと。その末に、リーリエの元から離れることになったことを。
リルはどうやらそれらのことをトオルに忘れていてほしいようだった。あとで説明する、と言っていたが、トオルが言わなければ、説明しなかっただろう。
その証拠に彼女の顔は悲嘆に暮れていた。
「妹がいるってことは、リルの故郷、ジュ―ブルなんだろう? ここは」
リルはトオルから目を逸らし、ゆっくりと重たそうに首を縦に振った。
「なあ、何があったんだ?」
リルは無言のままでいた。そのわけが、彼女に不都合があるからではなく、トオルのことを憂慮してのことであるのは明らかだった。
だからこそ、トオルも待つ。リルが自分に向ける思いを感謝し尊重する。
「ごしゅ、姉様は危篤状態でした。お気づきかもしれませんが、半年近く眠ってる」
「半年?」
トオルは思わず聞き返してしまったが、リルは真剣な面持ちで頷くだけだった。
「混濁剤と自白剤を併用されたせいです。どちらも使うだけで死に至ることもある劇薬。それを二つも用いて生きているのは奇跡。奇跡なのです」
語尾に近づくにつれ、リルは声を震わせた。最後には、涙を流しながらも律儀に続きを話そうとする。
「このまま、姉様が目覚めないんじゃないか、って毎日毎日思っていました。意識がないので回復の兆しなど見えません。前例がほとんどない状態で治療法もわかりません。不安で、不安で」
いつもの口調を忘れて、リルは涙を流し続けた。それほどまでに自分は思われているのだ、と知ってトオルの胸はなぜか痛んだ。
だが、そんなことはどうでもいい。痛みを追及するよりも、目の前の少女の涙を止める方が重要だった。
「ごめんな。半年もありがとう。治療もそうだけど、リルのおかげで目覚めたんだぜ? 治療以外に何だと思う?」
トオルは抱きしめてやりたかったができないので、問題だけで涙を止めなければならなかったが上手くいった。
リルは喉の痙攣を落ち着けながら考えてくれた。そして、ぽつりと小さく呟いた。
「愛ですか」
「リル、可愛いなあ。こっちにおいで」
リルはトオルの言葉と笑いがどういう意味か戸惑いながらもトオルの胸にそっと顔をあずけた。体重はかけないよう強張っていたが、もたれかかってこられても、トオルでは支えられないので仕方ない。こんな軽い少女なのに、と自分を恨むしかなかった。
「それも正解だけど、鼻歌だよ。それがきっかけだった」
「よかったです。治療も済んで、毎日ご飯をあげ、体をほぐしていましたが、呻いておられたので何とかできないかと」
胸元でおっとりとした幼い甘えた口調でリルが言った。
こうも可愛いと、下手くそだったからと茶化せなくなる。ほとんど泣き止んでくれたので良し、としようとトオルは方針を変えた。
「そういえば、寝ている間、どうやって栄養を取ってたんだ?」
半年も寝たきりなら植物状態と同じである。医療技術の進んだ地球ならまだしも、加護頼みのメリドでどうしたのだろう、という純粋な疑問だった。
リルのために、というのが発した理由の大半を占めてはいたが。
「そこに気づくとは流石です。ネメスでは治癒の加護を持つ者が医者と呼ばれるそうですが、ジューブルは違います。姉様をこっちに運んだのも、ジュ―ブルの方が医療技術が進んでいるからです。我々はすぐに栄養を与える必要があると見抜きました。方法は治癒の加護です」
「国によって違いがあるのか」
「はいです。ですが、姉様が考えている、効果の差はありません。ネメスでもジュ―ブルでも治癒の加護は治せるものにしか効果を発揮しません。加護の授者の力によって、体の病を治そうとする力を活性化させているだけです。授者次第で限度は変わりますが。それよりも、治そうとする力のイメージがないと効果が薄れます。だから、ジュ―ブルでは患者の状態を見抜き、施術者に指示する人が医者と呼ばれます。加護を持っている人が多いですが、そうでない人もいます」
「ネメスでは治癒の加護が使えれば医者だもんな」
「はい。もちろん、ネメスでも加護だけでなく知識もある人はいるはずですが、加護を持つだけで医者になれる以上、総数として少なく。我々では医者を探すので時間がかかるので」
治癒の加護についてトオルはまだ聞き足りなかったが、リルが完全に泣き止み、本題に入る準備ができたので、そちらを優先することにした。
「だからジュ―ブルにってことか。なら、ボクの記憶通り、スラムに捨てられたんだな」
「そうらしいです。その後、私がスラムで見つけ、ステラ姉の助けを借りてこっちに」
「ステラも助けてくれたのか。でも、待ってくれ。その前にどうやってボクを見つけたんだ?」
「バイルでステラ姉に会ってから、一日一回、姉様を見に行っていたのです。本来の目的でしたから。それで、あの日は見当たらず、屋敷で盗み聞きをしていたら出て行った、と聞いて」
リルはトオルから離れて頭を下げた。
「占いが出てから、姉様を守ろうとバイルまで来たのですがお役に立てず――」
「そんなことはない。さっきも言っただろう? リルのおかげだ」
トオルはリルの言葉を遮って言った。
それでもリルは暗い顔をしていた。言葉で解消できるものではない、とトオルは判断した。
彼女は自分の無力さを、半年間呪い続け、自分が悪いと結論付けたのだ。一番悩んでいた問題を、たった一言で解決できるなんて思い上がりはトオルにはなかった。頭も撫でられないような自分では、時間をかけて伝える必要がある、と。
「ご飯を食べたせいか眠くなってきた。大筋はわかったし、続きはまた明日でいいかい」
また明日、とリルは小さく呟いた後、はい、と大きな声で言った。
うっかりいていて、予約掲載の日時を間違えていました。
この話から一話の文字数を増やそうと思っています。読みにくければお声がけください。