37話
トオルは目を覚ました途端、強烈な倦怠感に襲われた。思考を回すことが恐ろしく面倒くさい。そのままもう一度意識を手放そうと無意識のうちに決定した。
が、それも寸での所で思いとどまる。
強烈な違和感、おぞましさが足を伝ってきた。それが何であるか確かめる術がないことにようやく気付く。
目が見えない、手が動かせない、足も動かせない、言葉を発せない。その一つ一つがどうしてかをトオルは順を追って整理していく。目隠しと口枷をつけられ、体は椅子に縛られているようだった。手は後ろに回され、足は椅子の足か何かで固定されている。つまり、最悪の目覚めである。
「目覚めたのね」
声がトオルの耳に届く。ひどく落ち着いた女性の声だった。それが誰のものであるか特定しようとするが、思考は恐怖に支配される。
右足の内側のくるぶしから、ふとももまで何かが這う。触覚のみしか情報を得る手段がないためか、それが暖かいのか冷たいのか、濡れているのか乾いているのか、などがわからなかった。ただそれは不快で、トオルの心を蝕むようにジリジリと上がってくる。今の気候は夏なので熱いはずなのだが震えが止まらなくなる。
汗でぴったりと張り付いたシャツが気持ち悪い。熱風がどうやら素足らしい下半身を撫でて気持ち悪い。こめかみから頬を、顎を伝って落ちる汗が気持ち悪い。自分に触れている何かがたまらなく恐ろしい。
トオルは自分の状況を一つずつ知るたびに、恐怖と嫌悪感が湧いてきた。
どうして俺は縛られている?
これから何をされるんだ?
気がおかしくなりそうだったが、考え方を改める。今について知れる情報は少ない。ならば、ここに至る経緯を思いだそう、と。
「ジョゼットにスラムの案内をしている途中に、気を失ったの、か?」
口枷をつけられているので、言葉にはならないが、トオルの耳はうめき声を心の声で補完して発言の形を保った。
建設的なことを考えられるようになったおかげか、頭はぼんやりとしたままだが、恐怖は収まってくる。犯人はジョゼット狙いの人攫い、もしくは――。
「あら、震えている時は、私が飼いたくなるぐらい可愛げがあったのに、今は嫌な感じね」
傲慢さを隠そうともしない声。それはまさしくジョゼット・イノのものだった。
よほど恨まれていたらしい、とトオルは苦笑した。
「笑うだなんてずいぶん余裕があるのね」
口枷があるので、声も口の形もわからないはずだが、ジョゼットは気配を鋭敏に感じ取ったのだろう。
余計なことをしたか、とトオルは思わず身構えたが、ジョゼットはトオルの胸に優しく触れるだけだった。
「さて、私がどうしてお前にこういう事をしたかわかるかしら」
トオルは言葉を発せない状態なので答えることはできない。そんな人間に話しかけてくるというのは、嫌がらせか、間抜けかのどちらかだ。ジョゼットの人柄から考えて前者しか考えれない。
「この感情を言葉にするのは難しいの。そうね、尊敬、かしら」
ずいぶん歪んだ愛ですね、と言いたいところだが口は口枷でふさがれている。そのせいで口元が涎で汚れてこれも気持ち悪かった。
そんなことに気が回るくらいジョゼットは黙っていた。
「お前のことは本当に尊敬しているのよ。でも、憎んでもいる。そういうことね。だから、私はお前を排除する。シンプルでしょう?」
そう言って、ジョゼットはトオルの口から口枷を外した。トオルは顎や舌を動かし、口枷があった感覚を必死に消そうとするが、古傷のように残ってしまう。
「私ったら肝心なことを話していなかったわ。トオル、お前はリーリエの元から離れなさい。そして、私に仕えなさい」
「シンプルな話ですね、ジョゼット様」
「そうでしょう?」
「単純明快で、浅ましい考えだ。お断りしますよ」
ジョゼットはトオルの胸に置いていた手で、彼女の乳房を思い切り掴んだ。トオルは痛みで呻きながら驚く。攻撃されたことではなく、自分がジョゼットの申し出を断ったことだ。
イノ家の地位であれば、リーリエでもジョゼットでも構わない。そうでなくても、嘘でもいいので、危機を脱するためにも頷くべきだった。ジョゼットが何を仕出かすかわからない人間だという事も知っているのだから。
なのに、とその続きを考える前に殴られ、椅子ごと倒れてしまった。
「この期に及んで減らず口が叩けるとは驚いたわ。やっぱり、そうなのね。私ではダメなのね」
ジョゼットはぶつぶつと呟いてから、トオルの口に再度口枷をつけた。どうやら先ほどつけられていたものと形状が違い、舌が口の外へ出てしまう。
無防備な口の中にジョゼットは何かしらの液体を入れた。全てを吐き出すこともできず、飲み込んでしまう。
「私のものにならないというなら、今ここで遊びつくすまでよ。知っていたかしら、お前の汗は甘露なのよ」
そう言って、ジョゼットは近づいてくる。トオルの肩に髪のようなものがはらりと触れ、耳にが荒い息が届く。そして、ざらりとしたものが首筋を這った。
太ももを這っていたものと全く同じ感触。柔らかくも硬い独特のぬめりのあるもの。それはトオルの体中を舐めまわし、時には吸ったり噛んだりして、甚振るように踊る。
嫌悪感は次第に快感へと変わっていく。そして、脳が蕩けていく。
それらがジョゼットの飲ませた何かのせいである、とトオルは断定した。が、その後は風邪をひいた時のように思考がまとまらず、ただ為されるままであった。
「本当に、私に仕えるつもりはないのね」
「お断りです」
どれだけ頭が回らなくとも、拒絶だけはしっかりと表明していたが。
だが、ジョゼットも諦めないのだった。