36話
トオルはクロが1人になったところで話しかけようとするが、先にクロから話しかけられた。
「リーリエ様に、ジョゼット様のこと話しました?」
「二クルが転んだ件だよな。それなら話してない」
あくまで憶測なのでリーリエはもちろん、ニクルにも話していなかった。だから、彼女らはお茶を零したことで過剰に怒ったとしか思っていない。悪意でのみ構成された事件だとは考えもしないだろう。
「ならよかった。言わないでもらえますか」
「どうして?」
「私はジョゼット様に似てるから気持ちがわかる気がするんです。だから、許しはしませんけど納得してしまって、私も責められないな、と」
被害者のクロが許すなら何も言えない。トオルもこの件を持ち出してどうこうするつもりはなかったし、理由も今一わからなかったが、大人しく頷いておいた。
気を許して裏切られなければいいが。トオルはジョゼットから目を離すつもりはなかった。
が、それも徒労に終わった。
3日経ってもジョゼットの態度は変わらなかった。しかし、リーリエやフィオーレと違って、適度な距離を保っている。主人はリーリエだが、主従関係としては最適の距離だろう。
それにしても、別人かと思う変化だ。リーリエが仲直りと称した虚喝でもしたのでは、と疑ったほどだ。
相変わらずトオルには毒々しいままだが。
クロとニクルはリーリエのことをあくまで主人として接するが、トオルは違う。リーリエの頼みで友として接しているのが許せないのだろう。子供じみた露骨な差として出たが、悪い事をしてくるわけではないので、大人の対応ともいえる。
「この屋敷に来た当初は、イノ家の人間がスラムの人間を使っている事実に怒り、それがフィオーレやリーリエに修正され、馴れ馴れしい俺だけに矛先を向けるようになったってことかな?」
トオルは自室だったので、口に出したものの納得がいかず唸る。何か思い違いをしているような気がした。
が、そうはいっても上手くいっているのも事実だ。ニートが人間関係を言葉に押し込めようとするのが間違っているのかもしれない。説明できない感情や情理というもあるのだ。
そう思うことでジョゼットの件をトオルは保留することにした。
昼食前なので、そろそろクロかニクルがやってくるだろう、と待機していたところにノックされた。
「どうぞ」
「あら、ありがとう」
扉を開けて入ってきたのはジョゼットだった。トオルが驚くのを見て、ジョゼットは笑いながらこう言った。
「トオル、お前にお願いがあるの」
「お願いですか」
「ええ、簡単なことよ。私をスラムに連れて行って欲しいの」
「それならクロとニクルの方が適任かと」
彼女たちであればスラムの地理はばっちりだろうし、ジョゼットの仲も良好だ。トオルは自分がスラム出身であると隠しているので、誘われること自体疑問でしかなかった。
「クロと二クルはか弱いでしょう? いくら故郷とはいえ危険な場所には変わりないし、フィオーレ姉様と打ち合えたお前なら最適だと思って」
「わかりました。何時からになさいますか?」
「昼食後でいいかしら。私、用事があって明後日には帰るの。だから、早めがよくて」
「かしこまりました。昼食後であれば、問題ありませんので、行きましょう」
「それじゃあ、あとでね」
ジョゼットの足音が聞こえなくなってから、トオルは手紙を書き始めた。ステラに明後日以降には暇になるからその時に出かけよう、という内容だ。リルには大人しくしておけよ、と書いて昼食前にクロへ渡して送っておいてもらう。
リーリエとジョゼットと一緒に食事を取り、とりあえずスラムに来たトオルだったが、頭を抱えたい気分だった。
「ハイフに連れてきたのはいいが、どうしたものか」
弱音が小声とはいえ声に出てしまうほどだ。
案内を請け負ったが、どうすればよいのか全く分からなかった。そもそも、スラムは観光名所などない不毛の土地である。どこに案内すればいいのだ。
用がある人間しか訪れない場所だ。スラムに用があるのは、男を買う人ぐらいだろう。それを細かく区分することはできる。雑用としての労力か、遊びとしての玩具か、子を産むための装置として買うかだ。
ネメスでは女性同士で子を宿すには、神の許可が必要である。が、全員がもらえるわけではない。そうした人々が子孫を残す方法が、男性との性交だ。
むしろ、同性で子を宿せなかった世界にいたトオルにとっては、そちらの方が自然だが、ネメスの人々は違う。神に認められなかった鬱憤を、男性への嫌悪を持ったまま性交する。その後、多くの男は子の父になることはなく、金を貰ってスラムに戻ってくるのだ。
が、中には男性との性交を愉しみとして行うものもおり、そうした需要もあるので、雑用は使用人と同じだが、玩具の種類は多岐に渡る。
ジョゼットが案内とだけしか言わないので、どういう目的できたのか推測するしかない。しかし、男と遊びに来たのか、なとど口を滑らせ違う場合、最大限の侮辱となる。容易に質問できることではなかったが、埒が明かないのでトオルは恐る恐る切りだす。
「ジョゼット様、これからどうなさいますか?」
「お前に用があるのよ。確かこちらの方向だったからしら」
ジョゼットが突然大通りから居住区の方の路地に入っていくので、トオルは追いかける。大通りから離れるほど治安は悪くなるので、早く止める必要があった。
「あ、危ないですよ」
何とか肩を掴んだところでトオルは背に衝撃を感じた。痛みが体中を駆け巡り、次に状況を理解しようとするが、意識が途切れてしまった。