26話
バイル学園にも夏季の長期休暇があり、トオルたちはセネカに誘われて、彼女の実家であるローウェル家で剣術の稽古を半月ほど受け、帰宅する道中であった。
ネメスの地区はイリツタ、首都、キンギ、バイルという順に並んでおり、ローウェル家はイリツタにあった。他国であるジューブルとの国境であるため、ネメスにとって重要な場所であり、騎士の家計が多く住んでいる。
トオルのお願いで、首都に寄ることとなった。首都に潜伏しているリルに会うためである。
そのことをリーリエに言っていない。世話になった人への挨拶という用事でトオルは誤魔化した。親がいないということは既に伝えてあるが、スラム出身であることは隠し、母の知り合いで働いていた、という設定で追及を躱している。
なので、リーリエにはシャボンで休憩してもらっていた。
いくら風呂好きとはいえ、半日もいれるわけではない。トオルは急ぎ目的地に向かう。前回、シャリオを追いつめた地下室に相変わらずリルは住んでいた。
「久しぶり」
「久しぶりです、姉様」
狭い空間だというのに、リルはぴょんと跳んでトオルに抱き付く。暗殺者として見せた顔とは真逆の、姿に似合った可愛らしい反応である。
剣術大会が終わってから会うのは初めてだが、リルとは表向きはただの友達として文通していた。理由はもちろん、トオルまでジューブルの内通者だと思われたら面倒だからである。内容も見られても問題ない内容にしておいた。
トオルも初めは関係を切ろうと考えたが、キスによる効果が出すぎて、リルがトオルのために働きたいとうるさかった。連絡を絶てば何を仕出かすかわからないので、文通をしている。
リルの技能を考えれば、利用価値はあるし、そこまで厄介な存在でもなかった。
トオルはリルを天井にぶつからないよう抱いたまま、ベッドに座る。リルの柔らかな頬や細い銀髪を撫でて堪能してから、切り出した。
「仕事の調子はどうだ?」
「順調です。問題ない」
トオルはリルの話し方に笑いそうになる。リルと初めて会った日は、予想だにしていなかった襲撃に頭がいっていて気付かなかったが、ずいぶん特徴的な話し方をしている。
どうやら、一言目はつい幼い声で、二言目はわざと低く話しているようだ。声だけでは確信は持てなかったが、リルの表情を見れば一目瞭然である。
もちもちの頬と同じくらい柔らかな笑みを浮かべた後、トオルと戦っていた時のように感情を窺うことのできない目になる。大人に見られるために、ということだろうか。もしかすると、リルの考える間者は感情が薄い者なのかもしれない。可愛いらしいことには変わりないが。
トオルが顔を出しにきた主目的は、小動物のようなリルに癒されにきたわけでも、彼女との関係を深めるためでもなく、手紙では書けない情報を得るためであった。
もう少し、リルを撫でたかったが、リーリエもいるので長居するわけにもいかず、トオルは本題に入る。
「訊きたいことがあったんだ。ジューブルは本当にネメスに攻めようとしているのか?」
「いいえ、真逆です。ネメスがジュ―ブルに攻めようとしている」
リルの答えにトオルが驚くことはなかった。ネメスに住む人々はジュ―ブルという国に敵意を抱いていたが、国境付近であるイリツタでは侵攻の兆しは見えなかったのである。戦争の準備をしているのは、ネメスの方に見えたほどだ。
間者に余計な情報を話していない可能性はあるが、ジュ―ブルの民意は、ネメスを攻めようとしていない、ということだけは間違いない。
「なら、不穏な情報を得たから、ネメスに潜り込んだということか?」
「はい。元々、我々は現在閉ざされているネメスと交易をするために使節団を出しました。しかし、彼女たちは帰ってこない。もう一度別の使節団を出しましたが、そちらも帰って来なかった。そこで、私のような隠密衆が、秘密裏に、消えた使節団を探す命を受け、ネメスで生活している」
「それで、使節団は見つかったのか」
リルはすぐ答えず、悩んだ末に首を縦に振った。
「見つかったのです。だが、死体で」
「そして、ネメスの国民はジュ―ブルを敵視するよう扇動されていた」
「そうなのです。我々が攻めようとしている、と誰もかれもが口を揃えて言っている」
ジュ―ブルの人々は、ネメスと友好関係を結びたくて行動しているのだから、今のネメスの民の反応には堪えるものがあるのだろう。リルはその小さな体躯に、抱えきれないものを背負わされているのだ。
トオルはやり切れない気持ちになって、リルの頭を撫でていた。
リルは嬉しそうに目を細め、されるがままになっていたが、急に目を見開いた。
「そうだ。ジュ―ブルの民は占いが特技なのですよ」
占ってみましょうか、という言葉はなかったが、リルの態度には出ていた。鼻の穴が大きくなっている。
「へえ、じゃあ占ってくれ」
「光栄です!」
リルはベットから手をついて跳ね降り、机の上に紙を用意し、小太刀を置いて、トオルに手招きした。
2人は机を挟んで向かい合わせになるように座る。
「手を出してください」
トオルが手を出すと、リルは小太刀を鞘から抜いて、トオルの手に刺そうとしたので、引っ込める。
「む、忘れていました。ネメスでは占いが普及してない。だから、知らないのか」
「じゃあ、小太刀で刺す必要があるから出したんだな」
コクコクと頷くリルを見て、トオルは恐る恐る手を彼女にあずける。
リルはトオルの人差し指のつま先を少し切って、紙に血を3滴落した。次が零れぬよう素早く手のひらを上に向け、リルは傷口を小さな舌で舐めた。
独特のヌメヌメとした感触が指を這い、トオルの背に電撃が走った。
リルはそのまま指をくわえず、舌で舐め続けながら、血の落ちた紙に走り書きで何かを書いている。表情は真剣そのもので、鬼気迫るものがあり、トオルは雰囲気に呑まれ、これは当たるのでは、と思った。
「終わりました」
そう言うリルの表情は複雑だった。浮かない顔をしているのだが、何かを我慢するように内股になって身を揺すっている間は赤くなり、それが収まると青くなった。それは交互に訪れ、トオルが声を掛けるまで定まることはなかった。
「辛いのか?」
「はい。あの、はしたないのですが、熱くて」
リルは精一杯机から身を乗り出し、首を伸ばして目を瞑る。トオルはリルの頭頂部からゆっくりと腰まで撫でてから口づけをした。
トオルの血液を直接摂取したから、効果が出てしまったのだろう。
唇と唇をつけただけで、トオルから顔を離す。
「それで、占いの結果はどうだった?」
トオルが尋ねると、リルの顔から赤みが消えうせ、真っ青になった。
「あ、う、姉様、ハッキリ言いますと、最悪です。確実に悪い事が起きてしまいます」
と静かな声だが、確定事項である、とリルは言ってのけた。