2話
ステラが自身の屋敷の門に近づくと、一人の少年が出てきた。
「お帰りなさいませ、ステラ様」
まだ日が昇って間もない時間だというのに、従僕に迎えられる。ステラはこの界隈では有数の権力者であった。
従僕は小汚いトオルのことを訝しんでいるのか、頭を下げたままチラリと視線を送ってくる。それに目ざとく気づいたステラは従僕に言った。
「商品だ。買い手が決まっているが、躾がなってなくてな。高い値で買ってくれるそうだから、粗相のないよう直々に教え込むよ」
従僕は返事をしない。主人の決定に異論を挟んでいるわけではないというスタンスを示すためだ。彼はあくまでステラのものだ。この女尊男卑のメリドでは男性というだけで価値がない。神に見放された加護のない生き物は、人としての扱いを受けられない。スラムで小汚い生活をしている男が大半の中で、従僕はエリートのようなものだった。
「湯あみをしてくる。服だけ用意してくれればいい」
「かしこまりました」
従僕は屋敷に小走りで入り、準備をしに行った。誰の目もなくなった瞬間、ステラはトオルに謝った。
「申し訳ありません。貴方様に失礼な態度を……」
「俺の指示だ。お前はよくやってくれてるよ、ステラ」
トオルがステラの睫毛を撫でてやると、ステラは悦楽の息を洩らす。精神年齢的に子供でないし、菊池トオルであったころも温厚な人物だったので、彼女にも事情があると理解している。
従僕が湯あみの準備が出来た、とステラに伝えに来た。二人は浴室に移動する。
スラムで暮らしているトオルにとって、湯あみというのは特別なことだった。しかし、今日からはそういうわけにはいかないので、ステラに『お願いをして』これから使わせてもらうことになった。
ステラの熱心な奉仕込みの湯あみを終え、学園へ向かっている最中、トオルは気を落ち着けていた。湯あみをするのでさえ、許可がないと自由にできない現状を胸に刻みながら深く呼吸をする。
今のトオルの境遇を、前世はニートという自分にぴったりの転生先だ、と彼は考えていた。怠けていた分、しっぺ返しにあったのだ、と彼がメリド大陸で転生した少女の境遇に対して、そう考えていた。
菊池トオルがメリドで産まれて意識が浮上した時には親がおらず、神からの加護もなく、泥水をすすり、社会の底辺である男に使役されてきた人生を恨まなかった。どれだけ不幸であっても、自分が置かれた現状を嘆かず、ただ前を向いていた。
なぜなら――。
「メリドでは平穏は戦い続けなければ、得ることはできない。娯楽は降ってこない。安全は掴み取るものだから、下を向いていたってどうにもならない」
そうトオルは呟く。声にしては小さく、けれど強く。そして、不適に笑う。
今から成そうとしていることに対して、彼――今は彼女だが――純粋に楽しんでいるのだ。
そうこうしているうちに、狩場が見えてくる。
「さあ、狙うぜ。玉の輿!」
高らかに宣誓し、トオルはバイル学園中等部の門をくぐった。学園に入学するというだけでステータスになる世界ではあるが、彼女にとってそれは目的ではなかった。
トオルが教室に向かっている最中、それまで和やかに談笑していた生徒たちが、皆、廊下の端に寄り、口を紡ぐんだ。
トオルもそれに倣う。
そこを通るのは一人の少女とその従者。
手入れの行き届いた金髪をなびかせて、廊下の真ん中を悠然と歩く少女。同世代ではトップクラスのプロポーションを誇るように胸を張っている。
否、少女にその自覚はない。生まれ持った才を持つものの風格だ。
もちろん、彼女が何者であるかトオルは知っていた。年は15。名はリーリエ・イノ。この世界の支配者側に属する人間。
「リーリエの唇を奪い、心を掌握する」
トオルはこの学園に潜入した目的を暗唱した。
端的に言ってしまえば、リーリエを攻略する。それがトオルの目的であり、彼女がこれから平穏な生活を掴むための道筋だった。
しかし、それはとても難しい。
社会的階級以前の問題があった。
この世界には加護というものが存在する。その有無が人の一生を左右する重要なものだた。
メリド大陸では、加護は女性にしか宿らない。
よって、女性が中心の世界となっていた。男性に価値がないのもそのためである。
そして、加護は遺伝性のものであり、代々強い加護を持つ家はずっと力を持っている。故に、リーリエはトオルよりも社会的地位も武力も比較にならないほど強かった。つまり、力任せに迫ることはまずできない。
柔らかな四肢を持つリーリエを、数百人の屈強な男が襲ったとしたら、負けるのは男の方だ。肉としての力より、神に与えられる超常的能力が世界を左右している。
イノ家は代々神に仕える家柄なので、リーリエの持つ加護は相当のモノだろう。
一方、トオルには加護がなかった。本来、この学園に入学する資格すらない少女である。
だが、トオルの目は爛々と光っていた。諦めなど全く見えない。ただ、獲物であるリーリエが通り過ぎているのを見続けていた。