15話
クロとニクルの救出から5日後、彼女たちはリーリエの屋敷に帰ってきた。
いつも以上にテキパキと仕事をしている。昼食も手の込んだものであった。
休日で学園もないので、そんな彼女らの仕事ぶりをトオルの定位置となった中庭で観察していた。そこにリーリエが近づいてくる。
「や、やあ」
「おはようございます、リーリエ」
足舐めのあとリーリエがよそよそしい。いつも凛々しい彼女が恥じらうだけでも破壊力がある。
トオルはリーリエの人柄を知って、彼女に惹かれつつあった。そこに美しい容姿も加わって、情欲も微かにある。それを今後の生活への不安が抑え込んでいた。
今では、自分に加護がなく神旗も持っていないと告げても、リーリエは見放さないだろう、と思える。それでも、完全に信じ切ることはできなかった。
友である、とリーリエには言ったが、完全にそう思っているわけではない。利用しようという相手なのだ。ただしそう思いたい気持ちもあるので、半々というところだろう。
スラムでの生活がトオルに安易な希望を奪っていた。比較的堅実な道しか選べない。あの地獄に戻ることだけは避けたかった。
なので、トオルは真摯に話してくれた相手に、嘘を誤魔化すため笑みを形作る。同じ気持ちで応えることはできなかった。
「その、夕食前にマッサージしてくれないか?」
「もちろん、喜んで」
「ありがとう。じゃあ、待ってる」
リーリエが去っていく。彼女は屋敷にいても何かしらの勉学に励んでいた。座学から剣術まで幅広い。
トオルはついつい全盛の自分と比較してしまう。中学3年生といえば、テスト前に徹夜し、親の監視が逃れた瞬間、ここぞと娯楽にふけっていた。まさに堕落だ。
イノ家に生まれただけで将来は保障されているのに、鍛錬し続ける。転生する前のトオルであれば輝かしいが故に遠ざけていたが、無駄に年を重ねた結果か純粋に尊敬することができた。
トオルはリーリエを手玉にしようとは思っていない。GIVE&TAKEの関係であるように心がけている。問題は与えるものがほとんどないことだが。
あえてそのことを考えないようにする。
それにしても、ニート時代も、今も、マッサージが活きて大助かりである、などと考えながら目を閉じた。
数分そうしていると、また誰かが近づいてくる。
「姉さま、お茶はいかがですか?」
ポットを持ったニクルがトオルの元にやってきた。この世界のポットは魔法瓶とは違う原理で、中にいれた液体の温度を保っている。
事件の影響もあって、ニクルはかなり甲斐甲斐しい。しかし、それは彼女だけではなかった。
クロも同じようにお菓子を持ってやってきた。彼女らは示し合わせたわけではない。大方、二人ともお茶でも持っていこうと考え、先にニクルが準備をし、そこでクロが柔軟に動いたのだろう。
助けられた感謝からか、クロの警戒が解けたのだ。そこからはニクルと同じ手順で仲良くなったのである。既にキスも済ませた。
もちろん、社会的地位が低いからといって、トオルがクロとニクルに無茶な命令はしていない。これも自発的な行動だった。
ありがたく、クロたちの好意を受け取る。
「クロ、夜に部屋へきてくれる?」
「は、はい」
そうクロに耳打ちし、トオルはニクルたちとティーブレイクを過ごした。
「二人ともご馳走様。それじゃあ、リーリエ様のところに行ってくるよ」
約束通り、リーリエにマッサージをしていたトオルだったが、途中であることに気づいた。リーリエがいつものようにリラックスしていないのである。体が強張っていて、これでは指圧しても効果がない。
が、これは悪い状態ではないようにトオルには思えた。意識されている、と見ていいだろう。
トオルは恋愛初心者である。彼女が男だった頃、現実世界には彼女はいなかった。ただし、ネット上の彼氏はいた。
というのも、トオルは引きこもり時代、ネットで女性を装い男性と恋愛することを愉しんでいた。なので、人を騙すことと恋愛させることには覚えがある。今思えば生産性がなく、道徳的にもよろくないことだ。しかし、過去を悔やんでも意味はない。ましてや別世界のことだ。
メリドにきて、前世でニートになった原因をトオルはこう振り返る。
「勝負から逃げてきたから」
トオルは何度もそう自分に呟き、スラムでの生活に耐えてきた。お前は逃げてきたから、こんな仕打ちを受けているのだ、と納得させたのだ。
引きこもりの主な理由は失敗への恐れだ。それが挑戦する勇気を奪った。人一倍勝負が好きだったためか、敗北に怯え、リスクがなく勝負も体験できる画面越しの騙しあいにはまった。
だが、メリドでは戦わなければ平穏はない。娯楽は降ってこない。だから、トオルは不可能に思えても生を諦めない。
しかしながら、ここにきて前世の経験不足で苦しめられると苛立ちを感じる。
リーリエの反応がキスの作用によるものなのか、トオルを性愛の対象として意識しているのか、ただ嫌っているのか、足を舐められたのが恥ずかしいのか、可能性だけが永遠と浮かびあがって定まらない。
マッサージが雑になったが、固まっていたリーリエは気づかず終了した。そのまま二人で食堂に行き、夕食を済ませた。
その日の夜、言われた通りクロがトオルの部屋にやってきた。二人はベットに腰かけ視線を合わせる。
ニクルとクロはよく似ているが、色んな部分で差異がある。背はニクルが小さく、クロが高い。髪はお互いボブカットだが、ニクルの方がレイヤーカットで動きがあり、クロの方は動きが少なく丸みのある形だ。あとはクロだけが時折、眼鏡をかけている。仕事をしているときはつけていないので、つい最近気づいたことだ。
クロとさらに仲を深めるためにトオルは部屋に呼んだのだが、リーリエのマッサージから治まらない自分への苛立ちのせいで、悪戯心が生じてしまった。
「そういえば、最初のころ、クロはボクに刺々しかったよね?」
意地悪にもトオルはそんなことを訊いた。しばし、クロは口を強く閉じていたが、観念したのかゆっくりと開いた。
「ニクルをとられたと思っていたから」
短い答えであったがそれだけで十分なものだった。クロはリーリエよりも背が高く、どちらかといえば無表情なので、微かな変化しか見せない。
今も、右半分の下唇を上唇で抑えて、視線を僅かに下げているだけだ。だが、トオルにはこの表情が恥ずかしさを表しているとわかっていた。ちなみにもっと恥ずかしことをさせると、泣いたような目をする。
「ごめん、そういうつもりはなかったんだけど、不安にさせちゃったみたいだね。ニクルはいつもクロのことを尊敬しているよ」
「そんなことありませんよ」
クロはより下唇を隠した。
「どういうこと?」
「私は妹に嘘をついているんです」
「よかったら、聞かせてくれないかな。何ができるって訳じゃないけどボクはクロの力になりたいし、できれば君には笑っていてほしい」
クロの手を握り、トオルは言った。それは紛れもない本心であった。心を許してくれた相手に冷たく接するほど、冷徹な人間ではない。尽くしてくれた仕事に対する報酬は払うべきだ。何より、可愛い女の子は楽し気にしていた方が良い。笑顔よりも苦悶の表情の方が好みというほど歪んではいなかった。
「私には加護があります。母もニクルもなかったのに私だけ」
母親が加護無しでも、女性であれば加護を授かる可能性はある。逆に母親が多くの加護を授かっていても、子に渡らない場合も稀にある。貴族の場合、そういった子はスラムに捨てられるか、家の物にされるのが一般的であった。
そういう意味では、クロは恵まれているといえる。なのに、何故それを隠す必要があったのか。
トオルが口には出さないものの抱いた疑問をクロは見抜いていた。
「私が隠していた理由は母にあります。私も初めは自分に加護があるってわからなかったんです。でも、母はニクルと私に加護があると信じていました。いいえ、あれは妄信していた、というべきでしょうか。ともかく、家事手伝いや裁縫などの仕事はしていましたが、外で稼ぎに行くことはありませんでした。弟たちはそんなことはありませんでしたが」
「クロ、ゆっくりでいいよ。はい、水」
常備してある水差しから、水をグラスに注ぎ、トオルは焦って話すクロに渡した。クロは礼を言い、水で唇を湿らせてから話を続けた。
「産まれた時から、加護の使い方が解る子と解らない子がいるっていうのは有名な話ですけど、母もそう思っていたようです。ですが、私たちが12歳になっても加護が使えないままだったことに焦って、私たちに無理やり加護を使わせようとしました」
それだけでトオルは何を言っているかわかった。スラムではよくある話だからだ。自分の子が加護を使えると信じ込んで、虐待に走る親がよくいる。ありとあらゆる甚振り方で、加護を引き出そうとする。そして、虐待された子が加護に目覚めぬまま大人になり、女の子を産んでまた同じことをする。スラムから這い上がるために、加護を持った子を望むしかない、という負の連鎖だ。
「それはエスカレートし、最後には私を包丁で刺そうとしました。ニクルは私と違って愛敬があったので、矛先は私に向きました。腕の薄皮を割かれ、私は泣き叫びました。でも、その声が煩わしかったのか、母の手は止まりませんでした。声も枯れて、このまま死んでしまう、そう思った時、ニクルが私を押しのけて刺されました。母も思いがけないニクルの割り込みで、誤って深く刺してしまい、とても手の施しようがなかった」
「じゃあ、そこでクロが治癒の加護に目覚めたんだ」
「そうです。私は母から逃げるためにニクルを抱いて家から出ました。幸い、母はニクルを刺したことに錯乱していたので、追いかけられることはありませんでした。そんなことに気づかず走り続けたのですが、ニクルを抱きかかえようとしても血がぬるぬるして上手く持てなくて落してしまいました」
クロは差し出された水をごくごく飲み干し、大きく息を吐いた。話すのも辛い。それでも、トオルに伝えようとしてくれている。なら、トオルにできることは黙って聞いてやることしかなかった。
「落したのに、ニクルは痛いとか、そういった声を出しませんでした。代わりに、路上を血で汚していました。私はニクルの肩を揺らし、頬を叩き、神に祈りましたが、ドロドロぬるぬるした血がとめどなく出て、子供ながらにもう終わりなんだな、と思いました。無理やり開けたニクルの目がよく見る死体と同じ濁った色をしていましたから。それでも私はニクルが死ぬのを許せなかった。毎日、笑って私の後ろをついてくる彼女を失いたくなかった。だから、最後の可能性に賭けました。治癒の加護が自分に授かっているという前提で、何度か見たことのある医者の真似事をしたんです。そうしたら、治りました。ええ、今でもあの瞬間の喜びと驚きは忘れられません」
喜び、と言ったが、クロは涙を流していた。今でもこの出来事はクロの心を支配しているのだ。自分ではどうしようもない悪夢は彼女を解放していない。
トオルは思う。恐らく、誰かに話したことがなかったのだろう、と。クロは誰にも打ち明けることができず、悪夢と一人で戦い続けたのだ。一緒に戦ってやるなどと、無責任なことは言えない。だから、怯えている時は隣で優しくクロを抱きしめてやろうと。
早速トオルは実行に移す。嫌がられるかもしれないとは考えたが、そうせずにはいられなかった。
クロは振りほどきはせず、涙を流したまま、続きを話す。
「無事、ニクルを治しましたが、私に加護があると知られてはいけない、と思いました。だって、私に加護があるのがわかれば、双子であるニクルもある、と勘違いすると確信していたからです。一応、分散されていた仕打ちが、一人に集中すればどうなるか無学な私でも想像するのは簡単でした。だから、加護があることを隠して、通りすがりの医者が助けてくれたと嘘をつきました。その後、私は反対を押し切って働きに出ました。素性を隠して、治癒を使ってお金を稼いだのです。だから、母にもニクルにも知られず済みました。これが嘘をついた理由です」
クロの嘘は正しいもののようにトオルには思えた。幼い彼女が下した決断以上の巧い選択がトオルには浮かばなかった。でも、それは慰めにもならない。クロは長年悩み続けて、これは自分の責である、と結論付けたのだ。一番悩んだ人間の答えが簡単に覆るわけがない。
なので、トオルは自分にできることは、クロがどうしたいかを聞き出すことだ、と思っていた。もしくは、どうしたいのか、言葉にできるよう手助けする。
「クロはニクルに申し訳ないと思っているの?」
「そうなのかもしれません。私は今だにあの時の礼を言えてません。ニクルの前で話そうとすると口が嘘みたいに固まるんです。声の出し方がわからなくなって、次第に息の仕方さえもわからなくなるんです。そうすると、どうにかしなくちゃって焦って、私の視界はぐるぐる回るんです。それだけじゃなくて、包丁も握れません。私はきっとあの事件から変わっていないんだと思います。せっかく、助けてくれたのに、何もできない自分が情けない、のかな?」
クロは自分で言ったことが正しいことなのか吟味するように言った。彼女は逃げず、自分の問題を向き合おうとしているのだ。
そういう様を見せられると、トオルは胸が痛む。ああ、どうしてそんなに強いのだ、と憧れてしまう。自分の弱さが浮き彫りになってしまうから、妬ましくなる。
「私は仕事以外で初めて自分の加護のことを打ち明けました。勘付かれているかもしれませんが、リーリエ様にも言っていません。仕事を頂いことを感謝してますが、頼ろうとは思えなかった。自分はこれからずっと、秘密を隠して、ニクルのために生きていくのだと思っていました。でも、トオルさんに救われて、貴方の思いやりを感じて、私は自分が救われたいと。この人ならきっとどうにかしてくれるって思ったんです」
トオルは笑顔で応じるしかなかった。声は出せない。間違いなく嘘がばれてしまう。思いやりだって?
あくまでそれは誤解だ。キスによって増幅された信頼感がもたらした隙だ。俺は君にそこまで何かをしたわけじゃないんだ。クロ、君は虚像を見ているんだ。
口が裂けても言えないことだ。でも、頭にはよぎる。自分に寄せられた情が、虚偽で塗り固められている、とわかっていながら無視できるほどトオルは器用ではない。
何もかもぶちまけて楽になりたい。挫けそうな心をトオルは宥めて、クロにキスをした。
「そうさ。スタートラインに立つためなら、何もかも騙して見せよう」
唇を合わせたまま、トオルはそう己が内で叫ぶ。さあ、スタートだ、と。
トオルが人間らしく生活するための戦いは今始まったばかりだ。