10話
ニクルを陥落させたトオルのキスだが、そこまで使い勝手のいいものではない。
あくまで警戒心を下げ、本心を見えやすくする毒のようなものであり、個人差も存在する。効果を例えるなら、飲酒による昂揚だろう。
トオルに服従するわけではないし、相手の意思を支配するわけでもないので、対象の心を曲げるような命令もできない。個人の好意の延長線上にある事象が、彼女の扱い可能な範囲だ。
詳しく言うなら、トオルへの好意が欠片もなければ、毒は機能すらしない。無理やり好意を植え付ける力ではないのだ。
つまり能力は、対象からの好意を増幅、倍加させることだ。それを繰り返すことで、最終的にトオルへ心を委ねるところまで進むのである。
よって、ある程度好かれていないと始まりもしないし、好意があったとしても、加護を失う恐怖の方が強ければ、キスをして円滑に進むとは限らない。決め手になる、トオルを拒めなくなるだけの土台が必要なのだ。
例外もある。トオルに何の関心もなかったステラがあそこまで罹ったのは危篤状態だったからだろう。もしくは罹りやすい体質だったかだ。
この能力について、取扱説明書があったわけではなく、トオルが自らスラムで行った実験の結果だった。なので、考察が正しい。
スラムで加護のない女性の地位は最も低い。加護がなければ男に腕力では敵わないからだ。
加護のない者は、男性が常日頃溜まっている女性への鬱憤を晴らす捌け口となっていた。クロとニクルはリーリエの屋敷に来なければ、そうなっていた可能性が高い。
そうした男に脅かされている女性たちに優しく接し、トオルから求めれば、簡単にキスぐらいできるわけだ。なぜなら、トオルは加護を持っていると偽っていたので、その宣言は、加護を失ってもいいから、君が欲しい、と言っているのと変わらない行動だからである。
トオルが、リーリエの屋敷に住み始めてから3週間が経った頃から、トオルは家事を手伝い始めた。前世で経験があるため、苦戦することなくこなしていた。
午後の庭の手入れを終え、上半身を塗れたタオルで拭いていると、視線を感じ、トオルは振り返った。
「やあ、クロ。今、庭の方が済んだよ」
「ご苦労様です」
どこかぶっきら棒なクロの言い方だったが、一々、気にするトオルでもなかった。薄々感じていたが、どうやら嫌われているらしい。
最低限の関係を築ければいい、という訳にはいかない。リーリエを攻略するには外堀が重要だった。
「そういえば、この後ニクルとお茶をするんだけど、クロもどうかな?」
「結構です。仕事がありますので」
「なら、手伝おうか?」
「いいえ、それも結構です」
アプローチの仕方が悪いようだ、とトオルは認識した。
「邪魔したみたいでごめんね。それじゃあ」
「そんなことはありませんよ。では」
トオルは笑顔を崩さず話していたが、クロの方は一度も表情を変えず、会釈だけして去って行った。
メリドでも昼食と夕食の間に休憩がある。ティーブレイクと一般的に呼ばれており、紅茶と軽食をつまむ時間になっていた。
用事がなければ、トオルはニクルの仕事を率先して手伝い、彼女とティーブレイクを過ごすようにしていた。そのため、リーリエよりもニクルの方がこの時間を共に過ごしている。
トオルが部屋に戻ると、ニクルが既にお茶の準備をしていた。ドライフルーツが入っているクッキーとトオルの分の紅茶が既にテーブルに置かれており、微かにいい香りがする。
「ありがとう、ニクル。相変わらず手際がいいね」
ニクルはそんなことないですよ、と手と顔を振って否定した。彼女は口よりも、身振り手振りの方をよく使う。咄嗟に言葉が出ないようだった。
彼女は落ち着いてから自分の分の紅茶を入れた。
「さ、冷めますから」
やっと出たニクルの言葉に、トオルは微笑んで頷いた。
二人は対面になるようテーブルに座り、紅茶をすする。
「あの、熱くなかったですか?」
「ちょうどいい加減だよ。ボク好みだ」
そう言って、トオルは紅茶を飲み干した。彼女は前世から、お茶であれ、お酒であれ、グラスに入っていればつい空にしたくなる性分なのである。もちろん、礼節を問われるような場であればそんなことはしない。つまり、トオルは気を許しているのだ。ニクルとのティーブレイクでは素を出していた。
「熱いのが苦手ってトオル姉さま、可愛いですよね」
拳を作って、口元にやり、ニクルはクスクス笑った。彼女の少し茶化すような仕草も珍しくない。それはニクルもトオル同様、気を許しているのだろう。
どちらかが真摯に歩み寄れば、自然と近づき合うのが人間関係である。
ニクルはトオルが猫舌なことを知っていたので、事前に紅茶を入れていたのだ。
「ニクルにそう言われると照れるな」
トオルは親指の付け根を唇に置き、手を広げ頬を隠す。
「でも、これからはボクがニクルの可愛いところを見る番だ。さあ、始めようか」
「お願いします」
座ったまま礼をしたニクル。彼女がテーブルを片付ける前に、トオルが片付けを始める。
「準備はニクルがしたんだし、片付けはボクがするよ。その間に、筆記用具を出しておいて」
「はい。ありがとうございます」
トオルが片付けを終えると、ニクルはやる気十分といった様子で鉛筆を握っていた。
ティーブレイクと仕事の合間に、ニクルは読み書きの勉強を始めたのだ。これはトオルが提案したものではなく、ニクルからお願いされた。読み書きができれば、もっとリーリエ様に尽くせる、とのことである。
この世界の文字は30字だけで、それらの組み合わせで単語や文を構成している。話すことはできるので、いつも話している言葉を文字に置き換えてやればすんなりニクルは覚えていった。どちらかといえば、綺麗に文字を書く事の方が苦戦している。
なので、日常生活でよく使う単語の書き取りをさせていた。
すぐに飽きそうな作業をニクルは真剣に取り組んでいた。彼女は集中していると頭が小刻みに揺れる。それに合わせて、茶髪も揺れ、良い匂いが漂う。置物としても重宝されそうだなあ、などとトオルは思った。
几帳面にも紙の端まで単語で埋め尽くしたニクルは大きく伸びをした。胸部が見事に強調されるが、トオルはそちらよりもだらけたニクルの表情にそそられる。今や女性となった彼女にとって、女性の裸体を見るのは日常だから、ふとした表情や仕草の方が気になるのは自然なことかもしれない。
「お疲れ様、ずいぶん綺麗に書けるようになってきたね。それに速くなってる」
トオルに褒められると、ニクルは顔を真っ赤にした。賛辞に弱い少女である。
そんなニクルが可愛らしくて、トオルは身を乗り出してつい頬にキスをしてしまった。
ニクルは躱しはしなかったものの強張ってしまう。初めてキスをした後、トオルがキスをすることがなかったので、これで2度目になる。元々、緊張しやすいニクルに2度目で慣れろ、というのも難しい話だ。
「ごめん、嫌だったかな?」
椅子に座って俯いているニクルをトオルはしゃがんで下から覗き込む。レイヤーボブに隠れていた可愛らしいニクルの翠色の瞳がトオルを映す。その瞳には怒りはなく、恥ずかしさはあったけれど、懇願の色が一番濃く出ていた。
「口にもしてください」
か細くニクルが言う。トオルは答えず、ニクルの前髪をかきあげて額に口づけし、その後、唇にも口づけした。