牧場
9 原舞子
「それでもあなたのお父さんには変わりがないんじゃないの?」と舞子が訊くと糸屋美波は、目を限界まで開いて、舞子を見つめてきた。けれども目の焦点は合っていない。まるで人形の瞳のように生きていない感じだった。舞子は糸屋美波の眼球になにかが動くのに気がついた。ドアスコープから訪問客を見ているようだ。黒目が魚眼レンズのようになっている。舞子は人の姿を認めた。
あたしじゃなく別の人が写りこんでいる?
舞子は糸屋美波の肩を揺する。意識は失われ伽藍堂になっている。
「ねえなにか言ってよ糸屋さん」
舞子の脳が創り上げる世界を襲う振動が弱くなっていく。糸屋美波は動かず立ったままだった。舞子は振り返って廊下にいる生徒たちを見る。
みんな止まっちゃってる。
電池が切れたみたいに。時間が止まったのではない。この世界にいる人々がなんらかの原因で止まってしまった。電池が切れたのではない。舞子は自分を囲む世界を注視する。廊下の壁や床、窓から見える校庭や教室の中や天井や蛍光灯。立体感が失われている感じがする。それは崩壊の前兆だと感じる。
糸屋美波の体が痙攣する。目に溜まった涙が破裂したように散って流れる。
「糸屋さんどうしたの? 聞こえてる?」舞子は呼びかけながら肩を揺する。涙がこぼれ、一粒が舞子の手に落ちる。涙は温かかった。舞子には目の前の糸屋美波は生きているように思える。
「部屋には鍵のかかった扉と開かない窓があるの」と糸屋美波はまるですきま風のような声でそう言った。
「部屋って糸屋さんの部屋?」
一息置いて糸屋美波はたっぷり時間をかけて頭を振り、だらりと垂れ下がった手が動いた。手になにかが握られていた。舞子は糸屋美波の五指を広げた。フォークだった。銀色で軽く、アルミ製のようだ。使い込まれていて傷だらけだった。
「これがなに? どうしたの?」
糸屋美波の瞳を見た。さっきとは違う人影が動いている。舞子はフォークを見るともうなかった。床にも落ちてはいないし、美波が隠したのでもないようだし、誰かが盗んだわけでもないようだった。
「フォーク」と糸屋美波はつぶやく。
「フォークがほしいの? さっきのはどこにやったの」
「女の子が持っていった」
「女の子? どこの子?」と舞子は訊いたが糸屋美波は答えない。反応がなかった。
舞子は美波の眼球に顔を近づける。舞子はまばたきを止めた。眼球と眼球がぴたりと接してしまいそうなくらいに近づこうとする。鼻がぶつかる。
「ごめん」しかし美波は反応しない。
舞子は左目で美波の左目を覗き込んだ。美波から食べ物の匂いがした。舞子は美波の朝食の匂いだなと思う。美波の瞳に映る人が女の子だと舞子は気がつく。
今、糸屋さんが言った女の子ってこの子のことかな。それにしてもこれはどういうことだろうか。糸屋美波の眼球はつるりとして普通の目玉と変わりがなかった。しかしそこに映るべき舞子の姿はなく、ここにはいない女の子の姿が映りこんでいる。あたしの脳が創る世界だからいろいろな現象とかは無視されて構築されているんだろうけれども、これはいったいなんだ?
「ねえ糸屋さん、この子は誰? どうしてあなたの目に映っちゃってるの?」
糸屋美波は唇を震わせて、口を開けて息を吐き、頭を振る。
「私の知らない子、私のような子、虐げられた子、この子を助けてあげたい」
「虐げられた子? 助けるってこの子はどうかしたの?」
まるでパズルのようだった。完成すれば巨大な絵になるのかもしれないが、一つ一つのピースは小指に乗ってしまいそうなくらいに小さい。舞子はふとこれが完成すればちゃんとした絵になるのだろうか? と疑問を感じた。無関係な断片にすぎないのではないか。この目の前の糸屋美波に関わっている時間は無駄なのではないだろうか、と。
舞子は美波の肩に置いていた手を離した。美波は一度、体を震わせた。また涙が落ちた。
「糸屋さん、どうして泣いてるの?」と舞子は訊いた。
この目の前にいる糸屋美波はあたしのなかの情報でリアルタイムに生成された糸屋美波さんなのだろうか? 時々夢でまったく見覚えのない人が出てくることがあるように、この糸屋美波さんも同じようにランダムなセリフをしゃべっているだけなのだろうか?
「いい匂い」と糸屋美波が口にした。掌に受けたら消えてしまう雪のような声だった。
「母さんが誕生日にくれた香水をちょっとつけてるの。学校にはつけていったらダメって言われてるけど」
あたしはいつも学校に母がくれた香水をちょっとだけつけて登校する。その記憶が目の前にいる糸屋美波を形作っているものにも情報として与えられて「いい匂い」と言っているのだろうか。そうは思えなかった。糸屋美波が本当にあたしの香水の香りを嗅いでそう言っているような気がしてならなかった。端から端までここはあたしの脳が創り上げた世界なのだ。本人があたしの脳に干渉することなどありえない。そう感じるのは現実性が高いからだろう。現実と非現実の境界もなく差異もない。夢の中でこれは夢だと思うことは難しいように、今もそれは難しい。と舞子は考える。しかしやはり目の前にいる糸屋美波は少なくとも、形作られた身体は舞子の脳が生成する実体のない情報の塊かもしれないが、舞子には本物の糸屋美波と繋がっているような気がしてならなかった。舞子は確かめるすべを考えた。
糸屋美波しか知らないことを訊けばいいかもしれないが、答えは糸屋美波しか知らない。
糸屋美波とあたししか知らないことを訊いてもあたしは答えを知っている。
どうすればいい? やっぱりすべて気のせい、目の前にいる糸屋美波さんはあたしの脳が創り上げた精巧な人の形をした幻なの?
「これを」と糸屋美波は言った。きっぱりとした声だった。舞子には些少なズレを感じさせた。空間、時間、距離、いずれかが大きめのTシャツを着たときのような違和感を舞子に知らせていた。
糸屋美波は左の拳を舞子に出してみせる。強く握りしめた指と指の間に血が滲んでいる。
「大丈夫、糸屋さん」
美波は掌を広げた。血が数滴落ちる。血の中に丸くて平たいものがあった。美波はそれをつまみとって舞子に見せた。血が滴り、中央に小さな穴が二つ空いているのがわかった。その穴から糸が出ていた。
「ボタン」と舞子は言った。
「この血は糸屋さんの?」しかしどこからも出血はなさそうだった。「じゃないのね、それじゃいったい誰の血?」
舞子が美波の顔を見、次にまた掌を見ると血もボタンもきれいに消え、黒い点が現れ、みるみるうちに煙があがり、美波の掌が炎に包まれた。舞子は反射的に後退し両手で熱をさえぎろうとした。美波は泣き、舞子は美波の名前を叫んだ。炎は美波の手首から腕に進み、髪と制服に移った。それでも校内は静かだった。いつもより。
「火よ、消えて!」と舞子は叫んだ。ここはあたしの脳が創り上げた世界なんだ、あたしは全能の神なんだ、あたしの命令は絶対なんだ!
「火よ消えるのよ!」鋭い命令は切実な願いに変わる。「消えて!」
「私は牧場にいる」と糸屋美波は全身を炎に包まれながら整然とした声で言う。「私は牧場にいる」
「牧場? どうして牧場にいるの?」
美波は笑みをつくり頭を振った。オレンジ色の炎は美波の笑顔を燃やし、世界中の憤怒が集結したかのような燃え方を見せる。
「どこの牧場?」
美波は頭を振り、
「ここに来ちゃだめ」と言うと、炎が一瞬大きくなり、体が燃え落ちた。
ここはあたの脳が創った世界。でも舞子は心が沈み、悲しくなる。本当の糸屋美波は現実の世界でいつもりように生きているはず、だから悲しむことは少しもない。けれども舞子は泣いた。
水をかけたように炎は消え、美波の燃えカスが小さな山を作っていた。真っ白で砂糖のようにきらきらと輝いていた。
どうして糸屋美波は牧場にいるとあたしに伝えたのだろうか? いや本物の糸屋美波は牧場なんかにはいない、あたしが創った糸屋美波が言ったことは本物の糸屋美波の状況と繋がってはいない。まぜこぜにしちゃいけない。と考えたが舞子は心の奥で引っかかっている。絡みついた糸の一本が激しく引っ張られているような感じだ。それは粘り強く、舞子をどこかに連れていこうとする執拗な意思があった。
現実の世界での糸屋さんは牧場にいるの? ここに来ちゃだめと言った。どうして?
もしかすると現実の糸屋さんと通信機のように繋がっているとか?
あたしの頭の中のいろいろな情報がばらばらにくっついて、さも糸屋さん本人が話しているみたいになっているとか?
舞子は美波の燃えカスの山を見ていた。なにかメッセージがもたらされるような気がした。よく見ると砂糖のような粒子の中からなにか異質なものがちょっこんと見えているのに気がつき、舞子は山を壊した。熱くはなかったが、舞子の体の奥に痛みが走り、言葉を持たぬ子供が訴えるように舞子に痛みを送りつづけた。
山の中から銀色の金槌のようにものが現れた。触ると熱かったが火傷するほどではなかった。舞子はそれを手にした。頭の部分の片面には小さな正四角錐の山が並んでいる。舞子は肉たたきだと気づく。何度か母が豚肉を叩いているのを見た覚えがあった。
どうしてこんなものが出たんだろう?
他の物は一切なかった。意味があるのだろうか? 糸屋美波が肉たたきを持って学校に毎日通っていたのだろうか? それとも彼女が言っていた「牧場」と関係があるのか?
舞子は肉たたきを持って、軽く振ってみた。こんなので殴られたら死んでしまうだろうな、と舞子は思う。
え? そのために? 糸屋美波がプレゼントしてくれたとか? 護身用? まさか。
糸屋美波は廊下で燃えてしまった。けれども舞子はこれが現実だと感じた。校内の誰一人として騒がない風景に不条理さと不気味さはなかったからだ。一人の女の子が学校の廊下で燃えてしまう、教室で雑談する同級生、走りまわったり校庭でサッカーに興じる男子たちと同じ絵のなかに組み込まれたとしてもそれは非現実的な絵面ではなかった。
自分の脳のなかにいるからだろうか?
糸屋美波が燃えてしまい、左足首の痛みはゆっくりとだが鎮まりつつあり、不穏な振動もさっぱりとなくなり、いつもの朝の学校の風景に戻っていた。廊下の床に糸屋美波の燃えカスがある以外には奇妙なところはなさそうだった。
舞子は肉たたきをスカートのポケットにつっこみ、左足首をかばいながら教室に戻った。
「舞子大丈夫?」と誰かが声をかけてくる。舞子は糸屋美波の机の上に彼女の鞄の中身をすべて出した。
「舞子、そんなことしてもいいの?」と誰かが咎める。ここはあたしの世界なんだからなにしたってかまわない。と言いかけてやめる。
教科書、ノート、ペンケース、生理用品、レモンドロップ、手帳、パスケース。舞子は美波の手帳をぱらぱらとめくった。メモが一枚はらりと落ちる。
メモには、
“コダイラ牧場”とその住所が書かれていた。舞子が降りる停留所のいくつか後の停留所で降りれば近い。舞子は手帳をめくり、見開きのカレンダーを見る。“コダイラ牧場”と書かれていた。舞子とバスで会った日だ。左足首の痛みが強くなった。そんなところに牧場がある? と首を傾げながら舞子はメモの住所をもう一度見た。ビルの名前が書かれてある。どうやら四階にその牧場はあるようだ。まさかビルの一室に牛が放し飼いされているわけじゃないだろう。
糸屋美波はここに来ちゃだめと言った。元々舞子はそこに行くつもりなどなかった。今知ったところなのだ。それなのに糸屋美波は来てはいけないと忠告する。どうしてだろうか? あたしもその“コダイラ牧場”に行くことになっているとか? いずれ行くようになるのか。まったく思い当たらない。行きたくもないし、行く必要もない。今まで牧場に行きたいと思ったこともないと思うし、牧場のことを長時間考えたこともない。それなのにどうしてあたしが牧場に行くのだろう? それなのに糸屋美波はどうして来てはだめと言うのだろう?
舞子は糸屋美波がいつも眺めている窓に近づいた。長い朝だな、と思った。いつもならとっくに先生がやってきて朝のホームルームがあって、ちょっとしてから授業が始まるのに。あたしが無意識の力で止めているのかな。窓からはありふれた風景が望める。ビル群があり、右側には雲天の空、左側には晴天の空、校庭には生徒たちが走っている、運動場に描かれた白線、金木犀の木。
舞子はそれらがいつもと違うことに気づく。
あ、全部、真逆になっている。
まるで鏡に写したように反対になっていた。舞子は教室に視線を移す。教室や同級生たちはいつもと同じだ。鏡の中の世界じゃない。けれど窓の外はすべてが逆になっている。
どういうこと?
ここに来てはダメ。の真逆。
ここに来て。
舞子は考える。もしかすると糸屋さんはあたしに来てほしいのだろうか? 来てほしいけれどなんらかの理由で来てはダメとしか言えなかったのだろうか。本心は来てほしいと願っているのだけれど、来てはダメな理由がいくつかあるのかもしれない。フォーク、虐げられた女の子、泣く糸屋さん、血濡れのボタン、アルミの肉たたき、燃える糸屋さん。あたしの足首の痛みも関係あるのか?
舞子は江黒史郎に関して調べないと自分自身を暗闇から抜け出せないと思ったけれど、糸屋美波からの断片的なメッセージに心を奪われた。
こっちの方が重要じゃない? と舞子は自問する。
そんな気がする、と舞子は答える。どうせ授業は始まらないしね。
舞子は美波の手帳にメモを挟みポケットに入れ、レモンドロップを手にとり袋から黄色い粒を一つつまんで口に放り込む。レモンの味が口中に広がる。目を閉じて味わう。現実の世界で食べるレモンドロップよりもおいしいと感じる。
舞子は教室を飛び出す。足首の痛みは無視すればどうってことはなかった。友達が数人「舞子、どこ行くの! 授業始まるよ」と叫ぶけれど無視して廊下を突っ切る。正面から担任の教師が歩いて来る。
「おい原、どこ行くんだ? 授業始まるぞ」
舞子は教師の横を通り抜ける。廊下ですれ違うすべての人が舞子に訊く。
「どこに行くんだ?」
舞子は答えない。舞子は考えなかった。舌でレモンドロップを転がす。甘味と酸味が次々に溶け出す、歯と舌と上顎に小さな塊がぶつかる。嘘で作ったものが口の中で溶かされて脳は本物のように思わせられる。レモンドロップは少しずつ小さくなる。舞子は校庭に出て、校門を目指す。生徒たちの間を縫って走る。足首の痛みは生命のシグナルだった。舞子は気づく。ケガをした覚えはない。とすればそれはあたしの痛みじゃない。
校門を通り過ぎ、バスを目にする。停留所にバスが停車し、舞子はステップに足をかけ飛び乗った。息切れしたけれども歓喜の苦しみだった。
「お客様、飛び乗りは危険ですので」と運転手がマイクで言った。「おやめくださいね」
舞子は一番後ろの席に座り、糸屋美波のメモを広げる。あたしの脳が創っているこの世界でこの住所のところに行ってこのビルだとかこの牧場という部屋とかはあるのだろうか? と疑問に思った。あたしが行ったところは情報があるから生成が可能なのだとすれば、行ったことのない場所に関してはどうなのか。そこだけを空白にするわけにはいかない。これまでも脳はそういった部分を補完しているはずだ。あたしは地面だけを見つめて歩いているわけではないけれども、やたらときょろきょろしながら歩いているわけでもない。それでもすべての景色は存在している。現に今、バスから外を眺めてもぽっかりとなんにもないところはない。あたしが乗っているバスが通りすぎるということは、あたしにとってみれば重要度が低いから、脳が適当に補完してもかまわない。けれども糸屋美波のメモに書かれていた牧場とやらはあたしの脳が勝手に補完すると不都合があるのではないか。正確でなければ意味がないのではないか。あたしの“コダイラ牧場”と糸屋さんの“コダイラ牧場”は同一でないと、彼女が本当の意味を含めてメッセージを発した意味がなくなるのではないだろうか。そもそもここはあたしの脳が創り上げた世界のなかだ。同一になるはずはないじゃないか。バスでどれだけ走ったとしても、メモの場所に行ったとしても“コダイラ牧場”があるわけないじゃないの。
いや。と舞子は頭を振る。
あたしには感じられる。あたしがいくら考えてもすべての辻褄は合わない、と。
あたしはバスに乗っている。口の中でレモンドロップがレモンの味と匂いをさせている。バスはカーヴで揺れる。太陽が雲間からそれ今だ! と陽を射す。足首は痛む。糸屋さんは燃えた。涙を流して。それらが虚像だとしても誰が嘘だと断言するんだ? それはあたしじゃないか、あたしに権限がある。あたしの人生なんだから。
舞子は江黒史郎のパスケースから紙を出して再び目を通した。
私はそれを偶然に発見した。死を願って森の中にはいった。私の望みは迷い力尽きて命を失うことだった。しかし私はそれを見つけてしまった。生きることを余儀なくされた。死は遠ざけられた。私は生きることよりも壮絶で過酷であろうことは想像できなかった。積年の心の苦痛から解放されることしか見えてはいなかったのだ。だが私はそれを見つけた。私には後退して湿った土の上を屍を夢見てさまよう選択肢は残されていたにもかかわらず、私はそれを自らのものとした。私は罪人ではない。私は人の役に立っている。私は忘れない。
バスは舞子がいつも降りる停留所をすぎた。いつもの風景、いつも通る道、街路樹、金木犀。
舞子は江黒史郎の文章を三回読むと、パスケースに戻した。
バスは糸屋美波が降りた停留所に停車した。
舞子は運転手にレモンドロップを一つあげた。
「幸運を祈ります」と運転手は言った。
「ありがとう」
舞子はバスから降りた。足首が痛む。
10 糸屋美波
美波は右手に手錠をかけられた。手錠には細い鎖が繋がっていた。小平進は鎖の一方を握っている。小平進は美波を引っ張った。後ろをついて部屋を出た。真っ直ぐに廊下があり、両方の壁には扉はなかった。美波がいた部屋は突き当たりにあった。小平進は振り返ることなく歩いた。隙だらけだったが美波には攻撃する気持ちは一ミリもなかった。それを小平進は察しているのかもしれないと美波は思った。
不思議と恐怖はなかった。頭がいかれはじめているのでもなさそうだった。
廊下を進むと扉の開け放たれた部屋があった。テーブルと椅子があり、窓にはカーテンがさがり、さっき美波が食べたスープの匂いがした。あの女の子の姿はなかった。テーブルには一人が食事した痕跡しかなかった。焼き立てのロールパンもあった。女の子の持ち物らしきものはなかった。隅に狭い台所があり、鍋とフライパンがあった。壁にはさまざまな料理道具がぶら下がっていた。美波はナイフを捜したが見当たらなかった。小平進は振り返り、美波を見て鼻で笑った。
「逃げられないよ、ここからは」
美波はぎくりとした。
「ここは特殊な場所なんだよ。君が考える範疇には絶対にない場所だよ。だから携帯電話も繋がらなかったんだ」
美波は落ち着いていた。心が休まっている。不思議だった。すべてを見ると決めたからだろう。
「君は不運だった。君が悪いわけじゃない。単に運が悪かっただけだ」
小平進はバスに乗り遅れた人を励ますような感じでそう言った。
「私はここがどこだとしても必ず帰ります」
「帰れないよ」
「帰ります」と美波は小平進を睨みつけた。「あなたを殺してでも」
「俺をどうやって殺すのかはわからないけれど、殺したからって君は帰れない。君は俺が君が帰るのを邪魔していると思っているようだけど」鎖を引きピンと張った。「違う。君を帰れなくしているのはこの俺じゃない」
「あの女の子は?」
「女の子?」小平進は頷く。「あの子も君と同じようにこの牧場に紛れ込んできた。だから仕方なく世話している」
「あの子の体は傷だらけよ、あなたがやっているんでしょ!」
「悪いことをすれば体罰は加えるさ、タダで飯を食わせているんだ」
「ひどい」美波は涙が滲んでくる。でもまた早い、と深呼吸をして止めようとする。
「くだらない話はもういい。こっちに来るんだ」
小平進は鎖を引っ張り美波は転びそうになる。美波はなにか武器になる物はないだろうかと探した。窓の下に道具箱があった。しかし中は見えないし遠い。部屋を抜けて玄関にたどり着く。
「どこに行くの」美波は訊いた。
「牛舎だよ」
小平は鍵を開けた。グラデーションのない闇夜だった。星も月もなかった。風が吹き、美波は体を震わせた。
「牛舎の中は温かくしてる。牛たちも風邪をひくからね。着くまでは辛抱してくれ」
美波は犬のように引っ張られて湿気で柔らかくなった土の上を歩く。石がごろごろと転がっていた。しかし歩きながらしゃがんで拾うのは難しそうだった。
暗闇に明かりが点々していた。牛と思われる獣の臭いと糞尿と発酵臭が漂ってきた。突如目の前に牛舎が現れた。遠くでふくろうが啼いた。小平は立ち止まった。
「驚きのあまり人が死んだという話は聞いたことがあるか」と小平進は言った。
美波はじっと小平進を睨んだままだった。
「うん。俺はここで何人も驚きのあまりに死んでしまった人たちを見てきた。すべて予期せぬことだった」
小平は牛舎の扉のカンヌキを外した。一斉に牛が啼きだした。美波は両耳を押さえた。声がうるさかったのではない。精神の奥底で禁忌の声だと気がついたからだ。
「君は一度、牛を見ただろう? だから他の人たちよりかはショックは小さいと思う」
観音開きの巨大な扉を開きながら、小平進は言う。
「あの女の子は強かったな。心臓も精神も。一言も悲鳴をあげずに失神した。しゃべらないのはここに来る前からなのか、ショックのためなのかがわからない」
牛舎のなかは真っ暗だった。温かく、臭いがひどかった。美波は吐き気がした。
「さて、君の名前は」小平は明かりをつけた。「糸屋だったね」壁に三枚の紙が貼っていた。小平はその紙に指を置いて、「糸屋、糸屋、糸屋」と下にこすりながら下ろした。
この男はなにを探しているのだろう? 美波は首をかしげる。美波は一歩だけ近づいた。紙はリストになっている。どうやら牛の一頭一頭のデータが記しているようだった。それと私となんの関係が? と美波はふと牛舎の壁を見た。五本の爪のついた巨大なフォークがあった。しかし腕を伸ばしても届きはしない。走って取れるだろうか。
「そいつは鎖に繋げている」と小平は美波を見ずに言った。「あった。Dの四十四。こっちだよ」
小平は鎖を引っ張り、奥に進む。両側に牛が顔を突き出してくる。美波は牛を見て、やはり不気味に感じる。牛のようだが、なにかが奇妙だ。牛は横切る小平と美波をじろりと見つめる。木枠に記号の書いたプレートがついていた。
「君はどこでうちのことを知ったんだ?」小平は訊く。
「義理の父がどこかで調べてきた」隠すことはないと美波は思った。「言ってみればって」
「ということは君の意思でここに来たわけじゃないってことだな。さらに不運だったな」
「私は運が悪いなんて一度も思っていない」
「そのうち思うさ」
小平進は立ち止まった。
「こいつか。そう言われたら」と美波を見る。「なるほど」と鎖を引き、美波を近づける。
「牛がなんだって言うのよ」美波は足を踏ん張った。床は濡れていて滑り、転びそうになりながら小平のそばに来てしまった。小平は美波の頭をつかむ。美波は小平の腕を離そうともがく。小平は美波の顔を牛に向けた。プレートには“D-44”とあった。その下に牛がいた。枠からゆっくりと顔をつきだした。
「ほらご対面だ」と小平は言った。
美波は牛の顔を見た。牛は一瞬顔つきが変化し、紫色の舌を引っ込め、気まずい表情をした。美波は息を飲んだ。
「なにか言ってやりなよ、お父さんに」小平進はくすくすと鼻で笑った。
美波は血走った目で正面の牛を凝視した。牛の目が美波を見返す。美波の顔を観察するように目玉を動かす。美波はこの牛が父さんであるはずないと反論できない。声が出ない。
「みなみ」と牛が言った。
「おお、よく覚えていたな」と小平進は拍手した。
牛は涙を流した。美波は牛の形の中に父親の面影を見つける。写真と記憶が融合し、目の前の奇妙な牛から特徴を抽出し、美波はそれを父だと認める。どうしてこんなことに。美波は体を震わせる。
「お父さんとかパパとか呼んであげなよ」小平進は言う。「娘さんがはるばる訪ねてきてくれたんだ、よかったじゃないか、ほら草食うのはちょっと間やめて、我慢しろよ」
美波は小平進にぶつかった。小平は笑いながら美波の体を受け止め、美波の髪をつかんで投げ飛ばした。牛が高く啼く。美波は濡れた床で滑り、柵の柱にぶつかる。
「元気がいいな。せっかく父親と対面したんだ、しんみりとしなよ」
小平進はうずくまる美波の襟を掴んで牛のところまで引きずった。美波は小平を睨みつけた。
「どうして父さんはこんな姿になったの!」
「ここは牧場だ。牧場には牛が必要だ。君のパパは居場所を求めてここにやってきた。そして牛になった。それだけだよ。毎日食う草には困らない。楽園だよ。ほら幸せそうな顔してるだろう? 毎朝俺は一頭ずつブラッシングしてやってんだ。気持よさそうに目を細めるんだ。至福の一時だ、なっ!」と小平は美波の父の牛の頭を叩いて撫でた。
「さてどうする? 一晩ここでパパと過ごすか?」小平は美波に訊く。「つもる話もあるだろう?」
どうして父さんは怒って木の柵を破壊して逃げないのだろう? 牛になってしまったからだろうか? その時、美波の口の中が酸っぱくなり、甘味が広がり、鼻に香りが抜けた。レモンドロップ? 美波は思い出す。鞄に食べかけのレモンドロップがあったことを。学校に持ってきてはいけないけれど美波は教師の目を盗んで口に放りこみ静かに溶かすのだ。それが今、美波の口の中に溢れている。
人影が揺れた。きらりとなにかが反射した。空気を切り裂く音がし、小平進は「え?」とつぶやいた。回転しながらなにかが飛んできて小平進の顔面に刺さり、小平の体は一揺れした。顔面から銀色の柄が飛び出ていた。
「ぐぁ! 痛ぇ痛ぇ痛ぇ!」と小平は金色の柄に触れた。血に濡れて、それは落ちた。肉たたきだった。
「それを拾って!」と声がし、美波は転がっている肉たたきを取り握りしめた。小平は血で両目が開かなかった。
美波は肉たたきを小平進の鼻に叩きつける。ミシ、と音がした。小平は声も出せない。後ずさりし、両手をめちゃくちゃに振り回す。美波は隙をつきもう一撃を顎に食らわせる。小平は口から血を噴きだすと、後ろに倒れた。美波は小平の脛を叩き、額を割った。小平は右目をやっとのことで開いて美波を睨んだ。美波は肉たたきを振り上げ、いつでも正確に振り下ろせるようにかまえた。
「誰だ! 俺を怒らせた野郎は誰だ!」小平は開いた戸に向かって叫んだ。「こっちへきやがれ!」
小平は美波に飛びかかった。美波ははじき飛ばされた。美波の父が牛の声で叫ぶ。小平は美波に馬乗りになり両頬をぶった。
「俺が本気で殴ったら頭蓋骨が割れてしまうからな。割れてしまったら終わりだからな」と血だらけの顔で笑った。「気絶するくらいの力で叩くのがコツだよ」小平は拳を振り上げた。美波はさっきの声が原舞子だと気がつく。お礼を言わなければ、と思い、目を閉じる。
美波はこめかみを殴られ、猛烈な痛みが全身に走った。小平の血が美波に降り注ぐ。美波は手をのばし、小平の服をつかむ。服は湿っていた。血だ、と美波は思う。小平は反対側のこめかみを殴る。美波の目の前が真っ赤になり、痛みが再び走る。美波は小平の服から手が離れた。力が出なかった。手に中になにかがあった。ちぎりとった血だらけのボタンだった。小平はまた拳を上げた。
「さあ聞こえるだろ? まだ俺の声が、だが次で終わりだ、おやすみ」
木が割れる音がした。牛が叫んだ。さらに木がしなり、割れ、裂ける音がした。美波の上に乗っていた小平は牛に突進されそのまま壁に衝突した。美波の顔に藁と土が降りかかった。美波は体を起こした。父である牛が小平を壁に押しつけていた。体中から湯気があがり、それは憤怒と愛情だ。小平は拳で牛の首を殴りつけていた。もはや力は残されてはいなかった。牛は軽々と小平をさらに押しつける。小平は血を吐いた。
「俺を殺しても、ここから出られない、お前らは死ぬまでここにいるんだ」
牛は一鳴きし、最後に小平を押した。小平の体から力が失われ、牛の頭にもたれかかった。
「お父さん」と美波は呼んだ。
牛は振り返った。頭が血だらけになっていた。微かに笑みを浮かべているのがわかった。
美波は開け放たれた戸口を見た。誰もいなかった。風が吹きこみ藁と土埃が舞っていた。
「原さん! 原さん!」
人の気配はなかった。牛が美波に近づいてきた。言葉はなかった。やさしく、昔のように美波を見つめていた。美波は落ちている藁の束で牛に降りかかった血を拭ってあげた。
「ありがとうお父さん」
「みなみ」と牛は言った。口を動かすが他に言葉は出ない。「みなみ」
「お父さんだってわかるだけでいいの。お父さんここで待ってて」
美波は原舞子を探しに行った。どうやって彼女も来たんだろうと考えながら。外には人けはなかった。美波は足元を見た。足跡がいくつかあった。その一つが原舞子のものかどうかはわからない。目を凝らして闇夜を眺める。動くものはない。しかし確かに原舞子の声だった。彼女が肉たたきを投げて助けてくれた。
お父さんのところに戻ろうと振り返ったとき、牛舎内に破裂音が響いて美波は体を強ばらせた。小平進が散弾銃を持っていた。銃口から煙が立ち上っていた。牛が倒れていた。
「お父さん!」
「こっちに来るんだ」と小平進は言った。「お前もパパと天国に行ってもらう。いや牛と人じゃ違うのかな、まぁいいや」小平進はふらふらとしながら向かってきた。銃口が自分に向いていた。恐怖はなかった。父に会えたからかもしれない。原舞子が助けてくれたからかもしれない。
美波はじっと立っていた。
バスに乗ったことも、ここに来たことも後悔はなかった。
小平進は曲がりくねりながら美波に近づく。顔が血だらけだった。美波がボタンを引きちぎったところがはだけていた。
「天国に行けるように祈るんだ、それくらいは許してやろう」
小平は美波の額に狙いを定める。
もしも牛の天国があるのならば私はそっちでもかまわない。私がおいしい牧草を育てて世話をしてあげる。天国の牧草はおいしいのだろうか。おいしいはずだ。美波は額に銃口を感じた。熱く、硬く、煙と火薬と金属の匂いがした。
カチリ、と音がした。
ありがとうお父さん。
ありがとう原さん。
まだ死んじゃだめでしょ、カラマーゾフの兄弟読んでないんだから。
11 原舞子
原舞子はメモを見ながら“コダイラ牧場”の入居するビルを探した。
まるで何度も来たことがあるかのように舞子は真っ直ぐにビルに向かう。足首の痛みが増す。立ち止まらずに雑居ビルの入り口を通り、階段を上り四階にたどり着く。ビルの内部は薄暗い。光が当たっていなくて暗いのではなく、黒い煤のようなものが蜘蛛の巣のようにふわりと貼りついているような暗さだった。
舞子は真鍮製のドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。舞子は扉を開けた。戸は枠に引っかかって音を立てた。
部屋には誰もいなかった。奥にソファとローテーブルがあり、事務机と書棚があった。簡素な事務所だった。壁に一枚のポスターが貼られていた。青々とした牧場に乳牛が三頭、“小平牧場”と文字があり、その下に“心も体もリフレッシュしませんか?”と丸い字で呼びかけていた。
「なにかご用ですか」と男の声がした。舞子から死角になっていた壁に扉があったのだ。一人の男が顔を覗かせていた。
「人を探しているんですが」
「人? お名前は?」男は訊きながら舞子に近づいてきた。
「女性で、私と同じ年なんです」
「あなたと同じ年頃。写真はありますか? 名前は?」
「写真はありません。名前は」言っていいのか迷うがかまわないだろう。ここはあたしの脳が創り上げている世界なのだ。「糸屋美波です」
「君の?」
「いえ、探している人の名前です」
「どうしてここに? 小さくて古いビルだし、わかりにくい場所だ」
「あたしが探している子がここに来るとメモを残していたんです」
「メモ? 見せてくれるかな」
「ここの住所が書かれているくらいで見せるほどでは」
「見せてくれるかな」男は一つ一つの言葉に念を込めるかのように言った。
舞子はメモを男に渡した。男はメモに顔を近づけて匂いを嗅ぎ、鼻で笑い、メモを握りつぶして後ろに投げた。床に落ちる前に丸まったメモは一瞬で燃えた。
舞子は後ずさり、スカートのポケットにつっこんでいる肉たたきを握りしめた。男が舞子のスカートを見た。
「君が手にしている肉たたきは君のものじゃない」
舞子はポケットから抜いた。
「誰のでもかまわないじゃない」
「それはうちのものだよ、小平牧場の備品だ。返してくれないか。いつの間にか台所からなくなっていて探していたんだ。返してくれないとこっちが痛い目にあうからね」と男はまた鼻で笑った。
「全然つまんない」
「そんなので顔面を殴られたらつまらないさ、さぁ返してくれ」
舞子は男の異変に気づく。男はあたしの脳の中の世界に介入してる。証明する方法はひとつだけだ。
「二十秒後、あなたは消える」
「消えないよ、消えない」笑いながら眉を上げて首を振った。「二時間あっても消えない」
舞子は二十秒をカウントする。
「やっぱりね」
「さぁもういいだろう、返してくれないか、そいつを」
「糸屋さんはここに来たの?」
「来たよ」
「どこにいるの? 牧場にいるの?」
「牧場にいる。さぁ返してくれ」
「近づかないで!」舞子は肉たたきを振り上げた。「牧場の場所は?」
「行くつもりなのかい?」
「行くわよ」
「おめでたいな。連れて行ってあげるよ。その前に肉たたきを返してくれ」
どうしてこの男は執拗に肉たたきの返還を求めるんだろう? 肉料理の調理中じゃないだろう? 舞子は眉をひそめる。どこにでも売っているような肉たたきになにがある? これは特別な肉たたきなのだ。返してはいけない。返せば糸屋さんが不利になり、身に危険が迫るのかもしれない。
この男は何者だろう?
「あなたはコダイラ牧場の人?」舞子は訊いた。
「そうだよ、小平進という者だ」
「どうやってあたしの脳が創りあげてる世界に入ってきたの?」
「簡単にいえばこうだ。まず部屋にいるとするよね。次にベランダに出る。防火壁を蹴破り、隣の家のベランダに入る。プロの手口でガラスを音もなく割って鍵を開ける。以上」
「どうしてこの肉たたきを返してほしいの?」
「元々はうちの牧場の物だからだよ。それで十分だろう? それともその肉たたきにまつわる思い出話を語ったら返してくれるかな」
「あたしが訊きたいのは、どうしてこの肉たたきを返してほしいのかってこと。新しい肉たたきじゃダメなのかってこと」舞子は笑みを浮かべる。
男は溜息をついて、腕を腰にやり、頭を振った。
「いいかなお嬢さん。新しい肉たたきじゃだめなんだよ。その肉たたきじゃないとね、どうしてもね」
「この肉たたきがあなたに渡れば糸屋さんが危なくなる」
男は表情を変えずにいた。わざわざ変えずにいるように見えた。
「図星でしょ、ね?」
「はいはい終わりだ終わり」
舞子は近づく男の手を肉たたきで殴りつけた。男の掌が裂けた。男は鼻で笑う。
「遊びじゃなく、あたしは本気だ!」舞子は男に飛びかかり肉たたきを額に叩きつけた。現実的な音と感触がした。気味が悪い、と舞子は思って間もなく空気を割る音がして舞子は男の硬い拳を顔に受け、跳ね飛ばされる。舞子は床に半身を打ちつけた。
「いてて。現実的な痛みだ」とつぶやく。
「そりゃそうだよ、俺は君の脳の中の住人とは違う。現実的な住人なんだ。君は君の肉体の痛みを引き受ける。殴られたらそれ相応の痛みが伴う」
肉たたきをどうすればいいのか? 男を殴っても仕方ない。舞子は考える。
「ところがねお嬢さん、俺はちっとも痛くはない。頭を割られても、血が吹き出してもね」
肉たたきは牧場の物だと男は言った。どうしてこの肉たたきがないとだめなんだろうか? この肉たたきで男を傷めつけることは不可能だ。ここでこの小平という男と戦っても仕方がない。男はあたしを牧場に行かせることはかまわないようだ。しかしその前にどうしても肉たたきが必要。つまりはあたしの肉たたきを持参での牧場行きを阻止したいのかもしれない。
小平は舞子の胸ぐらをつかみ、持ち上げる。舞子は肉たたきを両腕で抱きかかえて隠す。どうやって糸屋さんのいる牧場に行けばいいのか? 男は連れて行くと言った。あたしの実体はよくわからない暗闇にある。それなのに牧場に行けるって本当? 男は嘘をついているのだろうか?
小平は舞子の頬をぶった。腕を解こうとする。舞子は渾身の力で阻止する。
「お前、馬鹿力だな」小平は笑った。
「牧場はどこにあるの?」
「ヒント一。住所はありません」
小平は舞子の髪の毛をつかんで揺さぶる。舞子は痛みをこらえる。
「ヒント二。近いところにあるが、行くのは難しい。さてどうだわかるかな」小平は舞子に顔を近づける。「ん? この匂いは」嫌がる舞子の顔の辺りの匂いを嗅いだ。
舞子は男の体から獣の匂いがするのに気づいた。牛とか豚とかの匂いか?
「お前、あの女と同じ匂いがする」
レモンドロップだ、と舞子は思う。共通する匂いはそれしかなかった。
「あたしをどうやって牧場に連れて行くの?」
「いいか? 答えを教えてやろう、お前はもう牧場にいるんだよ、ここが牧場だ」
小平は拳を舞子に振りあげた。舞子は瞼を閉じた。舞子は全身に小さな痛みを無数に感じた。皮膚に針やナイフでさっと刺されたり切られたりする痛みだ。それは十年以上前の古い痛みだ。それは他人の痛みだ。自分のものじゃない、と舞子は思う。誰かの痛みを代わりに感じている。誰の痛みなんだろう? 一つ一つの痛みはとても小さかったが、損なわれてしまった魂があることを舞子に知らせていた。
「ここで眠らせてやろう」
あのひとを助けてあげて。
声がした。舞子は左手になにかを握っているのに気づいた。触った記憶はまだ新しく、見なくてもなにかわかった。舞子は全力を出して上半身を起こしてそれを小平進の首に突き立てた。小平の拳は舞子の頬を打ったが、力は半減していた。舞子はすかさず肉たたきを小平の脇に打ちつけ、首からフォークを抜いた。血が吹き出し、小平は目を剥いて首を押さえながら立ち上がり、ふらふらと舞子から逃げるように奥に向った。舞子は小平を追いかけ、フォークを首の後ろに刺した。小平は「ぎぎぎ」と声を吐き出して振り返って舞子を捕まえようと手を伸ばす。舞子は小平の手を肉たたきで打った。また「ぎぎぎ」と声を上げながらフォークを抜こうと手を後ろにやるが血で滑って抜けない。首から血は流れ、床に溜りを広げる。小平は頭を振り、壁にもたれる。
「あたしを牧場に案内してくれたらフォークを抜いてあげる」
「どうしてこのフォークがあるんだ」小平は途切れがちに言った。
「知らない」と舞子は言った。「ただ女の子の声が聞こえた」
小平進は蒼白な顔をして心あたりがあると何度も頷いた。
「そうか」と口の中に溜まった血を床に吐き出し、「そいつは牧場で働いてる子だ」
「あんたはその子にひどいことをしてきたんじゃないの?」
小平はゆっくりと頭を振り、鼻で笑い、壁に肩を押しつけながら立とうとした。
「俺がぶたないとあの子は出ていっちまう。出ていっちまうと」小平は力が抜けてまた座り込む。「あの子は死んでしまう。牧場のどこかで」
「なに言ってんのよ、解放してあげればいいでしょ? 牧場から連れてきて」
「俺にはそんな権限はない、しょせん雇われ者だからな」
「雇われでもできるでしょそれくらい」
「君が代わりにやればいいさ」小平は笑うとポケットに手を突っ込んだ。
舞子は肉たたきをかまえた。小平はそれを見て鼻で笑う。
「もうお前を痛めつける気力はないよ」小平はポケットから手を出すと舞子になにかを投げた。
舞子の足元に鍵が転がってきた。
「見ればわかるが、そいつが牧場への鍵だ」
舞子は拾った。
「忠告しておくが、行きは簡単だが帰りは困難だ」
「言われなくてもそんな気はしてた。それで扉はどこにあるの?」
小平の顔は青くなり、血も流れてはいなかった。静かに息を引きとった。小平の死体から青い炎が体のあちこちからボッボッと音を立てて上がり、すべてを焼き尽くすまでに時間はかからなかった。小平の死体の跡にはなにも残らなかった。死んだのか、消えたのかも釈然としなかった。
牧場への扉はこの部屋の中にある、と舞子は思ったが、入り口の扉と隣室の扉しかなかった。コインロッカーの鍵ではないし、と舞子は部屋を見渡した。事務机の上に手提げ金庫があった。舞子は試しに鍵を鍵穴にさした。入らない。違うか。書棚の下段に観音開きの扉があった。舞子は鍵穴に鍵をさした。入ったけれども回らない。いったいどこの鍵よ! 落ち着いてよく探すのよ舞子、はい。
舞子は自分が入ってきた扉を見た。真鍮製のドアノブを回して扉をしっかりと閉じた。鍵を鍵穴に近づける。糸屋さんきっと助けるから。舞子は鍵を押しこみ、回した。
「回った!」
鍵がカチと音を立てた。舞子は扉を開けた。そこは紛れもなく自分が歩いてきた廊下だった。
「違うか。回ったんだけどな」と舞子は鍵をじっと見た。ピタリと合致している。舞子は廊下に出た。天井を見上げ、暗い廊下の先を見た。床はよく磨かれた石が張っていて、しんとして空気が冷たい。人けはなく、風は止まっている。舞子は扉を閉じた。スリガラス越しに中を見る。鍵を鍵穴に差し込み、施錠した。気のせいか、たまたまか、冷たい風が扉の隙間から舞子に吹きつけた。舞子は鍵を回し、解錠する。真鍮製のドアノブに自分の歪んだ影が写っている。スリガラスを見る。真っ暗になっていた。誰かが明かりを消したのだろうか? いや、誰もいなかった。鍵を抜き、舞子はドアノブをつかんだ。冬に一晩晒したくらいに冷たくなっていた。舞子は扉を開けた。体を冷たい空気が包みこみ、舞子は息を飲む。部屋はなかった。真っ暗だったがそこは部屋ではなくなっていた。足を踏み入れる。凍ったように冷たい土の感触だった。遠くが音がした。舞子はつぶやく。
「牛の声だ」
12 糸屋美波
まだ死んじゃだめでしょ、カラマーゾフの兄弟読んでないんだから。
美波に再びその声が聞こえ目を開けると、小平進と目が合った。美波は銃口を両手でつかみ、腕を真っ直ぐに伸ばした。銃は発射されない。小平進は何度もトリガーを引く。美波はそのまま小平進に突進した。私はまだまだ死にたくない。小平進は倒れて背中を床に打ちつけ、血と息を同時に吐いた。小平は銃を振って美波を放そうとする。くそぉ、と小平は叫ぶと美波を膝で蹴り上げた。美波は腰を蹴られて飛ばされて尻を打った。小平は寝たまま銃を確認している。美波は肉たたきを探す。見つからない。床に敷かれた大量の藁に埋もれたのかもしれない。美波は藁を掻き分けて肉たたきを探す。ない、ない、ない。手元が影になった。美波は振り返る。小平進が散弾銃の銃口を握り、振り上げていた。
「銃は撃つばかりじゃなく、殴っても攻撃力はある。鉄と硬い木だからな」と小平は言って振りおろした。風を切り、美波は目を閉じて無駄な抵抗として両腕で顔をかばった。
ガッ、と音が響いた。美波はどこにも痛みはなかった。目を開けると美波を誰かが跨いでいるのを見上げた。逆光で誰かがわからない。両手を高く掲げて振り下ろされた散弾銃を受けていた。
「何度殺したらあんたは死ぬのよ」と声がした。「小平進!」
原舞子の声だった。
「誰だお前は?」
美波は舞子の両脚の間から這い出した。小平はまた散弾銃を振り上げようとし、舞子は手から肉たたきを落として銃把をつかみ、トリガーに指を入れた。
「残念だが銃は壊れてる」小平進は鼻で笑う。「撃ってみるかお嬢さん」
「引き金を引けばいいのね?」
「ああ」と小平進は銃口を目の間につけた。「それに弾は装填していない」
「やってみる」舞子はトリガーを引いた。乾いた発射音が牛舎に響いた。
小平進の顔面が吹っ飛び、牛たちが啼いた。ゆっくりと小平進は後ろに倒れた。牛たちが騒ぐ。
「原さん!」美波が近づく。
「糸屋さん大丈夫?」
「うん」美波は舞子に抱きつき体温を感じる。「どうして?」
「どれについて?」と舞子は訊く。「その前に、あたしと友達になってくれる?」
美波は泣きながら何度も頷く。
「さあ糸屋さん帰ろ」
「美波でいいよ」
「うんじゃあ、美波。どうやれば帰れるのか知ってる?」
「え? 私も知らない、原さん知らないの?」
「ああ、あたしも舞子でいいよ」
「わかった。舞子は知らないの?」
「あいつが帰るのは難しいって言ってた」
小平進は屍になっていた。
「私もそういうふうに聞いた」
「困ったな」
牛舎の出入口で物音がし、美波と舞子は「きゃ!」と抱き合いながら叫んだ。
そこには女の子が立っていた。
「驚いた」と美波と舞子はほっとした。
「あなたも一緒に帰ろう」と美波は女の子に言った。
「はじめまして」と舞子。「あなたは帰り方って知ってる?」
女の子はポケットから折りたたんだ紙を出して渡した。
それは手描きの地図だった。
中央に“ぼくじょう”があり、東に“たに”があり西に“かれえだのもり”、南に“もりとぬま”があり、北に“あかいばすてい”があった。
「バス停ってバスは来るの?」と美波は訊いた。
女の子は首を傾げた。
「行ったことはあるの?」舞子が訊いた。
女の子は申し訳なさそうに頭を振った。
「小平進が話したとか?」
さやかは頷いた。
「美波はバスが通ってると思う?」
「信じられない。だってここに来るのにバスどころか自転車とか電車も使ってないのよ。バスに乗って帰るなんて考えられないな」
「あたしもそう思う。ねぇ」と女の子に訊く。「それでどこを通って行けばあたしたちは帰れるのかな」
女の子は首を傾げる。
「この子は知らないんだよ。とにかく朝まで待って日が昇ったらバス停に行ってみよう」
「一晩ここで過ごすの?」と美波は怯えた表情になる。
「こんな真夜中にバスは走ってないし、あいつはもう死んでる」と舞子は言った。
「確かに」美波は小平進の屍を確認する。「ここがどこだかはわからないけれど、死は存在するのね」
「少なくとも天国でも地獄でもない」舞子は笑った。「恐ろしい場所じゃない」
「ここはいったいどこ?」
美波と舞子は顔を見合わせて頭を振った。女の子も同じく頭を振った。
「家があるから調べましょうよ」と美波は提案する。
美波は父である牛を土に埋めてあげたいと言った。
しかし雄牛を運ぶには車や重機がいる。とてもじゃないが自分たちでそれはできない。美波は残念がった。
「でも牛舎に寝かせておくわけにはいかない」
「そうね」
三人は牛舎の中にある藁を集めて美波の父である牛に覆った。
「誰かが来ればちゃんと埋めてくれるはず」
三人は藁の小山に手を合わせた。
家に入り体を温めると、ここがどこなのか、住所を調べた。書類はほとんどなかったし、あったとしても“コダイラ牧場”としか書かれていなかった。電話もなかった。かける相手のリストもなかった。
まるで孤島のように。
美波と舞子は目が合うと頭を振った。
「ここはいったいどこなの?」と美波は言った。苛立たしげにテーブルを殴る。牛たちが啼いていた。
舞子は椅子に腰掛け、
「あたしの話を聞いてくれる?」
と言った。
女の子が三人分の紅茶を淹れてくれた。舞子は美波とバスで別れてからここに辿りつくまでをすべて話した。
「信じられないかもしれないけど」と舞子は付け加えた。
「ううん、私は信じる」と舞子の手を握った。「だって私も同じように奇妙なんだから」
美波も舞子とバスで別れてからのことを話した。
舞子は美波の手を握った。
「もしかして」舞子は女の子を見る。「あなたも同じようにここに来てしまったのかな?」
女の子は二人をじっくりと見てから頷いた。
「そう」美波は言った。「そういえば、あなたの名前はなんていうの?」
「ほんとだ、聞くの忘れてたね」
女の子は黙っていた。周りをきょろきょろと見て、立ち上がり、ジーパンのホックを外し、パンツを覗かせて指をさした。
美波と舞子は顔を見合わせてから女の子が示す指の先を見た。パンツは糸がほつれ、古かった。
「さやか」と舞子が言った。
パンツのゴムの部分にかすれて消えそうな文字が書かれていた。
「さやかちゃんか」
さやかは初めてにっこりと笑い服を直し椅子に座った。
「さやかちゃんはここがどこがかわからないんだよね」舞子は訊く。「この牧場から出たこともない?」
さやかは頷く。
「そうか。とにかく明日になってからバス停に行ってみようよ」舞子は言った。
「バスが来なかったら?」
「その時に考えるしかないよ」
残っていたスープを温め、ロールパンを食べた。紅茶に温めたミルクを注ぎ入れ、はちみつを入れた。
三人は黙って食事した。
「今気がついたんだけど」と舞子が言った。「はちみつはビン入り。ミルクもビン入り。紅茶もビンに入ってる」
「それがどうかした?」と美波は訊く。体が疲れ、頭がまわらなかった。
「冷蔵庫の中を見て」
舞子は立ち上がって冷蔵庫を開ける。美波は上半身を伸ばして冷蔵庫の中を覗く。
「野菜にお肉に卵。それがどうかした?」
「一つとしてラベルのあるものはないのよ」
「ラベル?」
「わからない? ラベルがないってことは製品じゃないってことだよ」
「はちみつは近所に養蜂所があって分けてもらったり、考えたくないけどミルクは牛舎に牛がたくさんいるし、卵だって鶏がいるんだろうし、紅茶だって」美波は肩をすくめる。「どこかで分けてもらったり。舞子ははなにに引っかかってるの?」
「あたしの推測なんだけど」舞子ははちみつのビンをテーブルの真ん中に置いた。「この牧場は陸の孤島、あるいは単なる孤島」
さやかは目を伏せ、美波はそれを見ていた。
「ほんとうなの?」
さやかは沈黙で答えているようだった。
「あたしはこの牧場がある場所ってすごく遠いところだと思ってたんだけど」と舞子は言って、紅茶を飲んだ。「お腹に食べ物を入れながら冷静に考えてみた」
美波は舞子をじっと見た。
「二人にはあたしの姿は見えているし、あたしも二人が見える。牛舎で死んだあの男も見えてたし、あの男にもあたしが見えていた。あたしはここにいる」
「いるよ、確かに」美波は舞子の手に手を重ねた。さやかも体を伸ばして同じように重ねた。
「ありがとう。でもあたしはまだあの暗闇にいる気がするんだ」舞子は笑った。「それじゃここにいるあたしはなんなのか? それはわからないけれど、二人が実体をもっているんだとすれば、あたしはコピーみたいなものかなと思うの」
「どうして? こうやってしゃべってるし、ロールパンも食べたし、温かいじゃないの」
「そんな気がするだけ。だってあたしはあの暗闇から抜けだした覚えがないんだから」
「でも舞子はここにいる、いつの間にか抜けだしたんだよ、きっとそうだよ」
さやかも頷く。
「そうかも。あたし疲れてて興奮してて考えすぎてんのかもね」
三人でレモンドロップを舐めた。さやかは酸っぱくて顔をしかめて笑った。
美波は舞子の話を否定したけれど、舞子の言うとおりかもしれないと思った。気のせいだと思いたかった。命を救ってくれたし、友達になったのだ。目の前の舞子がまだ暗闇にいるとは思いたくなかった。
「三人で」と美波は言った。「ここを出て行こうよ、ね?」
「あたしは美波とさやかちゃんを助けに来たの」
「舞子も一緒に帰るって約束してよ」と美波は泣いた。
「あたしあんまり嘘つくのだめなんだ」と笑う。
その時、外でなにかが壊れる音が響いた。三人は椅子から浮くくらいにびくりとさせて驚き、姿勢を低くした。
「なに?」と舞子は言った。
「牛舎の方かな、まさか」
三人は顔を近づけた。三人の恐ろしい想像は一致していた。
舞子は散弾銃に弾を込めた。
美波は四本の巨大な爪のフォークを持った。
さやかは台所から包丁を持ち出したが、舞子と美波は頭を振った。
「さやかちゃんはここにいるのよ」
さやかは怖い顔をして拒否する。
「たくましい子だ」と美波は笑う。「それじゃあ私と舞子の後ろについてくるのよ。包丁はなし。あぶないからね」
「いつでも逃げられるようにしてて」と舞子。
舞子は扉を開けた。冷たい風が吹いてきた。人影はなかった。舞子は散弾銃をかまえて歩き出した。美波もフォークをまるでサイの角のように前に突き出して歩く。一歩一歩牛舎に近づいた。周りに神経を配り、慎重に音を立てないように歩く。
牛舎の観音開きの扉に舞子は耳をつけて中の様子を窺い、美波とさやかになんの音もしないと頭を振って知らせる。美波は扉の隙間を指差し、中を覗く。視界は狭く、暗かった。目が慣れて通路が見えた。動きはなかった。
後ろに下がり円になり、
「さんにーいちで開けて」と舞子は言った。
「どうするの?」と美波。
「あいつが生き返っていたら、撃つ、何度でも」
三人は手を握り合った。
戸の真ん中に舞子は立ち、散弾銃を構えた。右に美波、左にさやかが両手を戸にかけて頷く。
舞子が小声でカウントする。
「さん」撃鉄を起こす。「にぃ」トリガーに指を置く。「いち」戸が勢いよく開き、舞子は正面に人が立っているのを確認した。外からのほのかな光で人だとわかる。
「動くな!」
舞子は叫んだ。さやかも美波も恐怖のあまり中を見ることができなかった。
「動くとぶっ放す!」
「待って待って撃たないでくれ! 怪しいもんじゃない!」
「動かないで!」
美波はその男の声は小平進ではないことがわかった。さやかも同じように感じたのだろう、美波を見ていた。
「外は寒くってしかたがない、だからここでしのいでたんだ、すまない」
「誰? 誰なの?」舞子はいつでもトリガーを引けるように気を抜かずにいた。
「名乗るほどのもんじゃないよ」
舞子は銃を少し持ち上げた。銃がカチャと鳴った。
「待て待て待て!」男は動揺し、うろたえていた。「名乗る、俺は江黒史郎ってものだ」
「え!」と舞子は叫んだ。「待って! あたしには今、えぐろしろうって聞こえたんだけど!」
「そうだよそれが俺の名前だ、だからそう聞こえたんだろう」
舞子は銃を下ろし、牛舎の明かりをつけた。何頭かの牛が啼いた。
「どういうこと?」舞子はつぶやく。
男は三十くらいだった。トレンチコートと靴は泥だらけだった。荷物はなく、震えて、両腕を上げていた。
「もう下ろしてもいいわよ」舞子は言った。
美波とさやかも牛舎に入ってきた。美波はフォークを男に向けていた。
「舞子、誰?」
「江黒史郎」
「知ってる人?」
「そうかもしれない」
江黒史郎は温かいミルクを飲んだ。
「うまい、こんなにうまい牛乳ははじめてだ」
「どうやってここに来たの?」舞子は訊く。
江黒史郎はマグカップ置いて、しばらくそれを見ていた。
「死のうと考えて森にはいった」と言った。「まる一日、森のなかをさまよった」
「理由はなに?」と美波は訊いた。
「君たちからすればつまらないことだよ」
「借金? 失恋? 病気?」と美波。
江黒史郎は三人を順に見た。
「全部だよ」と言うと笑顔になり、「プラス、自分」とミルクを飲み干した。
「それで森に?」と舞子は訊いた。
「そう、いつの間にか森を抜けていて急激に寒くなってきた。草原に出て、牛舎を見つけた。そのままそのへんに寝転んでいれば死ねたのに、寒くてがたがた震えたら死ぬよりも体を温めたいと思った、笑っちゃうよね」
誰一人笑わなかった。
「残念だ、死ねたのに」と江黒史郎はつぶやいた。
「たぶん」美波は言う。「心の奥底では死にたくなかったのよ。お金はいつか全部返せるし、新しい恋人とも出会えるだろうし、病気もそのうち奇跡がおきて治っちゃうし、自分も生まれ変わることができるって知っているのよ」
「知っている、か」と江黒史郎はつぶやいた。「そうかもしれないな。生きていれば大嫌いだった牛乳もうまいと感じられたし」
「牛乳嫌いだったの?」と舞子は訊く。
「給食の牛乳は毎日隣の席の子にあげてた、先生に見つからないようにね」
四人は笑った。
「温かい」と江黒史郎は言った。
「あたしのこと知ってる?」と舞子は訊いた。「原舞子、あたしの名前」
「原舞子さん。知らないな。どうして俺が君のことを知っているって思うの」
舞子は黙っていた。
「江黒さん」美波は言った。「舞子のこと、本当に知らない? 会ったことない?」
「原さんに会ったのも初めて、猟銃を向けられたのも初めてだよ。神に誓うよ」
江黒はなにも言わない三人の顔を見た。
「いや神様なんてのは信じていないけど、もしもいるのならね」と付け加えた。
舞子はテーブルに顔を伏せた。三人は舞子の発言を待った。
「同姓同名なのかもしれない」と舞子は言った。「あんまり多くはなさそうな名前だけど。それにあたしの知っている江黒史郎はもっと歳がいってるし、声も違う気がする、それに」
舞子は言い渋る。紅茶を飲み、窓の外を見る。
「それに、なに?」美波が訊いた。
「奇妙な能力を持ってる」
「どんな能力だろう?」と江黒史郎は身を乗り出す。「俺の奇妙な能力といえば舌で鼻の先っぽを舐めることができるくらいだな」
「なにそれ牛みたい」と美波は笑い、さやかもくすくすと笑った。
「奇妙だけど」江黒は言った。「能力ってほどのもんじゃないな、ただ舌が長いだけ。牛みたいか。ここはいいところだな。静かで牛がいて。で、奇妙な能力ってなに?」
「ううん」舞子は笑顔で頭を振る。「いいの」
「ところで君たち以外に大人はいないようだけど?」江黒史郎は訊いた。
「うん、まあ」美波は曖昧に答える。「私たちもあなたと同じく迷いこんできたの、この牧場に。住んでるわけじゃない」
「牛舎に入り込んでからどうもおかしな場所だなって感じてんだ。どこがどう違うのかって訊かれても詳しく答えられないけど。ここにいる牛たちもどうも変だと思った。俺は牛を飼ったことなんてないから本物の牛なんて知らないのと同じだけど」江黒は頭を振る。「なにかがおかしい。いや牛に失礼かもしれないけど」
「あたしたちは明日ここから出て行くの」と舞子は言った。
「三人とも?」
「そう。三人とも」と美波が言うと、さやかはテーブルを強くノックした。
「さやかちゃんどうしたの?」舞子が訊いた。
さやかは頭を振り、テーブルを指さした。
「こんなこと訊くのは失礼かもしれないけど」江黒史郎は言った。「この子はしゃべれないの?」
「たぶんそう」と美波が答えた。「きっとここでひどいめにあったからだと思う」
「さやかちゃん」舞子が訊く。「もしかしてここに残りたいの?」
さやかは頷いた。
「どうして? もうあいつはいないのよ」美波は言った。「お父さんとお母さんのところに帰りたくないの?」
さやかは壁を指さし、三人は振り返った。壁にはなにもなかった。
「え? なにもない」と江黒史郎は言った。
「もしかして牛舎?」と舞子が訊く。
さやかは頷いた。
「牛が心配なの?」美波が言った。「あいつはさやかちゃんにここの仕事をさせたから牛に愛情があるんだよ。そうでしょ?」
さやかは椅子から下りると壁に貼った紙を取ってテーブルに置いた。それは牛のリストだった。番号と名前が書かれていた。さやかは椅子に座り、リストに指を置いた。
「お気に入りの牛がいるのかな」と江黒史郎が言った。
さやかは怒ったような顔を江黒に向けて頭を速く振った。
「ごめんごめん、違うんだな、なんだろう?」
「あなたは知らないだろうけど」と美波は言った。「ここの牛たちは元々は人間だったの。信じられないかもしれないけど」
「元々人間? まさか」と牛舎のある方角の壁をじっと見た。「そうか。俺がいだいた違和感ってのはそれのことなのか」
「さやかちゃん」と美波が訊く。「もしかすると、その牛はお父さん?」
さやかは笑みを浮かべて頷いた。
「でもここにいるわけにはいかないよ」美波は言う。「ここはたぶん、普通の場所じゃなさそうだし、さやかちゃんはまだ小さいし、一人で残すわけにはいかない、帰ろう? ね?」
さやかは何度も頭を振り、指でリストの牛全頭を囲むように輪を描いた。
「お父さん牛だけじゃなく」と江黒史郎がさやかの代わりに言う。「みんな好きだからここにいる」
「無理だよ無理」と舞子が言う。「一人じゃ無理だよ」
「よし、こうしよう」江黒史郎が腕を組んだ。「俺も残ろう」
「あなたが?」美波は言った。
「女子高生二人は帰りたい。この子はお父さんと残りたい。俺は行くあてがないし、力もある、牛を育てたことはないが牛の群れのなかにいたらとても癒された。牛乳も好きになった。どうだろう?」
「どうだろうって言われても」と美波。「まぁね、あいつと比べて変態っぽくないし、悪そうな人には見えないけど。舞子はどう思う?」
舞子は黙ったまま江黒史郎を観察していた。
「さやかちゃんはどう思う?」と舞子訊いた。
さやかは頷いた。
「いいの?」美波は訊く。「このおじさんと二人きりになっても?」
「おじさんはないよ」江黒史郎は笑う。
舞子と美波は江黒を睨む。
「すまんすまんおじさんでいい、おじさんだし」
「やっぱり帰らない?」美波は言う。「お父さんたちは放せば自由に生きていけるし、あなたは現実の世界に戻らないと。学校にも通わなきゃいけないし」
美波は説得しながらさやかの決意の固さを感じた。この子はもうこの場所の人間になってしまっている。
「さやかちゃん」舞子は言った。「一晩考えてくれる? とても大事なことだから」
「俺は?」
「あなたは好きにして」と美波は立った。「大人なんだから。お湯沸かすわ」
「ああ俺がやる。少しでもここに慣れたいからね」
江黒は立って台所に行った。さやかも立ち上がり江黒にいろいろと指示をする。
「けっこう上手くやっていくかもしれないね」舞子は言った。「さてと、明日はどうする?」
「バス停に行こう。バスが来るのを待ってから、次を考える」
「さっき江黒は森を抜けてここまで来たって話してたわよね」
「ああ」と江黒が大声で言う。「森を抜けて来た。大きな沼をぐるりとまわってね」
「もしかするとバスは来なくって森の奥を通れば帰れるんじゃないのかな」と舞子が言う。
「私と舞子が通ってきたビルの中のコダイラ牧場みたいに一方通行だったら? 入口と出口は別のような気もするの」
「ここを拠点にして出口を探せばいいんじゃないのかな?」と江黒が台所から言った。
「そうするか」と美波。
舞子も同意した。
13 原舞子
糸屋美波が監禁されていた鍵付きの部屋で江黒史郎は寝ることになった。美波は嫌がったからだ。
舞子と美波とさやかは居間のソファで寝ることにした。毛布と布団を数枚持ってきて、眠りについた。
さやかは美波は三人がけのソファに抱き合って眠った。舞子は毛布にくるまって一人がけのソファにもたれて寝ることにした。
舞子は眠れなかった。自分が果たしてどこにいるのかはっきりとわからなかった。まだ自分の本体は暗闇にいる気がした。顔を触ればここにいる感じはする。考えても仕方のないことなのかもしれない。
ここにいる江黒史郎は電話の向こうからあたしを世界から消すと告げた男とは別人なのか? ここにいる江黒は嘘をついているようには見えなかった。それに、舞子は考える、あたしを消した男は名乗ってもいないじゃないの。やはり考えても結論などないのだ。明日からとても大変な日々になるのだ。寝よう、と舞子は体を丸める。あたしはここにいる、美波とさやかと牛たちと、江黒史郎と。帰りたい、出口を見つけたい、必ず見つける、帰るんだ。さやかちゃんと江黒と二人にしてもいいのだろうか? 危険な人物かどうかなんてすぐにはわからないんじゃない? でもさやかちゃんの意思も尊重してあげないといけない。父親のそばにいたい気持ちを。牛だけど。無理矢理連れて帰ったとしてもまたここに戻ろうとするだろうし、あたしと美波が帰るための出口を探し出せるのならば、さやかちゃんにも可能だろう。帰りたくなれば、帰る意思があれば、出口は見つかるはずだ。
角砂糖くらいの大きさの不安がよぎった。
出口は見つかるのだろうか? あたしも帰れるのだろうか? 美波が言ったようにいつの間にかあたしは暗闇から抜けだしているのか?
舞子は角砂糖が溶けていくように眠りに導かれた。瞼の裏に陰と陽が反転した風景が見えた。それは奥行きがあり、人の気配があり、死の前触れが殺風景な部屋を飾る花のように華やかにあった。舞子は中央に立っていた。正面の椅子に誰かが座っていた。舞子には見覚えがなかった。輪郭はにじみ、平板的で静物的だった。その人は立ち上がると舞子に近づいた。舞子は拒絶できなかった。拒絶すれば世界は破綻すると思ったからだ。けれども舞子怖くはなかった。美波もいる、さやかもいる、小平進は二度も殺したしいいかげんもう現れることはないだろう、江黒史郎? 信用に価するかどうかはわからないが、悪い人ではない感じがする。いないよりはましかもしれない。あたしは守られている。だから怖くはなかった。
立ち上がったその人の輪郭は太陽のフレアのようにほとばしっていた。太陽のように明るくもオレンジ色もしていなかった。真っ黒で人の形をした穴のようだった。男か女かもわからない。
「あなたは二度と牧場に戻ってきてはいけない」
声も男でも女でもなかった。信号音のように思えた。
「どうして?」と舞子は訊いた。「牧場を拠点にして出口を探すつもりなんだけど」
「何度も試みることはできない。間違えばそれで終わり」
「え、なにそれ、チャンスは一度きりってこと?」
人の形をした穴のような人は返事はせず、舞子の顔を覗き込むように素振りをした。
「バス停なのか森の奥なのか、それとも他に出口があるのか、それだけでも教えてくれません?」舞子は両手を合わせる。「お願い!」
「あなたは知っている」
と男でも女でもない声でそう言うと舞子の額に指らしきものを埋めた。痛みはなかった。心の中を覗かれている感じがして、いい気持ちはしなかった。
「あなたは知っている」と繰り返した。「風も土も木々も草も牛の糞も空も雲も人も頼ってはダメ」
「あー、わかった」舞子は頷く。額からゆっくりと指らしきものが抜かれてく。気味が悪かった。今までに感じたことのない感触だ。
「幸運を祈ります」
「ありがとう」
舞子は目を覚ました。
外はまだ暗かった。美波とさやかは眠っていた。
風が窓を揺すっていた。
あたしは啓示的な夢を見たのだ、信じるか信じないかは別にして。少なくとも無関係でのん気な他人の助言ではない。あたしの中にある。あたしは知ってる。そうあたしも思える。賛成できる。
舞子は再び眠りに落ちた。美波と友達になれてよかった。さやかちゃんとも出会えてよかった。江黒史郎にはこの牧場で頑張ってもらいたい。おやすみ。
舞子は毛布に包まれて目覚めた。毛布越しに朝日が輝き、美波と江黒が小声でしゃべっているのがわかった。毛布から顔を出すと江黒が「なにどうしたさやかちゃん」と言った。さやかが江黒の袖を引っ張っていた。
「おはよう」と江黒と美波が言った。
三人は台所で料理をしているようだった。
「おはよう舞子」と美波が近づき、「よく眠れた?」と訊いた。
「うん、なんとか」とあくびをした。
「顔洗ってきて、すごくいい天気だよ」
さやかもよってきて、笑顔を見せる。
「おはようさやかちゃん」
さやかは頷く。
「二人は四人分くらい食べてくれよ」と江黒が言う。「体力がいるからね」
「ねえ美波」舞子は言った。
「どうしたの? まだ眠い?」
舞子は頭を振り、出口を探すのは一度きりで間違えたらそこで終わり、そして、あたしは二度と牧場には戻って来てはいけない、と夢での啓示を話そうとした。
「なんでもない。顔洗ってくる」
「舞子、お湯持って行くわ。江黒さんお湯!」
「沸いてますよ」
舞子は毛布から抜けだすと、洗面所に向かう。
美波には言えないよ、単純に夢かもしれないし、本当だとしても希望を潰すようなことは言えない。
さやかがヤカンを下げてきた。
「ありがとう、さやかちゃん。本当にここに残るつもり?」
さやかは頷く。
水道から流れる水は冷たかった。洗面器にお湯と混ぜる。鏡に顔が写る。ひどい顔してる、と舞子は思う。一度きり。顔を洗い、うがいをする。あたしは絶対に帰ってみせるから。見た夢は呪いだと思う。信じなければ呪いなんてどこかに飛んでいく。
四人はロールパンとトマトスープと焼いたじゃがいもと紅茶とミルクをたいらげた。
「一晩考えたんだが」と江黒は言った。「さやかちゃんはやっぱり一度、帰るべきだと思う」
さやかは激しく頭を振った。
「聞いてくれ、さやかちゃん。俺は一人のほうが気楽だし、君のお父さんも大切にする。それに君は学校に通ったりしないといけない。本をたくさん読まないといけないし、友達も作らなきゃいけない。一度帰るんだ、それでまた来ればいい、いつでも好きなときにくればいいじゃないか?」
「そうよ」と舞子は言う。「さやかちゃん、一度帰ろう。ね?」
さやかはうつむいた。
「お父さんもそう思ってるはずだよ」美波は言う。「心配ないよ、江黒さんは牛が好きそうだし」
「ああそうだよ」
さやかは頷く。
江黒はどこからか見つけてきたリュックを見つけてきた。
「これはランチ用に」と江黒は残りのロールパンにチーズとハムをはさんで紙で包んだ。美波は紅茶をいれた水筒、きれいに洗った肉たたき、レモンドロップ、ライトをリュックにいれた。
「昼をすぎたら戻ってくることを考えたほうがいいな」と江黒は言った。「迷子にならないように」
「わかった」と美波。
「陽が沈んで、君たちが帰ってこないということは出口を発見したってことになる。けれど遭難した可能性もある」
「ちょっと」と美波は言う。「怖いこと言わないでよ」
「まあ聞いてくれよ、俺からすれば成功したのかどうかわからないことには落ちつかない。君たちが出口を発見したかどうかを知らせてほしいんだ。紙にメッセージを残して石を置いてほしい」
「そうね」と舞子。「気が気じゃないものね」
美波も賛成する。
リュックサックは舞子と美波が交代で背負うことにした。
「今日はバス停に向かう」と美波。「昼間で待ってなにも通らなかったら帰ってくる」
「わかった、食事も四人分用意しておくよ」
「待って」と舞子は言った。「バス停でいいのかな」
「消去法でやるしかないよ舞子、明日は森に行けばいいし、焦らないで」
やはり言うべきなのか、と舞子は考えた。どうしても確信が持てなかった。言えば責任が生まれる。言えば自分の責任は軽くなる。舞子は迷った。けれども黙っていることは罪に思えた。
「今日の一回きりだったらどうする?」
「舞子、なにが?」
舞子は夢の内容を美波たちに話した。晴天が一瞬で雨雲に覆われたような空気になった。舞子はいくらか後悔した。
「それ夢だよって言い切れない気がする」と美波は言った。「今までにすごく多くの不思議なことを体験したからね」
「ごめん、なんだかつまんないこと言って」
「ううん」美波は舞子の両肩に手を乗せる。「言っくれてありがとう、何日もあるって思うよりも今日一日の一回こっきりしかない! って思ったほうが真剣になる、気も引きしまる! それが本当かどうかってことよりも大事なことだよ舞子。私たちは進むしかない。出口を見つけて帰らないと」
「俺には感じる、君たちが出口を見つけて帰るってね」
「ありがとう」と舞子は言った。
「出発しよう」
外は明るかったが肌寒く、風はなかった。牛は決められた間隔を守って草を食んでいた。朝露に濡れた草原に黒の斑模様の牛が点在してた。
まず美波がリュックサックを背負った。
三人は江黒史郎と握手した。
「牛たちをよろしくお願します」と美波は言った。
「俺はここで生きていく。ここでなにかを見つけるつもりだよ。舞子さん、美波さん、さやかちゃん、ありがとう、気をつけて。いつか君たち三人を助けることができたらいいなと思うよ」
江黒は恥ずかしそうに笑った。
三人は歩き出した。バス停の方角、北に向った。なだらかな丘を登りながら何度も振り返り、手を振った。江黒はずっと手を振っていた。三人は牛の間を抜ける。土と草は湿っていた。
やがて家も牛舎も江黒史郎も見えなくなった。
昼まで休まずに歩いた。地平線上には山も森もなく、低い丘が重なっていた。バス停もなく、道もなく、人の姿もなかった。舞子は海の真ん中にいるような気がした。
太陽が真上にきて、三人は丘の上に座り、冷たくなったロールパンサンドを食べ、紅茶を飲んだ。疲れていて誰もしゃべらなかった。空には雲一つなかったせいでいくらか暖かかった。
「バス停あるのかな」と美波はつぶやいた。
「あるってば」舞子は吐き出すように言った。
「なかったらどうするの? 一回きりだったらどうすんの? 私たちこんなところで野垂れ死にしちゃうよ!」
「美波、やめて! 死ぬなんて言ったらだめ!」
美波は両膝の間に顔を埋めて泣きだした。さやかが美波の肩に抱きついた。
「ここはどこなのよ、どこまで行っても草っ原ばっかり、きっとバス停があるって小平が言ったのはさやかちゃんを騙すためについた嘘なのよ、あいつは死んでからも私たちを苦しめるつもりなのよ」
美波は寒さではなく恐ろしさで体を震わせた。舞子も美波を抱きしめた。美波はさやかよりも小さい子のように泣いた。
ここは本当にどこなのだろうか? 舞子は考えた。
あたしは暗闇にいて、あたしの脳が創り上げた世界を通ってコダイラ牧場から小平牧場に移動した。あたしはどこにいるのだろう? いつの間にか暗闇から脱出した覚えも感触もなにもなかった。
もしかすると、あたしはまだ暗闇にいて、ここにいるあたしはコピーなのかもしれない。
わからない。
舞子は二人に気づかれないように頬を触ってみる。あたしの体はここにある、と思うんだけど、脳が触れた自分と触れられた自分を偽っていればあたし自身は騙されてしまう。ここにいるのだ、と。
あたしはどうしてここにいるのだろう?
舞子は美波とさやかを見つめた。さやかは美波を慰めるように頭を撫でていた。牧場に残った江黒史郎を思い出した。牛舎で泥々の姿で暖をとっていた死を求めてさまよって辿りついた男を。
美波は涙を拭い、さやかに微笑みかける。
あたしは、と舞子は結論する。
「舞子、ごめんね、つまらないこと叫んじゃって、恥ずかしい」
舞子は立ち上がった。
「舞子、怒っちゃった? もう少し休もうよ」
さやかも舞子のスカートを引っ張る。
「あたしはみんなを助けるために来たんだよ」と舞子は言った。「そうじゃない?」
「そうだよね」と美波は言った。「舞子が小平をやっつけてくれたからこうやって自由になった」
さやかが強く頷く。
「でもまだなんだよ、きっと」
「え? まだって? どうしたの舞子?」
でも舞子にはどうすればいいのかわからなかった。舞子は辺りを見回した。これがピクニックだったら最高なんだけど、と思った。さやかが舞子にレモンドロップを渡す。
「ありがとう」
舞子は口に放り込んだ。レモンドロップが歯に当たり、カラカラと音を立てる。あたしはここにいない。と舞子は考える。あたしが二人を導かないといけないのかもしれない。舞子は目を閉じた。出口はどこ? 夢の中に現れた人の形をした穴のような人はあたしが知っていると仄めかした。
知っている?
なにものにも頼らずに?
さやかが舞子のスカートを引っ張り、美波が舞子の名を呼ぶ。
あたしは真ん中に立っている。空間の真ん中に。
あたしは出口を知っている。あたしは二人を帰す。あたしはどこにいる? 暗闇? 草原? なだらかな丘の上? 一人でいる?
口の中からレモンドロップの味と香りが消える。レモンドロップそのものは口の中にあった。
バス停はある。バスに乗り込む。帰ることができる。当たり前のことだ、と舞子は直感する。
舞子は目を開けて座り、
「バス停は絶対、ある!」と言って笑った。
「舞子があるって言ったらきっとあるよ」
さやかは頷いて、北の方角を指さした。
バス停の標識が見えた。三人ともそうだと思ったにちがいない。
「え?」と美波は言った。「あれ、ちがうよ、木だよ」
栄養失調の細い木が一本空に向かって伸びていた。
「さやかちゃん、あれ木だよ、木」と美波は言った。
さやかは頭を振り、舞子と美波を引っ張った。
「ちょっとちょっと、さやかちゃんあれ木だってば」と美波は言いながら立ち上がる。
舞子は美波に微笑みかけ、頷いた。美波もつられて笑い、リュックサックに包み紙やレモンドロップの袋を突っ込んだ。
三人は丘を駆け下った。
笑いがこみあがってきた。
何度も転びそうになった。耐えた。
一回きりだ、と舞子は思った、一回きりでかまわない。
舞子は草原を走りながら、
「二十秒後、あたしたちはこの世界から消える!」と叫んだ。
「私たちは消える!」美波も叫んでリュックサックを高く放り投げた。
「あたしたちは消える!」
「私たちは消える!」
「消える!」
「消える!」
風が吹き、栄養失調の木が揺れた。
遠くで牛が鼻で笑った。リュックサックはどさりと草原に落ちた。三人が消えてしまった後もしばらくは嬌声と足跡は残った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
バイオレンスシーンがあるので、気分を害されたかもしれませんが、申し訳ありません。
ありがとうございました。