「ニジュウビョウゴキミヲ……コノセカイカラケス」
5 原舞子
どこで聞いた? どんなときに聞いた? 知り合い? テレビとか映画とか? バンド? 音楽? 町中のどこかで?
石を紙やすりでこすったような声。基本の低い声の側壁に棘のようなものがあった。ほとんどの人間を不安にさせる響きを生む装置のように。洗い流し忘れた汚れのように舞子の耳に貼りついている。
舞子は長い時間をかけて、知り合いの顔と声を思い出していった。一人ひとり丁寧に。その作業は暗闇と静寂の中では楽にできた。該当者はいない。奇妙なことに、受話器から聞こえた声は年齢を想像させなかった。記憶では父と同じくらいの年齢だと思っていたが、どんな年齢にでも当てはまる気がしてきた。舞子はあの声を思い出してその理由がわかった。さまざまな年齢の声が練りこまれて一本の声になっているからだ。あるいは舞子の記憶が薄れ、解けて、ばらばらになりつつあるからかもしれない。声を脳味噌で何度も何度も再生するとぼんやりと曖昧になってくる。舞子は集中し、あの声を維持する。暗闇に男の姿がぼんやりと浮かぶ。声から逆算的に生成する。男は受話器を持っている。年齢はやはりわからない。男の声の近くに舞子は焦点を合わせた。なんだろう? 舞子は潜り込むようにそこに意識を近づける。男の近くに誰かがいる。待って、と舞子は思う。声からそんなことがわかるはずないじゃない。妄想だよ。いや違う。舞子は即座に自分を否定する。男のしゃべる一言一言の隙間や男の声にかぶさる部分があるじゃないの。男は一息にしゃべったわけではない。他の音を完全に遮断して、たとえばマスクみたいなマイクを口につけたのでもない。男は普通に電話をしてきた。近くにいた誰かの情報が紛れ込む隙間はあるはず。どうせ時間はたくさんあるんだ。いろいろな方面から考えても文句は言っはこない。誰も。
舞子は男の近くにいたであろう人物に集中してみた。別の男がソファに座っている。革のソファが軋む音がしたのだ。
「ニジュウビョウゴキミヲ」と「コノセカイカラケス」の間の一秒もないこの隙間でソファに座る男は姿勢を変えた。
あたしに話した男と近くでソファに座って見守る男がいた。ソファの男が黒幕かもしれない。電話の男は雇われた呪術師みたいな野郎。
舞子は「コノセカイカラケス」の部分を反芻した。「ケス」は「消す」だろうが、こうして自分はまだいる。消えてはいない。もしも消えているのならばいろんなことを考えたりもできないはずだ。確かにいつもの世界からはいなくなってしまったのかもしれないが、消えてはいない。ここは緩衝地帯のような場所なのかもしれない、と舞子は考えた。掃除機でいえば内部の紙パックみたいな? やがて自分は燃やされるかして灰になる。灰になって暗闇に舞って消えてしまう。
妄想! と舞子は考える。ばかな妄想で貴重な時間を使うんじゃない舞子!
舞子は再び男の声の正体をつきとめる作業に戻った。
どこかで聞いた覚えがあるのは確かだ。気のせいではない。気のせいだとしても他に考えるべきことはないからこのままつづけよう。ソファの男は今のところは隅に置いておく。つづける。
舞子は今まで観たテレビ番組や映画やドラマを思い出していった。日常ではなく、メディアから聞こえた声なのかもしれない。可能性はある。しかしテレビや映画やドラマやコマーシャルに出る人が電話などしてくるだろうか? という疑問も隅に追いやった。つづけよう。
かなりの時間をかけたが、やはり該当者はいなかった。
もしかするとよくあるような声なのかもしれない。いやかなり特徴があった。それとも声から人物を特定できないような仕組みを持つ声なのかもしれない。
気のせいなのだろうか。声の主がわかればこの状況を破ることができると勝手に思い込んだのが馬鹿がたったのか。舞子は長い溜息をつく。どうして自分が世界から消されなければならないのだろう? なにをした? 誰になにをした? 考えてもこんなことをできる人物などわかるとは思えなくなってきた。
舞子の目の前に男の姿が浮かんだ。まるで地下鉄の車窓から暗いトンネルの壁をぼんやり眺めていて明かりが通りすぎたみたいに。
記憶の声から作られた百パーセント想像なのか。それとも記憶の澱の中から引き上げられたその人物のはっきりとした記憶なのか。どちらも舞子には確信が持てなかった。どちらにしてもその人物の写真を手にして聞き込み捜査の真似事などできないこの状況下ではどちらでもかまわない、という捨鉢な気分になっていた。
だめだ舞子! 自分を励ます。灰になって吹き飛ばされて消えてしまうまでに持っている自分の時間を使うことができるのだ。最後の最後まで希望はあるんじゃないの舞子?
オーケー! ゲームをつづけよう。お腹も空かないことだし。
突如目の前に浮かんだ男の顔は見た記憶はなかったが、声はその男のものだという確信があった。それは舞子の脳味噌の奥の奥のそのまた奥にひっそりとあった。
あたしはその男の声を知っている。あたしはその男の姿を知っている。ただ近い人間ではないのかもしれない。いや、違う。近いからこそわからないのかもしれない。たとえば毎日見ている。毎日見ているからこそ、のっぺりとした風景と化し、視界に入っても焦点を合わせずに通り過ぎている。しかも電話の向こうに居た男の顔を単体で見るわけではなく、その他大勢の人々と同時に見ている。怖気が全身を襲う。男は自分を見ている。その他大勢の人々に混じり、こっちをじっと見ている。その視線は弱い。だからこちらが気づけないでいる。これは妄想か? 自滅するための呪文のような妄想だろうか? 推測だろうか? 舞子には確信があった。
理由はわからないけれど、そいつはあたしをじっと見ていたのだ。
あたしを二十秒後に世界から消したのだ。まだ体も脳も髪も腕も全部ある。緩慢にあたしは消失しつつあるのかもしれない。しかしどうしてあたしなんだろう? なにかした? 納得できる説明をしてもらいたいものだ。納得できればあたしははいわかりましたと言って灰になって風に吹かれて消え失せてもいいと思う。納得できれば。けれども今のことの状態は納得できないし、不躾で不条理で礼儀正しくない。理不尽だし不透明だし通り魔的すぎる。あたしには反省する余地もあるし、自分でも素直な性格だと思うし、叱られても根に持つことはないし、さっぱりしている。この仕打が世間的に筋が通らなくてもあたしが納得さえすればあきらめることも考えてみてもいい。短い人生だったけれども、すべてを失うに足りる理由さえあればあたしは未来に含まれる全部をあきらめてもいい。
「さぁ! あたしがなにをした? 言ってよ! なにをしたのよ!」
舞子は腹から声を吐き出した。声の塊はいくつもに枝分かれして闇に飛んでいった。それはどこまでも飛び、なににもぶつかることなくやがて消え失せた。
灰になってしまう前に男のことを思い出してやる。必ず。
舞子は腕を組み、唸りながら脳味噌に血液が集まることを想像した。全意識と感覚を遮断し、脳のなかに三次元の世界が現れる想像をした。自分自身が再現され、部屋から現れ、円状に自分を中心とする世界がレゴブロックを一つずつ積んでいくように長い時間をかけて現れてきた。
このなかにあたしを世界から消した男が生きているんだ。あたしは捜し出す。
舞子を取り囲む世界が創り上がり、すべての作業が終わった。長い時間がかかったけれども、舞子には興味のないことだ。
重力を感じた。体重を感じ、体温を感じ、皮膚に布を感じ、光と温度の変化で流れる風を感じ、音が聞こえた。
舞子は飛び起き、目を開けた。朝の白い光が照りつける。
ここはどこ?
元の世界じゃない。あたしが脳内で創り上げた世界だ。十七年間の記憶と分析と想像で構築した架空の世界だ。しかし現実の世界との違いはほとんどなく、足りないところは脳が補完してくれる。
「舞子、あんた遅刻するわよ」と母の声が階下から聞こえた。
「今、起きたー!」と舞子はいつものように返事をする。ここは自分の部屋だ。時計を見る、午前七時半。
「いい舞子」と自分に言う。「あの男を捜すんだよ」
舞子は頭から顔を触り、掌を見つめる。
あたしの手、あたしの頭、あたしの体。舞子は自分の部屋にいた。いつものベッドの上にいた。ほとんど変わりがなかったために、今までのは夢だったのかもしれない、と考えてしまう。そうだとすればありがたいとけれども、あたしにはわかるんだ。
いつもどおりに生活をする。そのなかであの男を捜す。きっといる。きっと捕まえる。そうすればどうにかなると思う。いや捕まえたとしてもそれはあたしの脳味噌の中のことか。舞子は男を断定すれば勝てると直感する。それは確かだ。あたしから遠いどこかで誰かが仕掛けたゲームのルールをあたしは知っているんだ。それは形のあるものと同じように感じられた。恐怖を迂遠するための楽観的な希望ではなく、鼻先に触れている悲観的な絶望を押し戻す唯一の具体性のある力だ。
と考えている間にも時間は進む。たぶん体内時計と同期しているから遡ったり止めたりなんかはできないんだな、と舞子はパジャマ姿の自分を全身鏡で眺めながら考えた。
ところで今日は何日だ?
舞子は携帯電話を手に取る。
あたしが消えた日。
しかしこれは現実の世界ではない。時間を遡って同じ一日をやり直すわけではない。同じ一日かもしれないけれど、脳内で精密に再現されているにすぎない。
ここが夢で、暗闇が現実なんだ。
わかった。舞子はつぶやく。はじめましょう。
舞子はパジャマのまま一階に降りた。いつものように母が弁当を作りながら父としゃべっている。
「舞子、ご飯食べるでしょ?」
「うん」と舞子はいつものように返事する。「おはよう」
「おはよう」と父が言う。「舞子はどう思う?」と訊く。
「なにが? 先に歯みがきしてくる」
兄貴は昼過ぎまで眠っている。
ここでたとえば、
「あたし今日学校から帰ってきたら変な電話がかかってきて消されるから助けて」と言ったとして、どうなるんだろうか? と舞子はいつものように歯を磨きながら考えた。
たぶん、父も母も兄貴も、
「おい学校休んで病院に行こう、な」と言って笑うだろう。
あるいは、あたしが子供のころに銭湯で転んで頭を打ったことを思い出して真剣に病院に行こうと言うかもしれない。
いやここはシミュレーションの空間ではないから、どうにもならないだろう。あたしは自分の脳内の記憶を映像を観ているのと違わないのだから。
舞子はうがいをしながらあの男を捜すことだけに集中すべきだと言い聞かせる。
「ねぇ父さん、最近変な男の人を見かけたことはない」と舞子はネクタイを締めながら母としゃべっている父に言った。
「毎日変な人と会ってるよ」と父は笑う。「おまえら」と自分にウケている。
「朝からどうしたの?」と母は訊く。「変態でも見かけた?」
「今見た」と舞子。
「あ、俺?」父は自分を指さす。「こりゃやられた」
「ちょっと舞子、真剣に話してちょうだい」母は娘の身を案じている。
「すまん」と父は真剣な顔をする。「近所うろうろしてるの見たのか?」
「それはこっちの質問。見かけなかった? って」
父も母も頭を振る。
「どうしてそんなことを訊くんだ?」と父はコーヒーを飲み、立ち上がる。「身の危険を感じてるとか」
「ちょっとやめてよ恐ろしい」と母。
「とにかく」と舞子。「変な男を見たら教えてほしいの」
二人は怪訝な顔で了承する。
「よくできてんな」と舞子はついつぶやいてしまう。
いつもの二人との違いがないことに感心する。たいしたもんだ。
「母さん、兄ちゃんにも言っといて」と舞子は母に言付けると朝食を食べはじめる。
父は仕事に出かけ、舞子は食事を終えると歯をみがき、制服に着替える。いつものように。
舞子は部屋で支度しながら男と出会ったとして、たとえば殴ってしまえばどうなるかを考えた。というのも、自分では脳のなかの世界だと確信しているけれども、うまくできすぎているせいでここは現実なのではないかと思ったからだ。
確かめる方法は? 男をぶん殴ればどうなる? あたしの思考の範囲内で男の反応が表されるのだろうと思う。あたしが男は怒るだろうな、と思えば怒る。へへへと笑うかもしれないと思えば男はへへへと笑う。違うな、と舞子は思う。さっきの父の反応は舞子の考えではない。つまらない冗談を言うことは想像できたが、なにを言うかは知らなかった。だからこそ男のことを訊いたのだ。
時計を見る。バスが来る。こればかりはどうしようもないのか。
自分で創り上げた世界だけれども、自分が王でもなければ主でもないし、神でもないのだ。自由はなく、死すらもない。
舞子は急いだ。バスに乗り、学校に行かなくてはいけない。遅刻せずに。
男を発見したとしてもなにもしない方がいい。殴ってもかまわないが、殴ったところでどこにも帰れない。男は痛みもないし、死にもしない。現実の世界にいるはずの電話をしてきた男と繋がってはいないから、意味が無い。それに発見した男を問い詰めることも意味がない。胸ぐらをつかんで壁に押しつけたその男はあたしの視界の隅にちらりと映っただけなのだから。
舞子は心のどこかに疑いを見つける。
ここはやはり現実の世界で、あたしは単なる夢を見ていただけだったのかも。
とすれば確かめなくてはいけない。そうじゃないと夢の方を現実の世界だと思い込み、現実の世界を脳味噌で生成した世界だと思い込んだまま馬鹿なことをしちゃったら取り返しのつかないことになる。
でもどうやって確かめる? 夢の中で夢だと確かめる方法などあるのだろうか?
もしもここが現実の世界だったら困るような確認方法は除外しなくてはいけない。ものを壊したり、人を殴ったり、損なうことはだめだ。なにができる? 舞子は自問する。
糸屋美波。
彼女の名前が浮かんだ。
どうしてだろうか? バスで会って話をした。初めてしゃべった。あたしと真逆の子だと思う。
舞子は時計を見た。全力疾走すればバスに飛び乗ることができるぎりぎり時間まで一分を切っていた。
階段を降りながら舞子は繰り返す。
糸屋美波と話してみる、糸屋美波と話してみる。どうしてかわからないけれど自分の直感は頼もしい。
「いってきます!」舞子は玄関を飛び出し、全力で走る。
糸屋美波はどんな顔をするだろうか? 驚くかな。
バスが目の前をすぎる、停留所に人が並んでいる。バスは停車し、人々が歩を進める。舞子は現実的に走り、心臓は血液を巡らすために鼓動し、体中の筋肉が稼動し、遅刻を怖れている、バスに乗れなかったときに恥ずかしいなと思う、現実的に舞子は疾走する、バスに間に合い、車内で息を整える。
「大丈夫ですかお嬢さん」と声がした。
舞子は手すりにつかまりながら、唾を飲み込む。バスが発車する。
「大丈夫です」と答える。すぐに心臓が一度強烈に動く。舞子は目をこれでもかと開けた。まだ息が切れる。
この声。バスのなかにいる。電話の向こうからあたしにしゃべった男の声。
二十秒後、君をこの世界から消す。
舞子は心のなかで三度繰り返し、呼吸が正常になるまでバスの床を凝視していた。
6 糸屋美波
木々の間に積み重なった枝や枯葉や草を踏む恐ろしさを含んだ音が美波に近づく。ゆっくりとだが確実に。
「誰かいるんだろ?」
男の声だった。鋭く殺気を帯びている。美波は脳裏に大量の血が現れると声が出そうになったが両手で押さえた。体は強ばり、息を殺した。なにも考えないようにした。考えれば察知されてしまうような気がした。脳裏に浮かんだ血の匂いも嗅ぎつけられそうな気がした。ここで捕まりたくはない、町に出て携帯電話を使って助けを求める。誰にだかわからないが誰だっていい。警察に飛び込めばいい。
男の呼吸音が聞こえる。美波は息を止める。男が消えてしまうまで息を止めてみせる、と美波は思う。
「おい君」
美波の隠れている木の裏側から声が聞こえた。美波は肩に手を置かれ、
「きゃ」と叫び、木の根もとから飛び出したが、根に足を取られて転ぶ。すぐに体を起こし走ろうとした。足首に激痛が走る。目の前に火花が散る。
「逃げなくてもいいじゃないか、大丈夫か」
男は温厚な声だった。美波は痛みで涙が出た。振り返り男を見たが涙が邪魔をしてよく見えない。手に石の感触があった。ちょうどいい大きさの石だ。男を殴りつけてやる。
「足挫いたんじゃないか。悪かったな驚かせてしまって、医者呼んでやろう。立てるか?」
男から殺気は感じなかった。錯覚だったのか。美波は目を細めて男を見る。涙が乾く。男のぼやけた輪郭がはっきりとしてくる、ピントが合い混ざっていた色が正しい場所に戻る。美波は石から手を離さない。油断はするな、と自分に言い聞かせる。
男は赤いネルシャツを着て、青いベースボールキャップをかぶり、日に焼けた顔は三十代くらいに見えた。にっこりと笑った顔は醜悪さはなく、整ってはいなかったけれども人懐こく、人を安心させる要素を含んでいた。牛は「やさいしけれど君を助けてはくれないよ」と言ったけれど、美波は助けてくれるのではないかと感じた。しかし石は持ったままだった。
「痛くて立てないか? 手を貸すよ」と男は差し出した手をここにあると主張するように振った。
牛は自分たちは家畜だと知っている。いずれ食われてしまうと知っている。だから「やさしい」けれども「助けてはくれない」と言ったのかもしれない。足首が熱を帯び、痛みが大きくなってきていた。もう逃げられない。どうすればいいのだろうか。この男を信用してもいいのだろうか?
美波は観念した。男は軽々と美波を引っ張って立たせた。足首が痛む。美波は体が宙に浮かんで驚き、「きゃ」と叫んだ。石が落ちた。男が美波を背負ったのだ。
「森から出るまではこの方がいいだろう」と男は言った。
男から牛乳の匂いがした。それは美波に赤ん坊を想像させた。美波は血の繋がっていない妹に毎日ミルクを飲ませてた。家が懐かしくなった。家にいると出たいと思い、家から遠くなると懐かしくなる。
「俺はこの牧場のもんだ。小平進。君は?」
美波は木々の間を滑るように運ばれていた。時々上下した。揺れるたびに足首が痛む。自分はこんな奥まで入ったのかと驚いた。
「私は」名乗っていいのだろうか。相手は堂々と名乗ったのだ、失礼じゃないか。
「まぁ気持ちが落ち着くまで黙ってた方がいいかもしれないね」
美波は小さく頷いた。
森から出ると、美波は小平進の背中から降ろされた。男の腕に美波はつかまった。固くて太い腕だった。
「痛いのはどっちの足だ?」
「左」
「歩けなさそうだな」
「支えてくれたらなんとか歩けます」見知らぬ男に背負われるのはもう十分だった。
「わかった。俺につかまってくれ」
日が暮れてきた。美波は心細くなった。さっきまで逃げたり殴ってやると思ったり、夜になって町まで行こうと考えていた自分は失われてしまったようだった。
「ここでなにをしていたんだ」と小平進は訊いた。「君はどう見ても高校生にしか見えない」
美波は制服が泥だらけになっているのに気づく。
「高校生がこんなところにいるのはおかしい」
美波は黙っていた。なだらかな坂をゆっくりと登る。足首の痛みは常に美波を襲った。涙が出そうになるのを我慢する。
「牛泥棒には見えない」
「違います」
美波はどこからどこまで話せばいいのかわからなくなっていた。ここはコダイラ牧場らしい。しかし自分はこの牧場に用事があったわけではない。それに雑居ビルの一室に入ったらこの牧場にいたと言って信じてくれるだろうか? 話しても仕方のないことだ。携帯電話が通じれば帰ることができる。どこかに連絡をして待てばいい。警察で保護してもらってもいい。詳しく話さなくても記憶にないと言えばいい。ある意味で記憶がないのと同等なのだから。
「よく覚えていないんです」と美波は言った。その方が都合がいい。
「覚えていない」と小平進は繰り返した。
「電話を貸してくれますか?」
「電話?」
「はい、家族に連絡して」
「家族?」
「家に帰るためにです」
小平進は返事も相槌もせずに黙ったまま美波を支えながら歩いていた。
「君はここに用事があったのじゃないかな?」小平進は一つ一つの言葉を美波に押しつけるように言った。
「どうしてですか?」
「用事がない人間がここ来るわけがないからだよ。観光地じゃないし、近所の人が散歩するには不便すぎる」
男は牛のように鼻で笑った。美波はぞっとした。美波は自分の声が震えているのを気づかれたくなかった。でも黙っているわけにはいかなかった。
「覚えていないんですが、この牧場に用事なんてないことだけははっきりとしています」
不審者として警察に突き出された方が早いかもしれない。
丘を超えると遠くに低い建物が見えた。明かりが灯り、美波は夜になっていることに気づいた。
「医者を呼んでやろう。今は獣医をしているが元々は腕のいい医者だったから心配はない」
「牛は?」
「牛? 夜になると牛舎に戻ってくる。迷子になる牛はいないよ」
牛がしゃべったことを話すのはやめた。頭のいかれた女子高生だと思われるのはいやだ。
「この牧場を訪れる人間はあまり多くはない」と小平進は言った。「年に一人か、せいぜい三人。君はどうしてここにいるのだろう?」
小平進は止まった。美波の足首に痛みが走った。
「本当に覚えていないんです」
「本当に」小平進は繰り返す。「覚えていない」
美波は頷いたが、小平進がそれを見ていたのかはわからない。美波はこの男がなにを言いたいのかも想像できない。足首の痛みが美波の気を遠のかせ、思考を複雑に働かせられない。
私がここに来た理由。この牧場に来た理由はわからない。雑居ビルの『コダイラ牧場』を訪れたのには理由があったが、この牧場にいる理由は知らない。体が冷え、全身が恥ずかしいほどに震えてた。小平進は視線で美波の足をピンで止めたかのように動けなくしていた。美波は男に恐怖しはじめた。もう遅いかもしれない。美波は逃げる気力もなかった。足首の痛みから解放さえできればどうだっていいという気になりだしていた。落ち着こう。美波は何度も心中で繰り返す。それが唯一の脱出方法であるかのように。
「この牧場に」と小平進は言った。「やってくる人間はほとんどいないんだよ。理由はいくつかある。ここは一般的な牧場とは別の考えに基づいて創立され運営されている。君は牛と話していただろう?」
美波は否定しようかと思ったが、それについての押し問答で時間を費やすのは無駄だと思い、黙って頷いた。
「ここではしゃべる牛なんて珍しくもなんともない。ほとんどの牛はしゃべる。しゃべらなくなってしまった牛もいるけれども、元々はしゃべった。しゃべるからといって君がよく知っている他の無口な牛と違いなんてほとんどない。驚いただろう?」
「しゃべる牛を見て、ですか?」
「その他になにについて驚いたというんだ?」
美波は怒りが起きた。
「君を咎めているわけじゃない。無断で入り込んだのにはそれなりのわけがあると思うし、誰だって大小さまざまなミスを犯す。重要なのはミスに対してどれくらい客観視できるか。素直になり、認めて検証する材料を抽出する」
美波は自分を抱きしめながら小平進を見ていた。
「それなのに君は」小平進はしゃべる牛のように鼻で笑う。「覚えていないというばかりだ。こっちは君を助けようとしている。それなのに君はだんまりを決めている。重要なことは何一つ話そうとはしない。どうしてだろう? どうしても君は牛を盗みに来たようには見えないが」
美波は頭を振った。
「君はやはり牛泥棒なのかと疑わざるをえないじゃないか?」
「本当に」と美波は震えながら言った。「覚えていないんです」
言い終わると同時に男は美波の頬をぶった。美波は枯れ草の塊のように軽々と転がった。足首の痛みが全身にばらまかれた感じがした。髪の毛が顔にからまり、涙があふれ、冷え切った土と草を全身に感じた。ぶたれた頬がゆっくりと痛んできた。美波は憤怒と悲しみが入り混じり、夢中で石を探したが小石しかなかった。
「さあ立て」小平進は美波の手首を取ると引っ張り上げ、建物に向かって歩きだした。
「痛い、離して」美波は泣き叫び、パニックになる。全身に広がる寒さと痛みで意識が遠くなる。
「君がここに来た理由はもう問わない。ここにとどめる理由は今から説明する」
とどめる? 帰らせてくれない?
「いや」美波は男の腕を剥ぎ取ろうとする。しかしぴたりと貼りついた男の手は美波の手首を固く握り締め、美波の微力では離せない。美波はめまいがした。意識が薄れてないようにしなくてはと思った。男は美波を引っ張っていく。美波の頭にカラマーゾフの兄弟という文字が浮かんだ。読んだことのないロシアの長い小説だ。どうして? あ、そうか原舞子がバスのなかで読んでいたんだ。どんな内容なんだろうか? 原舞子はピロシキとちょうざめのスープの話をした。もっと聞きたいな。私もカラマーゾフの兄弟を読んで原舞子と学校以外の場所で語り合いたい。そうだ、そうしよう。本屋で本を買って、苦労しながらでも読んでみよう。美波は原舞子の笑顔と透き通った声を思い出す。それは美波の頭の中で生きている。あのバスに乗らなければここに来ることはなかったかもしれない。けれどもあのバスに乗らなかったら卒業するまで原舞子と話す機会は一度もなかったかもしれない。原舞子は学校ではいつも誰かがそばにいる。私は誰もそばにはいない。原舞子は今頃なにしているだろう。私のことを思い出してくれているだろうか?
建物は木造の平屋だった。木の壁は朽ちつつあった。屋根は赤く煙突が一本飛び出していた。
牧場の器具が壁沿いに並んであった。建物の中は明かりがついていた。窓ガラスは曇っていた。汚れか温度差なのかはわからない。美波はそれらを視界で捉えるので精一杯だった。意識は薄れ、自分が歩いているのもわからなかった。自分がどうなるのかなど考えられなかった。意識をはっきりとさせておかなければと思った。
小平進は引き戸を開け、美波を引っ張り、革張りのソファに座らせた。黒い革の表面には埃が積もり美波が手を触れるとざらりとした。
木のテーブルにはグラスや灰皿やボトルがあり、室内は雑然としていた。人はいない。家畜の臭いがし、ストーブの青い炎が揺れる音がときおりする。
男は美波をソファに座らせたまま奥の扉に消えた。美波は逃げることを考えたが、足首の痛みは全身を覆い尽くし、ゆっくりと逃げるのであれば可能だが、外に出たときに捕まえられるのは目に見えていた。またぶたれるだろうし、もっとひどいことをされるかもしれない。ここに来た理由を素直に言えば帰してもらえるだろうか。美波は携帯電話をそっと取り出す。圏外の表示に美波は涙を流した。
「携帯電話は通じない」と奥から声が聞こえた。
美波はびくっと背中を震わせ、携帯電話をしまった。
「アンテナがないからね。医者を呼んであげよう」
「病院に連れて行ってください」
「それは無理だよ」
「お願いします」
小平進は壁を拳で叩いた。
「君はここから出られないんだよ、君はここに来てしまった」
美波はそれを聞いて気を失いそうになった。ここにずっといなくてはならない? 美波は体から力が抜け出すのを感じた。瞼が重くなり、痛みも感じなくなっていた。
「君はここに来てはいけなかったんだ、聞こえているかい?」
美波はしっかりとしなくてはだめだと考える、両頬を何度も叩いた。涙がぼろぼろと流れる。しだいに目の前が暗くなっていった。部屋の明かりが落ちていっているのか、意識が不可避的に遠のいているからなのかわからない。ここから逃げなくてはと何度も繰り返す。
「君はここからは逃げられない」と小平進は言った。
ここから逃げなくてはいけない、帰る、私は帰るんだ、と何度も心のなかで繰り返す。もう口に出しているのかどうかすらわからなかった。でもそんなことはどちらでもよかった。
「君は」と小平進は美波の前に立った。「この牧場に来るべきじゃなかった。こんなことになるとは知らなかっただろうが、来るべきじゃなかった」
バスに乗ったことは後悔していない。安請け合いして雑居ビルを訪ねたことも後悔はしていない。
「足を見せてごらん」
「私がここに来た理由は」美波はつぶやいた。
「言わなくてもいい」
「来た理由は」美波は誰かが足を触っている気がした。痛みが頭まで飛んできた。目の前は明るかったが、なにも見えず、足首の痛みも遠くに感じられた。体が揺れていた。まるでバスに乗っているみたい。原舞子が近くにいる気がする。原舞子の肩を指で叩くと、彼女は振り返り一瞬戸惑ってすぐに笑顔になった。なに読んでるの? と美波は訊ねた。目の前にフラッシュみたいに光が弾けた。その後に痛みが遅れてやってきた。カラマーゾフの兄弟。美波は原舞子が文庫本の表紙を見せてくれる。私はこれから人に頼まれて雑居ビルに訪ねるの。なんの用事かって? と美波はほほえむ。
「わたしは人に会いにきたの」美波は途切れ途切れに言う。「会いたくはなかったけれど」
「誰に会いにきた?」と小平進は訊く。
「父」
美波はそうつぶやくとソファに沈み込み、眠りに落ちた。
7 原舞子
舞子はバスのなかで呼吸が止まりそうになる。あの電話の男だ、バスに乗っていたんだ。聞き間違いかもしれない。突如芽生えた恐怖心がそうであってほしいと願う。
「大丈夫?」
やはりあたしに電話してきた男だ。舞子は確信する。どうすればいいのか。男から情報を聞き出す。これだけだ。けれども怪しまれないか? 男があたしのことを知っていたら警戒するだろう。そんな心配は必要ないじゃない、ここはあたしの脳内の世界なんだから。たぶん。
「大丈夫ですありがとう急いでたもので」
舞子は頭を上げながら男を見た。笑みを浮かべて舞子を見ていた。父よりも年が上のようだ。スーツを着ていた。よく見ると皺が多い。今までに見たことはない。バスでも町でも学校でも。
つり革につかまりながら、でもどうやってこの男から情報を引き出すっていうのよ、と舞子は考える。男の視線を感じる。男はあたしのことを知っているのか? それともこの時点であたしのことを知ったのか? なにわかんない。男がバスを降りるまでにどうにかしなければ。それとも尾行する? 無理がある。地下鉄みたいに降りる人は多くはない。こっちは制服を着ていて目立ってしまう。今話しかけるのもおかしい。バスの中のほとんどの人は黙ったまま車窓から外を眺めているか新聞か雑誌か本を読むか携帯電話をいじっているか眠っているか。話し声はほとんどない。あたしが男に話しかければ注目される。男は警戒するだろう。いや、かまわないじゃない? あたしの脳内の世界だとすれば。現実の世界であってもかまわないじゃない、たとえば当り障りのないことを話せばどうだろう、たとえばこう。
「あのう」と舞子は男に声をかける。「お父さんの知り合いじゃありませんか?」
男は返事をせずに舞子を見上げた。自分に訊かれているのを確かめるように眉を上げる。にやりと笑うと幼児のような小さな歯がのぞく。舞子は寒気を感じた。バスは一つ目の停留所に着いた。男は動かない。
「君の」男は舞子の足からスカートを抜けて顔を見て言った。「名前はなんだろう?」
名乗っても平気だろうか? ここはあたしの脳内の世界だ、かまわない。と踏んだ。
「原です」
「原」と男は考える。顔色は変わらない。この男じゃない? と舞子は首を傾げる。
「申し訳ないが君のお父さんとは知り合いじゃないようだ」
「長谷川さんじゃありませんか?」
「人違いです」男はにっこりと笑う。けれども目は笑ってない。
「今城さんでしたっけ」と追撃する。
「いや、違うよお嬢さん」
バスの中がいくらかざわついてきた。かまわないさ。男が怒れば本性を現すかもしれない。おもしろいじゃないか。舞子は笑みを浮かべる。
「お名前は?」と訊く。
「朝っぱらから失礼なお嬢さんだね」と隣の他人に笑いかける。焦ってるように見えた。ここはあたしの脳内の世界だ。その証拠は? と自問する。あたしが行動した結果返されてくる反応、人や物から、万物からのあらゆる反応はあたしの脳内での化学反応にすぎない。誰かを殴れば殴ったという反応をあたしの脳は創り上げる。殴られた目の前の人間は損なわれないけれど。あたしが脳の最も高レベルのコントロール部の実権を握らない限り現実世界とほとんど違いのない反応が目の前で繰り広げられてしまうのだ。あたしの脳がつくる世界であったとしてもあたし自身が王にはなれない。
「お嬢さんもういいかな?」と男が訊く。
舞子は目を閉じた。もしも自分が創り上げている世界であるならばあたしがこの世界をコントロールすることなんてたやすいはず。あたしはそれを知らないだけ。
バスは交差点をすぎ、スピードを上げる。エンジン音。外から他の車の走行音が聞こえる。
あたしは知っている。知っているはず。どうしてか? そんなことはどうでもい。どうしてかはわからないけれど、あたしは知っている。
バスは速度を落とす。
「失礼」と男が言った。
舞子は目を開けた。男は立ち上がり前方に歩いて行く。
「待って!」
バスの乗客が舞子を注目した。男も不審そうに舞子を振り返った。口元に笑みが浮かんでいた。
バスは停車し、ぞろぞろと乗客が降りていく。男は肩をすくめて流れに乗って前に進む。舞子は男を追いかける。
「待って!」と舞子が叫ぶと男は、
「いいかげんにしてくれ」と言いながら立ち止まった。「私がなにをした? 君になにをしたんだね」
バスの全員が舞子と男を見守った。運転手が立ち上がり男に近づく。
「どうかしましたか?」
「あなたはあたしを知っているはず」と舞子ははっきりと言った。「ごまかさないで認めなさい」
「君ね、いいかげんにしないと警察に厄介になるよ」
「お客さん」と運転手は男に訊く。「どうかしたんですか?」
「どうかしたもなにもないよ、理由はわからないがあの子が私に突っかかってくるんだ、気味が悪いよ」
運転手は男と舞子を交互に見る。舞子は顔が赤くなっているのを感じた。ここは本当にあたしの脳が作っている世界なのだろうか? 疑いが大きくなる。そうだったら、どうしよう。
「運転手さん」男は言った。「私は急いでるから大事にはしたくない、腹立たしいが」と前に進む。「現代っ子は頭がおかしい」
「黒いソファに座っている男はいったい誰?」と舞子は叫ぶ。ここがどちらの世界でもかまわない。男は立ち止まった。「あなたを」と舞子は言う。「二十秒後」男は振り返る。「この世界から消す」舞子は男を指さす。男は笑い、呆れるように頭を振った。他の乗客たちも同じような顔で舞子を見ていた。
「あなた降りてくれませんか」とバスの運転手は舞子に言う。「交番に連れていきたいが時間が惜しい」
男は、「学校に連絡すればいい、お灸をすえてもらいなさい」と定期券をひらひらさせる。「それとも病院の方がいいかな、お父さんもお母さんもお兄さんも心配するぞ」
「どうしてあたしに兄貴がいることを知っているの」舞子はにやりと笑う。
男は眉を上げ、笑いながら、
「偶然にすぎないよ。兄弟姉妹、あるいは一人っ子か、パターンは多くはない。この程度のことで鬼の首を取ったような顔されてもね」と周囲の人に同意を求めるように笑う。
「はい二十秒」
ここはあたしの脳内が創り上げた世界なんだと証明した。
男のパスケースがバスの床に落ちた。男は煙も悲鳴も抵抗もなく消えていた。全員が何事もなかったかのように始まる。運転手は運転席に戻り、降りようとしていた客もバスから降りた。舞子は男のパスケースを拾った。咎める者は誰もいなかった。男は初めからいなかったのだ。男に関する記憶は修正され、補完され、時間に沿ってすべてが進み始めたのだ。
舞子はそのまま平安な朝のバスに乗って学校の最寄りの停留所で降りた。
いつものように校門をくぐりながら舞子は男のパスケースを調べる。バスの定期券には名前があった。
江黒史郎
A町からB町。期限。
舞子は人のあまりいない朝の学食に行き、パスケースの中のものをすべてテーブルに出した。
四つ折りの古い紙、コーヒーショップのポイントカード。それだけだった。
男を消してしまったのは尚早だったのかもしれない。また出現させればいいじゃないの、と舞子は思った。やってみよう。消せたのだから、出すことは難しくはないはずだ。舞子は周囲に聞こえないように 聞こえたってかまわないのだけれど 言った。
「江黒史郎は二十秒後」二十秒でなくてもいいんだけれど、「ここに出現する」と舞子は言った。
舞子は椅子に座って待った。どう考えても二十秒はすぎたけれどもなにも変化はなかった。煙も上がらず火花も散らず悲鳴もなく空間も歪まなかった。
もしかするとこうかもしれない、と舞子は考える。江黒史郎という男を見るのはバスの中だけ。だから学食に出現させたりはできない。この世界はあたの脳が創り上げている世界だ。登校時のバスで視界に入っていた。だから江黒史郎と話したりできるのはバスの中に限れる。その推理が正しいのか間違っているか追証しようがなかった。
どちらにしてもあの男は学食には現れない、と。わかった。つづけよう。時間を浪費したくはない。
舞子は傷だらけのテーブルの上でゆっくりと開く古い紙に気づいた。広げてみる。期待はなかった。そんなものがない方が結果を楽しめる。
その前に舞子に疑問が持ち上がる。海から鯨が浮上してくるみたいに。江黒史郎は記憶にはないけれど毎朝バスのなかで見ていたのかもしれない。けれどもこの紙はどうだ? 男がバスの中で広げていたのを見たのだろうか? そんな些末なことはどうでもいいじゃないの。舞子は紙に書かれた文字を読む。丁寧ではないが下手ではなかった。万年筆で書かれているようだった。
私はそれを偶然に発見した。死を願って森の中にはいった。私の望みは迷い力尽きて命を失うことだった。しかし私はそれを見つけてしまった。生きることを余儀なくされた。死は遠ざけられた。私は生きることよりも壮絶で過酷であろうことは想像できなかった。積年の心の苦痛から解放されることしか見えてはいなかったのだ。だが私はそれを見つけた。私には後退して湿った土の上を屍を夢見てさまよう選択肢は残されていたにもかかわらず、私はそれを自らのものとした。私は罪人ではない。私は人の役に立っている。私は忘れない。
紙は何度も広げられ折りたたまれて柔らかくなっていた。江黒史郎は時間があるとこの文章を読んでいたのだろう。
舞子はここに書かれている「それ」がなにを意味するのかわからなかった。男は自殺するためにどこかの森に入り、「それ」を見つけた。男は「それ」とかかわり、「人の役に立」つことをしているが、心のどこかで「罪人」かもしれないと考えている。
「人の役に立」つことが舞子を「世界から消す」ことだったのかどうかはわからないが、無関係ではなさそうだった。
舞子は紙を折りたたむとパスケースに戻した。コーヒーショップのポイントカードにはどの支店なのかは書かれていなかった。どこでも使えるのかもしれない。レジで「ポイントカードありますか?」と訊かれて「ない」と答えればくれるタイプのようだから男に関する情報はなかった。コーヒーを飲むのかココアを飲むのかさえわからなかった。舞子はポイントカードと定期券も戻した。
江黒史郎を消したことでここは自分の脳内で生成された世界だと知ることができた。しかし江黒史郎を消すことで得た情報は名前と謎に関する短い手記とコーヒーショップで時々和んでいることくらいだった。江黒史郎が舞子を消したのかどうかははっきりとはしなかった。今になれば同じ声だったのかどうか怪しいし、男がバスの中で叫んだこと 舞子に兄がいること は偶然当たったのかもしれないと思った。けれども舞子がソファに座る男の話をしたとき、江黒史郎の顔色は明らかに変化した。突然の指摘で動揺が素直に現れ出たのだ。
あたしの脳内の世界での反応であっても江黒史郎の反応であることには変わりがない。舞子は強く思う。
舞子は江黒史郎のパスケースをポケットにしまったとき、体が揺れた。立ちくらみ? と思ったけれども違った。地面の底から巨大なゴリラのような凶暴な獣の拳が叩いているような振動が襲ってきた。地震とは違う。舞子は周囲を見渡す。何人かの男子生徒がごく普通にしゃべっていた。厨房のおじさんたちもいつもと変りなく働いてた。舞子だけが揺さぶられているのだ。
暗闇にいる自分自身が攻撃されているのかもしれない、と舞子は考えた。
一度、この世界から戻るか。それともつづけるか。
あたしは待合室のような暗闇からついに消されるための空間に移動する時が来た、と考えると舞子は自分がシュレッダーにかけられて粉々になった紙を思い出し、頭が混乱した。
だめ舞子、正確に状況を観察して判断しないとだめ。
舞子はよろよろしながら学食から飛び出した。渡り廊下の屋根を支える支柱にぶつかる。近くにいた女子生徒が心配そうに舞子を見た。地面を叩くような振動の間隔はまばらだった。それはメッセージのようにも思えたし、意味ありげな脅迫にも思えたし、舞子の精神状態を写す信号のようにも思えた。
江黒史郎がバスの中であたしに消されたことで現実の世界にいる江黒史郎がなにかを察知したのかもしれない。その警告のように思えてきた。とすれば江黒史郎は暗闇にいるあたしを監視している? わからない。情報が少なすぎる。視線を感じる? 感じない。
舞子は教室に向かう。廊下を進み、階段を上る。振動は強くなっている。壁を這い、足を踏ん張る。教室になにかがあるわけではなかった。いつもの習性だった。バスに乗り学校に辿り着けば教室に入る。そうすることで舞子は平安を取り戻せるような気もした。
「おはよ舞子あれどうしたの?」
教室に入るとすぐに声をかけてきたのは今村恭子だった。
「バスに酔った」と舞子は言った。
「あらなんでいまさら」と今村恭子は笑った。「保健室に行ったら?」
「大丈夫静かにしてりゃ」舞子はふらふらと席についた。よくみんな立ってられるな。自分だけかこんなの。
視界の隅に二つの目が自分に向けられているのに気づく。
糸屋美波はふらふらしている舞子を見ていた。
そうあたしは美波さんに会いたかったんだよね。美波は舞子と目が合うとさっとそらした。あたしの中で美波さんはそんな感じにクールでいつも窓の外を眺めている。ここにいてここにいない雰囲気。壁を作り卒業するまでの長い長い時間をつぶしている。土の中で何年ももぐっている蝉みたいに。
舞子は立ち上がった。近くにいた近藤泉水が「舞子大丈夫ふらふらだよ」と舞子の腕を支える。
「大丈夫オーケー」と舞子は言いながら机と椅子の間を縫って進み、糸屋美波に近づく。糸屋美波は舞子が近づくのに気づくけれど、知らないふりをする。舞子にはそれがわかる。美波の隣の机に舞子はぶつかってしまい、転びそうになった。美波がさっと立ち上がりながら舞子の腰を支えた。
「ありがとう糸屋さん」と舞子は笑う。
「医務室に行ったらどう? そんなにふらふらしてるなんておかしいよ」
「体の調子はいいのよ、これでも」
止まることなく振動は続いていた。これが地震だったらとっくの昔に校舎は倒壊しているだろう。
「美波さん」と舞子は美波の隣の椅子に座る。
「原さん、なにか用かな」
女子全員が舞子と美波に注目していた。美波は舞子の肩越しに教室を見渡し、居心地の悪い気持ちになっているようだった。
「あなたと話すのはこれで二度目なの」
「二度目?」美波は目の玉をぐるぐるとさせて考え、頭を振った。
「覚えていないと思う。これはあたしにとっては二度目っていうことだから」
美波は微笑し、頬杖をつく。
「よくわからないけれど。用はなに?」
「用はね」舞子は足を組み直した。「ないの、ただ」
「ただ?」
「あなたとゆっくりしゃべりたかったの」
美波は飴玉を謝って飲み込んだような顔をした。
「私と話してもたぶんつまらないと思うよ」
「どうして?」
美波は舞子の顔からいつもの窓の外に視線を移し、黙りこむ。
「糸屋さん、どうしてそう思うの?」
窓の外には薄曇りの空と遠くにビル群が見え、校庭からは男子たちがボールを蹴る音が響いてくる。
「糸屋さん」と舞子は呼ぶ。気のせいか振動が激しく強くなっている。巨大な拳をやめ、巨大な金槌に替えたようだ。
「つまらないおしゃべりなんてないよ、ある意味ではおしゃべりなんてつまらない、それでいいのよ、真逆のこと言ってるね」と舞子はよろよろと立ち、糸屋美波の肩に手をおいた。反射的に美波はその手を払った。
「ほっといてよ!」
教室が静かになった。美波は立ち上がり教室を出て行った。
舞子の友達が近寄ってきて舞子を囲む。口々に「大丈夫?」とか「なによあの子」とか「どうしちゃったの?」などと言っていたが、舞子はよろよろしながら糸屋美波を追いかけた。
「舞子ほっときなさいよ」と誰かが言った。
糸屋美波は廊下の窓から外をぼんやりと見ていた。舞子は教室の扉に体をぶつけた。美波が振り返り、一瞬心配そうな顔になったがすぐに窓の外に視線を戻した。舞子はよろよろしながら美波に近づくと転びそうになった。また美波は舞子を支えた。
「原さん」美波は憮然とした顔で言った。「何度も言うようだけど医務室に言ったほうがいいわよ」
「ねぇどうして私としゃべってもつまらないとか言うの?」
美波は舞子の目をじっと見た。
「つまらないから、私という人間が」
「あたしは糸屋さんとしゃべったら楽しいだろうなとか、そんなこと思ったからしゃべろうとしたわけじゃない」
「それじゃいったいなに?」
舞子は糸屋美波の黒い瞳を見つめる。
舞子の左の足首が突然に痛みだした。糸屋美波の右の瞳に草原が、左の瞳に牛が映っているのに気づく。
「原さん、どうかした?」
舞子は美波の瞳に食い入るように見る。足首の痛みが放射状に全身に広がる。痛みはまるで遠くの現象のように感じられる。振動がさらに強く、間隔も狭まり、舞子は立っているのが精一杯だった。
どういうことだろう? この痛みはなに? どうして足首がこんなに痛むの?
舞子は足首の痛みで立っていられなくなり、糸屋美波につかまった。
「原さん大丈夫? 顔色が悪いよ」
舞子は糸屋美波の体が冷たいのに驚く。いやな臭いがする。体臭なんかじゃないし、香水とかでもない、犬とか猫とか動物みたいな臭い。彼女から漂ってくるという感じじゃない、彼女の周りにまとわりついているような。
「糸屋さん」舞子は訊く。「バスに乗っていたのはなぜ?」
「バス?」
「そうあたしと同じ方面のバスに」
糸屋美波は首をかしげる。
「原さんとバスで会ったことなんてあった?」
「あなたが覚えていなくてもあたしは覚えてる」
糸屋美波はにっこりと微笑んでこう言った。
「今日、学校の帰りに行かなくちゃいけないところがあるの」
8 糸屋美波
「でも私は気がすすまないの」と美波はつぶやき、はっと目を覚ました。ベッドの上にいた。
足首の痛みは消え、体のどこも痛くはなかった。足首には分厚く包帯が巻かれていた。
制服ではなく入院着になっていた。裸にされたとわかり怖気がたった。携帯電話もなく、制服も見当たらなかった。狭い部屋だった。机とベッド以外には釘一本落ちていない。今から誰かが引っ越してきそうなくらいになにもない素っ気ない部屋だった。病院などではなく牧場の建物の一室のようだ。扉には鍵がかかり、窓ははめ殺しだった。窓の外は真っ暗だったがしばらく見ていると牧草地と木々が見えた。誰も助けになど来てはくれないと感じる。美波は泣きながら強く閉じた瞼の裏にさまざまな情景が映るのを見た。特別なことではない。日常のことだ。美波はベッドの上でうずくまった。膝を抱えた。寒くはなかったが美波は震えていた。恐怖のせいだと思っていたがどうやら違った。その震えは両肩から発生していた。皮膚や筋肉の痙攣とも違った。美波は目を閉じた。目の前が暗くなると一人ではないような気がした。自分は頭がいかれてきているのかもしれない。美波はそう思うと笑った。その方が楽なのかもしれない。なにも感じず、なにも想像せず、なにもわからない状態の方が。まるで廃墟のようになった自分を想像する。魂も生気も温かみもない自分。打ち捨てられて殻だけになった自分。それはもう糸屋美波ではない。私は夏のアスファルトに撒いた打ち水のように誰も気づかないうちに蒸発して消えるのだ。
それがあなたの望みなの?
違う。私は帰りたい、こんな気味の悪いところで死にたくはない。
それがあなたの望みなの?
自分の中に響くその問いは何度も繰り返される。それは自問ではない。私の声じゃない?
美波はベッドから抜け、部屋の中を見渡す。逃げ道はあるのか。まるで扉は壁に扉を打ちつけたように固く閉じられている。隙間からはなにも見えない。音も聞こえない。小平進はどこに行ったのだろうか。美波は窓に近づく。窓枠を調べると鋭い金属があれば外せそうな感じだった。窓の外には鉄柵もない。ガラスを割ることも考えたが、この静けさだと割る音は聞こえてしまうはずだ。美波は外を見てまた泣いた。この部屋から出られたとしても町に着くまでにあの男にすぐ見つかってしまうのではないか。それに町はどこにあるのかも知らないし、距離もわからない。死ぬことよりも捕まってぶたれる方が耐えられないし、なにをされるかわからない。
今は逃げることよりもおとなしくしている方が得策かもしれない。
美波はベッドに戻った。シーツも掛ふとんも清潔だった。もしかすると女性がいるのかもしれない、と直感的に思う。けれど女性がいたとしても小平進の仲間にはかわりない。あの男の奴隷のような存在かもしれない。
足音が近づき扉の鍵が開錠した。小平進がトレイを持って入ってきた。美波はベッドの隅に後ずさり、体を硬くする。ベッドの上には手頃な石は転がっていない。
「痛みはどうかな」小平進はトレイを机に置いた。白いボウルにスープ、ロールパンとマグカップがあった。湯気が上がり、いい匂いがした。
「口に合うかどうかわからないけど食べるといいよ」
美波は一ミリも動かなかった。小平進を睨んでた。ごく当たり前に。
「いくつか君に行っておかなければならないようだね」と言い美波に近づく。美波は壁に体を押しつける。
「こっちに来ないで」
小さな声が震えていた。
「足首は捻挫だった。医者は薬を貼って心配ないと言ってた。君を着替えさせたのは俺じゃない。君の裸を見たのは俺でも医者でもなくここで働く娘だ。少しは安心したかな」
「私をどうする気ですか」
「その前に食べてくれないか。冷めたらまた温めなくちゃいけない」
「私を帰してください、警察か家に電話させてください。なにも言ったりしません」
「なにを言う? 俺が君をぶったこと? そんなことは言ってもちっともかまわない。さあ先に食べてくれ、変なものは入っていないから」
小平進は部屋から出る前に、
「食べた頃に来る」と言って鍵をかけた。
美波はトレイに近づいた。フォークとスプーンが一本ずつあった。どちらもアルミ製で窓枠を外す作業には役に立ちそうにはなかった。
スープはトマトスープだった。にんじんと玉ねぎとコーンが入っていた。マグカップには温かいミルクがなみなみと注がれていた。ロールパンは香ばしく、バターの香りがした。美波はトレイから離れた。部屋のなかに食べ物の匂いが充満した。美波はベッドの端に座り、トレイを膝の上に置いて食べ始めた。
食べないと力も出ないし、気分も落ち込む。私はここを出て、帰るんだ。ロールパンをちぎり、口に放り込む。スープにスプーンをつっこんでにんじんと玉ねぎとコーンをすくう。ミルクを飲み干し、ロールパンにかぶりつく。体が温まり、途切れそうになっていた気力が湧き上がってきた。
ここにいる女性とはどんな人だろう? 私のように捕まってしまったのかもしれない。ここから救出される希望を失い、逃げ出す試みもつぶされ、なにも考えずに奴隷に徹する。
私はいやだ、必ず帰る。
美波はすべてを食べ終えてトレイを机に置いた。フォークが目についた。男の首に正確に突き刺すことを考える。小平進は美波より二十センチは高い。よほどの隙がない限り攻撃したとしても致命傷を負わせるのは難しいと美波は思った。いやこの部屋から出るだけでもいい。小平進を攻撃し、この部屋から出て、鍵をかける。それだけで十分だ。できるか美波? 自分に問う。幸い足首はもう痛まない。走ることは難しかもしれないが、歩いてどこかに隠れることもできる。外には干し草をすくう巨大なフォークのような道具もあるはずだ。そいつで小平進の腹を刺せば殺せる。私が殺人を? 生きて帰るためには仕方ないことだ。それともここで白痴の奴隷になるとでも?
美波は強く頭を振った。
いやだ、帰りたい。
ノックが響いた。美波はトレイからフォークを取ろうと手を伸ばした。鍵穴に鍵が差し込まれた。フォークがトレイから落ちる。鍵がカタンと音を立てる。フォークを追って美波はベッドから降りる、フォークはベッドの下に転がっていた。腕を伸ばすが届かない。ドアノブが回る。美波は肩が抜けるほど腕を伸ばす、指の先にフォークが触れる。
扉が開いた。美波は姿勢を変えてベッドの端に座り息を整える。心臓が破裂しそうなくらいに鼓動を打っている。扉には小平進ではなく女の子が立っていた。小学生五年生くらいの女の子だった。
女の子は黙ったまま一礼した。
美波は驚いていた。美波が想像していたのは目の死んだ生気の失われた女性だった。部屋に入ってきてトレイを持った女の子はどこにでもいるような女の子だった。ジーパンを履き、防寒服を着ていた。
女の子はトレイをじっと見ていた。
「あなたは」と美波は訊いた。「ここの子?」
女の子はトレイから目を離さずに、頭を振った。
美波はこの子を突き倒して部屋から出ることを考える。この子に罪はないが、自分が助かるためには仕方のないことだ、と自分を説得する。この子を人質にするのもいいかもしれない。
「ここの子じゃないとしたら」と美波は言う。「どこから来たの?」
女の子は掌を美波に差し出した。
「なに? 私があなたにあげるものなんてないわよ」
女の子は哀願するような目で美波を見、トレイを指さした。
フォークがないと女の子は言っているのだ。女の子はトレイを机に戻し、防寒服のジッパーを下ろした。セーターの首に手をやり、ぐいと引っ張りさげる。
美波は目が開き、息を飲む。
「ひどい」とつぶやく。
女の子の首から下に無数の火傷の痕があった。小平進のお仕置きだということは女の子が黙ったままでもはっきりと理解できた。
フォークがないとまた傷めつけられる。
女の子はジッパーを上げ、トレイを取った。
美波は震える手でフォークをトレイに置いた。涙がぼろぼろと落ちた。すべては小平進の計画なのだと思った。美波がなにをするのか先回りして知っている。あの冷酷な男の遊びのためにこんな女の子まで利用している。
女の子は黙ったままトレイを持って部屋から出て行こうとした。美波はベッドから降りて女の子に近づいた。
「あなたはどこから来たの? あの男に監禁されているのね?」と小声で訊く。
女の子は無言のまま美波を見つめる。
「おうちはどこ? いつからここにいるの?」美波は女の子の肩を揺すった。「なにか答えて。私と逃げる? 逃げたくない? 帰りたくないの?」
二つの目が美波を見ていたが、女の子の目にはなんの感情も浮かんではいなかった。いつからいるのかもわからなくなっているのかもしれない。ひどい仕打ちで精神がおかしくなっていて、記憶も薄れているのかもしれない。
「私と逃げたくない?」
女の子は両肩に置かれた美波の手を振り払うと、ゆっくりと頭を振った。それだけで十分だった。女の子は部屋から出て行くと施錠した。美波は女の子の足音が聞こえなくなっても扉の近くで膝をついてじっとしていた。涙がすべて流れてしまい、もう悲しくはなかった。
ここからは出られない。
美波はベッドの端に座り、目を閉じた。目の周りがひりひりと痛む。塩分を含んだ涙のせいだ。美波は自分の両肩を抱きしめて震えがあるのを思い出した。それは小さくなっていたがまだ微かに震えていた。恐怖が限界を越えたために変調をきたしているのかもしれない。美波は自分がどうなっていくのだろうか、と怯える。このまま頭がいかれてしまった方がいいんだ。美波は髪をかき、歯を食いしばる。シーツを引き裂きロープを作って首を吊って死んでしまおうか、と思う。ドアノブかベッドと机を使えば簡単だろう。あの男の奴隷になるのはいやだ。知らない土地の土に還ってしまう方がましだ。
美波が死を考えたとき、瞼に影が通り過ぎた。美波は背中をびくりとさせ、目を開けた。部屋には自分以外、誰もいない。動くものは何一つなかった。精神が崩壊しつつあるのかもしれない。美波は眠るようにそうなればいいな、と考える。瞼にまた影と光が通り過ぎる。瞼越しにではないのだ、と気がつく。美波は瞼に焦点を合わせようとした。目玉の筋肉がぎしぎし音を立てそうだった。影と光と色が見えた。ぼんやりとしていたが動いているのがわかった。しばらくすると人の形になっているのがわかった。誰かが目の前にいるような感じだった。
知っている人かな。
美波は匂いを感じた。今いる部屋にはない匂いだった。
いよいよ頭がいかれてきた。と美波はつぶやく。かまわない。なにも感じない人間になればいい。毎日折り合いをつけることのできない苦痛と共に生きるのはいやだ。
誰? あなたは誰?
「どうして気がすすまないの?」美波の耳にはっきりと声が聞こえた。まるで故障しかけた電話で話しているような声だったけれども。美波は目を開け、部屋を見渡した。やはり誰もいない。幻聴なのか。はっきりと聞こえた。目の前にいた誰かが私に訊いた。
どうして気がすすまないの、と。
どういう意味だろうか。美波はすぐに気がついた。目が覚める前、「でも私は気がすすまないの」と寝言を言ったのを思い出した。
美波はまた目を閉じた。ぼんやりとした光と影と色が見える。よく見るとピントの合っていない映像のようだった。しだいに輪郭がまとまってきた。人の形がさっきよりもはっきりしていた。けれども誰なのかはわからない。幻覚と幻聴なのだろうか。頭が緩慢にいかれてきているのか。美波は心のなかで答えてみる。
「私が七つのときに消えてしまった父と会うかもしれないから」
会うのがいやなの?
「どんな顔をすればいいかわからないし、消えたことは許せないから。それになんだかおそろしいの」
なにがおそろしいの?
「私の知っている父が変わってしまっているような気がして」
十年も経てば少しは変わってしまっても仕方のないことじゃない?
「少しじゃなくって私が心の底から驚くくらいに変わっているの」
たとえば?
「人じゃなくなっている」
それでもあなたのお父さんには変わりがないんじゃないの?
そこで“会話”は途切れてしまう。こめかみが痛むなか、美波はその声に聞き覚えがある気がする。思い出そうとするとこめかみの痛みが増した。
私はその声を知っている。温かく私を助けてくれるような声。美波は頭を振った。ありえない。ここから誰も助けてはくれない。その声は私の幻聴かもしれない。つまらない期待はしたくはない。でも誰かに私はここにいると伝えておきたい。携帯電話があって圏外じゃなければ叶うのに。
私はここにいる。見知らぬ場所の牧場の建物の部屋の中にいる。小平牧場。これがこの場所の名称。
美波は何度も心のなかでつぶやいた。芥子粒くらいの伝言がやがて大きくなっていき、美波の頭から溢れ出して誰かの心に届いてほしいと願う。
硬く鋭いノックがして、美波は顔を上げ、私はまだ狂っていないと自覚する。そんなに簡単に頭はいかれてくれないんだ。まだ命があり、望みがあるからなのか、狂気の淵から爪先を出さない限り精神はしっかりとしているべきだからなのか。二つの目がすべてを見、二つの耳ですべてを聞く。魂が恐怖で飽和するまで目の前の現象に焦点を合わせないといけないのか。
扉が開く。
「わかった」と美波は言う。「どんなに怖くてもこの目でしっかりと見届ける」
小平進が部屋に入ってくる。
「君に見せたいものがある」