表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20s  作者: キミナミカイ
1/3

暗闇

 1 原舞子


 原舞子は叫んだ。

 声は底のない井戸に石を落としたときのようにいつまでたっても進んでいくばかりだった。

 喉の奥がちりちりと痛み、これ以上は大声を出す気力もなかった。体力はなんの留保もなく奪われてった。まるでひびのはいったコップから水が一滴一滴確実に流れだすように。

 瞼を閉じると、昨夜の夕食が思い出された。瞼を閉じた方が明るく感じる。いつもと同じような食事だ。ご飯と味噌汁と豚カツとポテトサラダ。また太るわと言いながらおかわりしちまった。

 こんなことになるとは思わなかったけどおかわりしててよかった。と思っている場合じゃない。舞子は意識を集中した。するとコップのひびはきれいに消えた感じがした。

 ここはどこだろうか。真っ暗だ。奥行きがなく、眼球に黒い物が張りついているような感じでもあった。けれども眼球に異物感はなく、いつもと変りなかった。


 舞子は腕をでたらめに動かしたけれど壁にはぶつからなかった。けれども自由に歩くことはできなかった。人はいくつかの条件が揃って初めて歩行が可能となるのだと舞子は知った。なるほど。条件。重力があること。床か地面があること。拘束されていないこと。歩く意思があること。

 舞子には歩く意思はあった。拘束もされてはいなかった。舞子は昨日までと同じく、いや昨日よりも自由だった。けれども重力も床も地面もなかった。

 え? 浮かんでる?

 水中で停止しているのとは違った感覚だった。体が上下を感じていない。

 え? 宇宙?

 と舞子が思い当たるまでに時間はさほどはかからなかった。正解かどうかは別として。

 匂いはなく、埃っぽくもなく、寒くなく暑くなかったし、息苦しくもなく、風も吹いてこなかった。自分がいるところが宇宙だとは思えなかった。ロケットやスペースシャトルに乗った記憶はまったくなかったし、乗る予定もなかった。それに宇宙に行くのにどれだけの金額を支払わなければならないのか正確な数字は知らないけれども、誰がポケットマネーで女子高生を宇宙に連れて行くというのだろうか。

 ばかげてる。と舞子は思った。宇宙ではありえません。

 宇宙でなければどこだろうか。

 誘拐? あの家の子を?

 舞子の家はごく普通のサラリーマンの一家だ。貯金はない。家を買って十年経つ。父の給料もずいぶんと上がっていない、と母が愚痴をよくこぼしていた。間違っても金目的で誘拐などするわけない。たとえ誘拐であれば、廃墟と化した工場だとかの椅子にロープでぐるぐる巻きにされ、目はガムテープ、口はタオルで猿轡をされ、男が「おめぇじっとしとれよ、おとなしゅうしとれば、けがはさせんかんな」などと脅して舞子は泣いたりするわけだけれども。自由。いつもより自由度は高かった。

 あ、死んだ?

 天国。と舞子は思った。真っ暗だからもしかすると地獄か。地獄の門の近所か。門が開くのを待ってるわけか。と舞子。いやまて舞子、あたし。天国だの地獄だのは人間が創作した世界だ。少なくとも舞子はそう考えている。原始宗教が成熟し近代化を勧めるために合理化と集金システムと教徒を増やすためにいろいろと整備し、体系化し経営するためには必要な創作だ、と舞子は考えている。その中で天国と地獄の概念が作られた、とすればここは天国でも地獄でもない、また別の場所だ。と舞子は思った。

 ここはマジな死後の世界?

 わかった。と舞子は記憶を遡ることにした。最後の記憶はなにか? そこで事件か事故に巻き込まれていればここは死後の世界の可能性が高まる。やってみる価値はある。時間もたっぷりあることだし、どうやら自分は立っているようだけれども、疲れはなかった。呼吸のできるゼリーの中にとっぷりと沈んでいるような感じだ。まったく疲れない。お腹は空く。胃の中がからっぽになればお腹が空いたと脳が教えてくれる。

 最後の記憶は?

 高校の帰りだ。糸屋美波とバスに乗り合わせた。糸屋美波は同じクラスの友達であまりしゃべらないけれどもその日たまたま読んでいた文庫の題名を訊かれて渋々答えた。どうして渋々なのかといえば、読んでいる期間に邪魔が入る感じがするからだ。

「え?」と舞子。

「かなりぶっといけど、なに?」

 舞子は逆に質問を返す。

「糸屋さんは小説とか読むの?」

 糸屋美波は逆に質問されて顔を二ミリだけ歪め、「美波でいいよ」と言った。「糸屋は好きじゃないから」

「う、うん、まぁ」と濁す感じでありありとわかる。

「ミステリーとか?」と美波は追撃する。

「まぁミステリーっぽくなってきた」と舞子はあくまで濁す自分が馬鹿な卑怯者に思えてきた。文庫の表紙をめくって見せた。

「カラマーゾフの兄弟」と美波は題名を読んだ。「へぇぇ」

「たまたまね兄貴が読んでたのを借りたら」と言い訳する理由が自分でもよくわからなかった。「どーなんのどーなんのって読んでんのよ、ねえねえところで美波さんはピロシキとちょうざめのスープのどっちが好き?」

 美波は「うーん」と考えた。

 なんて言ったっけ? と舞子は考えた。思い出せ、思い出せ、どっちでもいいことだけれども。

 そう、バスだ。バスがカーヴを曲がったところでドンと音がして、車内に衝撃と叫びが上がって、ピロシキとちょうざめのスープなんかどうでもいいくらいに乗客がぐちゃぐちゃに倒れたりしたことを舞子は思い出した。

 バス事故?

 ということはやっぱりここは死後の世界なのか?

 えぇぇぇぇぇぇぇ!

 いや待て舞子、と舞子は気がついた。

 その後の記憶があるぞ。

 バスは急ブレーキをかけて停まった。バスの前の方の乗客が「おいおい婆さん気をつけろよ」と叫んだから、バスの前に現れたお婆さんを轢きかけて事故にならずにすんだ、とわかった乗客の全員は体を起こしながら安堵し、「すんません」とか「大丈夫ですか?」とか「さあ座って」とか言い合っていた。

 舞子も美波が倒れているのを見て、手を差し伸べた。美波は照れ笑いしながら、

「ちょうざめってなに味?」と訊いた。

 なに味だろう?

 カラマーゾフの兄弟ってロシア料理に関しての本じゃないから情報がほとんどない。ピロシキはパン屋にもあるからだいたいあんなのだな、とわかるけれど、ちょうざめのスープはまったくわからなかった。アメリカ人が日本の小説を読んで「ほうれんそうのおしたしってなにー? ほうれんそうをどうするの?」とか思ってんだろうな、と考えると笑顔になった。

「申し訳ありませんでした。お怪我の方はいらっしゃいませんか?」と運転手がアナウンスした。

 バスの車内にけが人はいないようだった。よかったよかった。すぐにバスは出発した。

 ここは死後の世界じゃねぇ。

 その後、美波にカラマーゾフの兄弟の話をした。まず名前を覚えるのが大変。カラマーゾフ親父はとんちんかん親父だ。もうみんなよくしゃべるしゃべる、とか。文学的なことは一切話さなかった。そんなことはよくわからないし、昔の小説をおもしろいって読めるだけで素晴らしいことだと舞子は思うからだ。

「へぇ私も読んでみようかな」

 と美波が本気っぽく言ってくれたことが舞子にはうれしかった。

 美波さん買ったかなぁ? それともその場しのぎの単なるノリで言っただけなのかな。

 美波という子がどんな子なのかがわからないから、買うかどうか推測するためのデータが足りなかった。

 さて、最後の記憶は?

 その後、舞子は先にバスを降りた。窓から美波が手を振っていた。友達になれた瞬間だ、と舞子は感じた。

 ここで舞子は奇妙なことに気づいた。些細なことかもしれない。

 美波は違う方面のバスではなかったか。何度か別の方面のバスを待っているのを見たことがあった。記憶が違っているのか。誰かと間違っている? 買い物にでも行くつもりだったのか。塾とか友達のところに行く、あるいは病院に。見舞いか診察に? 今は確かめるすべはない。携帯電話も見当たらないし、鞄もなにもない。

 学校では本を読んでいる暇もない、といえば嘘だ。暇なんか作れる。それにカラマーゾフの兄弟なんて読んでいたら冷やかされるか真面目だと思われるか、メリットはない。舞子は学校での自分の立ち振る舞いを思い起こした。朝に始まり、授業中、休み時間や昼休み、学食での自分や友達といるときの自分を。自分はまるで人が買った服を毎日無理して着ているような感じがした。

 友達のグループでは率先して話題を提供する。盛り上がればさらに盛り上がる話題を差し出し、盛り下がりそうな寸前に話題を変える。その間、休みなく友達の表情や仕草を見、言葉に注意をはらう。

 そして下校。同じ方面のバスは自分だけだ。鞄から文庫本を出す。読み始める。物語に吸い込まれ、その中で呼吸する。自分を取り戻す感覚がする。恥ずかしいことじゃないとは思うけれど、隠してしまう。世の中にはそんなのと同じことってあると舞子は思った。

 美波は舞子の秘密を知ろうとした。美波からすればそんなことは秘密には入らないと思うかもしれないが、舞子にすれば秘密だった。家の玄関を通れば、文庫本を開く時間はまた限らてしまう。兄がカラマーゾフの兄弟を読むのは真っ赤な嘘だ。舞子がカラマーゾフの兄弟を読んでいると知れば、たぶん馬鹿にするだろう。母も父も舞子を茶化すだろう。父も母も兄も、原家には文化がない、と舞子は思っている。だから家で本を読むのは自分の狭い部屋だけだが、どうしても読む気にはなれない。部屋のせいなのかどうかわからない。原家の中に含まれているからだと舞子は考えている。

 さて、ここはいったいどこなのだろう?

 どれくらいの時間がたったのか、舞子には測るすべがなかった。

 腕をクロールのように動かしてみる。壁はない。なににも触れない。腕は動いているだろうけれど、見えないから脳味噌の中で「腕、動いています」という情報だけがぐるぐると駆け巡っているだけなんじゃないかとすら思えてきた。

 え? あたしの体がないとか? 脳味噌だけ?

 舞子は自分で自分に触れてみる。

 二つの情報が脳内に現出するのがわかる。

 一つ、「こちら腕ですが、自分の顔を触りました」。

 二つ、「はい、こちら顔ですが、触られました」。

 これで自分の肉体が存在すると結論してもいいのだろうか?

 舞子は頭を何度も激しく振った。

 こんなことを考えていてもしようがないじゃないの!

「もしもーし、誰かいませんかぁ!」と舞子は叫んだ。声はゲル状の暗闇にとぽんと落ちて消えてしまう。よしもう一度。

「こんにちはー! 誰かいませんかねー」

 なにごともなかったように舞子の声は破片も残さずに消えてしまった。

 反対にここで誰かの声がしたら、それはちょっと怖い、と舞子は思った。それは声の届くところで自分を監視しているということを意味しているし、それがどんな人間なのかを想像すると、あまりいい印象ではないからだ。道端で前を歩く人の千円札を拾って渡すくらいのことはするかもしれないが、助けを求める自分に「なんですか?」と返事する人は悪人だ。まだ未来のある女子をこんなよくわからない場所にぽつんと閉じ込めているのだから。閉じ込めているというよりも、ぶらさげている、だとか、浮かべている、といった方が正しい感じはする。どちらにしても日常からバリッと剥がして見知らぬ土塀にペタリと貼ってどこかからじっと見ているのだから変わりはない。まだ頭や顔や尻を殴られたわけではないし、服も脱がされてはいないから直截的な恐怖は感じてはいなかったけれども、暴力には変わりがない。

 これは暴力だ。たぶん今頃、夕食か夜食か朝食か昼食を食べている頃かもしれない。

 あれ、今、何時何分?

 埒があかないとはこのことだな。と舞子は実感した。

 向こうが黙ってんなら、こっちから動いてやろう。

 しばらく舞子はその場で  壁にぶつかったりしなかったから、たぶん  歩み続けた。足の裏にはなんの感覚もなかった。地面を踏みしめたり、段を登ったり、石を踏んだり、あの感覚が懐かしい。まるでどこにも進んでいないことがわかった。ここは歩けない場所なのだろう。たぶん自分が知らない間に世界のどこか、アメリカだと思うけれど、のどこかの州で地上にいながら無重力状態を再現できる機械が発明されてあたしが実験台に選ばれたのだろう。たぶん馬鹿な兄貴が応募葉書を送ったのだろう。

 な、わけない、それくらいわかりますわ。と舞子はつぶやいた。そのつぶやきもたぶん目の前あたりで消えた。

 また最後の記憶を探そう。

 バスを降りて美波さんに手を振ってバスが坂を下ってあたしは家に向った。商店街を通り、履物屋の黒いマルチーズがいつものように無愛想にし、和菓子屋のおじいさんがカステラの切れ端をくれ、コンビニに寄って唐揚げとグレープフルーツジュースを買った。いい調子だ。いつもの帰宅路で家に辿りついた。ポストをのぞく。鍵を出して扉を開け、施錠した。居間のソファに座って唐揚げを食べながらグレープフルーツジュースをそのまま飲んだ。誰もいなかった。母はパート、兄貴は大学。庭に雀が来ていたからあたしは数えた。母が鳥台を作って玄米やクスクスを置いといてやったら初めは一羽だったのが雀のネットワークで広がったのか現在二十羽がやってくるわけ。雀は喧嘩もするし、母が玄米とクスクスを置くと、遠くの電線でじっと見てて、母が家に入るとふぅぅーばさばさって降り立つ。好き嫌いもある。一番好きなのは玄米。次に白米。次にクスクス。人気がないのは押し麦で、玄米がなくなって押し麦しか残ってなかったら怒っちゃってそこらへんに散らかしてしまって、しようがなく食べる雀もいるわけ。しゃーないな食うかって感じ。舞子は雀を数えているとき、電話が鳴ったのを思い出した。家の電話だ。そう電話が鳴って、もちろん出た。

 舞子は考え込む。

 えー、誰からだっけ?

 ちょい待てあたし。記憶はそこまでだ。

 舞子はいつものように電話に出た。相手が誰なのかは思い出せなかった。自分は立っていて、受話器を耳に当てている。

 相手は誰だ?

 舞子は眉間にシワをよせて脳にエールを送りながら思い出そうとする。えーとえーと。無言? 間違い? 知ってる人? 誰だ? 記憶にない。立ち止まって受話器をにぎる自分の映像は停止し、輪郭が溶けるみたいにぼやけていく。溶解しながらあたしは、ここに現れた。と舞子はつぶやいた。最後の記憶に痛みもしびれも恐怖もなく、家の中に潜んでいた怪しい人影も見なかった。まるで浴槽に浸かって「あぁ気持ちいいーわぁ」とうとうとしているうちに寝てしまったように心が穏やかな記憶はあった。

 寝たの? あたし?

 そんなわけない。と舞子は思った。

 だって唐揚げつまんだ指も洗わないで眠ることなんて考えられないから。受話器はたぶん左手で取った。


 2 糸屋美波


 糸屋美波は手を振る。バスはカーヴを曲がり、舞子の姿が小さくなって戸建て住宅に隠れてしまうと、美波は窓ガラスについた雫を指で触れた。ちょうざめを想像した。テレビで見てことがある気がしたが、曖昧だった。水族館で見た鮫とまた違うのだろうか。キャビア、と思いついた。キャビアでおなじみのちょうざめだ、と。キャビアなんて食べたことはない。美波は生魚や魚卵は苦手だった。生臭く、ぬるぬるとしているからだが、もっと記号的な象徴的なものとして体の奥からの拒絶を感じる。鮫のスープは吐き気がするが、ちょうざめのスープは興味がわいた。原舞子が話すとおいしく感じられるのかもしれない。ピロシキはパン屋で見たことはあった。カレーパンの隣にいつもあるのは知っている。あれがロシアの食べ物だとは思えなかった。おじさんとおばさんがやっているパン屋とロシアとが結びつかない。パン屋のおじさんはロシアで本物のピロシキを食べたことはあるのだろうか、と美波は思った。ないだろうな。

 美波がふと気づくと、バスは停車していた。赤信号、と美波は思うと、バスは発車しスピードを上げた。次の次で降りる、と美波は心のなかでつぶやき、原舞子のことを考える。学校ではいつも大きな声で笑っている。いつも笑顔で男子にも人気があり、気さくな性格で、沈んだ顔をしているのを見たことは一度もなかった。授業中にもくだらない冗談で先生と生徒たちを笑わせたりもする。付き合っている男子はいないようだが、原舞子のことを好きで告白したけども断られたという話を三度聞いたことがある。男子には興味がないのだろうか、それとも意中の人がいるのだろうか。あまりしゃべったことはないから、美波にはわからない。このバスに乗らなければ原舞子と卒業までに会話をしなかったかもしれない。小動物の群れのような友達のグループに原舞子はいて、自分は教室の隅でたいていは一人で窓の外を眺めていた。友達はいるけれども、連れだって学食に行ったり、中庭をうろうろしたり、トイレに行くのは好きじゃなかった。幼い頃から、他人は自分から一歩下がったところで立っていることが多かった。美波はたぶん顔とか身長とか声とか表情だとか家庭環境とかの総合的に作りこまれた自分自身が他人にそうさせているのだと思っている。一人になりたいときは得だなと思うし、大勢で騒ぎたいなというときは損だと思う。

 バスは一つ目の停留所をすぎ、美波は乗車賃を用意する。

 美波は去年、高校一年生の秋に三年生から突然、告白された。何度か顔は見たことはあった。学食でたむろしているところを見た覚えがある程度で会話をしたこともないし、名前もどこに住んでいるとかも知らない相手だった。もちろん美波は断った。男子は苦笑いで美波の前から消えた。あっさりしていた。まるで罰ゲームかなにかみたいだと思った。心臓がドキドキすることもなかったし、嬉しいことも悲しいことも、なにもなかった。町中でカラオケ屋のティッシュペーパーを渡された後と気分は同じだった。

 美波はバスから降りた。バスの運転手は帽子をそっと頭に置いた感じだった。よく落ちないものだ、と美波は感心した。

 手帳を広げる。見上げると電信柱に看板があった。

 赤い矢印があり、下に『コダイラ牧場』とあった。

 美波は矢印を辿り、古い雑居ビルの階段を上った。

 四階に『コダイラ牧場』はあった。すりガラスからは緑色が透けていた。美波はノックした。硬い木製の扉だった。応答はなかった。真鍮製のドアノブには細かな傷がたくさんついていた。美波は開けようかどうしようか迷った。鍵は開いているのだろうか。中に人はいるのだろうか。耳をすませてみる。静かだった。外よりも静かだった。美波が扉から顔を遠ざけると、牛の声がした。

 牛? まさか。

 でもここは『コダイラ牧場』だ。牧場に牛がいてもおかしくはない。いや、おかしいよ。と美波は思う。ここは四階だし、と美波は階段の壁にある真鍮製の『四』を確かめる。あまりじっくりとは見なかったけれども小さくて古いビルだ。牛がいたら床が抜けてしまうし、そもそもこんなところで牛を飼育するわけがないし、聞いたこともない。北海道にはいくらでもそのための土地はたくさんあるはずだし、牛にとってものびのびと草を食む権利はあるはず。

 ああどうして、安請け合いなんかしたんだろう。

 美波が後悔しているとまた牛のなき声がした。遠くから。この扉の向こうじゃないのかもしれなくらいに遠いところから。この部屋のもっと向こうに牛をどこからかどこかに運ぶトラックが停まっているんだ。美波は高速道路で何度かトラックの荷台に行儀よく並んで運ばれている牛を見たことがあるのを思い出した。それだ。そしてたまたまここは『コダイラ牧場』なのだ。まったく無関係の事実Aと事実Bが隣合わせると虚実Cが明確な輪郭をもって現れることがある。そんなものはそこにはないのに。これだ。でも私は馬鹿だな。

 美波はくすくす笑ってから、はっと気づいて廊下や階段に人がいないかを見渡した。一人で笑っているところなんか見られたくはなかった。

 『コダイラ牧場』は単なる事務所なのだ。よくはわからないけれども、北海道とかに牧場があって、牛とか豚とかミルクだとかチーズだとかの販売をするための一部屋を借りているのだろう。そんなことはどうでもいいや、それにしても誰かいないと困る。

 美波はまたノックした。連続で三十回ほどノックした。中指がひりひりしてきた。四階は洞窟のようにひんやりとして静かだった。誰もいない。困った。帰るわけにもいかない。

 メモを残そうか。私が訪ねてきたことを書いて扉に貼っておく。いい考えだろうか? 違う。

 私はここの人に会わなくちゃいけないのだ。

 美波はもう一度、扉に耳を近づけ、中の様子を伺った。音はしなかった。美波は鼻をくんくんとさせ、顔を歪めた。これは近くにある公園の芝生の匂いと同じだ。しかも雨上がりのときのような。『コダイラ牧場』だから芝生とか土とかのサンプルを置いているのだろうか。その草と土とに混じって獣の臭いがした。きっと牧場から採取した土を置いているんだ、だから牛とか馬とか豚とか羊とかの家畜の臭がするのだろう。

 さてどうする。美波は真鍮製のドアノブに手をかけた。誰かがいればいたでいい。いなければ、ソファかなにかに座ってしばらく待てばいい。廊下でつっ立っているよりかはましだ。美波はドアノブを回した。開いてほしいというよりも、鍵が閉まっていてほしい、と思った。メモに伝言を残して風で落ちないように貼って帰って、また日を改めて訪問すればいい。扉が開けば、自分はまた一つ深みに入るような気がする。

 ドアノブはなんの摩擦もなく回り、カチリと音がし、扉が奥に数ミリ開いた。美波は溜息をついた。自分は馬鹿な事をしているんじゃないか、そんな気がして、ここに来るんじゃなかったと後悔し、バスに乗らなければよかった、安請け合いするんじゃなかった、と遡って一つ一つに判を押すように確かめながら後悔していった。でももうドアノブは回り、扉が開こうとしている。鍵はかかっておらず、中からさらに草と土と獣の臭いの混じった空気が細く吹き出してきている。

 美波はゆっくりと扉を押し開ける。美波は眩しさで目を細めた。驚きで深く息を吸った。叫ぶための準備のために。扉が風に吹かれて開いた。なだらかな芝生の坂が見えた。太陽に照らされて鋭く尖った牧草が輝いていた。美波は部屋に一歩だけ足を踏み入れた。革靴の底が硬い牧草と土の弾力が美波の体を押し戻す。美波は視線を坂を這わせて登らせた。坂の頂上から美波を見下ろしている一頭の牛のシルエットに気づく。逆光になっていた。黒い斑点のあるタイプの牛なのか、茶か黒のタイプの牛なのかわからなかった。

 太陽? ここは四階で、ビル自体は六階くらいあった。四階から六階までぶち抜いてるとか?

 牛が一鳴きし、数歩進んだ。美波と太陽の間から外れた牛はシルエットから立体感と色のある牛になった。美波はその牛と視線が合っていることに気づいた。牛を見た。ホルスタインだ。牛はニッと笑った。美波は生命の危機を感じたが、逃げ出せなかった。革靴がコンクリートのように重く感じた。牛の口が動いている。赤い唇だ。美波はここに来たことだけを後悔した。バスに乗ったことで原舞子と話せた。もしかすると友達になれたかもしれない。明日、会えば、挨拶だけで終わるかもしれないけれど。牛は眉を上げ、美波が驚愕していることに理解を示す素振りをした。美波は原舞子が読んでいたカラマーゾフの兄弟を読もうと思った。学校やバスや学食や廊下や中庭ではない場所で語り合いたいと願った。牛はウインクをした。美波はドアノブを探した。真鍮製で細かな傷がたくさんついた古いドアノブを。美波の手が空中をまさぐる。美波は牛と視線を外すことができなかった。理由はわからない。恐ろしいからだろうか。わからない。美波の手はドアノブを探し出すことはできなかった。扉も壁も美波の指先や掌は触れることはできなかった。牛は笑った。そんなところにドアノブなんかないよ、と牛は表情で語っていた。ここは牧場だよ、君がつっ立っているところがどこなのかがわかればドアノブがないことくらいわかりそうなものだけれどね。

 美波は牛の考えがわかった。心を読んだわけじゃない。牛の表情でわかったのだ。難しいことではない。毎日、人に対してしていることと変わらない。

 牛ではなかった。牛の形をした人間だった。頭も体も四肢も牛だった。しかしそれは人間なのだ。美波にはわかった。人間が四つん這いになって草を食んでいるわけではなかった。人間が牛になり、牛のように草を食んでいる。しかしやはり人間だったから、美波が見れば奇妙なところに気がつく。牛を含む動物にはない細かな表情、それは細かな人間の思考があるから表現できることなのだ。顔の筋肉の問題ではないのだ。美波はそんなことを考えながら、ドアノブを探すのをあきらめた。原舞子とゆっくり話がしたいと強く願った。どうしてそんなことを強く願うのだろう。明日、今日と同じように登校すれば会えるのに。そんなことを強く願うなんて馬鹿みたいだ。明日になれば叶うのに。


 3 原舞子


「糸屋はあまり好きじゃないから」と糸屋美波がバスの中でつぶやいたことを思い出した。

 苗字が好きじゃない?

 舞子は原だけれども、そんなことは一度も考えたことはなかった。好きも嫌いもなかった。

 どういう意味だろう? あのときそのつぶやきについて質問すればよかったのかな。

 舞子は訊かれて嫌なことは絶対に口にしない。頭のなかで文字列を浮かべてすぐに消せばいいから。

 響きが嫌いなのか、堂々とした感じが嫌いなのか。たまたま自分の苗字を考えた眠れない夜みたいなのがあって、好きか嫌いかを自分一人で投票した結果「あまり好きじゃない」となっただけなのか。そもそも口にするっていうことはその奥にある理由とかを訊いて欲しかったのだろうなと舞子は考えた。

 そうじゃないと口にはしないでしょ。うん。

 明日にでも訊いてみようかな、と舞子は思ったけれども、待て舞子、ここから出れるのかね? と自分に問う。それにバスの中でのつぶやいたことをすっかりと忘れていて「原さんなに言ってんの?」って冷たい目で睨まれたら嫌だ。糸屋美波はクールなところがある。そこにいるけれども、そこにはいない感じだ。そういう雰囲気を醸している人はあまり見ない。たいていの人はそこにいて、そこにいる、けれどもそこにはいたくない、という空気を出している。ややこしくなってきた。

 糸屋美波について知っていることはほとんどなかった。一年のときも何組だったかも知らない。いつも一人でいる子で、友達がいないわけではないし、いじめられているわけでもない。高校に通っているけれども意識は高校を卒業しているような感じがする。教室の窓から外を見下ろしている顔は大人びているけれども、バスの中で見た笑顔は子供みたいだった。

 糸屋美波はいつもあたしが教室で冗談を言ったりしているとき、知らん顔で実は聞いているのだろうか?

 舞子は糸屋美波が皆と一緒に笑っている姿を見たことはなかった。

 もちろん強制なんかしないし、つまらなければ笑わなくともかまわない。

 舞子は暗闇のなかで溜息をついた。

 ここがどこであたしは助かるのかなんてことよりも美波さんのことが気になる。

 いや、ここがどこかなんてどうでもいい。いや、どこかなんてことよりも、助かるのならどこだっていい。助かって家に帰れて夜ご飯いつものように食べられてお風呂に入れていつもの布団で寝ることができればここが世界中の誰もが知らない場所だろうがかまわない。夜に寝て、朝になれば文句はない。兄貴がトイレを独占したり、父が気まぐれにシャワーを浴びていなければ素晴らしい朝だといえる。

 

 舞子はふと最後の記憶のことを思い出す。受話器から聞こえてきた声が頭に再生された。舞子は耳元に誰かがいると感じるほど現実的な声だった。舞子は両耳辺りの空間に平手を叩いた。なんの感触もなかった。誰もいなかったし、なにもなかった。空気さえもない気がした。舞子は全身に鳥肌が立ち、背筋が冷たく感じた。

「ニジュウビョウゴキミヲ」

 舞子は体を震わせ、自分を強く抱きしめる。自分で自分を守るために。

「コノセカイカラケス」

 舞子はこれ以上閉じれないくらいに強く瞼と口を閉じる。胎児のように体を丸める。戦慄が舞子の体をほとばしる。瞼の裏に雨だれが映る。幾千もの雨粒が落下する。ゆっくりと、一つ一つが鮮明に見える。舞子はここがどこだかを知る。天国でも地獄でも死後の世界でもなく、今まで生きてきた世界でもない世界。世界といえるだろうか、空間、宙、闇。

 点。

 と舞子はつぶやいた。

「今自分がいるところは、点なんだ」

 瞼を開けても閉じても変わらない闇。奥行きもなく、音もなく、暑くもなく寒くもなく、地面もない。浮かんでいる感じもなく、ぶら下げられている感じもなく、飛んでいる感じもない。

 受話器から聞こえた声が本当なら、どうしてあたしはこの世界から消されなければならないのよ。

 みんな心配してる。父も母も兄貴も、学校の友達も。雀は?

 ここにいるのはあたしだけ?

 いつまでいなければいけないの?

 かくれんぼしてて、鬼の子に見つけられなくって、みんな暗くなってきたから帰っちゃって、忘れられてしまって、でもルールがあるから見つけられるまで待っている子の気持ちがわかったわ。舞子は笑う。長くはつづかなかったが、時間の感覚が失われていたせいで長く感じた。

 舞子は自分が狙われたのだろうか、と疑問を持った。舞子は反射的に「はい、もしもし」と言った。記憶に残す必要もない日常的な電話での受け答えだ。そう言わないと気持ちが悪いし、そう躾られてきた。もしも兄貴や父や母が狙われていたのならば、あたしが声を出したら相手は電話を切っていただろう。

 あたしがなにをした? 誰かに恨まれたのだろうか?

 どこで? 誰に? クラスの誰か? 学校の誰か? 家の近所の誰か? 小学校と中学校での誰か?

 あたしが誰にどんなひどいことをすればこんなところに送りこめるというのだろうか?

 違うんだ。

 原家の誰でもよかったのかもしれない。そう考えると気分が楽になる。父か母か兄か、死んだ祖父か祖母か。自分ではない誰か。自分ではない誰かが恨まれたのだ。

 違う。舞子は頭を振る。無差別かもしれない。電話の向こうの男は原家なのかどうかを確かめてはいない。あたしはただ「はい、もしもし」と言っただけだ。家族の全員が電話に出ても「原です」とは名乗らない。これは確かだ。五年くらい前に電話での勧誘が急に増えて家族会議で「今まではもしもし原ですって言ってたけど、これからは、はいもしもし、だれにしよう」と決まったのだ。先に「原です」と名乗ってしまうと相手が苗字を知ってしまって気味が悪いし、名前も情報だからタダでくれてやる必要はない、という父の考えに家族全員が賛同し、徹底した。そこまでしなくてもいいのにと思われるかもしれないけれど、電話機の前の壁に「もしもし、だけ」と書いた紙を貼ったりした。

 無差別だ、やっぱ、無差別でこんなところに連れてこられてしまったんだ。

 舞子は体の奥底から湧き上がる憤怒に心を震わせた。それはすぐにおさまった。父でも母でもなく、兄貴でもなく自分が犠牲になったことに舞子はふと安心する気持ちがあることに気づいたからだ。父でも母でも兄でもなく、自分でよかった。自分が家から消えてみんな心配しているだろう。三人はあたしを捜そうとするはずだ。もしもここに来てしまったのが父だったらどうなっていた? あたしと母はパニックになって、兄貴は父の代わりにリーダーシップを発揮しようとするけれどもやっぱり頼りなくって部屋の中を携帯電話を持ってうろうろするだろう。母が消えていたら、兄貴とあたしはパニックになっていただろうし、兄貴が消えていたら母とあたしがパニックになっていただろう。あたしが残っていればパニックの種にだっていただろうから、あたしがいない方が父と母と兄貴とでしっかりと捜そうとするはずだ。

 みんな頑張ってあたしを捜して! 舞子は笑みを浮かべた。真っ暗闇の中で浮かべる笑みは自分自身に向けてのものだ。

 待てよ。舞子はあることに気づいて愕然とした。

 父も母も兄貴もあたしを捜し出せない。

 あたしが今いる、このよくわからないところの存在など知っているはずない。警察だって知らないだろう。知らないところをどうやって捜し出せる? どうすればここまで辿りつける? たぶん電話機には手がかりはないと思う。通話記録だ。そうだ、警察が通話記録を調べれば誰が家にかけてきたのかがわかる。そいつを取り調べればあっけなくあたしを救ってくれる!

 舞子はこの考えにどうもしっくりとこなかった。そんなに簡単なことではなさそうだ、と感じる。自分が今いるところがどこかの倉庫とかアパートの部屋だとか車のトランクだとか、現実的な場所ならばただじっと待っていれば救助されるだろうと考えられるけれども、そんな気がまったくしないのだ。足音が遠くから聞こえてきてこの暗闇のどこかにある扉を大勢の警察官がこじ開けて光が射しこみ、自分は助け出されて家に戻って父と母と兄と再会することを想像してもどこからか否定の声が聞こえてくる。小さくて嘲笑まじりの。

 舞子はこんな状況だから悲観的になっているだけなんだ、と思ってみた。誰だってこんな馬鹿げた非現実的っぽい真っ暗なところに閉じ込められたらいずれ死期が近いんだと思うはずだ。

 舞子は体を丸める。自分の体温で自分を温める。寒くはなかった。けれども肌でなにかを感じていたかった。

 どれくらいいるんだろう? 二時間か三時間。いやもっと長くいるかもしれない。

 また恐ろしい考えが舞子の脳裏に生成された。

 いつもの原家の夕食時間に自分がいて、いつものようにご飯を食べている風景が見えた。それは過去の記憶のものではない。今この瞬間の夕食の風景を中継している。

 あたしがいる。現実の世界の原家の食卓に自分がいるのだ。声はない。舞子は笑って話をしている。兄は時々舞子になにかを言う。舞子は兄に言い返す。母と父は笑っている。父はビールを飲み、ちくわを甘辛く焼いたものを食べて、母になにか言う。舞子は笑う。兄も笑う。みんな笑っている。

 それはあたしじゃない! 誰? あたしのクローン? あたしのコピー? それはあたしじゃないよ!

 中継が終わる。舞子は泣いているのに気づく。本当の自分は消えて、別の正体不明の自分が現れて、自分のつづきを演じている。本当のあたしはよくわからない真っ暗で宇宙空間みたいな寒くもなく暑くもない点にいて、どこにも行けないし、誰もいない。もしも今見えた風景が本当ならば誰もあたしを捜さない。捜す必要なんてない。目の前でご飯を食べてしゃべっているから。

 でもこれは妄想だ。舞子は一蹴する。誰があたしの脳味噌に映像を送りこむというのよ! 妄想だ。自分で自分の首をキュッて絞めることはない。誰かがキュッて絞めにやって来るまで待ってやろう。

 あたしはここから必ず脱出してみせる。

 舞子が決意をした瞬後、受話器から聞こえてきた男の声に聞き覚えがあることに気づく。

 二十秒後、君をこの世界から消す。

 どこかで聞いたことがある。そんなに昔じゃない。せいぜい三ヶ月か半年。いや期間を切らないほうがいいかもしれない。

 とにかく思い出さなければ。錠前を開ける鍵にはならなくとも。


 4 糸屋美波


 糸屋美波は牧場のまんなかにいた。足元の牧草は尖っていた。足元から視線を遠くにやれば緑色のベルベットのように思えた。寒い、と感じ、美波はぶるっと震えた。風が吹きつけ、髪が冷たくなった。

 自分が牧場にいることを認めるまでに美波は何度も深呼吸をし、瞼をゆっくりと閉じ、心のなかを一旦無にしなければならなかった。混乱して叫んだり、走ったり、取り乱してはいけない。落ち着いて静かになること。混乱してはいけない。美波は両足が震えているのに気づく。寒さか混乱のせいかはわからない。美波は坂のうえにいる牛をもう一度見ようと思った。ここが牧場であれば人がいる。人がいれば助けてくれるはず。ホラー映画のように捕らえられて地下牢に閉じ込められることはない。自分がどうしてここにいるのかを訊ねられたら曖昧に答えるしかない。仕方がない。どうして言えるだろうか。雑居ビルの一室に入ったところがここの牧場だった。次には牧場にいた。説明、終わり。

 たぶん自分は記憶が失われたのだ。あの部屋のドアを開けて中に入ったところからこの牧場に来るまでの間の記憶は失われたのだ。

 美波は牛を見た。背筋につけられた何十本の糸を同時に引っ張られたように体が震えた。美波は叫びそうになった。しかし叫んだところで事態がよくなるとは思えなかった。混乱してはいけない。落ち着いて。美波は息を吐くたびにつぶやく。

 牛は草を食んでいた。美波を見下ろすと、顔を歪めて笑う。口から牧草がはみだしている。長くて真っ赤な舌で唇を舐めまわす。美波になにかを言おうとしているみたいに口を動かす。なにも言わず、また草をむしり、鼻で笑う。牛ではない。牛の形をしているが牛ではない。美波は逃げ出したかった。牛のようなものが自分に近づいてくることを想像すると鳥肌が立ち、頭の中が痛んだ。牛はそんな美波を見て、頭を振った。まるで美波の考えを読んでいるかのように。俺は君が思うほど気味の悪い存在じゃねぇよ、と言うように。

 牛と人間のミックスだ。と美波はそう思いたくなかったが、脳内で言葉にしてしまう。

 牛は草を飲み込むと、美波をじっと見て、肩をすくめるように首を下げ、目を閉じてなにかを考えるような素振りをして頷いた。ああそうさ俺は人と牛との間に生まれた滑稽で気味の悪いものだ。美波には牛がそう思ったのがわかった。気のせいかもしれない。頭がおかしくなる前兆なのかもしれない。牛は草を食む。美波は牛を眺める。体は牛と似ている。しかしよく見るとなにかが違う。黒い斑もある。牛乳パックにある絵と同じように。美波は牛の頭から背中、横っ腹、尻や尻尾、前足と後ろ足を見る。美波は今までに牛を間近でじっくりと見たことはなかった。動物園にはいないし、牧場に出かけたことはなかった。テレビや本や牛乳パックで見た記憶くらいだった。美波はその記憶と照らし合わせるまでもなくなだらかな坂の上で草を食む牛のような牛でない奇妙な牛のおかしなところに気づいた。それは牛が一歩前に進んだからだった。

 骨格だ。美波は気づいたのだ。皮膚と肉の奥にある骨格が牛とは違う。正確に言えば、牛の中に人間の骨格がある。それに、と美波は思った。顔や四肢の先や皮膚の感じが人間と似ているのだ。もっと近くにいけば牛の中に人間のような部分を発見することができるかもれしない。しかし美波は興味よりも恐怖が大きかった。きっと間違いだ。牛と人間のミックスなんてありえない。馬鹿な人間が牛の真似をしているレベルではないのは見ればわかった。

 ここは牧場だけれど、私がやってきてはいけないタイプの牧場なのではないだろうか。

 美波は古い映画を思い出した。子供の頃に父の背中に隠れながら観た思い出がある。動物実験をする頭のおかしな科学者が住む、気味の悪い島の物語だった。そこではさまざまな動物が掛け合わされ、グロテスクな新種の動物が作り出されているのだ。頭のおかしな科学者はその島の王だ。独裁者であり、父親だった。視界にいるこの牛もそうなのだろうか? あの映画は実話を元にしていた? そんなこと考えられない。自分はその世界に来てしまったのだろうか? もしもそうだとすれば、この牧場の人に会うのは危険だ。美波は頭を振る。馬鹿げた考えだ、混乱してはダメ。よく考えて。あれは映画でここは単なる牧場。それじゃそこにいる牛はなんなの? 自分の知らない新種? 美味しいミルクを出してくれるの? あのわかったような表情をする牛が? 誰か助けて。

 美波は携帯電話を出した。圏外になっていた。地面に叩きつけたい衝動を抑える。牛がまた鼻で笑った気がした。美波は牛を睨みつけた。悪態をついてはいけない。嘘をついてはいけない。人を馬鹿にしてはいけない。美波はそんな一つ一つをくちゃくちゃにして地面に叩きつけたかった。涙がぼろぼろと落ちた。どうして自分がこんなところにいるのか、誰にも説明できないと思った。帰ろう、美波は袖で涙を拭った。

 頭がおかしくなっているのならそれでもいい。

 私は帰る。

 ここの牧場が頭のいかれた科学者が作った実験場なのかどうかわからない。美波はこの牧場をこっそりと突っ切って町に出ることを考えた。町に出れば警察に駆け込めばいい。なんとかなるはずだ。

 美波は牛に背を向けた。気味の悪い牛がいかれてしまった自分の頭の産物であることを祈った。もう一つ、牛が自分を追いかけてこないことを祈った。草の方が魅力的だからその心配はなかったし、おいしい草を持っていそうにないことも牛にだってわかるはずだ。おとなしくその場で草をもぐもぐしていて、お願い、鼻で笑ってもかまわないから。

 美波は足を踏み出した。

「どこに行くつもりなんだ?」と声がした。

 美波は背筋を固くした。膝の力が抜けた。

「そっちに行けば深い森だ。その奥はさらにもっと深い森だ。その奥には冷たくて深い沼があるだけだ。沼に用事があるようには見えないがね」

 美波は立っているのがやっとだった。吐き気がした。牛がしゃべっていないとすれば、その人はいままでどこに隠れてたのだ? 隠れる場所などなかった。プレーリードッグかもぐらみたいに穴に潜っていた?

 笑い声がし、美波は反射的に振り返った。牛が笑っていた。

「おもしろいことを考える子だ、もっと考えてくれないか」

 美波は牛の声と口が見事に合っているのを認めた。牛がしゃべっている。しかし口元は牛とは違っていた。人間と同じようにいくつもの筋肉で滑らかに動いている。

 牛は足元を確かめながら坂を下ってきた。

「こないで!」と美波は牛に言った。「近くにこないでお願い!」牛にお願いをした。

「急には止まれないよ」牛は坂を下り、前足で踏ん張った。「近くにはいかないよ。驚かせてしまった。気味悪がらせてしまった」

 牛は悲しそうな顔をした。

「ごめんなさい大きな声を出して、苦手なのよ、大きな動物が」と言い訳した。牛に。

「気にしないでくれ、人に好かれることはとっくの昔にあきらめた」牛は目を伏せた。「沼に用事があるのなら呼び止めなかった。用事がある?」

「用事なんてないわよ」

「だろうね。沼に用のあるものはここを通るはずはないから」

 美波はこの牛に町の方角とおおよその距離を訊ねようと思った。牛が知っているのかどうかはわからなかったが、正確でなくてもかまわない。もう一つ、頭のおかしな科学者がいるのかどうかも。

「町に出たいんだけど」

「町?」

「方角はどっちかな、どれくらい歩けばいいのかな。知ってる?」

 牛は黙った。まるで訊ねてはいけないことを真正面から質問してしまったような気まずさが感じられた。

「町に出る?」と牛。「人の大勢住む場所のことかな」

「そう。あなたは知らないのね」

「聞いたことはある。でも見たことも行ったこともない」

「方角の意味はわかる?」

「わかる」

「距離の意味は?」

「わかる」

「オッケー、それじゃどっちに行けばいい? 町までの距離はどれくらい? 私だとどれくらいで着く? この足で」と美波は5センチばかりスカートを上げた。

 牛は首を傾げた。牛に方角と距離がわかるのだろうか。美波は愚問に時間をかけていると思った。牛は旨い草の場所と牛舎の位置さえ知っていれば事足りるのではないか。牛が町の場所を知るころには肉になる運命を知るときなのではないか。美波は牛を親指の先くらい不憫に思った。

「知らないのなら」と美波は言った。「知っている人はいないかしら?」

 牛の顔が残念そうに歪んだ。隠すためか草を食んだ。美波は牛が「博士なら知ってる」と言わないことを願った。そう言ったのならば夜になるまで待って自力で町を探すしかない。

「町を知っているものは」と牛は言った。「いない」きっぱりと。

 牛は町を知らないのだ。美波は仕方ないと思う。牛は町に行く用事がないし、一面においしい草があるのだ。子供のころにお菓子の家に憧れたのと同じ状況が現実にあるのだ。

「気をつけて」と牛は言った。声が小さくなった。「彼には見つからないように」

 美波はびくりとした。彼? やはりマッドサイエンティストがいるのだ。

「彼というのは」美波は恐る恐る確かめる。気を引き締めなくてはならないから。「頭のいかれた科学者?」

「科学者?」と牛。

 改めて美波は客観視する。牛に話しかけ、牛は答え、牛に訊く。私はどうなってしまったんだろう? 頭のいかれた女子高生だ。頭のいかれた科学者といい勝負じゃないか。

「科学者?」と再び、牛が訊く。

「違う? それじゃ頭のいかれた牧場主? それとも頭のいかれた搾乳業者?」と美波は半ば自棄に訊く。

「誰も頭はいかれてなんかいない」と牛は鼻で笑う。鼻で笑う牛と、それに話しかける女子高生で十分いかれてる。

「いかれるかどうかはまぁいいわ。彼ってなにもの?」

 牛は口からこぼれていた胃から吐き出された胃液まみれの牧草を吸った。眉をぴくりと動かし、両耳を交互にぱたぱたさせ、鞭のように尻尾を腿をぴちんと叩いた。

「なにものだろう」と考え込む。「牛ではない。人でもない」

 人でも牛でもない、それはあんたじゃないの、と言いかけてやめた。牛を傷つけても携帯電話が圏外でなくなるわけじゃない。

「つまり」と美波。「科学者じゃないのね」

「違う。科学者じゃない」

「あなたを作った科学者じゃない?」

「君はおかしなことを言うね」と牛と人間のミックスのような動物は言った。

「わかったわ。気をつける。あなたは町には行かないほうが身のためね」

「どうしてだろう?」

「さぁ」と美波は曖昧に頷いた。

 町は遠いのだろうか。陽が落ちてくる。気温が低くなってきていた。夜になって反対に危険じゃないだろうか。美波は悩んだ。こんなどこかわからないところで遭難でもすれば土に還ってしまう。夜に行動するのはいい考えじゃない。

「ねぇあなたの主人はどんな人?」と美波は訊いた。助けてもらえるのならそうした方がいい。

「どんな人って」と草をつづけて食む。

 牛はずっと食べていないとダメなんだ、忙しいわ。

「俺たちにはやさしい人だよ」

「悪い人じゃない?」

「ちっとも悪くないね。毎朝体中をブラッシングしてくれるし、冬には暖かくしてくれるし、うまい干し草もくれる」

 美波は考えすぎなのかもしれないと思った。あれは映画だ。誰かが人々を怖がらせるために考えたお話だ。現実にいるはずはない。目の前に気味の悪い牛がいたとしても、頭のいかれた科学者がいるというのは考えすぎなのだろう。ここは牧場だ。きっと顔が真っ黒に日焼けしチェックの赤いネルシャツを着たおじさんが牛の世話をしているのだ。この奇妙な牛は新種なのだ。しゃべるのはどういうことかはわからないけれど、モーモーだけよりかはコミュニケーションがとれて便利だ。深く考えないでかまわない部分は簡単に考えておけばいい。家に戻るための最小限の思考で十分だ。

「その人は」と美波は訊く。「私を助けてくれるかな?」

「助けてくれる? 君を?」と牛は驚いた顔をした。鼻で笑った。

「やさしい人だったら助けてくれるんじゃないの?」

 牛は、はっは、と笑った。草を飲み込んで、ゲップをした。

「失礼」と牛は陳謝し、「やさいしけれど君を助けてはくれないよ」

「どうして?」

 遠くで草を踏みしめる音が聞こえた。美波は耳に集中した。ゆっくりと近づいてくる。美波は無意識で根源的な危険を察知していた。ここにいれば自分は数分後に死に至ると正確に理解した。足音が小枝を踏み潰して止まった。

 美波は振り返らずに走りだした。

「待て」と遠くから声がした。

 待ってはいけない。美波は走る。

 牛はいつもの牛のなきごえを発した。

 美波は耳に風の音を聞き、土の出っ張りや石や枝に足を取られて転んでしまわないように注意深く走った。ドクターモローの島だ。美波は映画のタイトルを思い出した。もしもここは島だとすれば私はいずれ捕まってしまう。美波は丘を二つ越えたとき、足が痛み出し、やがて感覚が失われ、息苦しくなった。美波は立ち止まると振り返った。牛も人も見えなかった。美波は逃げるときに一瞬でも人を見ればよかったと後悔した。見なければ恐い人なのかも悪い人なのかもただの牧場のおじさんなのかもわからないではないか。しかし今更、戻るのは変だ。体が温まってきた。走れる。けれども戻って説明するか。突然のことだったから驚いて逃げてしまった。自分は不審者じゃない。牛や羊や牧草を盗みにきたわけでもないし、なにかをこっそりと埋めにきたわけでもない。美波は三年前に死んだ犬を思い出す。どこかに埋めるかと家族で揉めた。埋める場所なんかなかった。ここにはたくさんある、と美波は思ったのだ。犬は火葬され、白い骨になった。埋められて土になる方が自然だと思うけれども、仕方がなかった。自分はやだ。土に埋められて腐敗するなんて。もっと生きたい。美波は走りだす。背後に足音も呼吸音も衣擦れも牛のゲップも聞こえなかった。陽が沈んでいく。

 美波は走りながら島でないことを祈った。いや、雑居ビルの廊下で目覚めたらどれだけ幸福だろうか。けれども美波は今まで貧血で気を失った人を見たことはあっても自分が貧血で気を失ったことはなかった。それに体中から脳に集められている膨大な情報から一つの結論がかなり前に弾きだされていて、美波が確認するのを待っていた。

 ここは現実の世界である。

 美波は夢から覚めることを祈るよりも現実なことを祈る。

 どうか島ではありませんように。

 森が見えた。真っ黒な陰影ののっぺりとした森だ。牛はその奥の奥に沼があると言った。牛の言ったことを信じるようになるとは、美波は呆れた。頭のいかれた女子高生。森に入れば迷ってしまうかもしれない。森に隠れよう。夜を待とう。走れば体が発熱する。大丈夫だ。死にはしない。

 美波は森に入り、草原が見えるところまで奥に分けいり、巨木の根元に座った。どうやら人は追いかけてはこないようだった。牛からなにかを聞いているかもしれない。美波はめまいがし、急激な眠気に襲われる。眠ってはだめ。疲労と張り詰めてた神経が緩んだせいだろうか。美波は両頬を叩く。顔が熱くなる。起きて美波起きて起きて。小枝が踏み折る音がし、美波は動きを止め、息をひそめる。自分は土に埋められた動物の死骸だと想像した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ