烏滸の見世物
「やあやあ往来の諸君! 我こそは天下無双の兵法を極めし者。真剣での立ち合いとて厭う事なし。さあ我こそはと思う武辺者は挑み候え!」
腰に刀を差し木刀を手に携えた武芸者と思しき男の周りには、今日も黒山の人だかりが出来ていた。門弟と思しき男達はそれぞれ『武芸天下一』だの『天下無双』だの大書された旗を誇示するように持ち、それも集客に一定の効果を持っているように思える。今日などは桟敷を用意しなければならないほどだ。
その桟敷から、この見世物とも言うべき光景を冷ややかに眺める者達が居る。その頭領格の男もまた武芸者だった。それも見る者が見ればすぐに只者ではないとわかるほどだ。飛び入り参加した者と木刀の武芸者との立ち合いを見比べ、鼻を鳴らす。
「所詮この程度か。やはりこんなものはただの見世物でしかなかろうな」
男は武芸者が乱入者を木刀で打ちのめす様を不快そうに眺め、ぽつりと呟いた。
『剣術無双の者これに在り。誰なりと真剣にて立ち合ひ申し、たとえ我斬り殺されんとも厭わず』
江戸は両国、こう大書された看板を掲げて他流試合をする者が居た。それは大層な盛況ぶりで、江戸はもとより近隣の田舎からも毎日夥しい数の見物人がやって来るほどである。飛び入りで立ち合いをしてこの男を斬り得ず、逆に男の持った木刀で打ちのめされた者はその門弟となり、その数もみるみる増えていると専らの評判だった。
「気に入らぬな」
その噂を耳にして、不愉快だと言わんばかりに吐き捨てる男が居た。四十歳そこそこに見える容貌だが、眉間には険しい皺が刻まれ、しかめ面を浮かべた様は誰が見ても不機嫌の極みに達していると察せられる。
小野次郎右衛門忠明。一刀流を極めた当代随一の兵法家の一人で、栄誉ある徳川将軍家兵法指南役の一人でもある。文禄二年に一刀流開祖伊藤一刀斎の推薦で徳川家康に仕えて徳川秀忠の旗本となり、上田城合戦や大坂の陣で武勲を重ねて六百石の禄を食んでいる。それだけを見れば、世の兵法家の中でも栄光を極めた存在だと誰もが認める所だろう。
だが、彼自身はそう思っていなかった。それどころか不当に遇されているとすら感じていたのである。
上田城合戦と言えば、真田昌幸がその本領とするゲリラ戦術で未熟な秀忠を翻弄し、致命的なまでの時間を浪費した挙句に撤退を余儀なくされた、徳川家にとって最も不名誉な合戦の一つだ。その中で、上田七本槍と呼ばれる者達が居る。この合戦において特に比類なき武勲を立てた者達を称揚したものであるが、この中には忠明自身も含まれている。
だがこの『七本槍』はいわくつきの面々だった。何故なら彼らは全員抜け駆けによって手柄を立てていたのだ。忠明など初太刀を食らわせたのはわしだ、いや自分だと同輩と散々揉めた挙句、その事実確認をするのに別の者が変装しながら敵中に分け入らなければならないほどだった。しかもその『武勲』の直後、彼らは敵の逆襲を受けて味方に救われたにも関わらずこの罵り合いを延々と続けていたのだ。
激怒した秀忠は忠明を真田信之の預かりにした上で蟄居を命じた。その後結城秀康の取り成しで復権したのだが、大坂夏の陣の前後にまたしても問題を起こしてしまった。手合わせを申し出た旗本の両腕を叩き折り、使い物にならなくしてしまったのだ。当然、これは再び秀忠の逆鱗に触れる事になった。
「仮にも将軍家の兵法指南役ともあろう者が、己と相手の力量差も弁えず大怪我を負わせるとは何事だ! そなたは此度の戦で武勲を立て、また戦にも勝った事であるから今度だけは不問に処すが、次に何か事件を起こしたら切腹の沙汰も覚悟せよ!」
それは秀忠の温情と見るべきだった。彼はしごく真面目かつ頑固な性格であり、本来ならばこれで死を賜ってもおかしくなかったのだから。だが忠明はそう取らなかった。だからこそこれだけ不機嫌さを露わにしていたのである。
(上様はなにもわかっておられぬ)
忠明は憤懣やるかたない。自分と秀忠との間に、どうしようもない大きな溝がある事を彼自身が一番自覚していた。それは彼にとって、決して譲る事の出来ぬ事柄だった。
(抜け駆けが何だ。真田の小勢を相手に手も足も出なかった御仁が一体何を偉そうに軍規などと講釈を垂れるのか。人の一人も殺した事もない癖に。なるほど、だからあの柳生などを重く用いるのであろうよ。旗本の両腕を壊した事が怪しからぬだと? それこそが立ち合いというものであろうが。立ち合いは遊戯ではないのだ。むしろ命があるだけ儲けものだし、そもそも身の程知らずに立ち合いを所望する相手が愚劣なのだ。なのに何故わしだけが指弾されねばならぬ?)
忠明にとって抜け駆けなどはありふれた行為に過ぎない。古くは平安の昔から数え切れないほど抜け駆けによる軍功が残されている。かの関ヶ原でも、井伊直政と松平忠吉が抜け駆けを行っている。それと自分の抜け駆けとの何が違うというのか?
それに『立ち合い』という概念も秀忠と忠明とでは決定的に違っていた。秀忠にとっての立ち合いとはあくまでも生死に関わりのない試合の事を指す。だが忠明にとっての立ち合いとは、即ち『死合』である。互いの名誉と生死を賭した殺し合いこそが、彼にとっての立ち合いなのだ。彼と兄弟子の善鬼は、しばしば師一刀斎の代理として立ち合いに臨み、多くの武芸者を殺している。彼にとって立ち合いでの命の取り合いなど特別の存在ではなかった。だが秀忠にとってはそうではない。
(それもこれも、あの似非兵法家が上様の近くに侍っておるのが悪い。あんな男に兵法家と名乗られては我が師も浮かばれん事だろうよ)
その『似非兵法家』と両国辺の身の程知らずとを無意識に重ねている事が、彼の苛立ちをより一層募らせる要因になっているのだった。
「両国辺に参るぞ」
不意に言い捨てるや勢いよく立ち上がり、返事も聞かずに音を立てて歩き出す。
「かの似非者を天下のお膝元にのさばらせるが如きは、それだけで罪と言うべきであろう」
師の急な出立命令に、門人達は慌てて準備に取り掛かった。それに見向きもせず、早足に忠明は部屋から出て行ってしまった。
忠明の眼前ではなおも『見世物』が続いている。周りに居る門人達からは時々せせら笑うような声が聞こえる。彼らにとっても、あの自称兵法家の技量がお粗末に見えて仕方がないのだろう。
だが忠明は笑っていない。相変わらず渋面を浮かべて思案に暮れている。その顔は屋敷に居た時より更に険しさを増していた。
(噂をすれば影という言葉があるが、冗談ではない。何と不愉快な成り行きであろうか)
彼がここまで苛立っている理由は一つである。ここに来る途中、最も会いたくない男に会ってしまったからだ。
「これは小野殿。ご無沙汰でございますな」
その姿を見た時、忠明は辛うじて顔には出さなかったものの腹の中で舌打ちと呪いの言葉を発した。男は気付いていないのか、不気味なまでに落ち着いた態度で会釈を交わす。
柳生又右衛門宗矩。俗に柳生新陰流と称される流派の正統後継者にして、もう一人の将軍家兵法指南役を務める男である。
彼はあらゆる意味で忠明とは対照的な人物だった。徳川家への仕官こそ一年遅いものであったのだが、関ヶ原合戦においては柳生氏の旧領柳生荘で暗躍し、その功績で柳生荘二千石を賜った。この時期は禄二百石で、かつ軍令違反で蟄居させられていた忠明とは雲泥の差と言える。更にその一年後に忠明と並ぶ兵法指南役として更に千石を加増され、三千石もの大身旗本となった。一介の兵法家としては異例の待遇である。それは兵法家としての実力のみならず、その深謀遠慮を高く評価された為だった。だが、それは忠明の評価する所ではない。
(碌に死線を潜った訳でもないような男が、何故このわしより重く用いられる? 聞けば去る大坂の陣では上様の御前で七人を斬って捨てたという話だが、それ以外に己が強さを示す話など一つも聞こえては来ぬ。それが栄えある将軍家兵法指南役とは!)
指導法も気に入らない。忠明の稽古は木刀を用いる伝統的な代物で、指導苛烈ゆえにしばしば怪我人も出る。だが彼はそれを意に介さない。そんな事はありふれた話だし、その程度で心が折れるような男が兵法を極める事など出来る筈もないと考えるからだ。そしてそんな輩は必然的に戦場でも物の役には立たぬ。自分の兵法は第一に戦場で敵を打ち倒す為にあるものだ。忠明はそう信じて疑わない。
宗矩の指導法は違う。彼が稽古で用いるのは袋竹刀と呼ばれるものだ。これは新陰流開祖上泉武蔵守信綱が考案したものとされ、大怪我に繋がる事故を抑制する安全性を重視した武具だ。そして単純な武技の熟達のみを目的とせず、むしろ禅や儒学を元にした精神修養を重視する傾向にあった。この時期はまだ体系化されていないが、宗矩にとっての理想の兵法とは、戦乱を収める為に剣を用い、太平の世では治国の術となる代物だった。一対一の立ち合いで用いる武技などは、彼にとっては『いとちいさき兵法』に過ぎないのだ。忠明にとっては到底理解出来ないし、したくもない観念だった。
「もしや貴殿も両国辺の見物に赴かれるのですかな」
「左様」
短く答えたのは、心中の憤懣を面に出すまいとする彼なりの配慮である。
「貴殿はそれをご覧になったのか」
「少しばかり」
宗矩の表情に格別の感情の類は見られない。
「見世物以上のものではありませぬな。兵法とは呼べぬ」
それはそうだろう。この男にとって往来で披露する武技なぞは論ずるに値せぬ『いとちいさき兵法』なのだろうから。
「さもあろう。かような『似非兵法家』を将軍家お膝元にのさばらせておく事は出来ぬ。場合によってはわしが幕を引かねばならぬ事もあろうな」
その言葉を聞いて、宗矩の表情に初めて変化が訪れる。ほんの一瞬ではあるが眉間に険しさが混じり、眼光が鋭く光った。集中していなければ気付かない程度の変化だが、無論忠明は察している。
「……くれぐれも穏便になされよ。貴殿だけではなく、流派の為にもな」
それだけを言って、宗矩は歩き去っていった。その姿が見えなくなった後、忠明は近くの石ころをその方向に向けて目一杯蹴飛ばした。
(今に見ておれよ、似非兵法家めが。いずれ貴様に本当の兵法の何たるかを身をもって思い知らせてくれる。師の代より一刀流は対手を打ち倒す為にこそあり。貴様の如き惰弱な観念ごと叩き潰してくれるぞ)
思索から立ち返り、再び似非者の見世物に視線を巡らせる。今まさに何度目かの立ち合いが行われている最中だった。その技を見る度に門人どもから声が漏れる。無論好意的なそれではない。
「素人に毛が生えた程度。太刀筋も全て見えている。こんなもので天下無双を名乗るとは、笑止な」
思わずそんな言葉が漏れ出た。
「……先程から笑っている者どもは誰ぞ! 何者が我を愚弄するのか!」
まるでその声が聞こえたかの如く、似非者が忠明の居る方向を指差して怒りを露わにする。無論忠明の呟きが聞こえた筈はない。彼、あるいは周りに連なる彼の舎弟どもが耳にしたのは忠明の門弟達の嘲笑である。だがこうしてそれが露わにされれば、必然として矛先はその大将たる忠明に向けられる。
「そこな武芸者、この立て看板が見えぬか? 誰であろうと真剣勝負を厭わずと記してあろうが! 我を愚弄する心あらばこちらに参れ! 立ち合いにて白黒をつけようではないか!」
この場に集う全ての人間達にも確かに聞き取れる大声で喚いた。自然、周りの人々は忠明から離れ、より目立つ状況に彼は置かれた。もっとも当の忠明は冷然と似非者を睨むだけで身じろぎもしない。
(先生、先生)
舎弟の一人が似非者に耳打ちする。その顔には焦りの色が浮かんでいた。
(先生、あの桟敷に居る奴はまずい。あれは将軍家の兵法指南役が一人、小野次郎右衛門だ。腕前もそうだがそれ以上に恐ろしく凶暴な男だって聞いた事がある。止めた方がいい)
流石にこれだけ舎弟が増えれば、中にはある程度世間を知っている者も居る。常識的に考えれば、正真正銘天下に名声を博す一刀流の総帥とあくまで自称天下無双の武芸者に過ぎぬ似非者とではまともな勝負になどなろう筈もない。
だが似非者はぎろりと舎弟を睨み据えて黙らせた。その勢いのままに今度ははっきりと忠明自身を見て、喚いた。
「例え兵法指南役であろうとも、自ら剣を交える事もなく高みの見物にて他人の武技を嘲弄する法がどこにあるか! こちらに出て勝負せよ! それとも我に敗れる事を恐れるか?」
無論この程度の挑発などで心動かされる忠明ではない。身も凍えるような眼差しで見下ろすだけだ。門人達はもう笑ってはいない。
「そもそも将軍家兵法指南役と言えば聞こえはよいが、何の事はない。所詮は殿様剣法よ。実戦においては何の役にも立たぬ飾りの剣に過ぎぬではないか! なるほど、それならば勝負に応じぬ理由もわかる。形ばかり整えた似非兵法でこの我に勝てる筈はあるまいからな!」
その瞬間、忠明の周囲の空気が一変した。遠巻きに彼を見る者の中には悲鳴を噛み殺す者やその場にへたり込む者、最悪失神する者まで現れた。忠明の発する殺気に打たれた為だ。
「減らず口ばかり叩く地虫めが」
低く静かな声。ゆるりと桟敷から下り、音もなく似非者の側へと歩み寄ってゆく。人々は慌てて身を離した。
「よかろう。そこまで申すならば見せて進ぜよう。そなたの申す飾りつきの似非兵法というものをな」
そう言うなり、懐から扇子を取り出した。否、それはむしろ鉄塊と言った方が正確であるように思える形状だ。手慣鉄扇と呼ばれる護身用の扇子である。だが立ち合いに相応しい武器とは呼べぬ。自然、似非者の顔が赤くなる。
「何だそれは! 腰の刀でも木刀でもよい。刀を持って参られよ!」
「これはしたり。立ち合いとは何も刀のみで行う訳ではない。上方に名高き宝蔵院流は槍を用いて戦い、鹿島に古くより伝わる香取神道流は武芸百般を操る。鉄扇とて別段立ち合いに支障などない」
口の端を歪める。心中に押し込められた感情が、呪詛の如く溢れ出た。
「それともそなたの兵法とやらは、対手の得物によって容易く破られる程度の代物なのか。それでよくぞ天下無双などと吠え立てるものよ。まして……」
ぷつりと言葉を切る。
「まして天下の将軍家に兵法を教授する大命を受けしこの小野次郎右衛門忠明と、伊藤一刀斎より授かった一刀流を愚弄するとはな。身の程知らずの賤人め、疾く参れ。貴様に兵法の何たるかを教えてくれる」
そう言うなり鉄扇を額に密着させ、不動になる。まるでそこに打って下さいと言わんばかりだ。似非者は最早言葉もなく正眼に構えた。完全に真っ赤な顔だ。忠明の顔のみを見据え、足に力をこめる。忠明はなおも動かない。
裂帛の気合いと共に、似非者が一気に突進して忠明の頭部に刃を振り下ろす。一対一の立ち合いにおいて間合いは絶大かつ致命的な影響をもたらす。刀が槍に及ばないのと同じく、精々一尺程度の鉄扇が二尺三寸ほどの木刀とまともに戦って勝てる筈もない。例え将軍家兵法指南役、一刀流宗家といえどもこれは受け切れぬ。誰もがそう思った。
静寂を、重く鈍い破砕音が叩き破った。小さい呻き声が遅れて聞こえる。似非者の声である。その眉間は血に塗れている。鉄扇の刺突によって。そのままどうと倒れ、それきり二度と動かない。即死である。
「嘘だ、そんな」
信じられぬとかぶりを振って舎弟が呟く。それはこの場の全ての人間の代弁であるかのようだった。忠明は左への最小限の体捌きで斬撃を避け、神速の如き疾さで鉄扇を突き出したのだ。彼が居た場所の地面には木刀が掠めた跡がある。
忠明には斬撃の軌道が完全に見えていた。否、自分の望む軌道に誘導したのだ。得物の選択や立ち合う直前の行動は全て相手の怒りを誘う為の処置だった。『天下無双』などと大言を吐いたからには、この露骨な挑発にも応じざるを得ない事を見通した上で巡らせた策である。現に彼は馬鹿正直に全力で頭を狙って来た。それが罠であるとは考えもせずに。
(これが本当の兵法、本当の『死合』だ、下郎)
懐紙で鉄扇の血を拭う。そのまま桟敷の門人どもの下へとゆるゆると歩く。死骸や見物人には目もくれない。そのまま立ち去りかけて、くるりと首だけを後ろに向けた。
「片付けろ。見世物は終わりだ」
それだけを言うと、今度こそ元来た道に歩き去ってしまった。その場に居合わせた面々は、凍りついたようになって動けなかった。それ程の凄まじい『死合』だった。
「何たる怪しからぬ仕儀か! 次郎右衛門のたわけは何を考えているのか! それが将軍家兵法指南役たるもののやる事か! いつから兵法は見世物になったのだ!」
一連の話が耳に届くと、秀忠はうんざりしたような顔になってから怒りを露わにした。忠明の狷介な性格とそれに起因する騒擾は秀忠にとっては悩みの種だった。しかも今回はこの前の事件からさほど時間が経っていないのだ。秀忠の怒りは当然だった。
「しかし、此度の場合先に仕掛けたのは似非者の側にございます」
宗矩が冷静に告げる。その態度は常と変わらない。
「その者は小野殿や一刀流を口を極めて罵ったと聞き及んでおります。それで勝負を受けざるは、武士としても兵法家としても恥辱の極み。やむを得ぬ仕儀かと」
「……だが相手を殺す事はあるまい」
恐れるでもなくへりくだるでもなく、堂々と冷静沈着に忠明を弁護する宗矩の姿に、秀忠の怒りもやや矛先をずらされてしまったらしい。その言葉からは最初の叩きつけるような怒りが薄れていた。
「左様」
なおも淡々と答える。
「罪を問わぬ訳には参りますまい。されどあの御仁も兵法指南役の一人。それも大御所様が見出して仕官させたのです。それを考えれば、あまり重い罰を下すのは……」
それだけを言って、宗矩は頭を垂れた。判断は秀忠に委ねるという印である。それを見て秀忠は怪訝そうに首を傾げる。
「何故次郎右衛門を庇うのだ? あれはそなたを……」
「存じております。しかし個人的な好悪で他人を貶めるなどは無益。彼と一刀流を失うのは将軍家にとって損失でありましょう。一流派が将軍家の兵法を独占するのも、将来を考えれば好ましい事ではありませぬ」
それは一介の兵法家の発言ではなかった。幕閣からも一目置かれ、その智謀によって三千石もの高禄を食むに至った武人としての発言だった。
「……よかろう。奴の処分については相応の配慮を行う。それでよいな?」
「御意」
それで話は終わりになった。
結局忠明は旗本との騒擾を名目とした閉門を命ぜられた。一刀流もその地位を守られたが、こうした種々の騒擾のせいか、序列としては遂に新陰流を上回るに至らず、柳生宗矩が最終的に一万二千五百石の大名、惣目付に取り立てられる出世を遂げたのに対し、小野家は六百石のまま変わる事はなかったのである。
小野忠明と柳生宗矩の仲は、お世辞にも良好とは言えないものでした。少なくとも忠明の宗矩に対する印象が悪いものであったのは間違いないようです。
彼らはその思想そのものが違い過ぎていました。忠明が宗矩に「貴殿の子に罪人の試し斬りをさせて経験を積ませてはどうか」と提案したのに、宗矩はその場だけ応じて実際には一顧だにしなかったという逸話が、二人の性質の違いを象徴していると言えます。
忠明の性質は、良くも悪くも泰平には向いていなかったと見るべきでしょう。稽古は苛烈極まり、あえて竹刀を用いず刃を潰した真剣や木刀を好んで用いました。彼はあくまでも、戦場で敵を倒す事を主眼とした兵法を追及していたのです。
そんな彼にとって、戦略的見地から物を見る武将・政治家としての傑物柳生宗矩と同時代に生まれ、取り立てられた事はあまりにも不幸でした。待遇から兵法の性質に至るまで常日頃比べられた心境はいかばかりか。
この話の元ネタは、彼が遠流に処されてその島で盗人を倒した事によって赦免された、という筋書きになっています。無論それは史実と反しますが、後世彼がどんな目で見られていたかという点では興味のある話です。
一刀流は幕末になって、北辰一刀流という分派が隆盛を極めます。今日の剣道にも少なからず影響を与えた流派で、現代剣道における功績で言えば新陰流に勝るとも劣りません。黄泉の忠明はそれを見て、少しは溜飲を下げたのでしょうか。