1.つぶ(さ)れた休暇
どれだけ歩いたかは覚えていないが、どうやらわたしは海炎の地理を甘く見過ぎていたことがわかってきた。碁盤の目のように入り組んだ路地はどこも似通っていて、初めてこの国を訪れた人間は大抵迷うのだということを後で聞いた。
「うぅーむ……」
ごみごみとした生活感の滲み出ている細い路地。こういうところを歩くのも結構楽しい。何しろ表向きの通りでは見られない、その国独自の匂いみたいなものが感じられるのだから。けれど、日中も薄暗いこういう路地は、罪人とかの溜まり場になっていることも多かったりする。
「オラオラオラオラァァァァァァァァ!」
……言わんこっちゃない。
割れた素焼きの茶碗やらが散乱するちょっと先のところから、野太い声と何かが壊れる音が断続して聞こえてきた。
「ちょーっと、見てみたいような……」
興味あるなぁ……あ、いけない、いけない。今は骨休め中。無闇に関わって巻き込まれるような羽目になったら休養に来た意味がなくなるじゃないか。
「言えっ! 奴はあれをどこに隠したんだっ」
……無視、しよう。うん、久しぶりの余暇を楽しむことを優先してどこが悪いのよ。
「知っていても誰がお前なんかにしゃべるかよっ!」
いたぶられていると思われる男の声が聞こえてきたとき、抜き足差し足でその場からおさらばしてしまおうとしていたわたしの足は止まった。
「この声……」
聞き覚えがあった。口が悪くて、短気で、わたしよりちょっとだけ背の高い同い年の男。髪、瞳はともにブラウン。額の急所を守るための鉄張りのバンダナに、チェーンアーマーを着込んだそいつの名は……
「イーグルじゃない。あんたこんなところでどーしたのよ?」
無視するのはやめて、わたしは彼等の会話に割り込んだ。
「レ、レ、レ……」
レレ○のおじさんか、お前は。
「レン=シュミット」
組み敷かれるような形で、イーグルは覆面姿の男に攻撃用の長針の切っ先を突き付けられていた。覆面姿の男はわたしの出現に驚いたのか、ビクリ、とその切っ先を喉元からずらした。
「よくも……やってくれたな!」
イーグルがその隙に男の手から逃れる。そして自分も懐から刃渡り三寸くらいの短剣(柄の部分が一握りできるくらいの長さしかない。見たこともない武器だ)を取り出してそれを振るった。
「ムッ!?」
不意をつかれた男が困惑の声を上げる。形勢を逆転したイーグルは、男の口に手を当てると瞬時にその胸に刃を埋めた。そのまま、刃は抜かない。出血を押さえるためだろう。こんな町中を血を被った姿で歩けるわけがないからね。
「レン=シュミット……お前、来たのか」
イーグルは男の屍を乗り越えるとそう言いながらわたしのほうに近寄って来た。
「二週間振りかしら。マリンに頼まれていた仕事も終わったし、せっかくこっちの大陸に戻って来たんだから、一回、顔出しておこうと思ってね」
そう、前回仕事を頼まれていたのはマリンという魔女のお姉さんだった。その話のことを話し出すと色々時間がかかるから詳しい話は割愛させていただくことにする。
「そうか。そういえば……お前、ちょっと見ない間に随分と縮んだな」
むっ!?
「ちゃんと食事、取ってんのか? 背を高くするには牛の乳がいいそうだぜ」
よ、余計なお世話だ!
「あんたが単に今まで小さかっただけでしょ!? 男のくせに」
「な、何だって!」
成長期が来たからって自慢なんかするんじゃないっ。いつかわたしだって……
「……っと、それどころじゃなかった。おい、夜湖ん所に行こうとしてたんだろ? こっちだ」
立ち話をしていたら、さっきの男の仲間と思われる複数の気配が近づいてきたので、イーグルがそんなことを言った。腹は立っていたけれどゴタゴタに巻き込まれるのは嫌だったから、とりあえずイーグルの指示に従った。
「あれ、何なのよ」
走りながら尋ねる。あの男のなり、どことなくイーグルの格好に近いものがあった。
「……日泉の密偵だ。詳しくは後で教える。この角を曲がったら行き止まりだ」
おいおい、追い詰められてどうすんのよ!
「心配ない。隠し通路があるんだ。向かって右側、一番奥に置いてある物の蓋を取って、見つからないようにその中に飛び込むんだ。時間がない。躊躇するなよ」
最後の方の台詞を、いやに真面目に言うイーグル。何か不安だ。
角を曲がると、イーグルが言ったように行き止まりになっていた。そしてイーグルが「飛び込め」と言った所にあったのは……
「ゴミ箱!? こんなとこに飛び込むわけ?」
思わず抗議の声を上げる。何しろそのゴミ箱と言ったら……カミンの皮やらバノナの皮やらが引っ掛かっているのはまだ許せるとしても、何なのかわからない半透明なドロンとしたゼリー状の物質はくっついてるし、油のどす黒いネバネバした汚れはくっついてるし、臭いもすごい。
「躊躇するなって言っただろ!」
イーグルは奴の方こそ、さも嫌そうな顔で促した。
「……わがっだわよ」
仕方がないので、タライのような木製のゴミ箱の蓋を開ける。ネチョォォォォ、と何かが糸を引いた。何が悲しくて休暇先でゴミ箱に入らにゃいかんのだ。
左足からそこに身を埋める。ゴミ箱の中に直立した瞬間、足元にある地面が割れた。前にもこんなことがあったような気がするけど……まぁ、いいか。
「むぅっ!?」
ゴミ箱の底の抜け道は坂になっていて、わたしは足を付く間もなくそこをスルスルと滑り落ちていった。徐々に先の方に明かりが見え始める。そろそろ終点か? と思ったところでいきなり段の下に落ちた。思いっきり尻餅を付き、わたしはすぐさま立ち上がってお尻をさすった。
ちょっと、これはないんじゃない? すごく痛かったんだけど。
「うわあっ!」
ちょうどそこにイーグルが突っ込んできた。わたしはその声に反応し、足払いを食らう直前にひょいとイーグルをよけた。けれど、よけたときにネチョッとしたものが足に絡み付いてきたものだから、前のめりにこけそうになった。不審に思って全身を客観的に見てみる。と――
「ちょっ……何これ!? わっ、マントも!」
真っ白な鎧は胸の辺りに埋め込まれた紅玉もろとも被害に遭っていた。縮れた麺が石の出っ張りに引っ掛かり、卵の白身と思われるものが鎧のレザーの部分に付着してる。もっと酷いのが外套だ。さっきのネチャネチャ油がそこかしこにこびりつき異臭を放っていた。
「イーグル。あんたこの落とし前、どうつけてくれるつもりっ!」
こめかみをひくつかせながらわたしは言い放った。
「フン。悪かったな」
そっぽを向いて言うセリフか!
「そっちに風呂場がある。誰かに頼んで替わりの服は用意させてやるから、とりあえずその鎧とマント、脱げよ」
ぶっきらぼうに言うイーグル。それぐらい当然だ。
「あ、でもこの鎧……」
言いかけて、ふと思いとどまった。
「ううん、何でもない。これ、あんたが何とかしてくれるの?」
「仕方ねえだろ」
ふむ。なら責任被ってもらおう。
わたしは手早く外套と鎧を脱ぎ、イーグルに手渡した。
「じゃ、頼むわ。絶対にあんた以外の人にやらせちゃ駄目よ?」
じっと目を見て念を押す。イーグルの奴は変な顔をしたが、お風呂の位置を説明すると自分は汚い格好のままにその場から去っていった。
ふん、後で会うのが楽しみだ。何しろあの鎧、それ自体が意思を持っている。持ち主に相応しくないと判断すると火を吹くといういわくつきの代物なのだ。
イーグルに魔力はないし、そんな状態で汚れを落とそうとすれば鎧の気を損ねるのは必至だろう。結果は目に見えている。
「さってと」
案内されたお風呂場に直行し、わたしは存分に体を洗った。
お風呂から上がると、更衣室のところには目の細い女の子が二人、わたしが出てくるのを待っていた。極東の島イザナギの人達が着るような淡い黄色の着物に、スカートのようなヒラヒラした白い薄衣を身につけている。頭は町中の人と大した変わりはない。向かって右側の子は一つにまとめていて、もう片方の子は二つにまとめていた。ただ、町中の人とちょっと違うのはお団子にまとめたところから、少しだけ髪を垂らしているところだ。
不意に現れたので一瞬ギョッとしたが、恐らくイーグルが頼んでくれた子達だろう。見ると、お団子が一つの方の子は替えの服らしきものを両手に捧げ持っている。納得するとわたしは警戒を解いた。
「レン=シュミット様ですか?」
「レン=シュミット様ですね?」
「ええ、そうよ」
わたしが頷くと、二人はニィっと笑った。
「お着替え、手伝うです」
「手伝うです」
舌足らずな言葉でそう告げると、二人の女の子達はわたしの側に近づいて来て、目を見張るかのようなスピードで、有無を言わせず自分達と同じような服を着付けていった。
「髪が短いです」
「かつらを使うです。今、取ってくるです」
クルクルとよく動く二人の姿は見ていて可愛らしいものだった。二人とも請け負った仕事に対し、真剣そのものといった態度だ。けれど、
「いい、いい。そこまでしなくても」
二人は服の着替えが終わると今度は髪を気にし始めた。さすがにそこまでしてもらう必要はないため、わたしは慌てて二人を止めた。すると、女の子達は残念そうに眉を寄せた。
「そうですか」
「仕方ないです」
しょんぼりと肩を落とす二人。わたしはそんな二人に笑いかけて礼を言った。
「これで十分。ありがとね。ところで、イーグルのとこまで連れていってくれないかな? ここに来たのは初めてだから、道がわからないの」
「あい。わかったです」
女の子達はわたしからそう頼まれるとすぐに元気を取り戻し、先頭を切って歩き始めた。わたしが自分の服を持って行こうとすると、二人はそれを制止した。
「また汚れちゃうです」
「後で洗って届けるです」
確かにそれはそうなので、わたしは二人の申し出を受けることにした。
「それじゃ頼むわ。そういえば、あんた達の名前は?」
「私、櫻言うです」
お団子が一つの方の子がそう告げる。ちなみに名前のとおり、そのお団子をくるんでいる布は薄紅色だ。
「私、柳いうです」
もう片方の子がそう続ける。想像は付くだろうけど、こっちのお団子の色は薄い黄緑色。
「櫻に柳ね」
薄暗い廊下から抜け出すと、部屋の中に差し込む光で一瞬目がくらんだ。その光に慣れてきてからわたしは部屋の中を見回した。
「ここは?」
がらくたが山のように置いてある部屋だった。背後で柳が通り抜けた穴の上にすのこを立てかける。わたし達はどうやら壁の裏の抜け道を通ってきたらしい。
「物置部屋です。イーグル、水汲み場にいる言ってたです」
「レン=シュミット様は応接間にご案内するよう言われたです」
櫻と柳が交互にそう教える。わたしは「そう」と頷いて、先を歩く櫻の後についていった。
櫻と柳が去って行き、応接間で待つこと十分弱。今、わたしの目の前には腕に火傷を負って、むすっとした顔をしたイーグルと、その相棒のクロウという二枚目のお兄さんがいる。
服装はイーグルとほぼ同じ。まぁ、同じ仕事についているんだから当然か。背も高く、髪も瞳もグレイ、という渋い風体だけど、表情は硬い。
「イーグル、お前はいつまで子供のようなことを言っているのだ」
クロウはそう言ってさっきからずっとイーグルのことをたしなめている。見てくれの鉄面皮に似合わず案外世話好きだな、この人。
「だって、この間こいつに負わされた火傷がようやく直った……と思ったらこれだぜ?」
と言って氷嚢で冷やしていた利き手をグイッとわたしに見せつけるイーグル。
「こいつだって仮にも女だ。あんな抜け道を使ったお前も悪い」
ん? 何か引っかかる言い方だな。
「クロウ、仮にもってどういうこと?」
「言葉のあやだ」
すんなり切り返され、わたしは肩をすくめた。何か釈然としない。
「これ、役に立たなかったわね」
荷物の中から以前、イーグルからもらった紹介状を取り出す。
「せっかく遊びに着て見ればゴミの洗礼は受けるし」
嫌みだって? 嫌みを言って何が悪い。髪の毛だって洗うの、苦労したんだから。
「そ、それは……」
ぐぅっと言葉を呑むイーグル。代わりにクロウが頭を下げた。
「すまなかった。こいつはまだ未熟者でな」
クロウのフォローにイーグルはぷいっと横を向いた。未熟者って言われて機嫌を損ねているようじゃまだまだだな。
「ところであんた達のご主人は? ここ、夜湖って人のお屋敷なんでしょ?」
応接間を見渡す。中央に置かれた円卓にはわたしとクロウとイーグルが腰をかけているほかには誰もいなかった。部屋の内装も何だかパッとしない。手入れが行き届かなくてそこここにホコリが落ちていたりする。はっきり言って、うらびれた感じが否めない。
「夜湖様に会いに来たのか?」
クロウはそこで言葉を濁した。が、ここぞとばかりにイーグルが口を挟んだ。
「夜湖なんかに会いたいのか? お前。頭、大丈夫か?」
何!? お前がここに連れて来たんだろうがっ。
色めきたって椅子から立ち上がりかけたとき、イーグルが不意に何かいいことを思いついたような顔をした。
「そうだ、お前。それなら俺の利き手をダメにした代償として、こいつが回復するまで夜湖の警固、手伝え」
「……えっ?」
思わず目が点になった。次の瞬間、言葉の意味を理解する。
「それもそうだな」
クロウも納得顔。こらこら、勝手に話を進めるんじゃない。
「ちょっ――」
言葉を返そうとした丁度そのとき、部屋の扉が開かれた。
「イーグル、クロウ、こちらがレン=シュミットさんアルか?」
両開きの扉の向こうには糸目の男が立っていた。体つきはそれほどガッチリはしていない。
「お人形さんのようにかわいい人アルね。気に入ったアル」
細目をなおも細めて、浅葱色の、貫頭衣と着流しを足し二つに割ったような服を着た男は言った。頭のお団子は一つで、櫻や柳と同じように髪を少し垂らしている。
「お、お人形さん……」
前にイーグル達から夜湖さんのことについて、少し聞いたことがある。お気に入りの人形を壊されたというだけで刺客を差し向けるほどの人形愛好家だ、と。……と言うよりも人形フェチ? いや、人形マニアと言ったほうがしっくりきそうだ。
と、そんなことをぼんやり考えているうちに夜湖さんはわたしに近付き、腰をかがめた。
「シュミットさん、もしよかったら私のお人形さんになってほしいアルよ」
――――はぁ?
「や、夜湖!」
イーグルが慌てて上ずった声を上げた。
わたしはうろんげな目つきで相手を見た。夜湖って……もしかしてすんごい危ない奴じゃないか?
「夜湖様、彼女にはすでにお相手の方がいます。どうかそれだけは思い止どまられるよう」
クロウがあわてて夜湖を止める。
そうそう、ちゃんと主人の手綱を握っていてくれ。心臓に悪い。
「冗談アルよ。私が人を驚かすのが好きなこと、忘れたアルか?」
それって悪趣味っていわないか?
「冗談ならもっとそれらしくしてくれよ」
イーグルもクロウもそれを聞いて胸を撫で下ろした。あきらかに面倒ごとに巻き込まれずにホッとしたようだった。
「そうアルか。シュミットさんには恋人がいるアルか」
隣の椅子に腰掛けて、夜湖さんは前で組んでいた手を膝の上に置いた。
「別にあいつは恋人ってわけじゃ……」
わたしはそれを即座に否定した。だが、
「否定せずともよい」
クロウの奴は完全に誤解していて、わたしは本気で否定してるのに受け入れてくれなかった。そういえば、クロウもイーグルもハーディーがわたしに抱きつく現場を見てたっけ。
「あの恥ずかしい男と筋肉質の男、今日はお前と一緒じゃねえのか?」
イーグルの問いかけに、わたしはさらっと答えた。
「町において来たわ」
するとクロウとイーグルの方が顔を引きつらせた。
「魔族をか? ……おい、クロウ。もし奴らが日泉に拾われでもしたら」
「うむ。厄介なことになるな」
何やら深刻そうな顔で頷きあう二人。
「日泉? あんた、さっきも言ってたけど日泉って誰?」
「それには私が答えるネ。日泉とは私の不祥なる弟のことヨ」
夜湖さんはテーブルの上に置かれていた茶器の中から桃マンを一つ手に取ると続けた。
「弟さん、ねぇ。兄弟喧嘩でどうして隠密まで動かしてるのよ?」
冷めかけたお茶を飲みながら、同じようにわたしも桃マンに手を伸ばす。と、夜湖さんはその眸を開いてじっとわたしの顔を見つめた。わたしはその眸の光彩が縦なこともあって、ちょこっとだけ身を引いた。猫みたいな人だな。
「日泉が狙っているのは我が家の家宝、象のぬいぐるみアル」
象のぬいぐるみって……
「我が家は代々人形使いとして地位を築いてきたアル。中でも、その象のぬいぐるみは特別なものネ。ご先祖様はそのぬいぐるみを使ってこの国の平和を守ったヨ。由緒ある逸品アルよ」
夜湖さんはそう言って胸を張って見せた。象のぬいぐるみに守られた国か。うーん、きっと海炎の参謀はその歴史を史実から削除したかっただろうな……
「ところがネ。日泉はこともあろうか、私の譲り受けた象のぬいぐるみの目に使われている一対の翡翠を渡せと言ってきたアル。私がそんなことはできないと断ったら喧嘩が始まったアルよ」
何というか……クロウやイーグルが気の毒に思えてきた。そんなことで命の取り合いをさせられてるのか。
「わかったわ。仕方ないから力貸してあげる。あんたの腕のことなんて知ったこっちゃないけど、駄目になった服のお金くらい払ってくれるんでしょ?」
「それくらいお安い御用ネ」
夜湖さんはそう言って立ち上がった。
「そうと決まれば象のぬいぐるみを見せておくネ。こっちに来てほしいアル」
わたしは素直に頷いて夜湖さんの後ろについていった。