列
「今日は好きな部屋で寝なさい。」
古びた屋敷だった。
兄は二階へ、弟は廊下の奥へ。
互いに「おやすみ」とだけ言い、それぞれ別の部屋へ入る。
眠りについた。
◇
目を覚ますと、水の匂いがした。
そこは巨大な屋内プールだった。
周囲には何十人もの人が立ち尽くしている。
皆、状況が分からないらしい。
困惑した顔で辺りを見回していた。
だが、中央だけが異様だった。
プールの真ん中に、人が一列に並んでいる。
長い列。
先頭は見えない。
いや──見えているはずなのに、認識できない。
視線を向けるたびに脳が滑り、何も思い出せない。
「……なんだ、あれ。」
誰かが呟いた。
誰も答えない。
列の人々は無言だった。
ただ静かに、水に浸かりながら前だけを見ている。
その時だった。
「パパ!」
少女が笑顔でプールへ飛び込んだ。
水しぶきが上がる。
父親らしき男が顔色を変えた。
「待て!」
迷いなく飛び込む。
その瞬間、周囲からため息が漏れた。
「あぁ……」
「あれは罠だ。」
「終わった。」
男は少女へ手を伸ばす。
だが少女は振り向きもしない。
まるで見えない何かに引かれるように、列の最後尾へ歩いていく。
最後尾の男が少女の手を握った。
その瞬間。
少女は列へ。
そして、少女へ触れていた父親の手にも、その男の手が触れた。
男の表情が消える。
ゆっくりと列の最後尾へ歩き始めた。
誰も助けようとしない。
助けられないことを知っているからだ。
私は震えた。
「夢だ。」
そうだ。
夢なら起きられる。
目を閉じる。
何度も。
何度も。
何度も。
◇
ガタン。
机が揺れた。
教室だった。
朝の日差し。
生徒たち。
先生。
「……助かった。」
胸を撫で下ろした、その時。
教室中でスマートフォンが鳴り始めた。
ピロン。
ピロン。
ピロン。
全員の画面が同じ動画を映していた。
プール。
あの列。
「やめろ!」
私は叫び、教室を飛び出そうとした。
その瞬間。
画面の向こうから声が流れた。
言葉。
意味が分からない。
それなのに理解できてしまう。
耳から。
目から。
脳へ。
大量の言葉が流れ込む。
頭蓋骨の内側を誰かが掻き回している。
「うぁ……!」
耳を塞ぐ。
聞くな。
聞くな。
聞くな。
窓を開けて逃げる。
手を伸ばす。
ガラスに自分の顔が映る。
その奥。
反射したスマホの画面。
見てしまった。
一瞬だけ。
それだけで十分だった。
呪いの言葉が脳内を埋め尽くす。
知らないはずの記憶。
知らない名前。
知らない祈り。
知らない使命。
「列に並べ。」
誰の声だったのか。
もう分からない。
◇
目を覚ました。
水の匂い。
私は安堵した。
「ああ……よかった。」
ここはプールだ。
列はまだ動いている。
急がないと。
置いていかれる。
私は笑って、水の中へ足を踏み入れた。
そして誰にも呼ばれないまま、静かに最後尾へ並んだ。




